ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃、ビアハウス:第1話 サントワマミー

2018-01-27 16:13:37 | あの頃、ビアハウス
2018年1月27日

記憶が薄れないうちにと、思いに任せて一挙に綴った「あの頃、ビアハウス」のエピソードを書き直してみます。歌っていた当時は意識していませんでしたが、梅新アサヒビアハウスが大阪では老舗も老舗、当時の関西経済人や文化人が毎夜集った最古のビアハウスであり、その全盛期に自分は身を置いていたという幸せを今にしてじんわり感じています。
     

ネットで拾った昭和26年のビアハウス。

アサヒビアハウスで歌われていた歌はドイツ本場のビアソングを始め、1900年代も半ばのロマン香る古き好き時代の歌が多くを占めていました。わたしが生まれる以前にこんなにも素晴らしい映画や歌が数多くあったことを、アサヒ・ビアハウスで知ることができました。

それらの歌を聴けば、思い出さずにはいられない名物客たちにまつわるエピソードを、身近に見てきたわたしが書かずしてなんとする?

稚拙な文章でもの足りないところもあるでしょうが、アサヒビアハウスを通じて人生の楽しみ方、お酒の飲み方を学ばせていただいた我が恩師たちでもある常連さんたち、そして、若い人たちが知らないであろう、あの頃のアサヒビアハウス梅田で歌われていた古き良き時代の素敵な歌の数々も併せて、わが記憶を紐解きながら、常連の名物客一人ひとりに登場していただこうと思います。


あの頃ビア・ハウス:第1話:「サン・トワ・マミー」



人は、それが苦しいことであれ楽しいことであれ、それぞれの人生に「とっておき」の話をもっているものである。わたしがここで取り上げていく話は自分のをも含めて、「ねね、あのね。」と、人に披露してみたいと思ってきた1975年からのアサヒ・ビアハウス梅田での思い出である。
  
大阪梅田新道(通称梅新)の交差点の一角に、同和火災ビルと言う古い建物があった。今ではそのビルは改築され、同和火災フェニックスタワーと名を変えて、日本の都会のどこにでもあるような、見るからにモダンな姿に変貌してしまったが、かつては重厚さと威厳を持ち備えた大理石仕込みの古いビルであった。

わたしがそこに足を踏み入れたのはホンの偶然からである。当時のわたしの勤務先は、北新地の真ん中にあり、飲みのが好きだった上司や
同僚たちと会社が退けてから毎晩のように周辺の盛り場へ繰り出しては2次会3次会へとなだれ込んでいた。アサヒ・ビアハウスは、そんなある夏の日に、わたしたちが何気なしに入り込んだ2次会会場だったのである。

御堂筋に面したビルの横の小さな入り口をくぐり階段を地下へと下りていく。そして、大きな少し重いガラスドアの向こう側に「梅新アサヒ・ビア・ハウス」の世界があった。店内は少し薄暗く、扉を開けて一歩足を踏み入れたとたん、わたしたちはホール内に充満した熱気と喧騒をドッと浴びた。オフィス仲間のわたしたち6、7人はホールの端にある分厚く古い木のテーブルに陣取り、生ビールを飲みながら
いつもの如く判で押したように、オフィスの話で盛り上がっていた。

すると、ホール中央の壁よりにある小さなステージに二人の男女が上がったと思うや、威勢のいい演奏が始まった。アコーディオンとリズムボックス、それにドイツ風の民族衣装をつけてハットをかぶった歌姫が一人、ビア・ソングを歌い始めたのだ。
  
しかし、歌姫が何曲か歌い終わるや、店内の客席から歌姫に名を呼ばれて客が立ち上がり、ビア・ジョッキ片手にステージに上がって歌い出すではないか!歌姫はといえば、3曲ほど歌っただけで、後半のステージは歌う客たちの独壇場であった。それは今で言う「カラオケ」の走りである。今のようにカラオケなどなかった時代だ、「生オケ」とでも言うべきか。

「これは愉快だ!」飲むほどに俄然気が大きくなり陽気に騒ぐ我がオフィスの飲み仲間達。「おい、yukoちゃん、おまえも歌え!」との彼らの言に、お酒が入ると調子に乗りがちなわたしは仲間のリクエストに応えんがため、かくして初めて人前でマイクをにぎったのである。

オフィス仲間の一人がホールの誰かに告げたらしく、ステージの側に来いと言う。「歌謡曲、演歌はだめです!」と歌姫嬢が言う。「あの・・・この歌、できます?」

   ♪ふたりの恋は おわったのね
   ゆるしてさえも くれないあなた
   さよならと 顔も見ないで 去っていった男の心
   楽しい夢のような あの頃を思い出せば
   サントワマミー 悲しくて 目の前が暗くなる
   サントワマミー            

サルバトール・アダモの「サン・トワ・マミー」である。

都会での女一人暮らしだったわたしである。月々の給料でカツカツの生活だったが、わたしにとって、歌は聴くことも声をだして歌うことも大きな心の慰みだった。人前で歌うことはなかったが、テレビを持たなかった当時、小さな自分のアパートにいる時はバカの一つ覚えのアルペジオでギターを伴奏に、時のたつのも忘れて歌い続けていたものだ。

ステージでなんとか歌い終わった後、客席から大きな拍手をもらい、歌のお礼にとビアハウスからもらったジョッキに一杯の生ビールを手に仲間のテーブルに戻った。わたしは、恐らく少し上気した顔だったろう。なにしろ生まれて初めて、小さいとは言え、いわゆるステージなる場に立ち、聴く人を前に歌ったのであるから。
   
「サン・トワ・マミー」はアサヒビアハウス梅田のアコーディオニスト、ヨシさんの伴奏でわたしが歌った初めての歌だった。

第2話は「ただ一度の贈り物」です。


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