フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の『教育ニ関スル勅語』 で指摘されているため、多くの方が認識されていることだと思いますが、敢えてここで書こうと思います。
先日のエントリで教育勅語を園児に暗唱させていることをご紹介致しました。
関連するブログ巡りをして大変危惧した事柄があります。
教育勅語の口語訳を明治神宮などのページから引用していることです。また、全国の多くの神社が、どういう訳か、明治神宮の同内容の口語訳を紹介しています。
明治神宮 教育勅語に関するページ
この口語訳に対してどういった危惧を抱いたかと申し上げますと、まずウィキペディアにて指摘されているように、「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という部分を訳から削除しているような表現がされていること。そして、全体的な訳が大変意訳されている事。
意訳以上に、曲解的な訳や、意図的に訳をしていない、つまりは削除している。
つまり、削除や意訳によって、本当の教育勅語の意味が歪曲されています。
この歪曲された口語訳に基づいた、教育勅語に対する評価がなされていることの事実が危険であると感じています。
まずは、教育勅語の本来の意味を理解されてからの評価を期待したいものです。
『教育勅語』が云わんとする趣旨とは、如何なるものかを理解すべきですね。
これは、「訳」によって、本来の意味が歪曲されることの蓋然性・危険性を理解するには、大変分かりやすい事象であると思います。
原文を読んでビックリすることがあるんですよ。気をつけましょう!!!
「私」って!?誰のこといいさらしとんねん!
ということですわ。
恐れ多くて、これ以上申し上げられないわ。
どういう訳なんでしょうか?????????????![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_ang1.gif)
そうそう!
教育内容に関して、公立と私立(幼稚園)で区別して評価しているエントリがありますが、この件に関しては、あまりそれが基準にならんと思います。
教育勅語の解釈の違いでは、基準になることは否定できませんが、教育勅語の意味を素直に解釈すると、憲法上の問題と関わって、公立私立の区別は全くナンセンスであると思います。
つまりは、公立であろうが私立であろうが、教育勅語を園児に教育することは問題であり、違憲・違法の可能性が高いということです。
教育勅語等排除に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日衆議院決議)
教育勅語等の失効確認に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日参議院決議)
を参照してください。
第一、何故私立なら問題が無いのかの説明が全く提示されていないんですよね。いつもの事ながら根拠がない。最近の傾向です。
教えてください。(=´ー`)ノ おねがい~
先日のエントリで教育勅語を園児に暗唱させていることをご紹介致しました。
関連するブログ巡りをして大変危惧した事柄があります。
教育勅語の口語訳を明治神宮などのページから引用していることです。また、全国の多くの神社が、どういう訳か、明治神宮の同内容の口語訳を紹介しています。
明治神宮 教育勅語に関するページ
この口語訳に対してどういった危惧を抱いたかと申し上げますと、まずウィキペディアにて指摘されているように、「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という部分を訳から削除しているような表現がされていること。そして、全体的な訳が大変意訳されている事。
意訳以上に、曲解的な訳や、意図的に訳をしていない、つまりは削除している。
つまり、削除や意訳によって、本当の教育勅語の意味が歪曲されています。
この歪曲された口語訳に基づいた、教育勅語に対する評価がなされていることの事実が危険であると感じています。
まずは、教育勅語の本来の意味を理解されてからの評価を期待したいものです。
『教育勅語』が云わんとする趣旨とは、如何なるものかを理解すべきですね。
これは、「訳」によって、本来の意味が歪曲されることの蓋然性・危険性を理解するには、大変分かりやすい事象であると思います。
原文を読んでビックリすることがあるんですよ。気をつけましょう!!!
「私」って!?誰のこといいさらしとんねん!
ということですわ。
恐れ多くて、これ以上申し上げられないわ。
どういう訳なんでしょうか?????????????
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_ang1.gif)
そうそう!
教育内容に関して、公立と私立(幼稚園)で区別して評価しているエントリがありますが、この件に関しては、あまりそれが基準にならんと思います。
教育勅語の解釈の違いでは、基準になることは否定できませんが、教育勅語の意味を素直に解釈すると、憲法上の問題と関わって、公立私立の区別は全くナンセンスであると思います。
つまりは、公立であろうが私立であろうが、教育勅語を園児に教育することは問題であり、違憲・違法の可能性が高いということです。
教育勅語等排除に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日衆議院決議)
教育勅語等の失効確認に関する決議(1948〔昭和23〕年6月19日参議院決議)
を参照してください。
第一、何故私立なら問題が無いのかの説明が全く提示されていないんですよね。いつもの事ながら根拠がない。最近の傾向です。
教えてください。(=´ー`)ノ おねがい~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_please.gif)
教育勅語について (サラ)
2017-03-14 08:33:05
私は「挙育直後の前文」は時代が異なるので評価の対象には入れません。
具体的な十の指導については、まさに今の日本に必要な内容であると思いますし、何ら問題ありません。
前文のみを捉えてテレビなどは問題視しますが、そもそも、国会で排除されたときはGHQの占領下にあったこということです。政治は当然の事全てがGHQに統制されていたのです。
占領の正しい意味が理解できれば、自国の不利な政治が行われることは必死であると分かるはずですね。
したがって、何も事の本質まで曲げて極解する必要もないと思います。
客観的に見ても、教育方針としては立派なものです。
現代のような乱れ切った日本には必要と言う人が多くいらしても全く不自然ではありませんね。
具体的な十の市道については、まさに今の日本に必要な内容である、何ら問題ありません。
全文のみを捉えてテレビ灘も問題視しますが、そもそも、排除されたときはGHQの占領下にあったこということです。
占領の意味我が理解できれば、自国の不利な政治が行われることは必死です。
何も、事の本質まで曲げて極解する必要もないともいます。
教育方針としては立派なものです。
現代のような乱れ切った日本には必要と言う人はいても不自然ではありませんね。
資源が乏しく、狭い中で大勢の人が共生している日本においてより社会性を発揮し、発展していくための意志を育てることが、現在行われている行き過ぎた個人主義よりも重要であると思う。
ご丁寧なお返事、ありがとうございました。
正直、このような内容のお返事を頂けるとは思っておりませんでしたので、ただただ感謝を申し上げるのみです。
やはり、思った通りの方でした。つまり、議論ができる方だと。
私は議論の専門家ではありませんが、文書で自分側の主張を述べ、相手の主張の論理を崩す作業を求められています。(でも、弁護士じゃありませんよ~。それなら、何なの?('ー ' *) フフフのフ 内緒…)
なので、気が付けば「失当である」という厳しい表現を使っていることがあります。でも、それはあくまで、主張に対する私の反論に過ぎない、という意識があります。
相手の人間性や人格を評価するものではありませんので、かなり厳しい表現を使用することはあります。
特に、ある程度の論理を展開される方には、「容赦無く」指摘させて頂いております。
私が厳しい対応をする方は、基本的に論理的な方です。
つまり、論理的な考えができない方には、論理的な話は致しません。そう、論理を要求しません。、
変な言い方ですが、KWATさまは論理的な方だから、論理を厳格に求めました。それができる方だと思ってのことです。
こういう言い方自体、相手を「見下している」と評価されかねないと思っています。
しかし、私は人によって、要求するレヴェルが全く違います。
こんなことを表現すると、ちょっとこのコメントを見ている知り合いが呆れるかもしれませんが…。
でも、敢えて書きます。
実社会において、有能な人もいれば、普通の方やそうでない方もいらっしゃいます。
そういった状況において、すべての方に対して、同じような要求をすることは現実問題として無理です。
KWATさまは、管理職のお立場にいらっしゃるようですので、それをご理解頂けると思います。
スタッフの能力を理解しながら、スタッフに対して接する。
つまりは、スタッフの能力にあった要求をしなければ、スタッフを潰すことにもなりますし、成長させないこともあります。その要求の具合は、とても難しいことです。
私は、基本的にその人の能力の範囲内を少し超えるような要求をしたい。
その人の能力を評価する能力が私に足りなければ、仕事は上手くいきません。
事実、そういう経験は、数え切れません。私には、まだそれが無いと思います。
でも、少しは…、という意識はあります。
このような考えに基づいて行動することは、仕事だけではないと私は、思っております。
だんだん、横に逸れそうなので、また戻ります。
そこで、ブログやBBSの議論について、どういう内容を相手に要求するのか、という考え方の違いが当然、それぞれの当事者によって生じますし、存在することは当然です。
とりあえず、私が管理するこのブログでは、「議論・討論・討議」をしようというお考えがあるなら、「それなりのレベルを要求しまっせ~」、ということです。
議論等を希望されないような内容であれば、そんなこと「要求しまへん」という感じです。
ところで「素人」という言葉は、確かに「見下している」と受け取られても、仕方が無いのかもしれませんね。
でもですね。私は、「あなたは」という表現をやんわりとボカシタつもりだったのです。
「あなたは、論理構成が甘い」じゃなくて。まあ、おんなじなんでしょうが。
あくまで一般的な「“素人さん”には、困難だよね~。」というオブラートの手段だったんです。
また、これまで、「素人と玄人」について様々に意見交換をしてきたために、安易に使ってしまったことも理由です。
KWATさまが仰ったように「プロなら素人に解るように説明…」ということは、常に要求されます。しかし、その度に私は拒否しています。
「お金をもらっているなら」という表現は、ヤラシイ表現ですが、現実として常に申し上げております。
「金も払わずに、知識を要求するとは、何様なんだ!」というヤラシイ現実をお伝えさせて頂いております。
私は、何も教えたくない、という意識はありません。
でも、親しくしていない方に要求されると、絶対にそれを表現しません。
今回の場合は、失礼な表現をすれば、「私が教えたいと思える意見交換ができていない」、ということです。失礼ですけど、これは私の本音です。
ただですね、実生活において目上の方に、このような発言は私はしませんよ。
これは、ある意味「ネットならでは、なのかなぁ」なんて思っています。
ある程度、関係性に敏感にならなくても良い、という。これは、私の甘えでもあるかもしれませんが、個人的には、これだからブログなんだ、ということも否定しえません。
また、酒を呑んで、自己の感情を抑制されない状況において表現する言葉は、私の真の人格を表現するものでもあるでしょう。いや、私と正反対にある感情の迸りなのでしょうか。
でも、理性が働かない状況においては、人はこれほどまでに戦闘的である、という証左でもあるのかもしれません。いや、私が、ッてことでしょうね。
とにかく、私はこれからもKWATさまと意見交換ができると確信しております。
如何でしょうか?
私のこのコメントを、どのようにお感じになられるかによりますが…。
できれば、これからもお付き合い頂ければと思っております。
こん**は、KWATです。お待たせいたしました。結局、昨夜2時間かけて書きかけた文章は全部捨てて、一から書き直しました。(^◇^;)
それでですね、まずお断りしておかなければならないのは、特定のメッセージを挙げることはできますがそれは象徴に過ぎないということです。文章の書き方などから受けるイメージが、その後のやりとりの中でどんどん膨らんでいって、あるメッセージで確信に変わった、ということなんです。
藹さんは法律に関することをお仕事にされている故に、単語の意味をきちんと定義し、言うべき事をどういう順番で言っていくかきちんと整理する、というところから議論を始める考え方が身についていらっしゃるのでせう。そしてそれは一種のテクニックでもあるので、身につけるには訓練(もしくは“慣れ”)が必要です。ところがあいにくワタシはそういう訓練ができてません。その場その場で切り返し方を考えながら書いています。なので今きちんとひとつひとつ読み返していくと、『ずいぶんとグダグダだなこれ、藹さんが呆れるのも無理はないよな』と思うようなことも書いてます。この点については本当に申し訳ないと思います。
ただですね、「論理の法則に適った」書き方(言い方)というのは、会議やディベートの席などでは当然なのでせうけど、普通に世間一般での「議論」の場(言い換えれば単なる「話し合い」や「言い合い」)では正直いって堅いんです。ガチガチに感じられるんですよ。で、ブログのコメント欄なんてトコロは、一般的に言ってどっちかというと世間に近いわけです。なので、「こんな井戸端会議あるいは飲み屋談義のような場で何を堅いこと言ってるんだ」となりがちです。まずそこのところを判っていただきたいと思います。
ここは藹さんのブログですので、『ここのコメント欄で議論する時は「論理の法則に適った」書き方をするべし』と思われるのは当然です。でも、そういう注意書きがどこかにあるのならともかく、ここに書き込む皆が皆そう思っているわけではないでせう。ワタシが『もう少しでいいから話す相手に歩み寄ってみるのもいいかと思いますよ』と偉そうなこと(爆)を書いたのも、「もうちょっと砕けた話し方をして欲しかった」という思いからです。もしかしたら、ワタシが『貴ブログにいるのはなんか場違いな感じですね』と書いたのは、防衛問題に関する考え方の違いのほかにも、このコメント欄にそんな雰囲気を感じたからかもしれません。
>>あなたの初めの頃の揶揄的表現の原因が、私にある可能性を認識した際に、それをお詫びしたのですが、それでもやはり私は「見下している」と受け取られてしまったようですね。
最初にワタシのブログに最初のコメントを入れられたあと、ワタシの反応に対して2006-07-06 23:42:19に「無礼をお詫びいたします」いうコメントを入れて下さっていますね。それがこの一文にある「お詫び」なのだと思っています。これについてはごく普通の、互いに対等の立場でのやりとりに感じられました。ところが、議論の場が藹さんのブログに移ると、そういう雰囲気がなぜか消えてしまい、全体的に高圧的な感じがしました。その時にはその理由がよく判らなかったのですが、それはきっと先に述べたような理由だったのでせうね。
ちなみに、ワタシがカチーンときたのは2006-07-10 05:21:24の藹さんのコメントにあったこの一文でした。
>>KWATさまは、建設的な議論を求められていると理解しているのですが、これが建設的な議論だと思いますか?
でもこれだけでしたら、次の次の2006-07-13 03:07:31の藹さんのコメントでこの部分は撤回されていますので、まだ良かったのです。ところがその直後にこれが来てしまったので、もういけませんでしたです。
>>素人さんには大変難しいとは思いますが、ある程度の論理構成を願いたいと思います。
むしろこちらに反応したと言ったほうがいいかも知れません。「素人さんには」という表現は、自分を高みに置かないと出てこないモンです。これでワタシの中には『藹さんはこちらを見下して書いている』というイメージが固まってしまいました。そしてこの後のワタシのコメントには、回を重ねるごとに『売り言葉に買い言葉』的な書き方の割合が増えていってしまったのです。余所様のブログのコメント欄で書くには相応しくないような表現も混じっているように思います。さぞや不快な思いもされたことでせう。改めてお詫びいたします。
今回のことで、ワタシは自分の考えを話す相手に的確に伝えることの難しさを痛感しました。自分の文章の書き方は、ずいぶんと相手の読解力に頼った、言い換えれば相手に甘えたものだったようです。今一度、考え直さないとイカンようです。
では、とりあえずこんなトコロで。(^o^)/
こんばんは、藹です。
ご丁寧に、恐縮致します。
宜しくお願い致します。
今晩は、藹です。
> >>私がそれまで、あなたを見下したようなコメントをしましたか?
> しまくりなんですけど、それもお判りにならないとはつくづく気の毒なお方です。
すみません。気の毒な奴です。
なので、できれば教えてください。
私の、どういうコメントが、「見下している」とお感じになられたのか。
あなたの初めの頃の揶揄的表現の原因が、私にある可能性を認識した際に、それをお詫びしたのですが、それでもやはり私は「見下している」と受け取られてしまったようですね。
多分私は気付いていないのでしょう。そう思わせてしまったことは事実なんですから。
釈明することができるなら、それの機会を作っていただければ、嬉しいです。
宜しくお願い致します。
こん**は、KWATです。やはり「話せば判る」なんてことは幻想なんですねぇ。世の中には話せば話すほど、判らなくなることもあるようです。
>>私がそれまで、あなたを見下したようなコメントをしましたか?
しまくりなんですけど、それもお判りにならないとはつくづく気の毒なお方です。ご自分に対する嫌みや皮肉にはあんなに敏感に反応なさるのに。でも発端はコメントではないんですよ。ワタシが12日に書いた「続きです(^◇^;) 」というコメントの中に、『ワタシのブログのコメント欄に、初めての書き込みなのに挨拶も無しにいきなり必要事項だけ書いていかれた方はどんな方なのだろう、特に無礼を売りにするような方でもなさそうだし、と興味を抱いたので』と書いてあるのを再度ご確認ください。そうです、実は最初から「藹さんは相手を見下した書き方をする」と感じているんです。藹さんにはお判りにならないでせうが、Dr.Droneさんに対するresにもそれは現れています。
結局のところ、藹さんが人とのコミュニケーションに求めるものは何なのでせう。ワタシには最後まで判りませんでした。藹さんはご自分のフィールドから一歩も出ようとしないのですから、判らなくても当然なんですね。ま、いいですよ、こうなるだろうことは途中から薄々感じていましたから。ワタシももうちょっとはマトモな議論になるかと思っていたのですがねぇ。
老婆心ながら申し上げれば、もう少しでいいから話す相手に歩み寄ってみるのもいいかと思いますよ。そのエリート意識と選民思想で凝り固まった頭を、ほんのわずかでもほぐしてみると、あるいは新しい世界が開けるかも知れません。
蛇足ながら、藹さんの防衛・軍事に関するお考え、もっとお聞きしたかったです。中途半端になってしまったのはつくづく残念です。
これまでいろいろ不愉快な思いをさせてしまったことでせうが、たぶんもう二度とresは付けないと思いますのでご安心ください。では、長々と失礼いたしました。お休みなさい。m(_ _)m
> 討論/debateしたいんです。
> 喧嘩/quarrel=不和を望んでいません。
了解致しました。
お返事が、どうも嫌味っぽく感じましたので、昨晩は率直にお聞き致しました。
ただ、討論するためには、討論する内容が必要ですし…。
「好き嫌い」についてのご意見を確認致しますと、さらに「討論にならないなぁ」なんて思っております。
基本的に私から討論を仕掛けることは、控えております。
コメントで中途半端に質問をして、討論になることは少なくないですが…。
では、これからも宜しくお願い致します。
今晩は。藹です。
KWATさまは、私が「人を見下す」と仰っていますが、それはあなたの嫌味な書き方が原因です。
7月17日の表題『この議論の限界を感じています』までは、私はそういった表現をしていません。
KWATさまの『ワタシももう限界です 』 のコメントをお読みください。
このような書き方をされたら、もうこちらとしては呆れて果てるだけです。
私がそれまで、あなたを見下したようなコメントをしましたか?
それを指摘してください。
とにかく、自分の行為を棚に上げて、自己正当化し、相手の所為に対して非難するだなんて、あまりにも情けないです。
具体的なことを指摘せずに、私に対して非難することは簡単です。
「人と話をすることを理解していない」と私を評価されていますが、前述の17日のコメント以前に、それをお感じになられた個所を指摘ください。
私が論点をずらしていると仰るのなら、それを指摘ください。
あなたは、私が憲法論議を拒否していることに対して、大変怒りを抱いておられることは理解しています。
「馬鹿にされた」とお感じになられたのでしょう。
しかしですね。できないものはできない、ということです。
だって、憲法についてご説明すれば、さらに不毛になりますから。それはこれまでの経験で私が決めたことです。
私は無礼をお詫びしながらも、憲法についてはコメントしないと申し上げました。
しかし、あなたはしつこく質問されたのです。それが事実です。
あなたの議論の方法は、素人の典型ではあります。だから議論馴れしておられない素人さん同士の議論では、それを指摘されることも無かったことでしょう。
あなたが、初めての経験をされていることは、何も驚きのことではありません。
論点がずれる最大の理由は、論点部分とは少し外れた事柄、つまりは枝葉部分に反応し、それが論点であると勘違いすることです。
またそれは、これまでの議論の流れ(特に論点)を確認されずに、またはその確認が疎かになってしまう事から生じます。
それについては、何度かご指摘させて頂きました。
まあここまで来ると、こんなこと書いても無意味だとは思いますがね。
怒りでいっぱいのご様子ですし…。
まあ、論点整理が下手くそな専門家もたくさんいますから、しょうがないとは思いますが…。
散漫となった論点に、可能な限りはお返事したつもりでしたが、それでも納得されないのですよ。
すべての質問にお答えしたら、議論は確実に崩壊します。
相手に、「これだけは確認したい」という事柄は、それを明確に相手に伝えなければ、論点がボケます。
私は、基本的に議論ができる人としか議論したくないんですよ。
私は、あなたは議論ができるかただと思った訳です。
残念です。
>>私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから。
と藹さんが仰ったので、
> とにかく目の前にある事柄だけで考えるわけではないんですよ人間は。
とお返ししたワタシに対し、
>>そう思いますよ。
とのご返答。はて、これをどう解釈していいのやら。つまり藹さんも『抽象的に対象を評価する』ことがあり得る、ということなんでせうか。なぜなら『目の前にある事柄だけで考えるわけではない』すなわち『目の前にない事柄(「抽象的な事実」も当然含まれますよ)も考慮に入れて考えるのだ』というワタシの主張に同意されたということですもんね。
>>問題の矮小化の典型例ですね。
>>そういう指摘は、事の問題を単に矮小化しているだけで、全く論理性などありません。
>>国家レヴェルと個人レヴェルを同時に述べることの滑稽さは、これ以上申し上げることはありません。
おや、それは失礼しました。藹さんが防衛や軍事に全く疎くていらっしゃるのではないか、と愚考いたしましたもので、国家レヴェルを個人レヴェルに置き換えて示すことで判りやすい説明を、と思って書いただけなのですが。なんだ判っておられるのじゃないですか。ちなみに、世間では例え話を矮小化とは言いません。
>>それは、KWATさまの防衛論に過ぎません。
違います。そのように思われること自体、やはり防衛ということに対する認識の欠如を物語っていますな。「1%でも可能性がある限りそれに備えるのが防衛」というのは、防衛を語る上での常識です。そうやって高みに立ったつもりで切り捨てる前に、『藹さんの家ではなぜ玄関に鍵を掛けるのですか?』という問いにお答え願えますか。いや、もちろん義務なんかじゃありませんよ。答えたくないのであればそれでも結構です。単なるダブスタだと思うだけですから。
>>論点を理解してください。
ほう、そうですか。この部分、藹さんが仰るような意味には、どう読んでも取れませんが。そう読みとって欲しいのであれば、末尾に「ただ、私は日本が云々」と続けるべきではありません。そういうのを世間では「蛇足」と言います。ご自分が相手に読みとって欲しいように、きちんと論点を明確にして書かないといけませんな。他人にそれを指摘する前に。
>>ファシズムそのものですね。
うわ、議論の相手にお願いすることが「ファシズム」ですか! これはすごい。珍説登場です。まさかお願いしただけで「それはファシズムだ」なんて言われるとは思ってもみませんでしたよ。短絡的すぎてちっとも理解できません。
>>ファシズム 2 [fascism]
>>大辞林 第二版より
>>
>>第一次大戦後に現れた全体主義的・排外的政治理念、またその政治体制。自由主義を否定し一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧、対外的には反共を掲げ侵略政策をとることを特色とした。イタリアのファシスト党に始まる。ファッショ。
「絶対の服従」を強いてもいなければ、「過酷な弾圧」をしているわけでもない相手をファシスト呼ばわりですか。しかも「ファシズム」って政治体制に関する用語ですよ。つまり、ただの一介の庶民がブログでコメントするだけで一国の政治を牛耳っていることになるということなんですね? いやはや、これはびっくりです。小沢党首に教えてあげよう。
>>「国際社会」という抽象的な事実・存在という意味です。
>>敢えて抽象的、という表現をさせて頂いたまでです。
>>保守派の方々は、その事実を具体的事実を評価していますので、敢えてそれを抽象的と申し上げたのです。こんなことまで説明しなくてはいけないとは、少々驚きです。
仰っていることがさっぱり判りません。国際社会は抽象的ですか。例えば国連安保理とか、G8とか、六ヶ国協議とか、今まで具体的に存在すると思われていたものも実は全て抽象的存在であった、というわけですね。といいますか、なぜそれを「敢えて抽象的と申し上げ」るのか、ワタシの乏しい脳味噌では理解できません。まぁ、世界市民を夢見るような方々にとっては、国と国との付き合いなんてのは抽象的であって欲しいかもしれませんがね。いや、藹さんがそうだと申し上げているわけではありませんよ念のため。ま、それはともかく。
> 「私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから」と仰る同じ方が、なぜ「抽象的な事実からの帰結」を根拠に据えられるのでせう。
この問いに対するお答えがまだですよ。いや、もちろん義務なんかじゃありませんよ。答えたくないのであればそれでも結構です。単なるダブスタだと思うだけですから。
>>白旗を揚げれば、攻撃されないことの蓋然性は高まりますよね。
白旗を揚げれば、攻撃してきた側に好き勝手にされることの蓋然性も高まりますよね。何度も言ってるでしょう、こういう相対することについての蓋然性は、双方に等しくあるんだって。なんで藹さんはご自分が贔屓したい側の蓋然性だけ採り上げるんですか。それってワタシが指摘して藹さんも同意なさった「マスコミの報道内容の問題点」と同じじゃないですか。
>>無防備の相手に攻撃を継続する事実を、国際社会がどのように評価するでしょうか。
さきほど抽象的であると仰った国際社会というものを、なぜ今度は具体的な存在であるかのように仰られるのです? 「抽象的存在」は評価なんてできませんよ。しかもそれは、チベットに対する中華人民共和国の行いに対し、国際社会が見て見ぬ振りをしていることについての反証にもなっていませんし、藹さんが仰るレバノンに対するイスラエルの行いについて、国際社会が何ら効果的な手を打てないことへの反証にもなっていません。ちなみに、第二次大戦中に「無防備都市宣言」を行ったドイツのドレスデンに対し、イギリスとアメリカが空襲を行い壊滅させましたが、この行為に対し当時の「国際社会」は何らの非難も懲罰も与えておりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%88%86%E6%92%83
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%98%B2%E5%82%99%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%AE%A3%E8%A8%80
>>それは、KWATさまさんが主張されている内容ですよ。
違います。文面をもっとよく読んで理解してからコメントしてくださいませんか。
>>そもそも、反撃した後、どういう結果を想像されているのですか?
>>現状においては、反撃する主体者はアメリカですよね。
>>その反撃後、敵国の最反撃があることは想像できますよね。
>>では、その落し所は?
>>終戦手段は、どうしましょうか。
戦争状態となったら、交戦国は互いに軍事力を使って叩き合います。しかしその一方で、政治家(日本側にはアメリカの政治家も含みます)が外交交渉によって落とし所や終戦手段を探ります。それは軍隊の役目ではありません。現代社会に於いては戦争を始めるのも終わらせるのも政治家です。こちらが一度反撃した後であっても、双方の政治家が戦争を止めればそれで終戦です。繰り返しますが、そのために政治家が外交交渉をするのです。そんな当たり前の常識的な話、まさかご存じないなんてことありませんよね。「外交は交渉による戦争であり、戦争は軍事力による外交である」という言葉もありますよ。ちなみにワタシは「戦争は最低の外交手段である」と思っておりますよ念のため。
>>議論をするなら、ある程度のレヴェルを要求しますよ。
>>それができないなら、議論しようとしないで頂きたいものです。
>>何故、議論ができないような人と議論しなくてはいけないのでしょうか。
>>少なくとも、相手が言っている内容を理解する力は最低限必要だと思います。
そうですね。もっと勉強したほうがいいようですね。お互いにね。
では、お休みなさい。(^^)/
こん**は、KWATです。眠いです。(~O~")ファ-アッ
もうダメです。議論になりません。正直もう件の幼稚園の存続の話なんてどうでもいいです。話すだけ時間の無駄です。藹さんが指摘された、ワタシの議論の進め方に対する批判は、全て受け入れても一向に構いません。それはワタシが考える「この議論の本質」から外れたトコロにありますから。
結局のところ、藹さんの仰る「議論」とは何なのでせう。ご自分がお考えになっていらっしゃる、その言葉の定義を考え直してみたほうがよろしいかと思いますよ。藹さんは「人と話をする」ということがどんなことなのか、まるで判っていらっしゃらないように見受けられます。藹さんの仰るような「議論」には、世間の人は誰一人として付いていけないとすら感じられます。論点を共有することは大切ですが、藹さんはそれにこだわるあまり肝心の「対等な目線に立った言葉のやりとり」をおろそかにしておられる。藹さんはご自分が作った、高い台の上に置いたガラスの温室の中から相手を見下して一方的に話をなさっているようです。議論の相手が人間である、ということを忘れていらっしゃるかのようです。温室から出て地表に降りて、もっと相手と同じ目線で会話してください。論点をずらしているのは他でもない、藹さんご自身です。
>>何故、他者を揶揄するような表現をされるんでしょうか。
すいませんねぇ、ワタシはなんというか、高見に立って相手を見下した物言いをされる方を前にすると、その方をついこき下ろしたくなるんです。
>>正直、こんな作業をすることはあまりしません。それをしなければ、納得していただけないようですから。出血サービスみたいなもんですよ。
そして、こんな慇懃無礼な態度を藹さんが取り続ける限り、ワタシは揶揄するような表現は止めません。
>>正直、お会いしてお話したいぐらいです。
あー、これできたらいいですねぇ。直にお会いしてお話しすれば、たぶん今回のやりとりなんてほんの30分程度で済んでしまいそうな気がします。
>>こういった意識に基づいた議論は、まず議論になりません。
あいにく、世間ではそれも議論のうちですし、それでもちゃんと議論になるんです。
>>KWATさまが目的とされる事象が具現されないのですよ。KWATさまの意識では。
>>それは認識すべきです。
従って、未だかつてワタシはそのようなことを誰からも言われたことがありません。藹さんが初めてです。逆に、藹さんは相手の言わんとすることを承知しているにも関わらず、論点の一貫性など形式論に拘る余り肝心の「相手との対等な言葉のやりとり」がどこかにすっ飛んでしまっているようです。それは認識すべきです。
>>>話を重ねるうちに言いたいことが変わることだってありますし、自分の言ってることを修正することだってあるでせう。それをして「最初に言ってることと違うではないか」と言われればその通りですが、何度も言いますけど人間は合理性だけで動くわけではないのです。
>>
>>私が、こういったことを言いましたか?
>>> 『KWATさまの憲法理解について。すみませんが、やはりお相手することはできません』という部分は、『オマエはバカだから教えてやらない』と仰っているに等しい、ということが、まさかお判りになってない?
>>
>>何故等しいのでしょうか?
藹さんは本当に相手の言葉と真摯に向き合っていますか? 相手が何を言おうとしているのか、相手の言葉に込められた気持ちを汲み取ろうとなさっていますか? 書かれていないことは全く判らないのか、それとも判ろうとしないだけなのでせうか。いずれにせよ、人間の想像力というものを軽視していらっしゃるように思えます。もちろん藹さんはそんなこと、どこにも書かれてませんけどね。
>>これが素人の傲慢ですよ。
藹さんは法律の専門家であるかもしれませんが、こと人と話をする技術に関しては素人以下であるということが、この一行から透けて見えますね。傲慢なのはあなたです。そうやってご自分を高みに置いて相手を切って捨てるということを、議論の最中に平気でできるというのは驚きです。この一文を受けて「素人のどこがいけないですか?」と聞くと、きっと「私はそんなことは書いてません」って返ってくるのでせう。
>>何故、説明しなくてはいけないのですか?私が。
>>私に義務などありませんよ。私が、お金を貰っているなら、当然説明責任はありますがね。
藹さんがご自分の仰りたいことを相手に判って貰いたいと思った時、ご自分が知っていることは相手も当然知っているべきだ、と思っておられるようですね。藹さんとお話する人は全員、法律の専門家レベルの法知識を持てとでも仰りたいのですか? ご自分で書かれているじゃないですか、「勉強していない事柄を理解している人など、なかなかいるもんではありません」って。
そもそもワタシには「オレが判りやすい話し方で話せ」、ご自分は「なんでオレがオマエに判るように話さなきゃならんのだ、オマエがオレのレベルに合わせろ」。そんな態度でいる限り議論なんて成立しません。しかも言うに事欠いて「お金を貰っているなら説明責任はある」ですか。呆れますね。そう仰るなら、藹さんはなぜ書いたって一銭にもならないブログなど書いて、しかもその無償で書いた文章に付いたコメントになぜ返答されるのですか。それは藹さんがご自分でブログに書かれた内容に対して責任を持とうとなさっているからではないのですか? まさか藹さんはそれに対して対価など要求しませんよね。
>>私は、「教育勅語が違憲」であるだなんて、一度も申し上げていません。
>>私は、違憲であると思っております。
わかりました。これで妥協します。つまり『教育勅語は違憲ではない』という解釈でよろしいということですね。法律の専門家からそのような“お墨付き”を戴いたので、今回の議論の発端となった「大阪の某幼稚園で教育勅語を園児に暗唱させている」ことについては、藹さんは「気に入らない」ワタシは「気に入った」という、ただそれだけのこととして、これに関してのワタシからの議論は終わりにさせていただきます。最初に書いたように、その幼稚園の存続の話なんてもうどうでもいいです。なお、これをして「敗北宣言」と受け取っていただいても一向に構いません。もともと勝ち負けなどない議論ですし。
>>ただ、この件に関しては、前述しましたように、まずは憲法について勉強されてから、ご質問ください、ということです。
そのお言葉、次の北朝鮮問題に関することで、そっくりお返しします。「まずは防衛、軍事そして日本の歴史についてきちんと勉強されてから、主張してください」と。こう言われてどう思います? ワタシは大学の講義を聴きに来ているわけではありません。互いに得手不得手があるのですから、議論の最中に互いのやりとりの一環として、互いの出来る範囲で知識を補い合えばそれでいいではないですか。いやいいんですよ、「そんなことをなんでオレがタダでやらなきゃならんのだ」と仰られても。それは藹さんの自由です。ただし、それを主張なさりたい時は、ご自分のブログは有料の会員制にしていただきたいと思いますし、他人のブログには無償でちょっかいを出さないようにしていただきたく思います。
討論/debateしたいんです。
喧嘩/quarrel=不和を望んでいません。
Dr.Drone
こんばんは。藹です。
簡単に、お聞きします。
喧嘩を売っているのですか?
> とにかく目の前にある事柄だけで考えるわけではないんですよ人間は。
そう思いますよ。
> 例えば、藹さんに対して「オマエの家の居間を火の海にしてやる」…略…、藹さんは全く恐怖を感じないと仰るわけですかそうですか。
問題の矮小化の典型例ですね。
そういう指摘は、事の問題を単に矮小化しているだけで、全く論理性などありません。
国家レヴェルと個人レヴェルを同時に述べることの滑稽さは、これ以上申し上げることはありません。
> その意見は防衛というモノをいかに理解していないかを如実に示しています。滑稽であろうがなかろうが、1%でも可能性がある限りそれに備えるのが防衛です。そうでなければ警察は必要ありませんし、SECOMやALSOKは商売上がったりです。藹さんの家ではなぜ玄関に鍵を掛けるのですか? まさか掛けてない?
それは、KWATさまの防衛論に過ぎません。
矛盾について
> 邪心を廃して見えたまま素直に読めば、「「他国から攻撃されて反撃しない国」は、私は知りません」という部分の、…略…しかし藹さんの思いとは別に、日本が「国」であることは明らかです。よって「矛盾している」と書いたのです。
論点を理解されていないようですね。
KWATさまは
> アメリカはそういう対応をする国ですが、その対応も短絡的だと思われます> ・・・よねきっと
というコメントに対して、私は短絡的だとは思いません、という理由を提示したのです。
ただ、私の考えは、こうであると表現しただけです。
つまり、反撃することは、世界的には当然の行為と評価されるわけで、その行為自体を短絡的だと私は評価できない、と申し上げているのです。
ただ、私は、反撃すべきでないという考えである、と申し上げたのです。
論点を理解してください。
> ただお願いですから、そのお考えを周囲に広めようとかしないで下さいね。迷惑ですから。
ファシズムそのものですね。
> これまで散々合理的で論理構成のきちんとした議論をワタシに求めてきた藹さんなのに、ここだけはなぜそんなにまで合理的でもなく論理構成もまったくなってない、ご自身の「確信」だけに頼った言い方になってしまうのでせう。
議論の内容が違いますよ。
> 「私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから」と仰る同じ方が、なぜ「抽象的な事実からの帰結」を根拠に据えられるのでせう。
「国際社会」という抽象的な事実・存在という意味です。
敢えて抽象的、という表現をさせて頂いたまでです。
保守派の方々は、その事実を具体的事実を評価していますので、敢えてそれを抽象的と申し上げたのです。こんなことまで説明しなくてはいけないとは、少々驚きです。
国際政治の理解は大変難しいですがね。その理解をすることの努力を願います。
私がそれができている、という意味ではありませんよ。
> ワタシは首を捻るばかりです。『攻撃されても反撃しなければ、必要以上の攻撃はなされない』という、具体的な例はございますか?
反撃すれば、戦闘状態が継続するという事実が、反証になると思いますよ。
現在のイスラエル・レバノンの状況がそれを証明しています。
白旗を揚げれば、攻撃されないことの蓋然性は高まりますよね。
無防備の相手に攻撃を継続する事実を、国際社会がどのように評価するでしょうか。
> そもそも『必要な攻撃』は誰が判断することですか?
それは、KWATさまさんが主張されている内容ですよ。
そもそも、反撃した後、どういう結果を想像されているのですか?
現状においては、反撃する主体者はアメリカですよね。
その反撃後、敵国の最反撃があることは想像できますよね。
では、その落し所は?
終戦手段は、どうしましょうか。
> その可能性に言及しておけば、それが現実になっても「あらかじめ言っておきましたので」と言い逃れできます。つまり議論の最中にその可能性に言及することを、世間では「逃げを打つ」と表現するのです。
そう思われるなら、仕方がありません。
> どうも藹さんは文章の書き手にそのような論文を書くようなスキルを求めていらっしゃるように感じられます。違いますか?
議論をするなら、ある程度のレヴェルを要求しますよ。
それができないなら、議論しようとしないで頂きたいものです。
何故、議論ができないような人と議論しなくてはいけないのでしょうか。
少なくとも、相手が言っている内容を理解する力は最低限必要だと思います。
こんばんは。藹です。
ちょっと残念なお返事ですね。
私が申し上げている内容を全くと言って良いほど、曲解され、誤読されているように思えます。
何故私が論点の確認をお願いしたかを全くご理解頂けていません。
このような議論において重要なものは、論点を共有することです。
論点が散漫になっている事に鑑みても、あまりにも悲しい情況です。
また、やはり揶揄的表現が散見されますね。
何故、他者を揶揄するような表現をされるんでしょうか。
正直、お会いしてお話したいぐらいです。文章でなく、会話なら、それほど時間は掛かりませんからね。
では、これまでの議論について、再確認させて頂きます。
正直、こんな作業をすることはあまりしません。それをしなければ、納得していただけないようですから。出血サービスみたいなもんですよ。
■KWATさま
> 大多数の保護者はこの幼稚園の教育方針を知ったうえで我が子を預けているはずです。
その教育方針が気に入らなければ他の幼稚園を選べばいいだけのことです
> もし万が一不満に思う保護者がいたとしても、その人物は新聞社とか国とかに文句を言う前にまず園に対して苦情を言うはずです。
このご意見に対して私は、
1 待機児童の問題
2 文句が言えない状況もある
ことを指摘致しました。
■KWATさま
> 保護者にも口語の訳文に「今こそ教育勅語の精神が必要」という園長の所感を添えて配布したという。』ともあります。これは「何故、勅語を暗唱させる必要性があるかの当該園長からの具体的説明」に当たると考えますが、如何でせう?
私は、必要性だけの論拠でもって、ある行為を正当化することはできないことを申し上げました。
■KWATさま
> しかし現実問題として、この幼稚園に対してそのような動きをされた方のことは寡聞にして知りません。また、私立の幼稚園は園児が来なくなれば潰れてしまいますが、この幼稚園が今もって存続しているということを考えれば、この幼稚園の教育方針は理解されていると考える方が自然なのではないでせうか。
「自然ではない」と私は理由をもって指摘させて頂きました。
KWAT様のご主張に基づいて、論点整理すると(特に私が「合理性」を求めた内容)、当該園長の教育方針について、保護者がどのような理解であるかの問題だと理解しております。
KWATさまの論調は常に、「そう考えることが合理的である」という認定をされているのです。
蓋然性のレヴェルでないのです。
だから、私はその認定に対して、その認定の根拠が薄い、と申し上げているのです。
その認定は、「合理的でない」「失当である」と指摘しているのです。
KWATさまが「合理的」という言葉を使用されていないだけで、「自然である」という表現は、「合理的」と評価されていること同様なのです。
私が、「合理的(性)」という言葉を濫発することへの疑問を呈されていますが、その疑問自体が意味が解りません。
KWATさまが私のコメントを引用されているため、「合理性」の意味はご理解されていると思いますが…。
重ねて申し上げます。KWATさまのご意見が「合理的でない」「合理性に欠ける」と私が申し上げるのは、要するに、「根拠が無い」、「根拠が希薄」、「理由になっていない」という意味です。
その理由は、各論で提示させて頂いております。
また、「蓋然性のレヴェル」云々についてですが、私はKWATさまの主張に対しては、すべて根拠を示しております。
私の申し上げている「蓋然性のレヴェル」の意味をご理解頂けていないのでしょうか。
敢えて重ねて説明させて頂きますね。
KWATさまは、ある事実認定をされるようなご意見をされました。
それに対して、私は「このような蓋然性がありますよ。」と指摘させて頂きました。
蓋然性について言及していますので、それが事実であるかは、また別論です。
「KWATさまが、そのように評価される蓋然性は是認できますが、その事実をもって認定することはできませんよ。」と申し上げているのです。
したがって、私が「納得しがたい」という私個人の主観で申し上げていることは事実ですが、そういった考え方もできるのだから、KWATさまが認定されるような事実が真実でない蓋然性は否定できない、と申し上げているのです。
KWATさまは、あくまで認定作業をされているかのような表現。
繰り返しますよ。私は、その認定作業は、こういった蓋然性が考えられるんだから、事実認定できるほどの説得力がないですよと申し上げているのです。
KWATさまが私に対して仰りたいことを、私が理解しているか否か、という問いに対しては、私はよく判りません。
判りやすいご主張は、今回のマスコミの報道内容の問題点のみです。
それ以外は、KWATさまの言わんとする内容や趣旨が判りません。
> ワタシにとって大事なのは、自分が話をしている相手に、自分が言いたいことが伝わるかどうかであって、言い方が合理的か否かとか、論点がずれているかどうかとか、そんなことはどっちだっていいんです。
こういった意識に基づいた議論は、まず議論になりません。
よく理解できます。このような事態になった理由が。
KWATさまのこの意識が、こういったナンセンスな議論になってしまった理由であると、敢えて指摘致します。
「自分の言いたいことを相手に伝えるため」に必要な作業は、可能な限り論点を明確にし、論点を絞ることが重要です。そして、自分の主張する結論が、どれだけ合理性(根拠があるもの、説得力があるもの)のあるものにするかの努力を払わなければなりません。
それを拒否されるなら、議論などできません。
悲しい現実ですが、KWATさまのような方が多く過ぎるんですよ。
日本人は概して「議論下手」と評価されますが、今回の議論では、それを如実に表す事実であると思います。
KWATさまが目的とされる事象が具現されないのですよ。KWATさまの意識では。
それは認識すべきです。
>話を重ねるうちに言いたいことが変わることだってありますし、自分の言ってることを修正することだってあるでせう。それをして「最初に言ってることと違うではないか」と言われればその通りですが、何度も言いますけど人間は合理性だけで動くわけではないのです。
私が、こういったことを言いましたか?
修正したなら、修正の事実を告げるのが、当然の作業ですよ。
また、「合理性だけで動くわけではない」とは、どういういみですか?
私が申し上げている、「合理性」の意味を、まだご理解頂けていないのではないかと思ってしまいます。
広辞苑
【合理性】
1 道理にかなっていること。論理の法則にかなっていること。
2 行為が無駄なく能率的に行われること。
私が使用している「合理性」の意味は、「1」の意味です。
> 『KWATさまの憲法理解について。すみませんが、やはりお相手することはできません』という部分は、『オマエはバカだから教えてやらない』と仰っているに等しい、ということが、まさかお判りになってない?
何故等しいのでしょうか?
勉強していない事柄を理解している人など、なかなかいるもんではありません。
KWATさまは、「憲法の勉強を十分されていない」という私の理解ですが、「バカ」であるだなんて思っていません。
というか、憲法を理解していない事実が、その理解していない人物を「バカ」と評価する根拠になどなりえませんよね。
つまり、そういう評価をする「合理性がない」ということです。
確かに、KWATさまの読解力については、かなり疑問がありますよ。
> だとすれば、あなたは残念なことに人間の感情というものについて全く判っておられない。専門家であれば、理解の足りない相手に理解させることも時には必要なのではないですか?
これが素人の傲慢ですよ。
何故、説明しなくてはいけないのですか?私が。
私に義務などありませんよ。私が、お金を貰っているなら、当然説明責任はありますがね。
人に説明を請う前に、ご自身が最低限度の憲法の勉強・理解をしてください。
>>この議論の論点とは?
>『教育勅語は違憲なのですか?』
申し訳ありませんが、この問自体が、KWATさまの読解力の欠如を表しています。
私は、「教育勅語が違憲」であるだなんて、一度も申し上げていません。
私の言っている意味を認識することもできないほどの、憲法理解である、ということです。
確かに、私が指摘させて頂いた「違憲の可能性」について言えば、可能性であって、意見を断定するだけの根拠提示をしていませんし、事実をして違憲と認定されているものでもありません。
私が申し上げているのは、
「教育勅語を幼稚園児に暗唱させている事実は、違憲の可能性がある」ということです。
私は、違憲であると思っております。
現憲法を否定する教育をすることは、できるかぎり避けなければいけないという考えです。
私立幼稚園という事実によって、違憲を断定することは困難ではあります。
ただ、私立であろうが、公立であろうが、必要性もなければ、妥当性もない、という私の主張です。
> いろんなことについて議論してきましたので、…略…ワタシにとってはこれだけが肝心です。これさえ確認できればあとはどうでもいいです。…略…もしかして、藹さんにとって触れられたくない話題なのかもしれませんが。もし「論点がずれていましたのでもうお話できません」と仰られるのならそれでも結構です。ワタシは藹さんを「法律の専門家なのに教育勅語が違憲かどうかさえ判らなかった人物」と評価するだけですから。
「論点ズレ」という評価はしれませんよ。
この件に関しては、KWATさまの疑問であることは理解していましたから。
ただ、この件に関しては、前述しましたように、まずは憲法について勉強されてから、ご質問ください、ということです。
ある程度、ご質問に本日は答えていると思いますが、具体的に説明するつもりはないです。
それは、前述した理由です。
◆北朝鮮問題
>>抽象的な事実でなく、具体的な事実を例に挙げて、評価している
なるほどわかりました。つまり藹さんは「想像する」とか「推理する」とか「抽象的な事実からの帰結」とか、そのような思考はこの際余分であると。
>>まるで現実的な危険性があるような指摘をしているのですが、その危険性は現実的危険性ではく、抽象的な危険性に基づいたものである、という意味です。
人間であれば目の前の状況に加えて、そのことに関して自分が見聞きした様々な事柄とを考え合わせて、あるひとつの考えを持つことができます。それを「連想」とか「推理」とか「推測」とか「想像」とか、まぁいろんな言葉がありますが、とにかく目の前にある事柄だけで考えるわけではないんですよ人間は。
例えば、藹さんに対して「オマエの家の居間を火の海にしてやる」などと日頃散々敵対的なことを言い、藹さんの家の庭に汚物を投げ入れたりペットの犬を勝手に盗んでいったりする、道を隔てたお向かいの家の主人がいるとします。その主人、以前藹さんの家の屋根を越えてライフル銃を撃った時、「物騒だからやめてくれ」と藹さんが申し入れたのに対し「わかりました、やめませう」と約束してくれました。にも関わらず、再び藹さんの目の前で今度は道路に向かってライフル銃を7発撃ったとした時、藹さんは全く恐怖を感じないと仰るわけですかそうですか。
>>1%とでもあれば、その蓋然性があるという事実で持って、現実の危険性があると主張していることは、大変滑稽であると私は感じています。
その意見は防衛というモノをいかに理解していないかを如実に示しています。滑稽であろうがなかろうが、1%でも可能性がある限りそれに備えるのが防衛です。そうでなければ警察は必要ありませんし、SECOMやALSOKは商売上がったりです。藹さんの家ではなぜ玄関に鍵を掛けるのですか? まさか掛けてない?
>>「論点ズレした反論」の主体は、北朝鮮だと申し上げています。
あ、そうでしたか。それは失礼しました。『相手に論点ズレの反論をされる』の部分の、「論点ズレ」が「日本」にかかるのかと思ってしまいましたもので。お詫びして訂正いたします。
>>何故、矛盾しているのでしょうか。
邪心を廃して見えたまま素直に読めば、「「他国から攻撃されて反撃しない国」は、私は知りません」という部分の、後段に書かれた「国」には、当然日本国も入るわけです。なぜなら日本国は地球上に数多存在する「国」のひとつですから。ここは疑いの余地はありませんよね。ところが、そのすぐ後で「私は日本が攻撃された場合、「日本は反撃すべきでない」という考え」と書かれてます。『反撃しない国を知らない』と『日本は反撃すべきでない』・・・日本は「国」ではない、という前提がないと、このような書き方は成り立ちません。しかし藹さんの思いとは別に、日本が「国」であることは明らかです。よって「矛盾している」と書いたのです。
>>私は、反撃すればするほど、被害が増える、とこれまでの歴史上の反省にたっての理解であると思っています。
はぁ、なんか力が抜けました。いわゆる「無防備都市宣言」とかいう馬鹿げたものを目指すお花畑に生きる方々と同じお考えでしたか。藹さんはやはり、防衛というモノを全く判っていらっしゃらない。「国を守る」ということがどういうことか、全く理解していらっしゃらない。ご自分がご家族と一緒にいる時、チンピラに因縁を付けられ殴りかかられたら、藹さんは「自分と家族を守るために」なんの反撃もしない、と仰るわけですね。この場合誰を殴るか、あるいは殴るか殺すかの選択権はチンピラにありますよ? だからご自分が殴られているとき、家族も殴られているかもしれない。もっと酷い目に遭っているかもしれない。でも反撃はしない、と。この例え話で、「ご自分」を「日本国」に、「家族」を「国民」に、「チンピラ」を「北朝鮮(中国でも可)」に置き換えてみて下さい。それでも藹さんはそんな日本政府を支持できますか? まぁいいですよ、藹さんがそういう信念でいらっしゃることを止めはしません。ただお願いですから、そのお考えを周囲に広めようとかしないで下さいね。迷惑ですから。
>>攻撃されても反撃しなければ、必要以上の攻撃はなされないと確信しています。
>>それが現代国際情勢であり、国際社会という抽象的な事実からの帰結です。
相手の情状酌量に頼ることの、どこが「合理的」なんでせう。戦後、韓国が勝手に引いた『李承晩ライン』を巡り、無抵抗の日本の漁民に対して韓国がどういう行為に出たか、ご存じありませんか。あるいは中華人民共和国がチベットを現在どう扱っているか、ご存じありませんか。
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm#risyouban
http://www.tibet.to/mondai/mondai2.htm
http://www.tibethouse.jp/home.html
これまで散々合理的で論理構成のきちんとした議論をワタシに求めてきた藹さんなのに、ここだけはなぜそんなにまで合理的でもなく論理構成もまったくなってない、ご自身の「確信」だけに頼った言い方になってしまうのでせう。「私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから」と仰る同じ方が、なぜ「抽象的な事実からの帰結」を根拠に据えられるのでせう。ワタシは首を捻るばかりです。『攻撃されても反撃しなければ、必要以上の攻撃はなされない』という、具体的な例はございますか? そもそも『必要な攻撃』は誰が判断することですか? 攻撃する側なのではないのですか? 先に上げた例で言えばチンピラの側ですよ? 納得のいく説明がなされることを期待します。ちなみに逆の例なら、上に上げたURLの他にも歴史を辿れば山ほど出てきます。
>>反撃すれば、守れるなら反撃しますがね。過去の教訓から導き出した手段です。
そのための自衛力であり、日米安保条約です。もっとも、日本が他国から攻撃を受けた場合、アメリカが「日本を守るため」という理由だけで動いてくれるか、甚だ怪しいとも思っていますが。なのでなおさら、日本が自国を自分たちの手で守れるようにしなければならないと思っておりますし、それが日本の国際社会に於ける地位の向上に不可欠であるとも思っています。
>>重ねて申し上げますが、その可能性を言及させて頂いただけです。
その可能性に言及しておけば、それが現実になっても「あらかじめ言っておきましたので」と言い逃れできます。つまり議論の最中にその可能性に言及することを、世間では「逃げを打つ」と表現するのです。
>>KWATさまの文章力を評価したことはありません。私が評価いたしましたので、論理構成についてです。
少なくとも、研究論文を書く上では「論理構成」がきちんとしていないと「文章力が低い」とされます。ワタシはここで研究論文を書いていたつもりはないのですが、どうも藹さんは文章の書き手にそのような論文を書くようなスキルを求めていらっしゃるように感じられます。違いますか?
>>この議論の論点とは?
『教育勅語は違憲なのですか?』
いろんなことについて議論してきましたので、論点はたくさんありますが、敢えて言わせていただければ、ワタシにとってはこれだけが肝心です。これさえ確認できればあとはどうでもいいです。藹さんが法律の専門家だと知ったので、このことがハッキリするんだなぁ、とワクワクしていたのですが、さっぱり答えて下さいませんでしたよね。もしかして、藹さんにとって触れられたくない話題なのかもしれませんが。もし「論点がずれていましたのでもうお話できません」と仰られるのならそれでも結構です。ワタシは藹さんを「法律の専門家なのに教育勅語が違憲かどうかさえ判らなかった人物」と評価するだけですから。
ではよろしくお願いします。今後もより深い議論が続くことを願って止みません。
こん**は、KWATです。う~ん、どうにもこうにも、ワタシも限界を感じてきましたよ。
◆教育勅語
>>私が「合理性」と申し上げている意味は、「論理」に適う主張であるか、という意味です。
>>「価値」云々という評価や意味を持ってくるような意味ではありません。
>>論理的に説得力があるかどうかの問題です。
藹さんは頻繁に「合理的(合理性)」という言葉を出されますよね。それはなぜですか? その言葉に価値を見いだしているからではないのですか? そうではないのであればなぜ、二言目には「合理性がない」などと書かれるのですか? バカなワタシにも理解できるよう、平易な日本語で「論理」に適うご説明をぜひお聞かせ下さい。
また、藹さんは何度も「蓋然性のレベルの問題」と仰ってますが、この問題に関すしてそのレベルを判断する客観的基準、言い換えれば合理的な基準はどこにあるのでせう。藹さんの頭の中にしかないのではないですか? そのレベルの違いをワタシに納得させることができますか? 例えばこの部分。
>>確かに、「不満を声に上げて行動を起こしていない」という事実が、当該教育を許容している、と推認することは可能です。
>>ただ、それを推認する説得力は希薄であると申し上げているのです。
>>蓋然性のレヴェルの問題です。
それは単に藹さんが「納得しがたい」と感じていらっしゃることを、「説得力が希薄」「蓋然性のレヴェルの問題」と言い換えているだけなのではないですか? 少なくともワタシにはそのようにしか感じられません。ワタシは前に「双方の蓋然性は等しくあるはず」と書きましたが、これに対し藹さんは「双方の蓋然性にはレヴェルの違いがある」と仰るわけですよね。ではその合理的な、すなわち「論理」に適う理由をぜひお聞かせ願います。
>>また「園が存続している」事実から、当該教育が許容されていることの事実を推認する根拠が乏しいと申し上げているのです。
保護者全員にアンケートでもとって、「許容してます」という意見が多数を占める、とかいう状況にならない限り、藹さんは納得しそうもありませんね。ワタシは最初から、「中の人の思いはどうあれ、園が存続してるのなら許容されてるんでねーの?」という、外野から眺めたごく一般的な感想を言ってるだけなんですけどね。
藹さん、あなたが結局何を目的にこの議論に付き合って下さったのか、ワタシにはさっぱり理解できません。あなたにとって価値があるかどうかよくわからない、「合理的ではない(合理性がない)」という言葉、ご自分の意見を補強する時にだけ持ち出す「蓋然性」という言葉、また同じく頻繁に用いられる「論点がずれている」という言葉、はっきり言いましてワタシにとってそんな言葉など些細なことです。藹さんはワタシが言わんとすることを判っておられますよね? そうでないとここまで長々と議論してきたことは全て架空のことになってしまいますもんね。ワタシにとって大事なのは、自分が話をしている相手に、自分が言いたいことが伝わるかどうかであって、言い方が合理的か否かとか、論点がずれているかどうかとか、そんなことはどっちだっていいんです。話を重ねるうちに言いたいことが変わることだってありますし、自分の言ってることを修正することだってあるでせう。それをして「最初に言ってることと違うではないか」と言われればその通りですが、何度も言いますけど人間は合理性だけで動くわけではないのです。
ではもういいです。藹さんにとってワタシの言ってることに一貫性がないと思われたのであれば、それは藹さんにとっての事実です。ただ、藹さんはワタシが最初から一貫して提示している疑問に全く答えて下さっていません。『KWATさまの憲法理解について。すみませんが、やはりお相手することはできません』という部分は、『オマエはバカだから教えてやらない』と仰っているに等しい、ということが、まさかお判りになってない? だとすれば、あなたは残念なことに人間の感情というものについて全く判っておられない。専門家であれば、理解の足りない相手に理解させることも時には必要なのではないですか? 別に憲法論議なんていりません。ご自分が専門家であることに誇りをお持ちであるのなら、最低限この疑問にだけはお答え下さい。yes か no で答えられる、専門家にとっては簡単な問題ですよね。
『教育勅語は違憲なのですか?』
ファーストネームに「様」を付けるの好みじゃありませんので、「さん」にします。もしDr.Drone宛にコメント頂けるなら「さん」でお願いします。
いい加減な僕のコメントに真面目なご返事有り難うございます。
1.「風潮」のこと、おっしゃる通りです。ろくに努力しない生徒が理解できる程度の内容をカリキュラムとし、強制/詰込をしない。3桁の数値は覚えにくいから、円周率=3とする、というような考え方に反対すると云うことです。
2.「古典」といえば、読むことに反対する方は少ないと思います。これが「教育勅語」となると重箱のすみをつついて反対する人が多くなるのは何故でしょう。
しかし、それを気にして明治神宮のように原典を改竄するに等しいような行為は許せません。
第2次世界大戦中、文部省は宮沢賢治の「雨にも負けず」の中に「いちにちに げんまい よんごうと みそと すこしの やさいを たべ」とあるのを「玄米三合」に改竄した例があります。当時米は配給制であり、配給の基準量は一人一日三合でした。
3.国民学校(終戦時小学校はありません)で教育勅語の意味を教えられなかったとは驚きです。修身なる授業で学年ごとに反復解説されていたはずです。
小学校/国民学校上級生になると暗誦しました。理解の程度はともかく、意味解らずに暗誦することは困難です。
暗誦する雰囲気は、校長先生が奉安殿から取り出した教育勅語を読むときのような緊張感はありません、クラスごとに和やかに暗誦しました。
4.「きらい」について、失礼ですが、藹さん、失恋の経験ございますか。好き嫌いを理屈/理論付けして結論をだして納得したこと、あるいは、相手に理解してもらったことがございますか。
信仰している宗教と違う宗教団体から勧誘を受けたとき、僕の返事は、「申し訳ないけど、あなたの宗教はきらいです」の一言です。好き嫌いに理屈は通りませんので、議論・喧嘩なしにお断りできます。
「日本共産党」は嫌いです。国名は「にっぽん」が好きです。
以上、インゴジジイの戯言です。
この論点を確認されるべきだと思いますよ。
それを確認された上でお返事ください。
論点がズレながらの議論は、避けたいので、論点がずれていないことを表明していただければ、私は誠実に対応させて頂きます。
夜泣きをするのではなく、はしゃぐんですよね。
とにかく、一様に遊んで寝かしつけようとしたのですが…。
彼は元気です。
>>私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから。
> あの、すいません平易な日本語で表現してくださいませんか。「摘示する」なんて辞書引かないと意味わかりません。で、「足を引っ張る」云々の行とこの行との繋がりもよくわからないです。
抽象的な事実でなく、具体的な事実を例に挙げて、評価している、という意味です。
> 「現実という言葉の幻想」とはどのような意味でせうか。具体的に解説をお願いします。
現実の危険性を指摘している呈をなしているのですが、実は現実的な指摘ではなく、単なる主観的かつ抽象的な感想が根拠の指摘であるということです。
まるで現実的な危険性があるような指摘をしているのですが、その危険性は現実的危険性ではく、抽象的な危険性に基づいたものである、という意味です。
富士山が活火山であるという事実に基づいて、富士山が近々噴火すると予想することと同様ですかね。
活火山という事実は否定しようが無いのですが、現実問題として、噴火するような状況に無いのに、噴火するといっている状況が「現実という幻想」を意味しています。
簡単に言えば、それこそ蓋然性のレヴェルの問題です。
1%とでもあれば、その蓋然性があるという事実で持って、現実の危険性があると主張していることは、大変滑稽であると私は感じています。
>>先制攻撃論など、呆れ返るばかりで、このような時に表現すれば、相手に論点ズレの反論をされる機会を与えるだけです。
> 論点はズレてませんよ。
???
「論点ズレした反論」の主体は、北朝鮮だと申し上げています。
勘違いをされていると思いますが、如何でしょう。
私の、
「他国から攻撃されて反撃しない国」は、私は知りません。その行為を短絡的だなんて評価することは、かなり難しいと思います。
ただ、私は日本が攻撃された場合、「日本は反撃すべきでない」という考えですけどね。
という考えが矛盾している、というご指摘ですが。
何故、矛盾しているのでしょうか。
私は、反撃すればするほど、被害が増える、とこれまでの歴史上の反省にたっての理解であると思っています。
攻撃されても反撃しなければ、必要以上の攻撃はなされないと確信しています。
それが現代国際情勢であり、国際社会という抽象的な事実からの帰結です。
自分と家族を守るために、反撃はすべきで無いと思っています。
反撃すれば、守れるなら反撃しますがね。過去の教訓から導き出した手段です。
> 自分が信じるもののために、時には風車に突撃することだってあります。
事柄によりますよね。
その行為によって生じる事柄のレヴェルは、それぞれ違いますから。
それは、簡単に申し上げれば、判断基準のセンスであると思います。
> ただ、ご自分がどんな状況であれ、自分に対してそのような一種の「逃げ」を打つお方が、
「逃げ」ではありません。
重ねて申し上げますが、その可能性を言及させて頂いただけです。
自分の言動について、私は責任を持ちますし、飲酒していたことを責任を阻却するつもりは毛頭ありません。
> 「文章力が低い」と自覚している相手に「あなたは文章力が低い」と言われたわけですから。
大変申し訳ありませんが、そして大変失礼であると思いますが、このご主張がKWATさまの議論の限界を表しているものだと思います。
「文章力が低い」事実が、「論理構成がまずい」事の根拠になりえません。
私は一度も、KWATさまの文章力を評価したことはありません。私が評価いたしましたので、論理構成についてです。根拠の提示が希薄であると申し上げているのです。
ホント暑いですねぇ。
すみません、今晩は飲酒しています。
F-1GPを観戦しながら、楽しく飲酒しておりました。
シューマッハーが優勝して機嫌よく、すうたまちゃんを確認したら、お返事が。
明日にレスしようかなぁ、と思いましたが、簡単にレスさせてもらいます。
さて、ここで確認させて頂きたい事があります。
「合理性」という言葉の定義についてです。
どうも、「合理性」という言葉の意味が、私とKWATさんとの乖離というか共有ができていないような感想を抱きました。
その理由は、
> ただ「合理性がない」意見には価値がないか、と聞かれれば「世の中は合理性だけで動くわけではない」と答えます。
というKWATさまのご意見で感じました。
私が「合理性」と申し上げている意味は、「論理」に適う主張であるか、という意味です。
「価値」云々という評価や意味を持ってくるような意味ではありません。
論理的に説得力があるかどうかの問題です。
「感情」という主観の領域で申し上げていません。
あくまで、「園の存続」「反論が無い」という事実でもって、当該教育が認められていると推認・認定することは、「根拠が薄いですよ」と申し上げているのです。
> 報道に接しただけのワタシからは『この状況を親御さんたちが容認・許容している』ように見えるのだ、ということが言いたかったわけです。
このような表現なら、私は理解します。
でも、KWATさまは、
『その教育方針が気に入らなければ他の幼稚園を選べばいいだけのことです。だから園側の言い分にある通り不満の声など上がるはずもありません。もし万が一不満に思う保護者がいたとしても、その人物は新聞社とか国とかに文句を言う前にまず園に対して苦情を言うはずです。』
『この幼稚園が今もって存続しているということを考えれば、この幼稚園の教育方針は理解されていると考える方が自然なのではないでせうか。』
と、主張されたのです。
論点はこの部分です。
「容認・許容しているように見える」という表現ではありません。
KWATさまは、蓋然性について主張されていないのです。
「はずです」「しぜんではないでせうか」という言葉からも、それが判ります。
さらに、
『でも報道によれば現実には声は上がっていないのですよね。
つまり「不満の声を上げて行動を起こした親御さんは“まだ”いない。従って、不満を持つ親御さんたちにとって“まだ”容認できる、許容できる範囲なのではないのか。だから園は存続している」。そう考え推察することのどこが「合理性がない」のでせう。』
と仰る。
確かに、「不満を声に上げて行動を起こしていない」という事実が、当該教育を許容している、と推認することは可能です。
ただ、それを推認する説得力は希薄であると申し上げているのです。
蓋然性のレヴェルの問題です。
また「園が存続している」事実から、当該教育が許容されていることの事実を推認する根拠が乏しいと申し上げているのです。
許容されていない場合でも、廃園される過程にあるのなら、園は存続しているわけで、やはり存続の事実が許容されていると推認することは、合理性が無いと言わざるを得ません。
つまり、このままなら廃園されることは確実である状況であっても、事実として存続している状況にある場合では、どういう評価ができるのか?ということを指摘させて頂いているのです。
事実として、当該幼稚園が、教育勅語を暗唱させ始めたのは、昨年の10月であると報道されています。
存続している云々を根拠にするようなケースでないことは、事実として認定できませんよね。
だって、廃園するような時間的スパンがありませんから。
蓋然性を超えて、事実を否定できない状況です。
ただ、この事実が親御さんたちが当該教育を否定していると推認することはできないですよ。
> ワタシが既存マスコミに不満な点はまさにここで、今回の議論の元になった報道にしても「知らなかった」という親御さんの声は採り上げても「知っていた」という声は採り上げません。
このご意見に関しては、全面的に賛同致します。
■違憲に関することについて
申し訳ありませんが、この度のKWATさまのレスを確認させていただきまして、さらにこれ以上言及することはありません。
このご意見を伺って確信いたしました。
KWATさまの憲法理解について。
すみませんが、やはりお相手することはできません。
>>一つだけ申し上げますが、法律や政令などは、あくまで憲法に従って立法化・条文化されます。
> その程度のことは学校でも教わる国民としての常識ですから、もちろん承知しております。
申し訳ありませんが、承知・理解されていないと思います。
因みに、私にKWATさまに憲法論議をする必要性も無ければ、義務もありません。
これについては、ご了承ください。
> 先に書いたように「問題視している人がいる」反面「問題視していない人」もいるわけで、「問題視している人」ばかりを考慮するのも公平さに欠けると思います。
私が、問題視している人がいることだけを考慮せよだなんて申し上げていませんよね。
>>手段の違いだと私は理解しています。
>>マスコミのどういった主張や記事について言及されているのかが、具体的によく判りませんので…。
あまりにも例が多いのでいちいちここでは挙げませんが、朝日新聞の論調、TBS「ニュース23」やTV朝日「報道ステーション」の報道姿勢、あるいはNHKのニュースやドキュメンタリー番組、視聴者参加番組に散見される首を捻るような内容など、枚挙に暇がありません。またそれを検証する書籍、サイトあるいはブログは山ほどあります。中にはヒステリックに「サヨクの陰謀だ!」と喚くばかりのバカ(いわゆる“嫌韓厨”みたいなの)もいますが、頷ける分析をされているものもありますので、ご用とお急ぎでなかったらご自分でお探しになってご覧になってみるのも一興かと。
>>「足を引っ張るばかり」の野党がいても、私には問題があるとは思いません。
与党の足を引っ張ることで何か価値のあることが生み出されるのであれば、ワタシもそれを否定はしません。でもそんなことをやってる場合ではない、ということだってあるでせう。「小田原評定」という言葉はご存じですよね。早急に結論を出して行動に移さなければならない、という状況は国にだってあります。そういう時は内輪もめをしている場合ではありません。こと状況が国の存続に関わるような時は、「自分たちの行動は国にとって利益があることか」を常に考えた行動をとることは野党にだって必要です。
>>私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから。
あの、すいません平易な日本語で表現してくださいませんか。「摘示する」なんて辞書引かないと意味わかりません。で、「足を引っ張る」云々の行とこの行との繋がりもよくわからないです。
>>まあ、問題がある政党があっても、それはそれで国民が許容しているんですから、その存在自体を云々するつもりはありません。
ワタシもその存在自体はあっていいと思いますよ。オール与党なんて気味が悪いです。ただ、全ての政党と国会議員には「日本国民と日本国のために」という姿勢を忘れないでいただきたいのです。余所の国のために働くようなことはしないでいただきたいのです。なにしろワタシたち有権者は、国会議員を選ぶことはできても罷免することができないのですから。「私はこの国を壊すために国会議員になったんや」などと放言する超弩級のバカ議員をワタシたちが払う税金で養わなければならないのは、はらわたが煮えくりかえる思いです。
>>北朝鮮の現状に鑑みると、一部自民党議員の発言は、現実という言葉の幻想に基づいたものです。
「現実という言葉の幻想」とはどのような意味でせうか。具体的に解説をお願いします。
>>先制攻撃論など、呆れ返るばかりで、このような時に表現すれば、相手に論点ズレの反論をされる機会を与えるだけです。
論点はズレてませんよ。一度発射されたら追い返すこともできず、また空中からはもちろんのこと地上からの迎撃も困難である、ミサイルという兵器の特徴を考えればそういう方法を取る必要があるかもしれない、と考えるのは至極当然です。もっとも現実問題として、今の日本の防衛力では不可能なんですが。
>>時期総理候補の面々ですが、タヨリナイなぁ。
安倍氏がちょいと頼りないのは同感です。もっと頼りがいのあるブレーンで周囲を固めた方がいいような気がします。でもワタシ的には他に適任者は麻生氏くらいしかいません。てゆーか、むしろ麻生氏のほうがいいとすら思えます。ただ麻生氏は河野グループにいるので、もし首相になった時にその後の自民党内の力関係を考慮するとやはりマズイ、となってしまい、結局は安倍氏となってしまうのです。ちなみに福田氏はまったく評価に値しません。谷垣氏? 河野太郎氏? いましたっけ?(^◇^;)
>>「他国から攻撃されて反撃しない国」は、私は知りません。その行為を短絡的だなんて評価することは、かなり難しいと思います。
これと、
>>ただ、私は日本が攻撃された場合、「日本は反撃すべきでない」という考えですけどね。
これって矛盾してませんか? 日本だけは、ご自身が知らないと仰る「他国から攻撃されて反撃しない国」であるべし、と? これについての合理的な説明をぜひお願いします。ワタシは座して死を待つのはゴメンなので、どんどん反撃してもらいたいですし、自分にできることがあればなんでもやるつもりです。自分と自分の家族を守るために。
>>しかし、論理構成の脆弱さを否定できません。簡単に申し上げると、論拠が希薄であるということです。先の記しました理由で。
確かに根拠薄弱かもしれません。素人が専門家相手に議論しているのですから、そう思われるのは当たり前でせうね。でも推論に推論を重ねることは現実の議論ではごく普通に行われることでせう。なぜならひとりの人間が直接見聞きできることは限られているからです。発言内容すべてが合理的であるべきなのは確かですが、それは理想に過ぎないわけで、現実には合理的か否かだけで判断できない発言だってあると思います。自分が信じるもののために、時には風車に突撃することだってあります。
>>意味不明の内容がある可能性を予め言及させて頂いただけです。
いや、それは誰のどんな文章にだってあることでせう。それを言い出したらいわゆるトンデモ本なんて立つ瀬がありませんよ(笑)。ワタシだって自分の書いたモノはアップするまでにあーでもない、こーでもないと推敲してますが(1時間くらい掛けていろいろ調べて書いた段落をスッパリ削ったことも)、それでも「論拠が希薄である」なんて言われてしまうんですから。ただ、ご自分がどんな状況であれ、自分に対してそのような一種の「逃げ」を打つお方が、議論の相手の書くことを「論理構成の脆弱さを否定できません」などと断じるのはいかがなものか、とは思います。ましてやその後の別コメントで「私は文章力が低いので」なんて書かれてしまったら、ワタシも立つ瀬がありませんよ。「文章力が低い」と自覚している相手に「あなたは文章力が低い」と言われたわけですから。(´・ω・`)
>>でも、今回はしらふです。(^▽^)
>>これまでの私の失礼をお詫びさせていただくための、私の精一杯の誠意だと思って頂ければ、とても嬉しいです。
はい了解しました。その件はこれにて。(^o^)/
では、よろしくお願いします。
こん**は、KWATです。
>>これは長文ですね!(^v^)
すいません、興が乗るとつい長文を書いてしまいます。議論になり得る論理構成で書いたつもりではありますが。
>>しかし、私が申し上げているのは、一般的な判断基準についてです。
藹さんの仰りたいことはよく分かりました。一般論のお話でしたらワタシも存じております。それでしたら件の園長さんも百も承知のことでせう。ワタシが言いたいのは、件の園長さんの行為は一般論を承知の上で、オノレの信念のもと行っているのではないのか、ということであり、たとえ藹さんに「教育者として大変疑問を持ってしまいます」「偏狭な左翼的教師と変わりません」と言われようが構わないと思ってるのではないか、ということなんですよ。逆にいえば、そのくらいの覚悟がないとここまでのことはできないと思いますよ。「該園長の当該意志は、「他の場面で、行ってください」と申し上げ」ても、たぶん「いや、私は私のやり方でやります」と答えられるのではないでせうか。
>>待機児童の問題を認識されながら、「百歩譲って仕方なくこの幼稚園に決めざるを得なかった」という認識に基づいたご意見は、合理性がないと思います。
ワタシは「そういう事情がある可能性がある」という話をしているのですが(本当のところは当事者でないと判りませんから)、それを理由にすることが「合理性がない」と言われるであろうことは確かにあると思います。ただ「合理性がない」意見には価値がないか、と聞かれれば「世の中は合理性だけで動くわけではない」と答えます。
>>しかし、「該幼稚園に意見を言うことが困難な状況にある」場合は、やはり意見や文句等を言うことはそれなりの覚悟や勇気、そして今回の場合は、それなりの知識が必要とされると思います。
>>そのいった状況の蓋然性は低くないケースであると私は、思う訳です。
いや、それは当然ですよ。そう感じられている親御さんがいらっしゃる可能性は当然あります。そこで『それなりの覚悟や勇気、そして今回の場合は、それなりの知識』を持つことを厭わない、行動力溢れた親御さんがいらっしゃれば、そういった声も上がってくることでせう。でもこれはあくまでも仮定の話であり、可能性の話でしかありませんよね。もちろんそういう可能性があることは、件の園長さんも考慮すべきであるとは思います。でも現実にはそういう行動は起こっておらず、そういう声は園長さんに届いていないのです。
>>さらに、KWATさまは『まずその幼稚園の方針に従うのは当然のことです。それは「法律や規則を守る」という社会通念上当たり前の概念であ』ることが、「該幼稚園の教育方針に対して反対意見がない」という事実(以下「事実1」という)を推認する根拠を提示されていません。
うぅむ、確かに「(1)(仕方なく)その幼稚園を選ぶ」→「(2)選んだ以上は規則に従う」→「(3)その規則がどんなものか理解する」という流れ((2)と(3)は逆かもしれない)ではあっても、「(4)その規則に理解を示す」という段階まで進むとは限りませんね。や、申し訳ない、ここでそう断言したことは撤回します。ただ「この幼稚園を自分が事前に調べた上で選んだ以上、いかなる規則であっても文句は言わない」と考える親御さんがいらっしゃる可能性はありますよね(レアケースかも知れませんが(^◇^;))。
>>まず、上記の通りの状況(反対意見を表現することの困難性・法やその他の規範に従うべきという事実からの結論の根拠の希薄性)の蓋然性が一つの理由です。
>>また、教育勅語の暗唱がいつから行われていたかの問題があります。
>>極最近なら、それを許容するか否かの判断が為される物理的時間の問題です。
>>つまり、私が把握している事実から、このKWATさまの論拠は合理性がない、ということです。
先ほど書いたように「世の中は合理性だけで動くわけではない」ので(いくらなんでもそれは判っていただけますよね?)、『合理性の有無』を絶対的な判断基準であるかのように書かれてもワタシは困るだけです。なにせワタシの意見は「合理的ではない」ので藹さんに反論のしようがない(笑)。ただ「人間は感情の動物である」と返すのが精一杯です。(´・ω・`)
>>申し訳ありませんが、ご趣旨がよく解りません。
すいません、ちょっと回りくどい表現でした。藹さんはこの日本国の法律やかつて通われていた学校の校則について、その全てに納得していらっしゃいますでせうか。どこかしら不満な点はあるはずですよね。では、その不満な点について、何かしらの声を上げてこられましたでせうか。それをご自分の納得のいくものにしようと、何かしらの行動を起こされてきましたでせうか。そして、もし藹さんがそのような行動を起こすことができるバイタリティ溢れた方であるとしても、世の中の人が全てそうであるわけではありませんよね。「不満を抱きつつも仕方なく従う」という行動を取られる方のほうが圧倒的に多いと思うのですよ。そしてその行動は、その集団の外からは「中の人は集団の決まり事に従っている」としか受け取ってもらえません。外の人は中の人それぞれの思いなど知る由もないからです。ですから、報道に接しただけのワタシからは『この状況を親御さんたちが容認・許容している』ように見えるのだ、ということが言いたかったわけです。そしてもちろん親御さんたちの本当の思いはワタシに判るはずもありません。
>>したがって、KWATさまが評価される、「園が存続している」という事実が、直ちにこの状況を親御さんたちが容認・許容している推認することの合理性はないと思います、
要するに藹さんは、『たとえ園が存続していても、「親からの抗議や文句がない」のは「文句を言えない状況だから声を上げられない」可能性もあるのだから、親御さんたち“全員”がこの幼稚園を許容・容認しているわけではない』とお考えなのですよね。ワタシもそんなことは判ってます。蓋然性すなわち可能性の問題を言い出せば全てのことに可能性がありますから、藹さんの仰ることにも一理あります。でも報道によれば現実には声は上がっていないのですよね。つまり「不満の声を上げて行動を起こした親御さんは“まだ”いない。従って、不満を持つ親御さんたちにとって“まだ”容認できる、許容できる範囲なのではないのか。だから園は存続している」。そう考え推察することのどこが「合理性がない」のでせう。
余談になりますが、蓋然性の話をするならばこの状況を積極的に評価している親御さんもいらっしゃるはずですよね。「抗議や文句があるけどいえない」マイナス評価の親御さんがいる蓋然性と、「よくぞやって下さいました」あるいは「もっと積極的にやってほしい」というプラス評価の親御さんがいる蓋然性とは等しくあるはずです。その両方を採り上げた議論をしないと公平公正な議論とは言えませんよね(この場で公平公正な議論をしなければならない、という意味ではありません。念のため)。ワタシが既存マスコミに不満な点はまさにここで、今回の議論の元になった報道にしても「知らなかった」という親御さんの声は採り上げても「知っていた」という声は採り上げません。そのような報道姿勢がこの報道全体をネガティブなイメージに仕立て上げているように思えてならないのです。といいますか、先に「ネガティブなイメージ」という方向性があって、それに沿った材料集めをしたのではないか、とすら邪推してしまいます。
>>様々な問題があるのだから、その必要性は妥当性や合理性を説得できる内容ではないということです。
結論から言えば、藹さんがどうお考えになろうとも、この園長さんにとってそれは「妥当であり合理的だから必要」なのでせう。これはもう「合理性」「具体性」を越えた「信念」に基づく行為なのだと思います。現実に件の園長さんは親御さんにご自分の考えを説明し理解を求めています。そして親御さんからそれに対して不満の声は上がっていません(内心はどうあれ)。この園長さんは親御さんに「こういうことをやります」と分かってもらえればそれで充分なのでせう。
>>申し上げているのは、憲法解釈の問題ではありません。つまりは、解釈の違いで起こる衝突ではないということです。
なんだか自分がドン・キホーテにでもなったかのようは気分ではありますが。何度も書いておりますが、では「教育勅語は違憲である」と明文化した法律の条文やそれに類する「法的な効力のあるもの」がどこかに存在するのでせうか。ワタシは素人ですので寡聞にして存じません。法律の専門家でいらっしゃるのであれば、素人のワタシよりお詳しいのでせうから、ぜひそれを教えて下さい。もしあるのであれば、この点についてのワタシの主張は根拠を失いますので、「違憲ではない」という主張は取り下げた上で「この幼稚園の行っていることは悪いことではないのですが、でも残念ながら憲法違反ですね」という主張をいたします。
>>大変申し訳ありません。無用な論争は好きではありませんので。
ワタシも同じです。ワタシは現実の世界に生きているので、法律の面だけから物事を見るのではなく、現実からも見ていただきたいと思うだけです。藹さんが法律の専門家でいらっしゃるのであればなおさらそう思います。
>>一つだけ申し上げますが、法律や政令などは、あくまで憲法に従って立法化・条文化されます。
その程度のことは学校でも教わる国民としての常識ですから、もちろん承知しております。
>>私は、いっぱいあると思います。ただ、それを利用しないだけだと思います。
俗に言う「確信犯」というやつでせう。もっともこの言葉自体は「犯罪者」を指すのでここで使うのは適当ではありませんね。あ、いや『教育勅語は何々法第何条に抵触するので憲法違反であり、それを教材に使うことは犯罪になる』というのであれば正しいわけですが。
>>まあ、事実として、今の親は大変問題のある親が少なくありませんから、保育園・幼稚園時代にまず親を教育させることは、必要だと思います。
>>しかし、教育が必要な親は、それをさせる状況を作らせないでしょうけど…。
御意!
>>あくまで、教育勅語を再利用するような行為に対して「問題視している人がいること」を考慮しながら、評価するべきであると申し上げているのです。
それはもう、仰るとおりですよ。ワタシは「物事は常に多方向から見るべし」と肝に銘じておりますので。ただあの園長さんは、教育界に身を置いているのですから、きっとそれは判った上でやっているのでせう。また、先に書いたように「問題視している人がいる」反面「問題視していない人」もいるわけで、「問題視している人」ばかりを考慮するのも公平さに欠けると思います。
>>KWATさまや、該園長の行為を是認する方々が、その考慮は必要がないというご意見なら、>>私は、それは致し方ないという評価をするのか、それに対する反論をするか…。
上に書いたように、少なくともワタシはその考慮はしているつもりです。文章に現れないのでお分かりにはならないと思いますが。
北鮮問題については次に続きます。
初めまして。藹と申します。
コメントありがとうございます。
> 1.教育には強制/詰込の要素が必要です。これを、スポーツトレーニング以外には認めない風潮があることは理解できません。
すみませんが、どういう風潮をご指摘されているのかが、この文章では判然としません。
ご指摘の“風潮”とは、教育には「強制・詰込の要素など必要がない」という“風潮”という理解でよろしいのでしょうか。
> 2.古典を読むとき、その内容が100%現代においても正しくなければ読む価値無いものでしょうか。
『その内容が100%現代においても正しくな』い、とはどういう意味なのでしょうか。
特に『おいても』の“も”という助詞がよく判りません。
基本的に、古典を読むことを「無価値」と評価する方は、あまりいらっしゃらないと思いますが…。
> 3.教育勅語について、一部が現在に合わないからと言って読むべからずとは心が狭い。これを暗誦させれば、暗誦した人間はその通りの人間になるのでしょうか。
「読むべからず」というご意見の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、そう思いません。
暗唱した人間が、その通りになるという気持ちが少なくないのは、多分当該園長さんかもしれませんね。まあ、該園長さんも、「その通り」になるとは思っていらっしゃらないでしょうが。
私は、その通りになるなんて全く思っていません。園児のような小さな子供たちには、ほとんど意味がないと思っています。
ただ、全く影響が無いとも断言できません。
京都での話ですが、小学生の低学年で終戦を迎えた方の話では、教育勅語の意味は教えられていなかったそうです。教育勅語を読み上げている校長先生の真剣な顔が子供心に面白かったとか。子供って、やはりそんな感じなんですよね。
当該幼稚園の園児たちは、どんな感じでこの教育勅語を読んでいるんでしょうね。その雰囲気はとても興味があります。
できれば、楽しそうな顔をしながら、唱和していて欲しいものです。
> 4.愛国心に関連して、国名は「日本(にっぽん/NIPPON)」に統一すべきと思います。応援に「ニッポン」と言って、「ジャパン」とも「ニホン」とも云いません。ニホンと云うのは「日本共産党」ですが、僕は大嫌いです。
何故大嫌いなのですか?
共産党が「にほん」だからですか。
何故、「にっぽん」に統一すべきとお考えなんでしょうか。
数としては、圧倒的に
> 5.お閑でしたら、僕のブログにいらしてください。梟のお経を掲載しております。
寄らせて貰いますね。
これからも、宜しくお願い致します。
1.教育には強制/詰込の要素が必要です。これを、スポーツトレーニング以外には認めない風潮があることは理解できません。
2.古典を読むとき、その内容が100%現代においても正しくなければ読む価値無いものでしょうか。
3.教育勅語について、一部が現在に合わないからと言って読むべからずとは心が狭い。これを暗誦させれば、暗誦した人間はその通りの人間になるのでしょうか。「論語読みの論語知らず」なんて諺もあります。
4.愛国心に関連して、国名は「日本(にっぽん/NIPPON)」に統一すべきと思います。応援に「ニッポン」と言って、「ジャパン」とも「ニホン」とも云いません。ニホンと云うのは「日本共産党」ですが、僕は大嫌いです。
5.お閑でしたら、僕のブログにいらしてください。梟のお経を掲載しております。
初めまして、藹です。
ご丁寧に、ありがとうございます。
TBのお時間を見ると、とても早い時間帯で驚いております。
確かに、じいさんさまのお考えと私の考えとを比較すると、当然違いはあります。
その違いが、如何なる違いなのか?
これを明確に表現することって、意外と難しいと思いますが、如何でしょうか。
個人的な感想なんですが、「違い」という言葉の意味は、私たちが思っている以上に難しいことなのかもしれないと感じています。
「違い」に固執すべきこともあると思いますし、「違い」に固執すべきでないこともあると思っています。
つまりは、拘るべき「違い」と拘るべきでない「違い」。
その基準とは……?
貴重な意見拝見させてもらいました。
私とは少し違う様ですが、、
また少し勉強し直さねばと感じました。
これからも宜しくお願いします。
こんばんは、藹です。
「発想の転換」は、様々な場面で重要な作業かもしれませんね。
私は発想を転換する能力が足りませんので、新しいものを作り上げるような作業が全くと言っていいほど駄目です。そういった能力がある人を見ると、羨ましくて…。
因みに、日本国憲法の英訳版が、面白い事実を提供してくれます。
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
Article 30. The people shall be liable to taxation as provided by law.
英文と比較して読むと面白いですよね。
私たちは基本的に、第30条は「納税の義務」の条文であるという理解です。
日本国憲法の三大義務の一つとして、社会科で習いましたよね。
しかし、英訳版では、上記の通り「国民は法律に基づいて課税に責任を負う」という表現になっています。
「責任を負う」という表現によって、一見義務的なものに思えますが、「課税に対する責任」という表現から、『代表なくして課税なし』という精神が表れていることを感じられます。
義務よりも権利的性格を強く感じます。
しかし、日本語に訳されると、「納税の義務」という意味合いが強くなってしまった。
英語から日本語に訳された経緯は、当時の文書で確認することができます。
「発想の転換」が困難だった当時の議員さんの姿が想像できますね。
こんばんは。藹です。
ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。
しかし、コメントに対するレスは何も義務でもありませんし、レスの期限もありませんので、あまり気をお使いになられないで下さい。
レスがなくとも私はそれに対して基本的に文句を言うつもりは全くありません。
議論することや意見交換をするに値しないようなコメントをするような人は少なくありませんしね。
一般的なブログにおけるコミュニケーションは、あまり義務感を持ってやるものでもないと私は思っています。
当ブログへのコメントを頂いた場合、タイミングが合って、時間さえあれば、私は可能な限り早めにレスしようと思っています。それは、管理者としても心掛けのようなものであり、それに固執するものではありませんが。
気分が乗らない時は、やはりなかなかレスポンスできませんしね。(^○^)
それにしても、昨日の私のコメントは、少しわかり難い表現だったようですね。
文章が長くなると、どうしても文字数を少なくしようとする意識が出てきまして、慣れた言葉を使ってしまいますね。難解な表現は極力避けようとしているんですが、難しいです。
私は文章力が低いので、容易な表現は難しいです。これが私の大きな悩みの一つですね。
【幼稚園が存続していることの事実が、教育方針について、親御さんたちは理解がある】ことについて、下記の部分を訂正します。
まず、上記の通りの状況(反対意見を表現することの困難性・法やその他の規範に従うべきという事実からの結論の根拠の希薄性)の蓋然性が一つの理由です。
また、教育勅語の暗唱がいつから行われていたかの問題があります。
極最近なら、それを許容するか否かの判断が為される物理的時間の問題です。
つまり、私が把握している事実から、このKWATさまの論拠は合理性がない、ということです。
あくまで私は蓋然性をしているのですから。
の部分の【あくまで私は蓋然性をしているのですから。】という部分。
↓
【あくまで私は蓋然性の話をしているのですから。】と訂正致します。
初めまして。藹と申します。
ご丁寧に、コメントありがとうございます。
市議会議員をされているとか。37歳で最年少とは、かなり平均年齢が高い議会なんですね。
takeyanさまの政策等を貴ブログやHPで拝見させて頂きます。
こん**は、KWATです。ワタシもびっくりしました。こんなに早くresが返ってくるとは思わなかったもので。(^◇^;)
で、すいませんがまたお時間を頂きたいのです。というのはですね、今回シラフで書いていただいたのは大変ありがたいのですが、その為なのか藹さんが法律の専門家だからかなのか、なんというか文章が難解なんですよ。言い回しが平易でないのと、日常会話ではまず使わないような専門用語が散りばめられているのとで、素人であるバカなワタシには一度読んだだけでは藹さんが何を仰りたいのかすぐには理解できないんですよね。まずは辞書を引いて用語の意味を調べなきゃ。
ということで、resはしばらく経ちましてから付けさせていただきます。ご容赦ください。m(_ _)m
で、日本の憲法も同じだと思います。なんせ、60年たっても未だに受け入れられない人が多数いる訳ですから。
それを理解できる人が社会の大半を占めるまで、理解できない人たちにとてみると、何か変な物が其処にある、という意識状態なんでしょう。
そして振り向くと、如何にも美味しそうな 勅語なる価値観が転がっている・・
でも、いくら美味しそうでも、それは 大日本帝国の遺産。今の時代、これからの日本にはそぐわない、過ぎ去った価値観だから、60年前に終焉を迎えたんだと思うんですね。
素晴らしい普遍的な人類の道しるべ、日本国憲法を受け入れられない人が多いのは、どうせ・・というネガテイヴが意識の根底にあるからじゃないでしょうか。
でも、冷静に考えると、日本中の人がその思考を逆転させたら一気に世の中は変わるんですけどね。非常~に単純な話だと思うんですよ。
誰もが、自分という小さな枠から出れずに、悪い巡りの中で もがいている感じがします。
社会を構成する個人、一人一人が大切ですなんですよね。
明治神宮のサイトだけにあからさまに批判する方は見かけませんが、誤訳は誤訳ですから。
TBありがとうございました。
北朝鮮のミサイル問題についてです。
【北を擁護したい勢力】
> 主に一部マスコミですね。
> 冷静を装ってことさらに北を擁護する発言を繰り返しています。
手段の違いだと私は理解しています。
マスコミのどういった主張や記事について言及されているのかが、具体的によく判りませんので…。
> …略…こういう時に首相や与党を攻撃する発言を繰り返して
> 足を引っ張るばかりの一部野党も問題ありです。
何故でしょう。
「足を引っ張るばかり」の野党がいても、私には問題があるとは思いません。
私は基本的に、抽象的に対象を評価しません。問題の所在の指摘は、具体的事実を摘示して行いますから。
まあ、問題がある政党があっても、それはそれで国民が許容しているんですから、その存在自体を云々するつもりはありません。
■自民党の反応の短絡性について
感じ方の違いではなく、恐らく事実の認識の違いでしょう。
北朝鮮の現状に鑑みると、一部自民党議員の発言は、現実という言葉の幻想に基づいたものです。
先制攻撃論など、呆れ返るばかりで、このような時に表現すれば、相手に論点ズレの反論をされる機会を与えるだけです。
ただ、どうも政府もイチビリ過ぎたようですね。特に、外務省と官房長官は。
時期総理候補の面々ですが、タヨリナイなぁ。
まあ、良い結果を期待していますが。
> アメリカはそういう対応をする国ですが、その対応も短絡的だと思われます> ・・・よねきっと。
状況がどういった内容で例示されているかが判然としませんので、評価できませんが、場合によっては、短絡的と評価することもあるかもしれませんが、「他国から攻撃されて反撃しない国」は、私は知りません。その行為を短絡的だなんて評価することは、かなり難しいと思います。
ただ、私は日本が攻撃された場合、「日本は反撃すべきでない」という考えですけどね。
■建設的な議論について
正直申し上げますと、揶揄的表現を省けば、建設的だと私も思っております。
「論理の飛躍」のご主張もされませんし。
しかし、論理構成の脆弱さを否定できません。簡単に申し上げると、論拠が希薄であるということです。先の記しました理由で。
また、揶揄的な表現があると、どうしてもこちらも気分が悪くなります。
しかし、KWATさまの揶揄的表現(私はそう感じてしまいました)の理由が、私の最初の無礼なコメントが端緒である可能性は否定しませんので、私のこの感想は、自分の責任を他者に負わせようとしていると評価されかねないとも思えます。
よって、「建設的でない」という私のコメントは、撤回させて頂きます。
『この私のコメントも、恐らく意味不明の内容があるかもしれません。』と申し上げたのは、意味不明の内容がある可能性を予め言及させて頂いただけです。
私がコメントさせて頂いた私の状況が、その可能性を容易に想像できましたから。
「それなら、その可能性の低いときにコメントせよ」という至極当たり前のご意見を頂くとは思いますが、酒を呑みながらグズグズとエントリ・コメントさせて楽しませて貰っています。
特に議論的な内容をコメントする時は、まず呑んでします。
しらふでは、こんなこと仕事だけで充分です(笑)。
その飲酒によって、自分の書いた文章を推敲することなくエンターキーを押してしまう私は、不誠実であることは理解しております。
でも、今回はしらふです。(^▽^)
これまでの私の失礼をお詫びさせていただくための、私の精一杯の誠意だと思って頂ければ、とても嬉しいです。
こんばんは。藹です。
これは長文ですね!(^v^)
ちょっと、ビックリしました。
ネットでここまで長文の意見交換をするのは、久々です。
ではでは、私の意見をば。
> 「合理的手段か否か」の判断基準は人によってまちまちです。
そのご意見は当然のことです。
しかし、私が申し上げているのは、一般的な判断基準についてです。
様々な判断基準があるを言及すれば、事実認定や推認などできません。あくまで、私は蓋然性に基づいてお話し申上げているのです。
1 一般論的に、プラスの評価を希望するものだ。
2 マイナスの評価を認識されながら、敢えてそれを実行するには、その行為自体に意味があるという認識が存在するものだ。
という認識に基づいて申し上げています。
つまり、「教育勅語」とは、戦前の教育方針であり、現代の民主主義教育とは違う内容であるという認識が一般的です。それを否定する人は、あまりいないと思います。第一教育勅語の意味を理解されている人はほとんどいらっしゃらない。
そのような状況において、敢えて「教育勅語」を利用することは、例え教育勅語利用でもって、道徳を教えようという目的が第一義であったとしても、当然に他者に対して誤解を与える蓋然性が高いという認識をもつはずです。
「持っていなかった」のなら、それは教育者として大変疑問を持ってしまいます。
該園長が、教育勅語に対して通説ではない見解をお持ちであろうとも、『以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』の意味は全く争う必要のない意味ですし、この文言に対して、色々な考えがあることは事実です。
そういった教育勅語を利用するセンスの問題です。
「教育勅語に問題がない」、という認識を私は全く否定しません。
しかし、教育者たるものは、そういった問題を常に厳しく認識すべきです。
私の感想は、該園長は、偏狭な左翼的教師と変わりません。
したがって、『他者からマイナス評価を受けようとも、自らが得たいものを得ようとして意志を押し通すこともあります』というご意見は、このケースにおいては失当だと思います。
該園長の当該意志は、「他の場面で、行ってください」と申し上げるのみです。
■該幼稚園に子供を通わせている親御さんの意識・認識についてです。
待機児童の問題を認識されながら、「百歩譲って仕方なくこの幼稚園に決めざるを得なかった」という認識に基づいたご意見は、合理性がないと思います。
待機児童の問題を認識されているのなら、半径云々のご意見は無意味です。
私も蓋然性について申し上げていますので、待機児童の問題がない地域があることはありますから、それを否定するつもりはありませんが。
幼稚園の教育方針に「まず従う」というご意見は、妥当性のあるものであると思います。
ただ、「まず」の次に、つまりは「まず該幼稚園教育方針に従ったが、教育方針に疑問を持ち始めた」という場合は、よくあるケースだと思いますし、それはある意味日常でしょう。
しかし、「該幼稚園に意見を言うことが困難な状況にある」場合は、やはり意見や文句等を言うことはそれなりの覚悟や勇気、そして今回の場合は、それなりの知識が必要とされると思います。
そのいった状況の蓋然性は低くないケースであると私は、思う訳です。
さらに、KWATさまは『まずその幼稚園の方針に従うのは当然のことです。それは「法律や規則を守る」という社会通念上当たり前の概念であ』ることが、「該幼稚園の教育方針に対して反対意見がない」という事実(以下「事実1」という)を推認する根拠を提示されていません。
畢竟、KWATさまが、幼稚園に通わせている親御さんは、通っている幼稚園のすべて(ある程度)の教育方針を認識し、それを許容して通園させている、というご認識であることが、KWATさまのご意見から伺えます。その上、『まずその幼稚園の方針に従うのは当然のことです』というご意見から、もし反対の意見があっても、その教育方針に従うことが当然である、というご意見に受け取れます。
よって、こういった私の認識に基づいて判断しますと、事実1を推認する合理的論拠足りえないと思いますし、その論拠自体が希薄であると思います。
したがって、KWATさまが評価される、「親からの抗議や文句がない」という事実が、直ちにこの状況を親御さんたちが容認・許容している推認することの合理性はないと思います、
>>存続していることの事実が、教育方針の理解があるという理由になる合理的根拠が解りません。
>「自分が住んでいる国の法律、…略…守り従う」という、……社会的通念です。
> これが守られ集団として存続している限り、中の人の思いとは別に端から見れば
> 「教育方針の理解があるという理由になる」のです。
まず、上記の通りの状況(反対意見を表現することの困難性・法やその他の規範に従うべきという事実からの結論の根拠の希薄性)の蓋然性が一つの理由です。
また、教育勅語の暗唱がいつから行われていたかの問題があります。
極最近なら、それを許容するか否かの判断が為される物理的時間の問題です。
つまり、私が把握している事実から、このKWATさまの論拠は合理性がない、ということです。
あくまで私は蓋然性をしているのですから。当然、私が認識している事実で評価していますから、例えば、教育勅語の暗唱が長い期間なされている事実があるのなら、当該行為が許容されている蓋然性を認定する一つの根拠にはなりますよね。
> 藹さんは日本国の法律すべてに納得されていますか?
> あるいは過去にご自分が通われていた学校の校則全てに納得していらっしゃいましたか?
> ということですよ。
申し訳ありませんが、ご趣旨がよく解りません。
したがって、KWATさまが評価される、「園が存続している」という事実が、直ちにこの状況を親御さんたちが容認・許容している推認することの合理性はないと思います、
■教育勅語を利用する必要性の具体的根拠についてです。
『教育の神髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語』という該園長のご意見をKWATさまは、必要性を説明していると評価されていますが、私には全く説明されているとは思えません。
例え、『教育の神髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語』としても、これまで指摘させて頂きましたように、様々な問題があるのだから、その必要性は妥当性や合理性を説得できる内容ではないということです。
どのような内容であれば「具体的である」かは、当然該園長が説明すべきですし、それを擁護される方々が、それを行うべきことです。
挙証責任を転換される事案でもありませんしね。
■違憲の可能性について
憲法に対するご理解がちょっと不足されているのか、またはご理解されているが、勘違いされているか、単なるミステイクされている可能性があると感じました。
申し上げているのは、憲法解釈の問題ではありません。つまりは、解釈の違いで起こる衝突ではないということです。
このような失礼な表現は、私は法律の実務を行っていますため、当然憲法についても、【最低限の理解】はしているという認識に基づいて申し上げております。
大変申し訳ありません。無用な論争は好きではありませんので。
一つだけ申し上げますが、法律や政令などは、あくまで憲法に従って立法化・条文化されます。
> それに代わる優れた道徳教材が登場することを願って止みません。
そんなに難しいものではないと私は思います。
私は、いっぱいあると思います。ただ、それを利用しないだけだと思います。
まあ、事実として、今の親は大変問題のある親が少なくありませんから、保育園・幼稚園時代にまず親を教育させることは、必要だと思います。
しかし、教育が必要な親は、それをさせる状況を作らせないでしょうけど…。
>> 問題視する人がいない事実が、問題が無いという根拠になると思っていらっしゃるなら、
>> その評価は完全に失当であるとしか評価しえません。
> 『問題視する人がいる事実が、問題があるという根拠になる』わけでもありませんよね。
私は、『問題視する人がいない事実が、問題が無いという根拠になると思っていらっしゃるなら、その評価は完全に失当であるとしか評価しえません』という仮定法を使用しております。
また、『ある問題の評価をする人の多数決で、その評価の是非が決定される事が、真理であるという客観的評価を下すことはできないことも否定しようが無い事実です』と申し上げております。
よって、私はこれを根拠提示しているという論理構成をしているものではありません。
あくまで、教育勅語を再利用するような行為に対して「問題視している人がいること」を考慮しながら、評価するべきであると申し上げているのです。
KWATさまや、該園長の行為を是認する方々が、その考慮は必要がないというご意見なら、私は、それは致し方ないという評価をするのか、それに対する反論をするか…。
>>「義勇」に関して、このような定義をしたつもりも無ければ、それを表現したこともありませんよ。
あ、そうでしたか。それは失礼いたしました。ワタシとしてはこの辞書の定義でいいと思っているのですが。ここ、藹さんの解釈は違っているのですね? そこを勘違いしていたのであんな揶揄するような表現になりました。無礼をお詫びいたします。では藹さんの解釈する「義勇」をぜひお聞かせ下さい。
で、北からのミサイルの件ですが、このことに対してはkuronekoさんに対する藹さんのコメントを読んで安心しました。ワタシも同じ思いですから。すなわち『北朝鮮を核攻撃して殲滅したい、でもその思いは押さえなければならない』と。
>>北を擁護したい勢力とは、どういう勢力を仰っているのでしょうか。
主に一部マスコミですね。冷静を装ってことさらに北を擁護する発言を繰り返しています。国民に対して影響力があるだけに悪質です。また、直接北を擁護しているわけではありませんが、こういう時に首相や与党を攻撃する発言を繰り返して足を引っ張るばかりの一部野党も問題ありです。
>>自民党の反応は、私には短絡的なものだと感じています。
ここも感じ方の違いなんでせうかね。ワタシは極めて当然の対応だと思います。アメリカが冷静なのは、ミサイルが直接アメリカ本土に届くモノではないと見切っていたからということと、こういう事態に慣れているからでせう。しかし万が一テポドン2号がうまく飛んでアラスカの端っこ(あるいはハワイ?)にでも着弾していたら、今ごろは北のミサイル発射基地は(もしかしたら平壌市街も)地図から消えてますよ。アメリカはそういう対応をする国ですが、その対応も短絡的だと思われます・・・よねきっと。
>>これが建設的な議論だと思いますか?
じゅうぶんに建設的だと思いますが・・・。藹さんにとっての「建設的な議論」とはどのような議論なのですか? ワタシにとって、互いの認識の違いを埋め合って相互理解を深める議論は「建設的な議論」です。いまここでお互いやりとりしている長文のコメントは、感情的な非難の応酬や、揚げ足取りに終始してちっとも話が先に進まないような、そんな議論ではありませんよね。それと、特に相手をやりこめようとか翻意させようとか、そんなことまではお互い思っていませんよね。少なくともワタシは思っておりません。ただ、ワタシのブログのコメント欄に、初めての書き込みなのに挨拶も無しにいきなり必要事項だけ書いていかれた方はどんな方なのだろう、特に無礼を売りにするような方でもなさそうだし、と興味を抱いたのでいろいろお話しさせていただいております。
>>悲しいことですが、議論になりえない論理構成にしか思えません。
>>KWATさまが、裁判云々と表現されると、さらにそう思えます。
>>素人さんには大変難しいとは思いますが、ある程度の論理構成を願いたいと思います。
藹さんはそうお感じになられたのでせうが、ワタシはそうは思いません。藹さんのお考えになる「議論になりえる論理構成」とはどのようなものでせう。もちろん藹さんは素人さんではないのでせうから、素人のワタシにも判るように平易かつ具体的に説明していただけますよね。
>>この私のコメントも、恐らく意味不明の内容があるかもしれません。
ワタシの書いたことが「議論になりえない論理構成」であると断じたそのすぐ後に、こんなことを書かれたらぶち壊しですよ。他人の書いたものが「議論になりえない論理構成」であるとお判りになる明晰な頭脳をお持ちなのですから、ご自分が書いたものは当然「議論になりえる論理構成」で書いておられるはずで、意味不明の内容なんてどこにもないはずですよね。そして事実こうして議論になっているじゃないですか。
では、よろしくお願いします。
こん**は、KWATです。また長文ご容赦下さい。余談ですが、gooブログのコメント欄は字数制限が5000文字なのが助かります。以前コメント欄500文字制限のブログで議論した時は、文章を分割するのがかなり面倒でした。
>>まず、教育勅語の趣旨についてです。
>>これは私の見解ではありません。単なる通説です。
なるほど判りました。ワタシもそのような説を聞いたことがあります。それは従来からあるひとつの見方であり、戦後の大勢を占める見方であることは確かです。しかしここで肝心なことは、そうではない他の見方もあるということです。少なくとも今ココで言えることは、件の園長さんは教育勅語について『藹さんが「これが教育勅語の趣旨である」とお考えになる“通説”とは異なる見解をお持ちである』ということだけでせうね。そしてそこに価値を見出しているからこそ、件の園長さんは園児に教育勅語を暗唱させているのであり、たとえケチがついたものであっても使用することが必要なのだとお考えなのでせう。新たな同様の規範を作成すれば良いと藹さんが仰るのはごもっともですが(ワタシもそう思わないでもないです(^◇^;))、件の園長さんは教育勅語があるのだからその必要はないとお考えなのでせう。
>>自分の目的とする理想の状況を具現化する手段は、他者からプラスに評価されるような手段を選択するのが当たり前であり、(マイナスに)懐疑されるような手段を採用するような手法は、単なる自己満足であり、合理的手段ではないということです。
そもそも「合理的手段か否か」の判断基準は人によってまちまちです。「他者」は自分ではないので、他者が自分の行動を自分が思った通りに受け取ってくれるとは限りません。自分がプラスに評価されると思ってとった行動が他者からマイナスに評価されることもあれば、あるいは時には他者からマイナス評価を受けようとも、自らが得たいものを得ようとして意志を押し通すこともあります。「合理的か否か」だけでは説明のつかないことも世の中にはたくさんありますよね。
>>「園に文句を言うことの困難」な事実を全く理解されていないと思えるご意見であると感じました。
待機児童の問題はワタシも存じております。何しろワタシの住む川崎市は、この問題に関しては政令指定都市の中では下から数えた方が早いくらい劣悪な環境にありますし。ただ、ワタシは件の幼稚園のある大阪市淀川区の幼稚園事情をよく知らないので断定的なことは言えないのですが、たとえばこの幼稚園の半径10km以内には他に幼稚園がひとつもない、とかいうような場所ならいざ知らず、大阪市淀川区という都会においてそのようなことはたぶんないのではないかと思うのです。であれば、他にも選択肢はあるのではないのですか? ということを言ってるだけです。そして、百歩譲って仕方なくこの幼稚園に決めざるを得なかったとしても、その園を選んだという事実は変わらないのですから、例え「園に文句を言うことの困難」な状況であろうとも、まずその幼稚園の方針に従うのは当然のことです。それは「法律や規則を守る」という社会通念上当たり前の概念であり、『この幼稚園が存続していることの事実が、教育方針の理解があるという理由になる合理的根拠』たり得ると思われます。ついでに言えば、これは待機児童云々の話とは別次元の話です。
>>教育勅語を利用する必要性の具体的根拠
ですから、件の園長さんは「教育の神髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語」だから、と語っておられるじゃないですか。藹さんは例えばどのような内容であれば「具体的」と受け取られるのでせう。
>>とにかく、自分と違った反対説の意見に対して、冷静な評価をされているような表現はありませんでした。
件の園長さんのブログのみならず、幼稚園のwebサイトも隅から隅まで見てみましたが、そのような表現をされている箇所は見当たりませんでした。あるいは、藹さんが仰る通りそのような箇所が削除されているのであれば、ワタシにはこの件に関しては判断のしようがありません。キャッシュとかどこかにありません?
>>教育勅語は、現行の国民主権を否定する内容ですから。
>>教育勅語の主権は、明らかに天皇ですからね。
教育勅語は当時の憲法に於ける主権者である天皇の立場で書かれていますからね。よって「違憲か否か」と議論するまでもない、ということなのでせう。さらに言うなら教育勅語を無効とした国会決議もあります。しかし「違憲である」とどなたか責任ある公的な立場の方が判断し、法的拘束力を伴った文章にしたわけではないのが現状であるわけです。また、国会決議には法的拘束力がありません。しかも、幼稚園教育に関連する法律や要項に「『教育勅語を幼稚園での教育に使用してはならない』という文言はない」というのは事実です。よって、たとえ違憲の可能性が強いとしても、法や要項に背いていないと判断せざるを得ない以上、国家の名に於いて「違憲であると推定されるので、これを教育に使用することを止めろ」と強制(という言葉が悪ければ「指導」ですか)することはできないでせう。そして現にそのような指導はなされていません。
あるいは、このことが『公序良俗に反する』ことであれば、社会通念上の概念として「それはやめておけ」と言えるかもしれません。しかし、幼稚園の教育に教育勅語を使うことが『公序良俗に反する』とまで言えるようなことなのでせうか。それを判断する『合理的な根拠』はあるのでせうか。これは当事者がどう思っているかがひとつの判断基準になると思います。そう考えた時、園側が「保護者の不満の声は聞いていない」と述べている(すなわち園側の方針は保護者側が従うことのできるものである)以上、『公序良俗に反する』とまでは言えないのではないでせうか。よって、この幼稚園の教育に教育勅語を使うことを無条件に止めさせることは出来ないと思われます。結局のところ、これは単に「気に入らない」か「気に入る」かという次元の話でしかないのです。
ただ、これを「気に入っている」立場のワタシとしても、このことが全く問題ないと考えているわけではありません。ワタシも教育に「違憲かもしれない」教材を使うことは良しとはしません。また教育勅語については、違憲なら違憲、そうでないならないと何らかの形でハッキリさせてもらったほうがスッキリしますし、それに代わる優れた道徳教材が登場することを願って止みません。
>>存続していることの事実が、教育方針の理解があるという理由になる合理的根拠が解りません。
この答えは単純です。それは先にも書きましたが「自分が住んでいる国の法律、自治体の条例、あるいは自分が所属している集団の規則、規律、決まりごとを守り従う」という、国民としての義務であり社会生活を営む上での至極当然な社会的通念です。これが守られ集団として存続している限り、中の人の思いとは別に端から見れば「教育方針の理解があるという理由になる」のです。藹さんは日本国の法律すべてに納得されていますか? あるいは過去にご自分が通われていた学校の校則全てに納得していらっしゃいましたか? ということですよ。
>>問題視する人がいない事実が、問題が無いという根拠になると思っていらっしゃるなら、その評価は完全に失当であるとしか評価しえません。
いささか言葉遊び的な言い方になってしまいますが、『問題視しない人がいる事実が、問題が無いという根拠になる』わけでもなく、さりとて『問題視する人がいる事実が、問題があるという根拠になる』わけでもありませんよね。残念ながらその論法は、このようにいろいろなバリエーションが作れてしまいますし、そのどれもが正しいわけです。よって「失当であるという評価」は受け入れがたいモノがあります。
>>ある問題の評価をする人の多数決で、その評価の是非が決定される事が、真理であるという客観的評価を下すことはできないことも否定しようが無い事実です。
多数決を真理とすることができないのは確かです。多数決で集団の意思を決めることは民主主義の基本ですが、同時に少数意見や反対意見を無視することができないのも民主主義です。「私は貴方の意見には反対だ。しかし、貴方がその意見を言う権利は、命をかけて守る」という言葉はいつ、どこで発せられたのでしたっけ。ただ、「法律や規則を守る」というのは多数決とは関係ありませんよね。
>>また、「これを国から強制・強要されることを許容する気持ちには全くなりません」という趣旨は、そのままの意味です。国からの強制・強要は断固拒否する、ということだけです。
ここは了解しました。ワタシも思いは同じです。ただ、お酒を召し上がりながら書かれていて記憶がない、というのは至極残念です。常にシラフで答えているワタシとしては、ちょっとムナシイですわ。(´・ω・`)
>>さらに、何故教育勅語の暗唱教育が、国からの強制・強要に結びつくという結論というか評価になるかが解りません。先に述べましたように、単純に国からの強制・強要は拒否すると表現しているだけですよ。
ご自分で書かれているじゃないですか。「結論部分が、論点ずれしています」って。それを申し上げているのです。
>>良いですよ。私には。こういう反応は。
>>でも、気分は悪いですよ。
はい判りました。この部分に関してはお互いの感じ方の違いである、ということでよろしいですね。ワタシとしては、教育勅語が書かれた時代を考えれば「私」という表現で当然だと思っていますので、特に気になりません。
>>私が紹介させて頂きました、ウィキのページから当該サイトへのリンクがありますよ。
ご存じであったなら元のエントリーでも採り上げて頂きたかったです。「明治神宮の口語訳とは違う、こういう口語訳もあります」程度でも結構でしたから。
>>敢えて評価するなら、及第点にギリギリ達しているかもしれない、という程度ですね。
なるほど、「明治神宮の口語訳よりはマシである」という評価と思って差し支えないのですね。そうお感じになられたのであれば、なおさら採り上げていただきたかったです。
>>ただ、基本的な解釈を超えての解釈も可能であることは否定しません。
それは教育勅語に限らず、文書で著されたもの全てにいえることでせう。『超法規的解釈』とか『行間を読む』とかいう言葉もありますし。「意訳」はいくらでも可能です。
とか調子に乗って書いてたら、どうやら5000文字制限に引っかかったみたいです(爆)。次に続きます。
初めまして。コメントありがとうございます。藹です。
明治神宮等の口語訳は、個人的には、我が皇室に対して大変不敬であると思っています。
それについて疑問を呈さない保守派がいること自体が私には不思議です。
正直申し上げますと、私は天皇制を是認する考えではありません。
しかし、現状の皇室や社会の事情に鑑みると、全く反対の理解を持っています。
つまり、現状の象徴天皇制を積極的に是認する立場であるということです。
この度の北朝鮮のミサイル実験に対して、批判すべき一番の立場の国は、私のが思うに、ロシアであると思います。ロシア沿岸に落ちているんですからね、ミサイルが。事前通告がなく。
国連の制裁決議が延長されたようですね。
中国の立場も容易に理解できます。
正直北朝鮮を核攻撃して殲滅したい、という気持ちはあります。
でも、それは絶対に採用してはいけない暴論であり、軟弱な考えに基づく選択であることなんでしょう。でも、腹が立つんですよね。
この気持ちを抑える強さが必要なのでしょう。
初めまして!当該ブログの管理人の藹と申します。
コメント、ありがとうございます。
「勉強」だなんて、恐縮です。
これからも、よろしくお願い申し上げます。
こんばんは。藹です。
> ワタシが貴ブログにいるのはなんか場違いな感じですね。(^◇^;)
そうは思いませんよ。
では、一つ一つゆっくりとお答え致しますね。
まず、教育勅語の趣旨についてです。
これは私の見解ではありません。単なる通説です。
皇室の永続的な繁栄を目的に、十二徳目を臣民が実践するための規範であるということです。
教育勅語自体に責任が無くとも、ケチがついたものを使用することの必要性などありません。単に、新たな同様の規範を作成すれば良いだけのことです。
教育勅語を利用する必然性・必要性・合理的を展開する論理は見当たりません。というか、それに固執する必要性など全くありませんから。
その必要性を是認する合理的理由は、明治天皇のイニシアティブであったという事実のみだと思います。
教育勅語の暗唱について「強制」という評価が妥当であるかについては、KWATさまのご意見はここで理解致しました。
教育勅語の精神が必要であっても、教育勅語をそのまま教育の教材にするという行為に出るとなると、単純に立憲民主主義の制度を採用する我が現代の日本の政治・教育制度にそぐわないと評価されることは、自明です。その他のより懐疑されないような採りうるべき手段はいくらでもある、ということです。
自分の目的とする理想の状況を具現化する手段は、他者からプラスに評価されるような手段を選択するのが当たり前であり、(マイナスに)懐疑されるような手段を採用するような手法は、単なる自己満足であり、合理的手段ではないということです。ビジネスでは当然であり、政治政策でも、当たり前のことです。
したがって、教育勅語を暗唱させる具体的必要性の説明では無いと私は思います。
いくらでも、その他の手段は採用できますから。何度でも言いますが…。
当該幼稚園の教育趣旨や教育内容を理解・認識せずに預けてしまった親御さんの責任において、当該幼稚園に預けた事実のみを評価する、つまりは親御さんの調査不十分が理由で親御さんが選択した事実で当該幼稚園の教育方針等の反論を否定する根拠になるとは私には全く思えません。
このような問題は、例え教育方針を認識しつつも、私立の学校法人に入学した生徒や親御さんが、当該学校法人の教育方針に無批判であることを許容する根拠にならないということと同様です。
新聞記事の親御さんの「戸惑っている」感想文については、私は評価する手立てが全くありません。
現在の保育園や幼稚園の待機の問題を理解されているなら、教育云々の問題以前に、切実なる事実があることはご理解されていると思います。
「園に文句を言うことの困難」な事実を全く理解されていないと思えるご意見であると感じました。
> 『「今こそ教育勅語の精神が必要」という園長の所感を添えて配布したという。』
> ともあります。
> これは「何故、勅語を暗唱させる必要性があるかの当該園長からの具体的説明」
> に当たると考えますが、如何でせう?
教育勅語の精神が必要であると理解されることは、私は理解できますが、教育勅語を利用する必要性の具体的根拠であるとは全く思えませんし、それを根拠とするような判断がなされるような事ではないことは、自明です。
当該園長の表明している目的以外の目的があるのではないかという推認についてですが、紹介致しましたブログをご覧に頂く事を要望致します。
当該園長が、短絡的に「左翼だの」という言葉使用している事実です。
といっても、何故だか削除されていますね。
とにかく、自分と違った反対説の意見に対して、冷静な評価をされているような表現はありませんでした。
さて、教育勅語を題材に教育することを、違憲と判断する根拠は簡単です。
教育勅語は、現行の国民主権を否定する内容ですから。
教育勅語の主権は、明らかに天皇ですからね。この点については、議論も無く、問題提起されているのものではありません。
最高裁の判例の存否に基づいて、事象の評価をすることを否定するものではありません。
> この幼稚園が今もって存続しているということを考えれば、
> この幼稚園の教育方針は理解されていると考える方が自然なのでは
> ないでせうか。
何故?
存続していることの事実が、教育方針の理解があるという理由になる合理的根拠が解りません。
(前述した内容と重複しますが…。)
実際問題として、教育勅語云々を問題視する人がどれほどいるか、という事実を無視していますよ。
問題視する人がいない事実が、問題が無いという根拠になると思っていらっしゃるなら、その評価は完全に失当であるとしか評価しえません。
ある問題の評価をする人の多数決で、その評価の是非が決定される事が、真理であるという客観的評価を下すことはできないことも否定しようが無い事実です。
重複しますが、待機児童の問題を理解されているとは思えないご意見であると思いますが、如何でしょうか。
また、「これを国から強制・強要されることを許容する気持ちには全くなりません」という趣旨は、そのままの意味です。国からの強制・強要は断固拒否する、ということだけです。
正直申し上げますと、これを表現した意識や記憶がありません。
つまり、当該エントリを書いた状況は、サッカーのワールドカップを見ながら、そして酒を呑みながらであったので、そのときの感情を羅列しただけの内容であったことは否定できません。
「国からの強制」という表現は、小論文という範疇で評価するなら最悪です。
結論部分が、論点ずれしていますからね。それは、飛躍というような問題以前の、ミステイクの範疇であり、問題外のエントリであると評価されるべき内容だと思います。
強いて言えば、このような内容は、学校等の教育機関からの指導も受け付けたくはないということです。ただ、それだけです。
さらに、何故教育勅語の暗唱教育が、国からの強制・強要に結びつくという結論というか評価になるかが解りません。先に述べましたように、単純に国からの強制・強要は拒否すると表現しているだけですよ。
> 『「私」って!?誰のこといいさらしとんねん!』と騒ぎ立てる
> ような調子の文章にしていたりします。
> こういった部分がワタシに「過剰な反応をしている」と思
> せたから、ということです。
良いですよ。私には。こういう反応は。
でも、気分は悪いですよ。
「陛下」のお言葉ですからね。KWATさまは、「私」という表現でも良いんですね。それを私が否定するつもりはありません。ただ、私には、不愉快です。
> あ、そうだワタシが紹介させていただいたリンク先にある口語訳については、
> どうお考えになりましたでせうか。
私が紹介させて頂きました、ウィキのページから当該サイトへのリンクがありますよ。
敢えて評価するなら、及第点にギリギリ達しているかもしれない、という程度ですね。
高校程度の漢文・古文の知識があれば、何ら問題も無く理解できる内容だと思います。
ただ、基本的な解釈を超えての解釈も可能であることは否定しません。
それが、教育勅語の難しさでもあります。
> その行為に対して抱く「義勇」すなわち
> 『正義と勇気』『正義を守ろうという気持ちから発する勇気』
> (三省堂の大辞林より)を藹さんは「いらん」と仰る。
「義勇」に関して、このような定義をしたつもりも無ければ、それを表現したこともありませんよ。
KWATさまが、北がミサイルを発射した事実に言及されたことに対して、この言葉を私なりに理解させて、同様の定義であると評価したに過ぎません。
私のこの評価について、KWATさまの認否があって始まる議論だと思います。それが通常の議論の端緒ですからね。
> 藹さんは実に不思議な方ですね。
> どこの国に住んでおられるのですか? ワタシには理解不能です。
典型的な揶揄的表現ですね。
残念です。
私は、あのような国家の呈を為さない権力集団に対して、全く相手にするつもりは毛頭ありませんから。
どういう意味で不思議であるとお感じになられていらっしゃるのでしょうか。?
> 変に騒ぎ立てているのは、むしろ北の国を擁護したい勢力ではないかと思います。
> 日本政府はもちろん、自民党の反応も実に自然なこととワタシには感じられます。
北を擁護したい勢力とは、どういう勢力を仰っているのでしょうか。
自民党の反応は、私には短絡的なものだと感じています。
第一、今回の北の暴挙に対して、あれこれ過剰反応しているのは、一部の国民と一部の自民党議員らだけです。
アメリカ政府ですら、冷静ですからね。
> 長文失礼いたしました。m(_ _)m
長文とは思えませんよ。
一般的なブログコメントにおいては長文かもしれませんが…。
KWATさまは、建設的な議論を求められていると理解しているのですが、これが建設的な議論だと思いますか?
悲しいことですが、議論になりえない論理構成にしか思えません。
KWATさまが、裁判云々と表現されると、さらにそう思えます。
素人さんには大変難しいとは思いますが、ある程度の論理構成を願いたいと思います。
「理解できない」という論拠で、逃げる人は少なくありませんから、私の疑問にお答え頂ければ幸いです。特に、保守層の方々。
この私のコメントも、恐らく意味不明の内容があるかもしれません。
それについては、後日釈明・お詫び申し上げます。
飲酒をしながら、ワールドカップ決勝の観ながらのコメントをお許しください。
「かめ?」さんのブログのTBで、明治神宮のHPを見ました。20代ではないので、わたしの年代だと教育勅語の日本語ぐらい口語訳しなくても普通にわかりますが。
「我が皇祖」を「わたしたちの」と訳したり、朕を「わたし」としたり、御名御璽を無視したり、どうして明治神宮は皇室をシカトするのか疑問に思いました。いつだか明治神宮の宮司は右翼さんに攻撃されていたのと関係があるのかな?
ところでコメント欄のご意見で、「…我が国近海に7発も打ち込む」とありますが、ミサイル着弾地点は、ロシア沿海州のほうにずっと近いような…。図示はしているけど、そう表現した報道もないし、一般の反応も少ない。実に不思議なことです。
「ロシア沿海に着弾」と世界中のメディアが書きたてたら、ロシアももっと北朝鮮への圧力を強めざるを得なかったのに……。惜しい。
こん**は、KWATです。ワタシが貴ブログにいるのはなんか場違いな感じですね。(^◇^;)
まず最初にお聞きしたいのが、
>>『教育勅語』が云わんとする趣旨とは、如何なるものかを理解すべきですね
藹さんがお考えになる「教育勅語の趣旨」をぜひお聞かせ願いたいと思います。なおワタシは【十二の徳目】を教えることが趣旨であると考えています。そしてその部分の前も後も付け足しのようなものだと思っています。また、この教育勅語が戦前の全体主義教育に利用されたことをもって「悪」と捉える方もいらっしゃいますが、それはそのように利用した時の政府の教育方針が結果として間違っており、今の価値観にそぐわないものであった、というだけのことで、教育勅語それ自体には罪はないと考えます。
ではご質問にお答えして。まず「強制」について。幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させている、という行為が果たして「強制」的であることなのか。その園児がその幼稚園に在籍している以上、これを「強制」というのはいささか言い過ぎではないのかとワタシは思います。これが強制であるのなら、幼稚園で教える全てのことは「強制」であると解釈できてしまうからです。
もちろんその幼稚園を選んだのは園児自身ではないわけですが、それはその年齢くらいの子供に進路を決めさせる保護者は滅多にいないからである、ということはお判りですよね。つまりその園児がその幼稚園にいる理由は「保護者が決めた」からで、この幼稚園は私立であるということを考えると、保護者がこの幼稚園を選択する際にここはどういう教育方針なのか、事前に調べなかったはずはないのではないでせうか。藹さんの先のエントリー「幼稚園児に教育勅語だと?!」には西日本新聞の記事がリンクされていますよね。この記事の中に『ある保護者は「こういう教育をするとは知らずに子どもを入園させた」と戸惑いをみせるが、園側は「保護者の不満の声は聞いていない」としている。』とあります。この場合、知らずに入園させたというその保護者が迂闊だったというだけなのであって(正確に言えばこの保護者は「知らなかった」と言っているだけで、「戸惑っている」というのは新聞記事の付け足しに過ぎません)、大多数の保護者はこの幼稚園の教育方針を知ったうえで我が子を預けているはずです。その教育方針が気に入らなければ他の幼稚園を選べばいいだけのことです。だから園側の言い分にある通り不満の声など上がるはずもありません。もし万が一不満に思う保護者がいたとしても、その人物は新聞社とか国とかに文句を言う前にまず園に対して苦情を言うはずです。
ついでに、この記事の中には『両幼稚園の園長を務める籠池靖憲氏によると、幼児期から古典に親しむため、一昨年から月1回、年長組の園児を対象に論語の勉強を始めたが、「教育の神髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語」と考え、昨年10月ごろから教育勅語を教えているという。』『年長組の園児は毎日、1時間目の授業の初めに担任の指導で教育勅語を暗唱。保護者にも口語の訳文に「今こそ教育勅語の精神が必要」という園長の所感を添えて配布したという。』ともあります。これは「何故、勅語を暗唱させる必要性があるかの当該園長からの具体的説明」に当たると考えますが、如何でせう?
>>勅語を使用したという事実は、園長が言う目的以外の目的があると推認することは、困難ではありません
確かにこの園長さんは保守的な考えをお持ちだと思われますが、新聞記事を見た限りではそんな風にお考えになるのは勘ぐりすぎなのではないでせうか。藹さんがそうお考えになる具体的な理由とその具体的内容をぜひお聞かせ願いたいところです。
>>公立であろうが私立であろうが、教育勅語を園児に教育することは問題であり、違憲・違法の可能性が高いということです。
「違憲・違法の可能性が高い」というような判断をどなたか責任ある公的な立場の方がされたのでせうか。といいますか、「違憲・違法の可能性が高い」ことは違憲・違法ではない、ということを申し上げておきます。これをはっきりさせるには、訴訟でも起こして裁判所に憲法判断をしてもらうくらいしか方法はないでせう。しかし現実問題として、この幼稚園に対してそのような動きをされた方のことは寡聞にして知りません。また、私立の幼稚園は園児が来なくなれば潰れてしまいますが、この幼稚園が今もって存続しているということを考えれば、この幼稚園の教育方針は理解されていると考える方が自然なのではないでせうか。
>>何故私立なら問題が無いのか
文科省は「いかがなものか」と言ってはいますが「即座に止めさせなければならない」とまでは言ってませんね。またそのような指導を行った形跡もありません。それでは答えになりませんかそうですか。
ところで藹さんは、先のエントリー「幼稚園児に教育勅語だと?!」で『個人的な感覚では、12の徳目を否定する人は、なかなかいないんじゃないかなぁ、なんて思いますが、これを国から強制・強要されることを許容する気持ちには全くなりません』と書かれています。何か勘違いをされているようですね。教育勅語を暗唱させているのは、既に書いた通り『私立の幼稚園』なのであって『国』ではありません。それどころか国の中の人である文科省のお役人は「いかがなものか」と言ってるんですよ? また、さらに続けて『親から教わることだと思います』と書かれています。もちろんそれは大切だと思いますが、でも幼稚園でも教えたってべつだん差し支えないと思いますが。
「過剰な反応」についてですが、まず上に書いたように、たかがいち私立幼稚園が行っている少々変わった教育についての記事を読んで、なぜそれが「教育勅語を国から強制・強要される」いうことに結びつくのか、その間が離れすぎているように感じられてワタシには理解できません。ぜひ具体的な説明をお願いしたいところです。また、不完全な口語訳である「明治神宮による教育勅語の口語訳」を、唯一の口語訳であるかのように採り上げて(多数の神社がこれを引くのは、神社としての格が高い明治神宮が行ったからでせう)『「私」って!?誰のこといいさらしとんねん!』と騒ぎ立てるような調子の文章にしていたりします。こういった部分がワタシに「過剰な反応をしている」と思わせたから、ということです。
あ、そうだワタシが紹介させていただいたリンク先にある口語訳については、どうお考えになりましたでせうか。
最後に「義勇」について。日本人を拉致しそれを認めておきながら帰さないとか、工作船で日本の領海を侵犯し工作員を送り込むとか麻薬の密輸を行うとか、我が国に対し散々敵対行為を行ってきた国が、我が国を射程距離に収める中距離弾道ミサイルを我が国近海に7発も打ち込む。こんなことをされていながら、その行為に対して抱く「義勇」すなわち『正義と勇気』『正義を守ろうという気持ちから発する勇気』(三省堂の大辞林より)を藹さんは「いらん」と仰る。藹さんは実に不思議な方ですね。どこの国に住んでおられるのですか? ワタシには理解不能です。
>>ただ、今回の北の暴挙で、“変な”騒ぎ立てをするのは、「過剰な反応である」と私は思います。
変に騒ぎ立てているのは、むしろ北の国を擁護したい勢力ではないかと思います。日本政府はもちろん、自民党の反応も実に自然なこととワタシには感じられます。
長文失礼いたしました。m(_ _)m
私も友人とセイピースプロジェクトという反戦運動やってるんですが、そこのブログにトラバさせて頂きました。
今後とも勉強させてもらいます。それでは!
コメントありがとうございます。藹です。
当該幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させている事実が、「勅語を強制している」という評価は、KWATさまは失当である、というお考えでいらっしゃると理解させて頂きます。
そのお考えに基づいてお聞きしたいのですが、「勅語を強制する」とは、どういう意味でしょうか。
つまりは、どういった指導をすれば『強制』していると評価されるのでしょうか。
私は、「強制」云々の問題ではなく、「暗唱させている」という事実に問題を感じています。
何故、勅語を暗唱させる必要性があるかの当該園長からの具体的説明が、無い訳です(あったのかもしれませんが、メディアからはそれを見つけることはできませんでした)。
私のエントリで書きましたように、園長が目的とする事実の具現化・実現化のために、他の手段があるのです。勅語でなくとも、12の徳目を教えてあげることはできます。勅語を使用したという事実は、園長が言う目的以外の目的があると推認することは、困難ではありません。
事実、当該園長のブログでは、たいへん保守的なお考えをお持ちであることが容易に確認できます。
http://www.tukamotoyouchien.ed.jp/blogn/
KWATさま「過剰な反応である」というご意見に対しては、私はよく解りません。
「勅語の強制」についてご意見を伺えたなら、そのご意見から、それを理解することができるかもしれません。
まず、私のどういった主張がどのように過剰であるかのご指摘、そして過剰とする理由を頂けなければ、私はそれにお応えすることすらできませんしね。
> それに北からミサイルが飛んでくるような時代には「義勇」だって必要だと思います。
「義勇」をどういう意味で捉えるかの違いかもしれませんね。
ただ、「ミサイルが飛んでくる」というご表現から、私のイメージの義勇と同様の理解をKWATさまがされていると思います。
となると、私には「いらん」という考えです。
論点が散漫になりますが…。まあ、今回の北の暴挙によって、義勇を大事にしようと思われる方々が多くなることは自然なことだと思います。ただ、その自然な現象は、危険な現象であるとは思っています。
アメリカにとっては、今回の暴挙は、日本との安全保障(再編問題等)において、おいしいタイミングであったことは否定できないでしょうね。
(KWATさまも、このたびの暴挙を結果論として、部分的・間接的に、奨励されているかのようなご意見みたいですね。)
それでなくとも、発射以前においては、アメリカの陰謀説も流れていましたしね。
日米の連携は、より強化される流れになっていくことは目に見えています。
ただ、今回の北の暴挙で、“変な”騒ぎ立てをするのは、「過剰な反応である」と私は思います。
政府は、冷静な感じですが、自民党内はそうでもないようですね。
初めまして。藹です。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
福祉関係のお仕事をされているんですかぁ。私も、養護施設等、いくつかの福祉施設や福祉活動に関わっております。
それぞれがたいへん厳しい状況(特に財政面)であることは共通しています。
また、法の改定などで現場は大変混乱していることもあります。
私は現場で働いているものではありませんので、全く偉そうなことは言えませんが、様々な問題提起をできればと思っていますが、このブログではできていませんね。
これからも、宜しくお願い致します。
初めまして。藹です。
コメントを頂きまして、ありがとうございます。
それも、嬉しいコメントを。
「解りにくい」とよく言われますんで嬉しいです。
tomさまの「憲法を真剣に考えるブログ」は、まだ少しだけしか読ませて頂いておりませんが、これから確認させて頂きます。
これからも、宜しくお願い致します。
http://kan-chan.stbbs.net/docs/chokugo.html
あと、べつに国が教育勅語を“強制”してるとかいう記事ではないのですから、あまり過剰な反応はいかがなものかと思いますよ。管理人さんも教育勅語の精神そのものを否定されているというわけではないようですし。それに北からミサイルが飛んでくるような時代には「義勇」だって必要だと思います。
TBありがとうございました。
教育勅語をはじめ、学びを深めることができました。
大変分かりやすい指摘です。