
毎年楽しみにしている遠征コースですがこの日は夕方雨予報の寒い日だったので10人をちょっと超えるくらいとこじんまりしたウォーキングとなりました。

川越アトレのからくり時計
出発時間の13時ちょうどでからくり時計が作動していました。アトレのロゴに「MARUHIRO」が入っているので、JR東日本のアトレと川越の老舗デパート丸広のジョイントなのかと調べたらそうではないようです。正式名称は「アトレマルヒロ」、Wikipediaから引用してみます。
第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)5月16日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。日本で最初に“アトレ”と称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係、JR川越駅ビルはルミネである。
丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。
2012年に改装工事が行なわれ、2012年9月15日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も2015年8月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。ザ・ガーデン自由が丘は2018年3月25日に閉店し、同年4月6日からYasuno Foodestが新たに開店した。



川越八幡宮
川越駅から北へ向かいお参りした後境内をお借りしてストレッチをします。末社の稲荷神社は足腰の神様でこちらにもお参りしなくてはなりません。


民部稲荷神社
まんが日本昔ばなし
民部稲荷神社
御祭神 倉御魂神
お稲荷様は、衣・食・住すべてを守ってくださる神様です。
また、当社は「相撲稲荷」とも称され、特に「足腰の健康」にご神徳があるとされています。
昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名のり暮らしていたが、老僧に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住んだ。この民部は、相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当の仕方を教えて去っていったとの伝説があり、「まんが日本昔話」でも「民部稲荷」として紹介されました。足腰は身体健康の基本です。神様のご神徳をいただき、お守りを身に付けて、健やかな日々をお過ごしください。

小仙波のマメザクラ

中院のアセビ

中院のミモザ

中院のサンシュ
八幡宮から東へ向かい、大友康平さんが卒業した川越工業高等学校の前を通り中院へ。エドヒガンの枝垂れ桜には少し早かったようですが、ミモザが見ごろでした。開山は慈覚大師円仁、浅草寺や目黒不動など関東の古刹はみな円仁が開山と伝えられています。

仙波東照宮
日本三大東照宮の一つでかつて中院だった場所に創建されました。童謡「あんたがたどこさ」の「仙波山」であるという異説があります。それについてWikipediaから引用してみましょう。
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
太田信一郎『童謡を訪ねて』によると戊辰戦争に出兵した熊本人が川越市の仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっているという。薩長軍は彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。異説の根拠としては肥後の地元住民同士が出身を聞きあうのは不自然で、熊本の船場から来た人に対して川越の子どもたちが「川越の仙波山にも狸がいる」と返答するほうが自然とみる。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこに狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。

喜多院


成田山川越別院

おびんづるさま


大師堂
成田山にお参りしてさらに北へ進みます。

川越城本丸御殿

川越城 中ノ門堀跡

川越市役所太田道灌像
現存する本丸御殿は江戸時代の建物ですが、太田道灌の川越城、また江戸城との関連についてWikipediaから引用します。
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。

蔵造りの町並み

時の鐘

埼玉りそな銀行

大正ロマン通りうなぎ 小川菊
西へ向かい元町休憩所で菓子屋横丁を散策する眺めの休憩を取りました。団子よりビールと地ビールを飲んでいたら雨も降りだし冷え切ってしまい失敗。
南へ向かい出世稲荷の境内を借りてストレッチをした後、川越市駅まで歩きFライナーで中目黒へ。遠くても座って一本で帰ることができるので川越ウォーキングは好きです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。

川越アトレのからくり時計
出発時間の13時ちょうどでからくり時計が作動していました。アトレのロゴに「MARUHIRO」が入っているので、JR東日本のアトレと川越の老舗デパート丸広のジョイントなのかと調べたらそうではないようです。正式名称は「アトレマルヒロ」、Wikipediaから引用してみます。
第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)5月16日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。日本で最初に“アトレ”と称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係、JR川越駅ビルはルミネである。
丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。
2012年に改装工事が行なわれ、2012年9月15日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も2015年8月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。ザ・ガーデン自由が丘は2018年3月25日に閉店し、同年4月6日からYasuno Foodestが新たに開店した。



川越八幡宮
川越駅から北へ向かいお参りした後境内をお借りしてストレッチをします。末社の稲荷神社は足腰の神様でこちらにもお参りしなくてはなりません。


民部稲荷神社
まんが日本昔ばなし
民部稲荷神社
御祭神 倉御魂神
お稲荷様は、衣・食・住すべてを守ってくださる神様です。
また、当社は「相撲稲荷」とも称され、特に「足腰の健康」にご神徳があるとされています。
昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名のり暮らしていたが、老僧に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住んだ。この民部は、相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当の仕方を教えて去っていったとの伝説があり、「まんが日本昔話」でも「民部稲荷」として紹介されました。足腰は身体健康の基本です。神様のご神徳をいただき、お守りを身に付けて、健やかな日々をお過ごしください。

小仙波のマメザクラ

中院のアセビ

中院のミモザ

中院のサンシュ
八幡宮から東へ向かい、大友康平さんが卒業した川越工業高等学校の前を通り中院へ。エドヒガンの枝垂れ桜には少し早かったようですが、ミモザが見ごろでした。開山は慈覚大師円仁、浅草寺や目黒不動など関東の古刹はみな円仁が開山と伝えられています。

仙波東照宮
日本三大東照宮の一つでかつて中院だった場所に創建されました。童謡「あんたがたどこさ」の「仙波山」であるという異説があります。それについてWikipediaから引用してみましょう。
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
太田信一郎『童謡を訪ねて』によると戊辰戦争に出兵した熊本人が川越市の仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっているという。薩長軍は彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。異説の根拠としては肥後の地元住民同士が出身を聞きあうのは不自然で、熊本の船場から来た人に対して川越の子どもたちが「川越の仙波山にも狸がいる」と返答するほうが自然とみる。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこに狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。

喜多院


成田山川越別院

おびんづるさま


大師堂
成田山にお参りしてさらに北へ進みます。

川越城本丸御殿

川越城 中ノ門堀跡

川越市役所太田道灌像
現存する本丸御殿は江戸時代の建物ですが、太田道灌の川越城、また江戸城との関連についてWikipediaから引用します。
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。

蔵造りの町並み

時の鐘

埼玉りそな銀行

大正ロマン通りうなぎ 小川菊
西へ向かい元町休憩所で菓子屋横丁を散策する眺めの休憩を取りました。団子よりビールと地ビールを飲んでいたら雨も降りだし冷え切ってしまい失敗。
南へ向かい出世稲荷の境内を借りてストレッチをした後、川越市駅まで歩きFライナーで中目黒へ。遠くても座って一本で帰ることができるので川越ウォーキングは好きです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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