一週間前の天気予報でこの日は晴れ。三日前には夜から雨に変わり、当日は昼過ぎから雨という予報でした。昨年雨の中を強行したコースで語り草になっているので今年の実施はためらいましたが、雨が降り始めるまで歩くつもりで実施の連絡を出しました。
写真:湘南モノレール
中目黒→東横線→横浜→横須賀線を乗り継いで大船駅からは湘南モノレールです。昨年まで使えなかったPASMOが使えるようになっていました。この日は母の日ということでピンクリボン号の車両が来ました。
写真:懸垂式のレール
写真:柏尾川の支流新川
写真:廃材置き場の大黒様
湘南深沢駅で降りて歩き始めます。「深沢」というだけあって、大きな谷になっており、モノレールが急な勾配を下りきったところに駅がありました。笛田川沿いに南下すると大黒様が打ち捨てられて、お気の毒。
写真:ウマゴヤシ
写真:ドクダミ
写真:ノゲシ
写真:田植え前の田圃
写真:畑の脇の花壇
写真:カタバミ
ストレッチをする場所がないので、私有地の駐車場をお借りしてストレッチをしました。昨年よりひと月後ろ倒ししたこのコース、昨年はまだサクラの残骸が残っていましたが今年は見られる花が全然違います。花盛りって感じですね。
写真:竹林
写真:ソテツ?
写真:ヒメジョオン
写真:カンパニュラ・ポシャルスキアナ
写真:三嶋神社
笛田川を上流にさかのぼるにつれて急傾斜地が多く見られ、三嶋神社もそんな傾斜地にありました。
写真:ウツギ
淡いピンクの印象的なウツギでした。
写真:夫婦池
この池が笛田川の源流となります。あいにくの空模様でしたが、カワセミが見られウグイスの声が聞かれます。
動画:夫婦池公園
写真:鎌倉山
鎌倉山は山の名称ではなく町名です。海を臨む絶景がありかつては高級別荘地だったのかな?鎌倉山についてWikipediaから引用します。
鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。
また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江の島、富士山、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている。
「Report from Kamakura」というページで紹介されている逸話が面白いので、こちらも引用します。
夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総
鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。
土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。
日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ-に出会わなかった。
鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。
だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。
終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。
「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」
おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。
道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ-トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。
交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ-ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。
田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。
田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。
服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ-事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。
この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ-の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。
戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ-ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ-ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。
写真:鎌倉山の荒れた竹林
写真:アジサイ
写真:スイカズラ
写真:鎌倉山から海を望む
夫婦池公園の階段もきついのですが、鎌倉神社にかけてさらに上り坂が続きます。道が細い割に車の通行が多く、休日の混雑した鎌倉周辺で抜け道になっているものと思われます。田中御殿の前は通っていないのですが、その近くを歩きました。
写真:鎌倉山神社
写真:由比ガ浜方面を望む
写真:ここから先は山道
鎌倉山神社はこの丘陵の一番高い場所にあると思われ、階段を上った先に小さな祠がありました。その先は海を臨む絶景で、現在は住む人がいない豪邸があり、さらにその先は人一人がやっと通れる山道となります。先ほどの田中絹代さんの話は、極楽寺駅からこの山道を登ってきたのでしょう。
写真:月影地蔵
写真:極楽寺への道
写真:極楽寺跨線橋
山道は途中階段に変わり、その先が月影地蔵です。極楽寺駅までは徒歩10分といったところでしょうか。
写真:星月の井
極楽寺坂切通しを過ぎるとこの井戸が残されています。「鎌倉タイム」のページより引用します。
行基菩薩は天平年間(729-749)にこの地を訪れます。この井戸は昼でも星が輝いて見えたそうです。
それを聞いた行基が井戸をのぞいてみると、中に虚空蔵菩薩の姿が映っていました。行基はその菩薩を仏像に彫りお堂を建立しました。これが星の井寺です。その後、近所の女が誤って包丁を井戸に落とすと星は見えなくなったそうです。
井戸の水質はとてもよく、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたといわれています。
鎌倉十井についても触れておきます。江戸時代の中期以降になって鎌倉は観光地として賑わうようになりました。それに伴って「七切通し」「五名水」「十橋」などと名数によって名付けられることが増えました。その中のひとつが「鎌倉十井」です。じっせいと読みます。
鎌倉の山の地層は凝灰岩といわれ水が豊富に湧き出ます。筆者が子供の頃に住んでいた鎌倉の家にも井戸があり、その井戸をポンプでくみ上げ蛇口に繋いで生活水としていました。夏でも冷たくて美味しかったと記憶しています。断水でも我が家はいつも通り水が出ていました。
ただ、鎌倉全体としては水質はあまり良くなかったと言われています。そのため、美味しい水の出る井戸は大切にされ、「五名水」「十井」などと呼ばれたそうです。
写真:力餅屋
こちらも鎌倉タイムから引用します。
鎌倉坂ノ下、御霊神社門前にある力餅家さんは、創業300年という老舗中の老舗。変わらず、広げず、同じ地で同じ味を守り続けた敬愛すべき存在です。筆者も含め鎌倉で育った人は、餅とあんこの素朴なお菓子といえば、赤福よりも力餅を身近に感じています。
店名ともなっている力餅は「権五郎力餅」といい、つきたての餅をこれまた出来たての餡でくるんだ絶品。添加物は一切使われておらず、本物の餅の歯ごたえと粘り、あんこの香りと甘さが記憶に残ります。
季節となるとヨモギの練り込んだ餅を使った力餅が並び、これを筆者は毎年楽しみにしています。「権五郎力餅」は添加物なしのため美味しさと引き換えに日持ちはせず「本日中にお召し上がり下さい」ということになります。最近は日持ちするように求肥を使った力餅があり、進物などには重宝します。
朝、力餅家の前を通るともち米を炊くなんともいえないいい香りが漂います。無性に食べたくなりますが、残念ながら開店時間前という記憶が何度もあります。
写真:御霊神社参道
参道を江ノ電が横切ります。漢字だけ見ると「みたま」と読みたくなりますが、「ごりょうじんじゃ」です。
写真:御霊神社境内
神社にお参りし、こちらの境内をお借りしてウォーキング後のストレッチをして解散となりました。本来のゴールは長谷観音なのですが、細かい雨が降り出しこちらでウォーキング終了です。よくここまで天気が持ってくれたものと感謝しお参りしました。神社についてWikipediaから引用します。
権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。
鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。
写真:御霊神社のタブノキ
こちらのタブノキについてもWikipediaから引用します。
社務所の前にそびえるタブノキは、樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事である。鎌倉市指定天然記念物、および神奈川県選定「かながわの名木100選」(1984年12月選定)。
この日のウォーキングは夫婦池公園で昼食をとる予定で、皆さんお弁当持参だったのですが、「雨が降る前にできるだけ歩きましょう!」と昼食抜きで歩いてきました。解散後女性陣は長谷観音へ行き、海を眺めながら昼食をとったものと思われます。男性陣は早々に横浜へ戻り、スカイビル11階のライオンで大いにビールを堪能しました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
写真:湘南モノレール
中目黒→東横線→横浜→横須賀線を乗り継いで大船駅からは湘南モノレールです。昨年まで使えなかったPASMOが使えるようになっていました。この日は母の日ということでピンクリボン号の車両が来ました。
写真:懸垂式のレール
写真:柏尾川の支流新川
写真:廃材置き場の大黒様
湘南深沢駅で降りて歩き始めます。「深沢」というだけあって、大きな谷になっており、モノレールが急な勾配を下りきったところに駅がありました。笛田川沿いに南下すると大黒様が打ち捨てられて、お気の毒。
写真:ウマゴヤシ
写真:ドクダミ
写真:ノゲシ
写真:田植え前の田圃
写真:畑の脇の花壇
写真:カタバミ
ストレッチをする場所がないので、私有地の駐車場をお借りしてストレッチをしました。昨年よりひと月後ろ倒ししたこのコース、昨年はまだサクラの残骸が残っていましたが今年は見られる花が全然違います。花盛りって感じですね。
写真:竹林
写真:ソテツ?
写真:ヒメジョオン
写真:カンパニュラ・ポシャルスキアナ
写真:三嶋神社
笛田川を上流にさかのぼるにつれて急傾斜地が多く見られ、三嶋神社もそんな傾斜地にありました。
写真:ウツギ
淡いピンクの印象的なウツギでした。
写真:夫婦池
この池が笛田川の源流となります。あいにくの空模様でしたが、カワセミが見られウグイスの声が聞かれます。
動画:夫婦池公園
写真:鎌倉山
鎌倉山は山の名称ではなく町名です。海を臨む絶景がありかつては高級別荘地だったのかな?鎌倉山についてWikipediaから引用します。
鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。
また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江の島、富士山、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている。
「Report from Kamakura」というページで紹介されている逸話が面白いので、こちらも引用します。
夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総
鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。
土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。
日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ-に出会わなかった。
鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。
だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。
終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。
「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」
おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。
道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ-トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。
交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ-ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。
田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。
田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。
服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ-事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。
この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ-の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。
戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ-ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ-ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。
写真:鎌倉山の荒れた竹林
写真:アジサイ
写真:スイカズラ
写真:鎌倉山から海を望む
夫婦池公園の階段もきついのですが、鎌倉神社にかけてさらに上り坂が続きます。道が細い割に車の通行が多く、休日の混雑した鎌倉周辺で抜け道になっているものと思われます。田中御殿の前は通っていないのですが、その近くを歩きました。
写真:鎌倉山神社
写真:由比ガ浜方面を望む
写真:ここから先は山道
鎌倉山神社はこの丘陵の一番高い場所にあると思われ、階段を上った先に小さな祠がありました。その先は海を臨む絶景で、現在は住む人がいない豪邸があり、さらにその先は人一人がやっと通れる山道となります。先ほどの田中絹代さんの話は、極楽寺駅からこの山道を登ってきたのでしょう。
写真:月影地蔵
写真:極楽寺への道
写真:極楽寺跨線橋
山道は途中階段に変わり、その先が月影地蔵です。極楽寺駅までは徒歩10分といったところでしょうか。
写真:星月の井
極楽寺坂切通しを過ぎるとこの井戸が残されています。「鎌倉タイム」のページより引用します。
行基菩薩は天平年間(729-749)にこの地を訪れます。この井戸は昼でも星が輝いて見えたそうです。
それを聞いた行基が井戸をのぞいてみると、中に虚空蔵菩薩の姿が映っていました。行基はその菩薩を仏像に彫りお堂を建立しました。これが星の井寺です。その後、近所の女が誤って包丁を井戸に落とすと星は見えなくなったそうです。
井戸の水質はとてもよく、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたといわれています。
鎌倉十井についても触れておきます。江戸時代の中期以降になって鎌倉は観光地として賑わうようになりました。それに伴って「七切通し」「五名水」「十橋」などと名数によって名付けられることが増えました。その中のひとつが「鎌倉十井」です。じっせいと読みます。
鎌倉の山の地層は凝灰岩といわれ水が豊富に湧き出ます。筆者が子供の頃に住んでいた鎌倉の家にも井戸があり、その井戸をポンプでくみ上げ蛇口に繋いで生活水としていました。夏でも冷たくて美味しかったと記憶しています。断水でも我が家はいつも通り水が出ていました。
ただ、鎌倉全体としては水質はあまり良くなかったと言われています。そのため、美味しい水の出る井戸は大切にされ、「五名水」「十井」などと呼ばれたそうです。
写真:力餅屋
こちらも鎌倉タイムから引用します。
鎌倉坂ノ下、御霊神社門前にある力餅家さんは、創業300年という老舗中の老舗。変わらず、広げず、同じ地で同じ味を守り続けた敬愛すべき存在です。筆者も含め鎌倉で育った人は、餅とあんこの素朴なお菓子といえば、赤福よりも力餅を身近に感じています。
店名ともなっている力餅は「権五郎力餅」といい、つきたての餅をこれまた出来たての餡でくるんだ絶品。添加物は一切使われておらず、本物の餅の歯ごたえと粘り、あんこの香りと甘さが記憶に残ります。
季節となるとヨモギの練り込んだ餅を使った力餅が並び、これを筆者は毎年楽しみにしています。「権五郎力餅」は添加物なしのため美味しさと引き換えに日持ちはせず「本日中にお召し上がり下さい」ということになります。最近は日持ちするように求肥を使った力餅があり、進物などには重宝します。
朝、力餅家の前を通るともち米を炊くなんともいえないいい香りが漂います。無性に食べたくなりますが、残念ながら開店時間前という記憶が何度もあります。
写真:御霊神社参道
参道を江ノ電が横切ります。漢字だけ見ると「みたま」と読みたくなりますが、「ごりょうじんじゃ」です。
写真:御霊神社境内
神社にお参りし、こちらの境内をお借りしてウォーキング後のストレッチをして解散となりました。本来のゴールは長谷観音なのですが、細かい雨が降り出しこちらでウォーキング終了です。よくここまで天気が持ってくれたものと感謝しお参りしました。神社についてWikipediaから引用します。
権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。
鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。
写真:御霊神社のタブノキ
こちらのタブノキについてもWikipediaから引用します。
社務所の前にそびえるタブノキは、樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事である。鎌倉市指定天然記念物、および神奈川県選定「かながわの名木100選」(1984年12月選定)。
この日のウォーキングは夫婦池公園で昼食をとる予定で、皆さんお弁当持参だったのですが、「雨が降る前にできるだけ歩きましょう!」と昼食抜きで歩いてきました。解散後女性陣は長谷観音へ行き、海を眺めながら昼食をとったものと思われます。男性陣は早々に横浜へ戻り、スカイビル11階のライオンで大いにビールを堪能しました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール