目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

横浜山手・三渓園コース 約4.7Km(園内を含めると約8Km)

2018-05-04 08:48:42 | ウォーキング
連休前最後のウォーキングでしたが、季節が駆け足で移り変わってゆくこの時期だと、写真の花たちがずいぶん前のように感じます。


写真:港の見える丘公園
東横・みなとみらい線で元町・中華街に到着し、そこから歩き始めです。港の見える丘公園の谷下でストレッチをし、各自それぞれのペースで丘を登って行きました。丘というより山ですが。


写真:サザンカとツツジ
この組み合わせは珍しいのかなと思って写真を撮りました。このウォーキングがあった4月22日あたりは季節の変わり目だったのかな。


写真:タツナミソウ

写真:ジュウニヒトエ

写真:フランス山の風車
フランス山について、横浜市のページから引用します。
 フランス山の歴史は幕末までさかのぼる。生麦事件などの外国人殺傷事件が相次いだため、文久3(1863)年、フランスとイギリスは自国民を守ろうと軍隊の横浜駐屯を決定し、フランス軍が兵舎を構えたのがこの山だった。その名前に抱くイメージからはほど遠い軍事基地、それがフランス山の始まりだった。
 フランス軍が明治8(1875)年に撤退した跡地に、明治29年に建てられたのが赤レンガのフランス領事館である。軍撤退当時、移転先を探していた領事館はすぐに新築工事を始めようとしたが、予算などの問題で長く棚上げとなった。ようやくゲーテ座や指路教会などを手がけたフランス人建築家、サルダの設計施工で、約2か年の工事の末に完成した。日本近代建築史上でも高い評価を得ている。しかし大正12(1923)年の関東大震災で他の多くの建物と同様に倒壊してしまった。
 昭和46(1971)年、横浜市はこの地域をフランスから買収して整備し、翌年、フランス山公園として市民に開放した。平成14年から本格的な再整備工事が始まると、遺構が発見され、保存整備や復元工事が慎重に行われた。明治期の領事館用井戸水汲み上げ風車の土台や震災後に再建された領事公邸遺構の保存、幕末にフランス海軍が造成した階段(山の下方から左右2本が伸び、途中で合流しさらに上がっていく)や風車の復元などだ。開港資料館も資料提供で協力した。歴史がきちんと遺されたこの公園をさらに多くの人に楽しんでほしい。



写真:アジサイ
次の季節を彩る花がすでに準備を進めていました。



写真:横浜ベイブリッジ

写真:マリンタワー
横浜に住んでいた子供の頃にあこがれだったマリンタワーです。


写真:昨年整備された花壇

写真:?

写真:アヤメ?

写真:バラ?

写真:オオデマリ
イングリッシュガーデンのバラにはちょっと早かったようですが、様々な花が咲き競っていました。



写真:横浜市イギリス館

写真:大佛次郎記念館

写真:横浜水道創設記念噴水塔
イングリッシュガーデン前に再集合してウォーキングを再開します。


写真:山手のお屋敷

写真:横浜雙葉


写真:キリン園公園
山手のお屋敷街を歩き、ウィリアム・コープランドが日本で初めてビールを製造した工場跡地にある、キリン園公園へ。コープランドとビール工場についてWikipediaから引用します。
1864年に日本の横浜へ移住。コープランドは知人ら2人と出資し、商事組合 S.ジェームズ商会を1866年に設立、牧場と運送業で品質の良い牛乳販売が評判になるが、商会は1867年に解散。コープランドは単独でコープランド商会を設立し、運送業を行って、資金を貯める。資金を貯めたコープランドは山手123番(天沼)の土地を購入すると、1869年にスプリング・バレー・ブルワリーを設立した。近隣の丘を210メートル掘って、低温によるビール醸造を行った。後にルイ・パスツールが確立したパスチャライゼーション(低温殺菌法)を知ると、コープランドもこの技術をスプリング・バレー・ブルワリーに導入している。コープラドが生産したスタイルはラガービール、バイエルンビール、バイエルンボックであった。コープランドの醸造したビールは、主に横浜の居酒屋に樽で売る他、醸造工場に隣接する自宅を改装し「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を1875年に開設すると、外国人居留者と外国船の船員向けに営業している。こちらも日本初のビアガーデンと言える。コープランドのビールは評判となり、東京や長崎へも出荷されるようになった。なお、1869年にはジャパン・ヨコハマ・ブルワリー、ヘフト・ブルワリーなども開業しているが、コープランドのビールほどは評判にならなかったようで、短期間で閉鎖されている。

コープランドは1872年にノルウェーへ一時戻るとアンネ・クリスティネ・オルセンと結婚した(結婚時、15歳)。コープランドは花嫁を伴って日本に戻ってきたが、7年後の1879年にアンネ・クリスティネは22歳で病死する。

ドイツ人醸造技師E・ウィーガントが1974年頃に設立したババリア・ブルワリーはスプリング・バレー・ブルワリーの近隣にあったこともあって、競合していた。ババリア・ブルワリーとスプリング・バレー・ブルワリーは低価格競争に陥り、互いに利益を減らしていった。1876年にコープランドはヴィーガントに競争の無駄を説得し、コープランド・アンド・ヴィーガント商会を設立する。コープランドが経営担当、ウィーガントが醸造担当という役割分担であったが、これは上手く行かず、1880年にコープランドとウィーガントの間で、工場経営の主導権をめぐって対立が激しくなり、裁判の結果、商会は解散となって、工場は競売にかけられることとなる。工場そのものは、コープランド自身が落札したため、醸造所は継続することになる。

コープランドは、1881年より日本人向けの味が淡白で低価格のビールの醸造もはじめ、1882年には日本語新聞にはじめての広告を掲載するなど、日本人向けの販売を始める。しかし、醸造所買収時の借金がきっかけとなり、スプリング・バレー・ブルワリーは1884年に倒産、公売にかけられることになった。

スコットランド出身の商人 トーマス・ブレーク・グラバーの支援を受け、スプリング・バレー・ブルワリーは1885年に日本人投資家に売却され、ジャパン・ブルワリーとなる。1888年、ジャパン・ブルワリーは明治屋と一手販売契約を締結し「麒麟ビール」の販売を始める。

1889年、勝俣清左衛門の次女・ウメ(勝俣銓吉郎の姉)と再婚。自宅のビアガーデンを経営する傍ら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導などをする。1893年には日本を後にし、グアテマラシティで商売を始めるが上手く行かなかった。1902年1月には日本に戻って、横浜の石川町に居を構えるが、翌2月には没することになる。ウメはその後、両親と東京で暮らし、婦人帽子などの装飾業を営んでいたが、1908年に亡くなった。

コープランドの葬儀はジャパン・ブルワリー社によって行われ、墓は横浜外国人墓地に建てられた。後にウメも葬られている。

スプリング・バレー・ブルワリーの跡地は横浜市立北方小学校となっている。ジャパン・ブルワリー社の後身である麒麟麦酒社の横浜工場、横浜支社では、コープランドの命日(2月11日)と6月には、墓前で、最新のビールを供えて、麒麟麦酒社の発展を祈る墓前祭が行われている。



写真:本牧リボンファンストリート商店会

写真:ナツツバキ

写真:春紅葉


写真:本牧山頂公園
このコースは横浜の特徴であるアップダウンが多くて疲れます。この日二つ目の登りである本牧山頂公園に到達しひと休みです。




写真:本牧神社
山頂公園から階段を下ると本牧神社。神社のページから引用します。
本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。
伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。
また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。
一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました。
先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。  
米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。  
こうして50年近くの長い間、仮遷座を忍ばれながら氏子とともに苦楽を共にされた大神様の御神恩に感謝の誠を捧げるべく、氏子崇敬者の浄財を募って御造営されたのが現在の御社殿です。まさに本牧神社の戦後の歩みは「ハマの戦後復興史」そのものと云えましょう。



写真:三渓園のキハナショウブ


写真:三渓園の藤棚



写真:三重塔

写真:ボタン

写真:古民家
三渓園に到着し、皆それぞれ園内を巡っていました。茶屋でビールを飲んでいたらそのあと歩く気がしなくなり、飲み仲間を集めてウォーキング終了。

タクシーで根岸駅へ向かい横浜ジョイナスの銀座ライオンでビール。歩いた後のビールはやっぱりおいしかったです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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