ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

47年後の再会:You are my sunshine

2018-01-24 22:26:15 | 思い出のエッセイ
2018年1月24日

今日も古い話にお付き合いください。


 弘前でこんな懐かしい昔の映画看板を見た。

4月中旬から一ヶ月ほど日本に滞在した2013年のことである。ちょうど桜の季節で、故郷弘前の桜を観ようと妹に誘われて彼ら夫婦と一緒に東北自動車道路を行きは8時間、帰路は9時間をかけて往復してきた。

故郷の桜を最後に目にしたのはわたしが20歳ころのことで、以来ずっとその季節になると見事な弘前公園のさくらを恋うことはあっても訪れる機会がないままに、47年の歳月が過ぎていた。


若かりし日の裕ちゃん

公園一杯がさくらで埋まる光景を胸にいだき訪れた4月も中旬過ぎの弘前は、思ったよりもグンと寒く、わたしが滞在した3日間ではついぞ固い蕾が開くことはなかった。47年ぶりに見に行ったと言うのにつれないヤツめ、と悔しがりながらも、これは「もう一度来ないとわたしの優雅華麗な姿は、そう容易に見せてはやらぬぞ」と言っているのだろうと思い直した。

桜をみることができなかったのは残念だったが、4月に一時帰国するとのブログ記事を目にした高校時代の同窓生の一人が、「ソデが帰ってくるみたいだぞ」とニュースを広めてくれ、嬉しいことに急遽、歓迎会をという段になったようだ。音頭を取ってくれたのは我が友を中心の女子たちだ。

その友がメールで言う。「サプライズがあるよ」。会場は何かのときに必ず同窓生が集まるという行きつけのスナック「あすなろ」だ。同窓生の一人が経営している。


小雨が降ったり止んだりのその日の夕方、わたしはポルトガルから持ってきたワインのVinho Verde「Alvalinho」を手に二人の同窓生と連れ立ってスナック「あすなろ」へ足を向けた。嬉しいことに恩師もおいでになり、一人二人と知った顔が集まっておしゃべり飲み会は始まった。「あすなろ」は完全に貸切状態になっていた。

恩師や同窓生たちとは卒業後初めてわたしが出席した2004年の一期会同窓会で39年ぶりに再会している。

やがて少し遅れて「あすなろ」のドアを開けて入ってきた男子(こう呼びたいw)が近づくなりわたしに「俺を覚えてる?」。一瞬名前が出てこなかったが、あ!とすぐに思い出した。

「次回ソデが来るときは是非連絡してくれ」と言っていたので声をかけたのだと友が言う。ふむふむ、これがサプライズだったのか^^高校卒業以来の再会だ。

小○君とは色々懐かしい思い出がある。よく青臭い議論を闘わしたし、わたしは彼から当時の恋人の相談を受けたりして彼の家を訪ねることもあった。結局恋人は他に嫁ぎ彼と結ばれることはなかったのだが。

校内の文化祭では二人が中心になり喉自慢なる出し物を作ってみた。彼はトランペットができたので、わたしはウクレレ、ビブラフォーンを担当しそれにギターを加えての即席バンドを結成し、今からすればなんとも不可思議なバンドではあった。このバンド結成とプログラムを進める上で二人の意見が合わず大いにやりあったことを覚えている。

飲みながら食べながら、「二人で歌ったのを覚えてるか?」と彼が言う。「お前が歌詞を教えてくれてYou are my sunshineを歌ったんだぜ」それを今でも覚えてる、歌えるぞ」 騒がしいおしゃべりの中、二人でその歌をハモってみた。

♪You are my sunshine, my only sunshine
You make me happy when skies are blue

学生時代の音楽ではいつもそうであったように、わたしはそのときも低音部を歌った。歓迎会で市会議員の顔を捨てた小○君と47年ぶりにハミングするYou are my sunshineはお互い声の張りもすっかりなくなったが懐かしい学生時代に我らを帰らせた一瞬ではあった。

10人ほども集まってくれた歓迎会がそろそろ興に入ろうかと言うころに、再び「あすなろ」のドアがスーッと開き雨傘をたたんで入ってきた御仁がいた。その瞬間、「あっ!」と声にこそ出さなかったが内心はまさにそれであり、わたしは目を見張った。それは、高校卒業しなに、「5年後にこの喫茶店ひまわりで逢おう」と約束をした、あのK君だった。(こちらのエピソード「探し物は何ですか?」に登場しています)


弘前はステキなカフェが多い

痩せもせず太りもせず昔とたがわぬ姿のK君が「こんばんは」とメンバーの中に入ってきた。これが友の言っていたサプライズだったのだ。

しかし、どうして彼ら同級生たち、知ってるのだ?我ら、周囲に気づかれないよう密かに付き合っていたつもりであった。付き合うといってもせいぜい当時は学校で禁じられていた喫茶店でお茶を飲んだり、手紙の交換をしたりくらいである。


弘前

北海道の大学に進学したK君と片や進学を諦めて東京から大阪へ移動したわたしだが、卒業を前にして、少し言い合いをした。やがて音信不通になり、自ずとそれぞれの道を歩むことに相成り、以後一度も人生で交差することはなかった。

それで、彼ら、どうして知ってるのだ?なのである。「なに言ってるの。知らぬは本人ばかりなり。みんな周囲は知ってたさ」と同級生たちが言う。よくある話ではないか。

お久しぶり。とお互いに挨拶。
なんじゃいな、この挨拶は(笑) もう少し気の利いた挨拶の仕方はなかったものかと後で思ったのだが、懐かしい思いとは裏腹に、歓迎会に集まったメンバーたちの中にいては、ついつい遠慮も出てしまい、47年ぶりの再会だと言うのに、小○君との様にワイワイとは行かず、なんというぎこちなさ。却ってサプライズを用意してくれた友には「悪かったかな」などといわれる始末であった。

友よ、悪くはなかったよ。嬉しかったです。ただ気持ちの準備ができていなかった・・・^^;だからこそサプライズなんだけどね。それにズルイよ。K君はわたしの歓迎会と知ってきたのではないかいな?と愚痴るも後の祭り。

後日、この日のことを振り返ってみると、自分のウブさがちょっとおかしかった。「やぁやぁ、お久しぶり!お元気?」くらいにK君に言ってやっても良かったのだ。

その後、会合では、小難しい文章をよく書いていた、理解するのが難しかったぞとK君を含め男子数人の酒の肴にされたわたしだが、群れの中に簡単に入らなかった高校時代のわたしを、今こうして同窓生の一員として迎えてくれる彼らに心から感謝したのであった。

同窓会というのは面白い。忘れかけていた、もしくは忘れてしまっていた遠い昔のエピソードが、同窓生の口からポロリポロリとこぼれる。

「お前が家出をするっていうから、俺と○○と二人で夜インスタントラーメンの差し入れにお前んちへ行ったのを覚えてるか?」と突然、同窓生の一人。

うげ!そんなことあったっけ?家出はしたが、差し入れのラーメンはさっぱり覚えていない。わたしの記憶もいい加減なものである。

別れ際、「もうこれで、死ぬまで会えないかもしれないね」と小○君。おいおい、それはなしで行きましょう。また、来ます。また会います。そして、「お元気で」と47年ぶりに再会したK君とは握手して歓迎会を後にした。

これが5年前の出来事だ。
今年、2018年の5月には昨年秋にはもう妹夫婦と行く弘前のホテルの予約を入れており訪れることになっている。5年ぶりに同窓生たちに再会できるのが実は待ち遠しいくてたまらないのである。

人生のカラクリは縦横に絡んで、今は我が人生を豊かなものにしてくれている。

「Nothing gold can stay.(若き日の黄金の輝きは永遠に続かない)」とは、アメリカの詩人、ロバート・フロストの詩の一節なのですが、若い頃の瑞々しい輝きは失われても、いぶし銀が輝くように生きようではないか。

では、また。


人生はカラクリに満ちている(2)

2018-01-23 10:26:09 | 思い出のエッセイ
18年1月23日 

この後、わたしたちは時々電話でお互いの近況を語ってきたのだが、この9月、わたしが帰国した折に40年ぶりに再会することができた。みなさま、40年ですよ、40年!10年ひと昔で、20年がふた昔、
そのふた昔が二回繰り返す月日の流れですぞ。

ところがですね、このわたしのすることと来たら、まったくもって情けない。いやもう、毎度のことではあるが、我ながら今回はがっくりコウベも双肩に陥没、入る穴を探す気力も失うほどの大失敗をしでかしてきたのでありました。

会う約束の当日、「ああ一体、彼女はどんな風に変わってるだろうか」と胸膨らませて、西船橋で電車を乗り継ぎ、子供たちのアパートからかなり近いところに住んでいる彼女の家の駅へ向かった、電車を下りた、待ち合わせ場所の改札口へゆっくり足を運んだ。

改札口には・・・・誰もいない・・・・ひとっこ一人いない・・・・ふむ、ちょっと遅れてくるな?と合点し、ドキドキしながら改札口の内側でしばらく待った。が・・あれ?現れんぞ^^;

そこで当時は日本で使えるケータイを持ってないわたし、赤電話でまずは彼女のケータイへダイヤルを回すが、応答なし。次には自宅へ電話をしたが、ウンもスンもない。 おい!と少し胸騒ぎがした。もしかしたら、電話番号を間違って控えたのかもしれない。

会社で仕事をしているモイケル娘のケータイへ確認の電話を入れたのだが、こっちもウンもスンもない。何度電話しても出ない!(後で娘が帰宅して分かったことだが、この日に限ってモイケル娘、ケータイを家に忘れていったんだと~!出るわけがございんせんわい)

何度も何度も我が友モリのケータイに電話を入れ、やっと出た彼女に
「今、あなたの家の駅にいる」と言うと、
「え、駅ってどのえきぃ~?」
「だから、ほら、○○○駅よ」
「あ、あぁた・・・」
@@@@@@!!!

待ち合わせ場所はそこじゃなくて船橋駅じゃとーーー!

頭で鐘が鳴ります、ギンゴンゴ~~ン。もう慌てました!足がもつれるほどに走って来た道を電車で逆戻り!あぁあぁあぁ、これだもんなぁ、わたしって^^;これが40年ぶりの再会に起こることか!

ようやく我が友に40年ぶりに再会したのは約束の時間を過ぎること一時間とは、なんちゅう情けなさ。

行き交う人の多い船橋駅で、それでもわたしたちはすぐにお互いを見つけることができた。
わたしの中の彼女のイメージは、「背の高い大柄のモリ」だったのが、その記憶を訂正しなければならなかったのでした。

「あなたがアメリカへ渡ったと風の噂を聞き、カリフォルニアへ旅行に行った時もこの広いアメリカのどこかに、あなたがいるんだと思ったものよ。ホントにずっと探してた。こうして再び会えたなんて夢みたいだ」

声も話し方の癖も中学時代の名残があり、わたしたちはお互いの過ぎ越しを交歓しながら40年という時空をまるで取り戻しでもするかのように、ひたすらおしゃべりしたのでした。


あれから40年も経ってしまったのが嘘のように、あの頃の親友同士時代に戻れたわたしたちでした。もう行方がわからない、なんてことはないよね。こうして、お互いが無事今日まで生きてこれたことに、そして再び会えたことに、心から感謝して。

うん、人生は凄いカラクリに満ちているなぁ。

今日は普段にも増しての長い記事、最後までお付き合いいただきありがとうございました。みなさんにも、こんな素晴らしい人生のカラクリが分かるような出来事が訪れますように^^

人生はカラクリに満ちている(1)

2018-01-20 21:11:48 | 日本のこと
2018年1月20日

誰の言葉だったか忘れたが、60が近づく頃ともなると人間どういうわけか同窓会とやらが気になるのだそうだ。

気になるのは同窓会よりもむしろ同窓生だとわたしは思うのだが、その同窓会へのいざないのきっかけが、数年前、母校卒業後40数年もしてある日突然、わたしにはやってきたのである。

小学校、中学校、高校と、わたしの学校歴は西宮と大阪での中学校時代の1年を除いては弘前だ。小学校時代は究極の内弁慶だったわたしは(本当だってばw)、妹と隣近所の同年代の子供たちが遊び仲間で、学校内の友達はあまり記憶にない。

その隣近所も、下町の祖母の家に大所帯で住んでいたのが、時計屋をしていた叔父が、他人の保証人を引き受けたがためにとばっちりを受け、他人の借金を肩代わりする羽目になり祖母は泣く泣く家を売却して、大家族は離散となったので、あの頃のガキ大将時代(わたしは大将であった^^)の仲間たちが、今はどこでどうしているのか分からない。

中学時代の親友はいたが、中学三年生の1年間を転校して西宮、大阪で過ごしたのと、中学時代の友とは高校も違い、結局離れ離れになってしまった。

読書に没頭した高校時代は、もちろん人生を語り合った友人が幾人かはいたが、それも卒業後、大阪へ出たわたしは糸の切れた凧のように、消息を絶つようなことになってしまい、気がつけばいつの間にかヨーロッパの西の端の国、ポルトガルに居ついていた。

こんな風にして、弘前の同窓生たちとは半世紀近く交信することもなく来たのだが、ある日、何とはなしに、「Web 同窓会・ゆびとま」(現在このサイトはどうなってるのだろか?)にアクセスし、たった一人しか登録されていなかった。

記憶にない同期卒業生の上に自分の足跡を残して来たところが、登録していたY君からある日、「君を覚えています」とメール連絡を受け、そうして同窓生の口から口へと輪が広がり、それが機になって卒業後、行方不明を意味する空白になっていたわたしの卒業生名簿の住所欄は40数年ぶりに埋められることになったのだが、さてさて、この長い前置きに辟易しておられる方もおるでしょう。

しかし、本題はこれからなのであります。以下、2007年8月の日記を引用します。

亡くなった写真家の星野道夫さんは書いた。「人生はからくりに満ちている」と。今日、わたしはその言葉に改めて感じ入り、ひとり胸にジンと来ているのだ。

いつもの習慣通り、ある日の朝メールボックスを開くと高校時代の友から一通入っていた。彼女からは二日ばかり前にメールがあったばかりで、まだ返事を書いていない。書き忘れたことでもあったかな?と思い何気なく目を通したメールには、

「あすなろのママ(同じく同窓生で弘前の彼女のスナックあすなろは南校卒業生たちの集いの場となっている)にお願いされました。

あなたの中学時代の友人、森○江美子さんって覚えてますか?昔、手紙をもらったのだけど返事が書けないまま、住所も分からずずーっと気になって探してるとのこと、連絡欲しいそうです。」

近年メールを受け取ってこんなに驚かされたことはない。彼女の名をこんなルートで聞かされるとは、想像だにしなかったのである。

あの頃の彼女の呼び名を呟いてみる。13、4のわたしたちが浮かんで来て、懐かしいほろ苦い思いがこみ上げてくる。音信が途絶えてあれから幾星霜過ぎただろうか。

彼女は中学時代の仲良し友達三人の一人であった。中学2年でわたしは大阪に、彼女たちは弘前に。帰郷して受験した高校もお互いに違い、三人仲間のもう一人は、中卒後就職列車に乗り北陸へ。わたしたちは離れ離れになったのだ。

やがてわたしは大阪へ、森○は東京へ。その後、21の歳に大阪で一度再会したきりわたしたちはそれぞれの都会での生活に忙しく、いつの間にか音信を絶ってしまった。もう40年近くの歳月が流れてしまったことになる。

青い夢を、憧れを語り合いわたしたちはいつも三人でつるんでいた。歌真似もよくしたものだ。わたしの思春期の家出の片棒だって担がせた。

その友の名が、記憶の向こうから時を飛び越えて今わたしの目の前にやってきた。メールに記されてある電話番号のダイヤルを回す手が思わず震えました。

0081の047の○○○○・・・・

国際電話の向こうで呼び出し音が鳴っている。心臓がドキドキしている。

「もしもし」と受話器の向こうからあの頃と同じ、太い声。「森○江美子さんのお宅ですか?」と、わたし。
一瞬沈黙の後、「・・・あ!」と彼女の声。森○は、彼女の旧姓である。「わたし、袖」。

この一言で、「ぅわぁ~~~~~!」とお互い言葉にならない歓声をあげた。どのようにわたしに辿りついたかをかいつまんで友は説明する。

先ごろ、弘前で中学時代の同窓会があったので現在住んでいる千葉から出かけた。そこで集まったなかに「サンペイ」がいて(これがちっともわたしの記憶にない^^;)彼いわく、
「あの頃、袖に世話になった。会いたいなぁ」との話になった。その中に、同じ南高校卒業生でわたしを覚えている一人がいて、どうやら、袖は生きているらしい。あすなろのママが知っているかも、となり、スナックへ彼女たちは足を運んだ。

行くや、「うん。この春会ったよ。ほら、これ、袖からもらったのよ。」 こうこうしかじかあすなろのママに事情を話し、パソコンを持たないママは、わたしたとメールのやりとりをしている我が友にメッセージを託したのだと。

人の世は不思議な縁だな、とわたしはここまでの糸を手繰り寄せてみる。

もしも、わたしがかつてyubitomaの南高校卒業生欄に登録しなかったら、わたしを覚えていた同窓生の一人からメールをもらうことはなかっただろう。もしも、彼が他の同窓生たちに声をかけなかったら、わたしは京都で高校時代のかつての親友に会うことは勿論、懐かしい同窓生達に会うこともなかっただろう。

もしも、そのわたしのニュースが広がっていかなかったら弘前までわたしが出かけて36年ぶりに第一期生同窓会に顔を出すことはなかっただろう。もしも、あの時「明日には東京へ帰るから。」と2次会であすなろへ皆と一緒に足を運ばなかったら、そこで新たに今メールのやりとりをしいる友とはつながらなかったであろう。

もしも、・・・・このひとつでも欠けていたら、今日、中学時代の親友に巡り合うことは恐らくなかったことだろう。

かつて我が日記に書いたように、一つ一つの、今自分がすることはそれぞれが小さな点であって、それらがわたしたちの気づかないうちにどこかでつながり、一本の線になるのだと感じられる出来事にわたしは今日遭遇したのである。

このような人生のカラクリは、頭ではなるほどと思うだろうが、ある程度の年齢に到達しないと見えて来ないのかも知れない。

自分が残した足跡を誰かが辿り、いつかまた数十年も前の人との再会を喜び合えることがあるかも知れないだと思うと、人の世の不思議なカラクリに、震えを感じないわけにはいかない。

あまりの興奮に、うっかり結婚後の彼女の苗字を聞きそびれてしまい、手紙を送るのに、翌日もう一度国際電話を入れたのであった。

ー2007年の日記引用終わりー

とまぁ、こういういきさつで、中学時代の親友と40年ぶりに連絡がとれたのですが、後日談を明日にいたしますれば。
本日はこれにて。

マキアヴェッリに学べ

2018-01-19 09:38:26 | 日本のこと
2018年1月19日

自分たちの国の運命を他国の軍事力に頼ってはならない。
(まるきり人の軍事力に頼ってる日本ではある)

全ての都市、すべての国家にとっては、領国を侵略できると思うものが敵であると同時に(うん、いるいる。それも大小3隣国だ!)それを防衛できると思わない者も敵なのである。 (いかにも!国内にも敵はあり
君主国であろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他国に任せたままで自国の安全が保たれると思ったであろうか。政治上の無能は経済上の浪費につながる。(ほんとにその通り!IMFやらODAやら外国人生活保護費やら、震災復興予算費流用やらの浪費をあげつらったらきりがない)政治上の無能はしばしば節約を強いる部門の選択を誤ることにつながる。
(ズバリ、過去の民主党レンホーの仕分け作業)

都市(国家)は、軍事力なしには存続不可能だ。それどころか最後を迎えざるを得ない。最後とは、破壊であるか隷属(怖いほどに感じる)である。

普通、人間は隣人の危機を見て賢くなるものである。 (チベット、ウイグルを見よ!)それなのにあなたがたは自ら直面している危機からも学ばず、あなた方自身に対する信ももたず、失った、または現に失いつつある時間さえも認識しようとはしない。運は、制度を変える勇気をもたないものには、その裁定を変えようとはしないし、天も自ら破壊したいと思うものは、助けようとはしない。助けられるものでもない。

個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。 (口先と金のバラマキだけではダメ。慰安婦問題しかり

都市(国家)は全て、いかなる時代であっても、自らを守るためには、力と思慮の双方を必要としてきた。なぜなら、思慮だけでは十分でなく、力だけでも十分ではないぁらである。思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、力だけならば、実行に移したことも継続することはできない。したがってこの二つが、いかなる政体であろうと関係なく、政治の根本になるのである。この現実派、過去においてもそうであったし、また将来においてもそうであることに変わりはないであろう。(力のない正義は無力だということだ

竜に一人一人順に食われていくのがいやならば、竜を皆で殺すしかない。(脱亜論にのっとる

上記、まさに現在の我が国に向けたメッセージそのものに捉えられる。が、実はこれ、以前一気に読んだ本、塩野七生氏の「我が友、マキアヴェッリ」の中からの抜粋なのです。赤字はわたしの突っ込みです。

世紀のイタリア、ルネッサンス期のフィレンツェ共和国に使えたニコロ・マキアヴェッリはさほど裕福でない中流家庭に生まれ、高等教育、今で言う大学を受けていないノンキャリア官僚だったとのことで、このあたりから引き込まれて読んだところが、んまぁ、あたかも我が国の政治家たちに言って聞かせているような、上記のマキアヴェッリの言葉であります。権謀術数のマキアヴェッリと言われるものの、至極まっとうな言葉ではありませんか。

この当時のフィレンツェ共和国は、四方を海に囲まれた島国の日本とは地理的条件は違っているものの、現在の日本同様、繁栄力の反面、軍事力を持たず、いざというときには傭兵に頼っていたのです。政府の優柔不断ぶりを、会談に於いては若きチェーザレ・ボルジアをして「あなた方の政府は嫌いだ。信用ができない。変える必要がある」とまで言わしています。このあたりも今の日本政府にそっくりそのまま聞かしたい部分です。

ノンキャリアであるがため第二書記局書記官の職以上は望めず、それでも祖国の独立を守ろうとするマキアヴェッリの東奔西走にも拘わらず、フィレンツェ共和国はやがて滅亡するのでが、読み進めながら、フィレンツェ共和国の姿が我が祖国と重なり、暗澹とした気持ちに襲われます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとはドイツ初代宰相ビスマルクが言った言葉ですが、今の日本の政治家は、自国の歴史は愚か、世界の歴史に学ぶなど及びもしないのでしょうか。手がけるべきことも何一つ進められず、「近いうちに」と無責任は留まるところを知らない。ほとほと嫌気がさしています。

外から見てると、過去の歴史にもないような異様な姿に近年の日本が見えるのだが、気のせい、歳のせいであろうか。そうであることを願わずにはいられない昨今です。

東のポルト屋とポルトガルニュース

2018-01-17 18:10:38 | 東のポルト屋ショップ
2018年1月17日 

久しぶりにポルトは雲ひとつ無い真っ青な空です。


こんな青空の下、自動車道路で車を走らせ、今日は10時から某企業のおエライさんの日本語レッスンへ行き、その後スペイン系のデパート「エル・コルテ・イングレーズ(El Corte Inglês)」で買い物をして着ました。

店内では1月に入るなりすぐバーゲンセールが始まったのですが、実は先週夫に話して許可を得、買ってきたものがこれであります↓


スーツケース、うふふふ。 もうすぐ帰国かって?いえいえ、まだちょっと先になるんですけどね、気が早いのと、4割引というのに惹かれ買ってきました。3年ほど前に買ったものにまだ十分使えるのがあるのですが、実はこれ、二つ持っていくスーツケースの一つなのです。

数年前から、23キロの手荷物がを二つ持っていける、持って来られると言うので、昨年までスーツケースは一つにし、もう一つは段ボール箱に日本食品等をぎっしり詰めて持ち込んでいたのですが、こちらの空港で通関する時、必ずや止められるのです。

段ボール箱が係員の目を引くのじゃないか?と思ったもので、今回は少し小さめのスーツケースを買ってきたというわけです。これにぎっしりと本やら食品やら詰め込んで来るのさ!と考えて眺めるだけで、思わずうっふっふなのです。単純なわたくしでございます。

みんな、春になったら行くからね、待っててや!

これは閑話休題として、さて、本日の本題、「東のポルト屋」。
我がモイケル娘が店長なのですが、クリスマスから10日間ほどの休暇をとり、「東のポルト屋」サイトをもっと賑やかにしようと手を入れる予定だったのが、風邪でダウンしたようでせっかくの休暇もクリスマスも正月も寝て過ごしたようです。

幸い、婿殿が厨房に立つをいとわぬ御仁なので、娘の食事はあまり心配なかったのですが、こういう時、すぐに飛んで行って手伝ってあげられないのが、母として残念です。

そんな訳でサイト更新が遅々として進まず、代わり映えしなかったのですが、やっと少し手を入れ始めたようです。
トップページはこちら→ http://www.higashinoportoya.com/

今回はポルトガルの伝統刺繍のひとつ、フィレ刺繍もこちらで見ることができます。
http://www.higashinoportoya.com/bordadofile/

この手作りのフィレ刺繍ですが、わたしはファンです。日本の友人知人には必ず持っていくお土産のひとつなのです。まだ、ポルトが今のようにツーリストが訪れず、寂れていた頃、(それがまたそれなりによかったのですが)暇を見ては良く歩き回って写真を撮っていたのです。

ダウンタウンのとある伝統手芸品を売る店で見つけ、すっかり気に入ってしまったのです。以来、その店に立ち寄っては買い付けるのですが、中には注文して作っていただいたものもあります。

フィレ刺繍は後継者がいなくて、なかなか目にしない伝統工芸です。とても残念に思い、わたしはブログではもちろんのこと、ヨーロッパ在住の日本人会員向けの雑誌にも取り上げて、紹介しています。



こちらはポルトガルのキチン雑貨です。
http://www.higashinoportoya.com/kitchen/

お時間がありましたら、是非「東のポルト屋」にお立ち寄りくださいませ。冷やかしでも結構です^^

また、サイト右欄では「ニュース・ポルトガル」もいつの間にか更新しています(笑)
日本で今ブームのAnelloリュックについても一言、書いています。

と、今日は親バカなのでありました。本日はこれにて。