「保守」の名に値せぬもの

2016-04-30 12:09:38 | 歴史系

「右翼」や「左翼」と合わせてよく「保守」という言葉が使われるが、どうも言葉が一人歩きしているような気がしてならない。そもそも、保守とは何なのだろうか?と問うてみるに、反対のカテゴリーが「革新」であるところから考えるとわかりやすい。革新とは新しい技術などを取り入れつつどんどん社会システムを変えていくべきとする立場であるから、保守はそれに対置される思想なわけだ。

 

ではなぜ、新しい技術や社会システムの変革に慎重な立場を取るのかと言うと、人間の賢しらな発想やそれが生み出した技術に対する不信感が背景にはある(このような表現では抽象的に聞こえるかもしれないが、実際核兵器の開発や遺伝子組み換え技術の可能性と危険性などを例に挙げれば、今日の私たちにとっては十分すぎるくらい理解できる発想であると思う)。人間の浅はかな思考態度に対する戒めがあるからこそ、今の自分の「常識」や「自明なるもの」にも安易に飛び付かず、先人の叡智を参照する。またそれゆえに、過去へただ目を向けるだけでなく、制度や技術が採用された経緯やその功罪(合理性や歴史的背景)にも注目する、いや注目しないわけにはいかないのである(例を挙げると、ただ過去のものを重視するならば、明治の制度と鎌倉の制度を比較した時、なぜ明治の制度を採用するのか、といった問題に直面せざるをえない。古いのは鎌倉時代の制度だが時代の変化に基づいて明治の制度の方を採用するというのであれば、そもそも明治からさらに状況が変化した今日、その制度が運用に耐えうるのかという点を思想などではなく合理的観点から検証しなければ筋が通らないだろう)。とするならば、単に新しきものの導入に慎重であるだけでなく、歴史に対して真摯な分析の眼差しを向けてこそ、保守の本懐と言える。

 

ここで重要なことは、そのような保守の本義からすれば、「昔は…だった(からよかったのに)」であるとか、「私の時代は~だった」などとうそぶくのは単なる昔語り・懐古趣味でしかなく、決して保守の名には値しないということだ(ましてや、自分がこれまで触れてきた慣習や制度への慣れ親しみから変化を拒絶するのは、ただの思考停止以外の何物でもないし、「江戸しぐさ」など根拠なきものを自分の主張に合わせて牽強付会に捏造するのは歴史に対する冒涜であり、やはり保守のカテゴリーに入る資格はない)。なぜなら、歴史を検証しようともせず、他国との比較分析もせず、せいぜい自分の思い出や経験の範囲でその正しさを主張するのは、先ほど述べた保守の基本的態度ーすなわち人間の発想を賢しらなものとして容易には信用しない(=自分の自明性や常識を安易に肯定しない)態度ーからは(革新のそれとベクトルは違えど)大きく外れていると言わざるを得ないからである。

 

ただの根拠なき・合理性なき昔語りが保守として見習わされていること、それこそが今言論を不毛たらしてみる主要因の一つなのではないか。

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