マージナルマン:境界線はどこにある?

2020-01-08 13:25:25 | 生活

 

なるへそー。雌雄同体とかについては知ってたけど、環境によって性別が変化する生き物って結構いるのねー。

 

これって人間についても同じだよな。性別含め明確な境界が存在すると思い込んでいるけど、多少調べてみると実はグラデーションがあるに過ぎないなんてケースは多々見られるし。無宗教の件でも触れると思うけど、実態と同じくらい「どう自己認識しているか」という要素も実は極めて重要だからね(その点、日本の「中流幻想」は典型的なものだろう)。

 

こういった「レッテル貼り」につながる認識のあり方は、世の中が複雑化・流動化すれば必然的に生じるものだ。なんせよくわからんものが凄まじいスピードで増えたり変化したりしていくので、よく知ろうともせずに「AとはBである」と決めつけてしまいがちになるのだから(脳のキャパシティや日々の忙しさでそこに対応しきれないため、悪気なくそうなる)。

 

LGBTというのも、その一種と言えるだろう。私もそこそこ調べたことがあるが、まあある程度の傾向性があるくらいで、明確な境界線など決められんわと思う。たとえばLはレズビアンだが、自分を女性と認識しての場合が当たり前と思うかもしれないが、いわゆるFtoMで女性が好きというケースもあって、これは一体レズビアンなのか異性愛者なのかどっちや?という話になる。まあそこに対応するためにQ(クィア)をLGBTの最後につける言い方も出てきているわけだが。

 

生き物への観念は、当然にというか、我々の社会通念の鏡像という側面が多分にある。たとえば競争社会を肯定するために弱肉強食と淘汰という自然界の現象を持ち出す人がいるかもしれないが、それなら数多ある共生の事例に触れないのは明らかに偏っているだろう。あるいは環境保護については、人間がpityを感じやすい生き物が選好される傾向にどうしてもなる。その意味ではそれもエゴの一種とみることもできるだろう(だからといって、好き勝手に環境から搾取していいってのは違うけどね。そもそもそれやってると自分たちにも跳ね返ってくるし)。

 

こう考えれば、今回のように性別があいまいな生き物も地球には数多存在するという事例(マージナリティの曖昧さ)であるとか、あるいは子どもに冷淡な生き物も少なからず存在する(親の愛というのは一種の信仰)という例を知ることは、私たちの社会通念を逆に相対化する役割を果たしてもくれるのではないだろうか。

 

そのように提起しつつ、この稿を終えたい。

 

 

なんてことを書いてたら、

 

 

「星合の空」という作品の紹介があったので掲載しておきたい。さっきの「中流幻想」にもつながるけど、「環境は全て整っているから後はただ努力するだけ」という妄想を無批判に他の家庭にも適応したい疑惑。もちろん途上国に比べれば食糧事情とか住環境とかはマシだろうけど、基本的に人間は尊厳を破壊されたらいくら仕組みがあっても動かない・動けないことがわかってなさすぎる。もちろん、このアニメのような内容はdon't blame me症候群につながる危険性無しとは言えないが、それと各々に異なるhardshipを抱えていたりするという多様性・複雑性の理解が重要であることはまた別の話なんだよね。

 

と書きつつ今度こそ終了。


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