使 命 感
今日の新聞に出ていた女優さんの自伝に,「これをするのが使命だと感じた」という趣旨の発言が出ていた。
ここに書こうとしているのは,この女優さんのなさっていることについてではない。「使命(感)」という言葉についての一般的な感想である。
自分の行っている行為の動機あるいは意義について,「これが使命だから」というのを聞くことがある。そして,その発言について,なるほどと感心することもあるし,うさん臭いと感じる時もある。この違いは何だろう。
辞書によれば,「使命感」とは,「与えられた任務を果たそうとする気概」であるという。とすれば誰(何)から何を託されたのかということ,そしてそれを果たす気概が持てるかという問題になるだろう。
状況に強いられて受動的に何かをなすことに,使命感という動機を与えるのは抵抗を感じる。積極的にある課題を評価して成し遂げようとする気概が使命感であろう。
この場合,取り組もうとする課題の正当性が先ず問われよう。独りよがりに正当性を主張するのは時に滑稽であり,時に悲劇である。課題に対する批判を受け止め,自ら点検する柔軟性が必要だろう。
さらに,取り組む主体の気概が問われる。わたしはその気概が自分の歓びから発したものでなければと考える。愛する家族を守ろうとする使命感はその典型だろう。他人あるいは何かのためではなく,自分のためであるという自覚が必要である。
1月14日のブログに,人間は本来利他的な動物で,それは利己的な動機から発しているという趣旨のことを紹介した。
マリア・テレサさんは,神の啓示を受けて貧しい人たちへの医療活動を始めた。中村哲さんは,医療行為では満たされない自分を感じて,アフガニスタンに灌漑水路を敷設した。その途次でつらいこと,うんざりすることがあっただろうことは想像するに余りある。しかし,この方々の根っこには,それを遂行する歓びがあったに違いないと思う。
行為の「正当性」を無知や虚飾から主張し,打算や邪悪な意図をもって使命感と称するのは,恥ずべきことである。
自分の過去を振り返り,恥ずべき行為が無きにしも非ずと,いささか苦い思いをかみしめている。
手 袋
今日は定期健診で病院へ行ってきた。
この病院は,無料送迎車を出してくれるので,非常に助かる。
車に乗る時,運転手さんは消毒スプレーをかけようとして,わたしが手袋をしているのを見て,手がきれいだろうからと言って,スプレーを止めた。ちなみに,わたしは外出時にはコロナ感染予防も考えて,100円ショップで買った軍手をすることにしている。
車を降りて病院に入る時,わたしは手袋をはずして消毒スプレーを手にかけた。
診察を待つ間,手に消毒液をかける意味をあらためて考えた。自分を汚染から守るという意味もあるだろうが,公共の場所に入るときのスプレーは,そこにウイルスを持ち込ませないためであるのが主目的であろう。とすれば,今朝手袋をしたまま乗車したのは間違いであった。車内のあちこち触るのは,消毒済みの手でなければならない。
運転手さんごめんなさい。これからは手袋をはずして,スプレーをかけてもらって乗車します。
なお,今日の診察で飲酒について聞かれ,ドクターの命令通り週一回は休肝日にしていると褒められるつもりで答えたところ,肝臓γGTPの値が高いので週二回に増やすよう命令された。