読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主

2024年06月01日 | 小説・文芸

図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主
瀬尾まいこ


 瀬尾まいこは、今まで2作品ほどここにとりあげているが、最近さらにまとめて3冊ほど読んだ。
 で、彼女の作風というかテーマというのがおぼろげながら見えてきたのでここに書いておく。いまさらここに書かなくても周知の事実なのだろうけど。

 この人は、お約束の役割分担規範というものに疑問を持っている。それがとくに顕著なのが各賞受賞の「幸福な食卓」であろうが、ここでは家族構成員の役割、「父親」という役割、「母親」という役割、「息子」という役割、「娘」という役割の解体が試されている。単なる解体ではない。解体しても「幸福」は維持できる、という挑戦がある。話題作だった「そして、バトンは渡された」も同様と言えるだろう。

 「強運の持ち主」では各連作において占い師を狂言まわしにしながら父親や母親というものをいじくっている(ついでに「占い師」のステレオタイプもいじくっている)し、「図書館の神様」や「あと少し、もう少し」では、学校の先生というもののステレオタイプを剥ごうとしている。他の作品も多くはそうなんじゃないかと予見している。

 ものの情報によると、瀬尾まいこは、長いこと学校の先生をやっていたという。学校とか先生というのはきわめて役割分担意識を強く醸成する環境なんだろうなとは想像に難くない。「先生」として期待される立ち振る舞い、「生徒」として要求される言動、さらには生徒の保護者である「母親」「父親」のカリカチュアされた姿に日々さらされることだろう。

 だけど、こういう規範はすぐに手段と目的が逆転する。父親らしく、母親の義務として、先生なのだから、学生として、としてあらねばならない規範に縛られるようになる。瀬尾まいこは教師生活の中でこの問題意識がどんどん大きくなっていったのではないか。要は幸福であれば、成長できれば、何かがわかれば、誰がどのように作用しようともいいのではないか。いや成長しなくっても、生きててよかったと思えればそれはそれでいいのではないか。
 
 しかし、それでは単なるアナーキーイズムである。アナーキーであることはこれはこれで手段と目的が逆転しやすい。
 瀬尾まいこの作品は、役割分担規範に縛られるのは閉塞感を生むが、それはそれなりに良いこともある、というバランス感覚はありそうだ。「父親」だからこそできること、「母親」だからこそ説得力があること、「先生」だからこそ動けること、「生徒」だからこそ許されること、というものは確かにあって、それはそれでうまく使えばよい。このあたりの上手な感覚をうまく使えばよい、というのが瀬尾まいこの作品の真骨頂なのではないかと思う。
 瀬尾まいこの全部を読んだわけではもちろんないけれど、全体的に、女性キャラにまじめだけど無感動の人が多く、男性キャラに変に超越しちゃった悟った人が多い印象を与えるが、これさえ「男性」「女性」という性別役割分担規範をあえて批評的に再構成させたものなのかもしれない。


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アフターデジタル2 UXと自由

2022年12月21日 | 経営・組織・企業
アフターデジタル2 UXと自由
 
藤井保文
日経BP
 
 
 先日、UX検定基礎というのを受験してみた。
 
 ここんとこずっとDXが盛んである。DXであらずんば人にあらずとでも言わんばかりだ。こういう流行りマーケティング用語は要注意なのはわかってはいるが、しかしデジタルとサステビリティ以外はもう人間に求められる仕事はないよ、という指摘もあり、ぼくももう少し会社の中で居場所を確保して給料をもらわなければならない。齢50代という、会社組織においてお荷物になるかどうかの瀬戸際である。
 
 しかし、いまさら50代のおっさんがDXの勉強を始めても、本当に若い連中の「邪魔しない」程度にしかならないだろう。デジタルネイティブ世代が空気のような肌感覚でじゃんじゃんやっているのだ。その時流を受けながらもちょっとだけでも付加価値ついたポジションでうまいこと食いつなげられないだろうかなどと姑息なことを考えてたら、UX検定というのがあるけど受験するなら会社から経費使うの許すぜ、というお触れがまわってきた。なるほどこれがリスキリングというやつか。
 で、頬杖つきながら案内文を眺めていたら、課題図書に本書が挙げられていた
 
 もともと著者の「アフターデジタル」という本は読んでいた。この本の内容はわりと面白かった。その後「アフターデジタル2」という続編が出ていたのは書店通いで知っていたし、「2」も面白い、というのを小耳にはさんだりもした。
 しかしまあ、ビジネス書の「2」ものは基本的には蛇足なものがほとんだ。「1」が非常に売れたので編集者がまた書きませんかと著者をせっついて、著者がメインで書きそびれた話やその後に得た知見を追加するものがほとんどなのである。なので「2」の評判はあまり本気にしなかった。
 
 果たして、このUX検定なるものは、推薦テキストが「アフターデジタル2」なのである。なんでまた? と思ったものの、そういうことならばと半信半疑で読んでみることにした。
 
 そして納得した。
 なんと「アフターデジタル2」は「アフターデジタル」を否定しているのだ。(正確には、そういうわけではないのだが、ここはあえてセンセーショナルにこう言ってみよう)。つまり「アフターデジタル」を読んでわかって気でいるビジネスマンは要注意なのだ。
 「アフターデジタル」では中国の企業を例にデジタルを駆使したマーケティングの話がわんさかでてきて、それに比べての日本に絶望的な気分になるのだが、「アフターデジタル2」はそんな中国の事例をそのまんま教科書にしていてはいけない! と喝破してくる。DXだけが先行する社会はディストピアである! と断言する。ユートピアな社会になるためには、DXの前にUXが必要なのだ! というのがこの「アフターデジタル2」なのだ。そうくるか。
 
 DXがデジタルトランスフォーメーションなんだから、UXもなんちゃらトランスフォーメーションかと思ったらさにあらず。UXとはユーザー・エクスペリエンスである。ユーザー・エクスペリエンスとは何かと尋ねられたら、それこそ検定の試験問題になるが、ここはニールセン・ノーマン・グループなる企業の定義を語るのがそれっぽいらしい。日本語で思いっきり端折って書くと「利用者側からみた、その商品やサービスを利用する前から利用中から利用後までに感じたことのすべて」である。
 
 DX社会がディストピアみたいに感じるのは、それが国家や大企業(GAFAのような)の監視社会・管理社会を彷彿とし、利用者である我々を不自由と不寛容のもとに拘束する疑念をぬぐえないからだ。それに対し、UXは徹底的に利用者目線なのである。つまり「アフターデジタル2」の「UX無きにしてDXはありえない」というのは、DXは利用者視点のためにだけ使え、それが最終的には利用者はもちろん企業にとっても社会にとってもWIN-WIN-WINなのだ、ということをうたい上げた内容なのである(この精神をUXインテリジェンスと言うそうです)。
 
 ということは、UXを極めればDXやっている連中にひと泡ふかせるじゃん! ということでわたくしはUX検定を受けることにしたのだった。「アフターデジタル」を書いたDXの第一人者がそう言ってるんだからまんざらのはったりでもないだろう。
 
 ところで、UX検定の課題図書は「アフターデジタル2」だけではない。他にも3冊ほど挙げられている。もちろん、それらは少しずつ違う内容の本であって、検定そのもののまとまった公式テキストみたいなものはない。この検定ができてまだ歴史が浅いらしく、過去問とか想定問題集なんてものもない。手がかりになるのは4冊の課題図書と、「出題範囲」と記された1枚のシラバスだけである。なんとも攻略方針が見えない検定だったのだ。
 
 試験本番は、全部で100問の四択式選択問題を100分以内で解くという、過度に集中力と緊張を強いられるものだった。
 きれいごと半分、負け惜しみ半分で言えば、これらのテキストを通読することで得た知識・気づきは多いにあった。それだけでも十分に甲斐はあった。検定試験に受かるかどうかは、その「ついで」のようなものかもしれない。
 
 たとえば、課題図書の中にはこんな話があった。
 なぜ日本のアニメやコミックやフィギュアがあんなにアジアやUSAの大人たちを熱狂させるのか。彼らからみれば日本は天国だという。これ、UXと関係なさそうな話だが、この考察がたいへん興味深いものであった。連中からみて日本はリバティ(何をしてもいい自由)が保証された国なのだ。DXが進んだ中国や、ネットサービスがきめ細かいUSAのほうが、いまだに現金や書類が行き交う日本よりもフリーダム(不自由から解放された自由)なのかもしれないが、大のオトナが臆面もなく正々堂々とあのような趣味にお金と時間を使って周囲にはばからないことが許されるリバティこそが日本の成熟の証なのである。そうか。本当はみんな自国でもああいうのやりたいのだ。だけど、オトナとして期待される立ち振る舞いやプライドが邪魔をしてできないのである。であれば確かに日本はうらやましい、ということになるだろう。
 学校の授業なんかもそうだったが、こういう「脱線」のほうがよく記憶に残るものである。この話はどこかで使える、と僕の長期記憶に保存されたのであった。
 
 合否の結果が出るのは来年になってから、ということだが、ぼくのDXコンプレックスは果たせるだろうか。

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そして、バトンは渡された (ネタばれ)

2021年08月15日 | 小説・文芸

そして、バトンは渡された (ネタばれ)

瀬尾まいこ
文芸春秋

 

 2019年の本屋大賞のベストセラーで今更感ありありだが、夏フェアで本屋さんで文庫本が平積みになっていたので読んでみた。

 17年間で7回家族形態が変わった優子が主人公である。3人の父親と2人の母親である。
 順目でみれば、バトンとは優子のことであり、走者はそれぞれの「親」ということになるだろう。基本的には出てくる登場人物はみんな善人ばかりである。その限りでは筋書き通りに読んで、微温的というか、ちょっといい話的なライトな小説ということになる。

 だけれど、複数の登場人物が出てくる一人称小説は、違う登場人物に焦点を当てる読み方をすることでまったく違う味わいを考えることもできる。

 この小説の影の主役、いや真の主題は優子の3番目の父親役となった森宮壮介であろう。この視点、そんなに深読みではないはずだ。

 この小説はほぼ全部を優子の一人語りで占めるが、冒頭のプロローグと、物語の最後のブロックが森宮の一人称になる。ここに森宮が何を考え、何を大事にし、何を覚悟したかが見えてくる。


 まず大きな特徴として、この小説は「食事」がひとつ大事な要素になっている。実父である水戸の生チョコケーキにはじまり、水戸と二番目の母親の梨花との離婚の話を言い渡される手巻き寿司、梨花と二人暮らしでの生活費に事欠いての食事調達(パン屋で配る無料のパンの耳!)、大家さんからわけてもらう野菜、二番目の父親である泉ヶ谷家で出されるちゃんとしているが窮屈な食事。高校時代の優子がひとり学食で食べる親子丼。優子が短大を卒業後に就職した山本食堂。早瀬が理想にするレストラン。彼女の人生において、食事こそは自分の心を安定させ、まっすぐに生きていくための原動力そのものだった。梨花との暮らしが貧乏暇なしであっても、高校のクラスでハブられても、しっかり食べられれば彼女はまず元気だった。イタリアやアメリカに修業(?)に行った早瀬に対して、料理はわたしのほうが上手いと思ったものも、食事が人に与えられる力についての信念が優子のほうが上だったからだ(そしてピアノが人に与える力については早瀬にかなわなかった)。

 しかし、優子が発揮する食の力は、森宮の徹底したこだわりによるところが大きい。その力の入れ具合は明後日の方向にむかうこともあるが、かつ丼をつくり、餃子を焼き続け、オムライスにケチャップで文字をかき、たとえ夕食こ2時間後でも夜食のうどんをつくり、優子はその力の入れ具合にあきれながらも、暖かさと優しさをからだにとりこんでいった。優子本人は否定していても、あきらかに森宮から与えられる食事がつくる優子の元気は形を変えながら発揮している。高校の進路希望で「食べ物関係」の仕事にいきたいとした優子がなぜそう考えたかは多くを語られないが、彼女は食事が人に与えるパワーを知っている。

 ところが、森宮がそもそも料理好きとか世話好きとかいうと、さにあらずなのである。冒頭のエピソードで、彼がこんなに料理をつくるようになったのはまさに優子を預かってからなのだ。彼は8年間でレパートリーを「驚異的」に増やした。この食事への執念は、彼の責任感と覚悟の表れなのである。優子が山本食堂に就職するようになると、わざわざ会社帰りにここで食事をするようにもなる。

 毎日かならず食事があるという安心感だけでなく(梨花との生活)、単に栄養バランスがよいというだけでもなく(泉ヶ谷家での生活)でもなく。毎日の元気と幸せそのものでなければならないというのが森宮のつくる料理だ。だから彼の料理にはメッセージ性があふれている。彼が出す食事は「家族」にしか出せないものばかりだ。(彼自身が幼少期のとき、実家の食事はつまらないものだったと言っている)

 もうひとつ。森宮が覚悟したことが「これ以上だいじな誰かが優子の元を離れるという経験をさせない」ということだった。梨花からこの話を持ち込まれたとき、おそらく森宮は気づいたんだろう。優子が持っているおだやかな優等生感。そこには「親」役の大人に多くを期待しない気持ちがある。ひいては他人に対して冷めた距離感がある(本人は世渡りが上手なほうだと思っているが級友からは世渡り下手と言われる)。優子は人生に不満がない。こんなもんだと思っている。諦観がある。それが他人に対していつも一歩引いた態度をとらせる。
 森宮は優子のその諦観を見抜いたのだろう。森宮は休日にひとりで出かけることもしないし、もちろん彼女もつくらない(つくれない?)。そもそもつくる気がない。梨花から話を持ち込まれたとき、彼が決心して腹をくくったのは、梨花の夫になることではなくて優子の父親になることだった。優子の決めることにほぼなにも反対しなかった森宮が優子の結婚相手の早瀬に反対したのが、彼が優子をひとり置いてイタリアやアメリカに飛び出してしまう風来坊タイプだったからだ。
 結婚の前夜に森宮は優子に言う。「いつでも帰っておいで。俺、引っ越さないし、死なないし、意地悪な継母とも結婚しないから」。 

 最終章の森宮のモノローグで、それが「覚悟」であったことが語られる。実際、彼はこれまでの優子の「親」と比べて、自分の父親としての資格に劣等感があった。血もつながっていない、小さいころも知らない、裕福でもない。彼にあったのは単に責任感と覚悟だけだ。だから、優子の結婚式で、他の「親」たちと会うのは気が重いし、優子とともにバージンロードを歩く役も自分のつもりではなかった。
 ついぞ優子からは「お父さん」と呼んでもらえず「森宮さん」だったのに、結婚式にて実父を前にして幼少期から何年もあっていないのにすぐに優子が「お父さん」と呼ぶのに忸怩たる思いもした。

 しかし、その後に優子に言われる。「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを超えられないよ。」

 優子の結婚式での森宮の心は「曇りのない透き通った幸福感」だった。「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。」
 そう考えると、梨花から優子を預かったとき、彼もまた何がしかを信じて「自分の知らない大きな未来」という次の走区にむかって自らバトンを渡したのである。


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カラマーゾフの兄弟 ミステリーカット版・第三のチンパンジー・女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

2020年01月29日 | 複数覚え書き

カラマーゾフの兄弟 ミステリーカット版・第三のチンパンジー・女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

 

困ったときの複数覚書き。いわゆる落穂ひろい。


カラマーゾフの兄弟 ミステリー・カット版

ヒョードル・ドストエフスキー 編集:頭木弘樹
春秋社

 編者曰く「エベレストを高尾山くらいにした」という、文学史上最高傑作として名高い「カラマーゾフの兄弟」をたいへん食いやすくした版である。全体の量がおよそ20分の1になっているというから驚異的。
 といっても単なるダイジェスト版ではなくて、原作をうまいこと抜き出してミステリー小説のプロットにしてしまっているところがミソ。この文学の構成をことさらややこしくしているゾシマ神父とかをばっさりカットしてしまっているわけである。
 で、僕は原作「カラマーゾフの兄弟」はまだ完読していないのである。いつかは読んでやろうと思っているもののどうにも優先順位が後回しだ。とりあえず、このミステリーカット版は読んだ。これならものの数時間で読み切れる。それから、「まんがで読破」シリーズのも読んだ。ここまで前知識を得たうえでようやく光文社古典新訳文庫(もっとも読みやすいといわれている)を手に取ったのだが、現在、第3巻の途中で完全に止まっている。やはりミステリーカット版は上澄みの上澄み。「カラマーゾフの兄弟」の真価はそんなところにはない、というのは原作と向き合えばおおいにわかるのだがあまりの重厚長大で目下工事凍結中。いつか再開するときがくるのであろうか。


若い読者のための第三のチンパンジー 人間という動物の進化と未来

ジャレド・ダイアモンド 訳:秋山勝
草思社

ハラリの「21Lessons」を家人が先に読み始めたのだがいっこうに読了する気配がなく、なかなかまわってこないので、いったんこちらを読む。思えば、ダイアモンドのこの本はハラリの「サピエンス全史」よりも早かったんだよなあ。だけど、ダイアモンド流にハラリの「サピエンス全史」から「ホモデウス」までをカバーしちゃっているとも言える。ダイアモンド入門として位置づけられる本だけれど、これ1冊に人類のと希望と内省と教訓がもりこまれていると思う。


1万人のリーダーが悩んでいること

浅井浩一
ダイヤモンド社

ぼくもいちおう部下持ちの管理職ということでたまにこんな本を読んでみる。が、この類の本も何冊か読んでみるとどれが多くの著者が共通して言っていることで、どれが著者特有のものかというのが見えてくる。前者にあたるものは一種の真理とは言えよう。そのココロは「部下が話しかけてきたときはどんなに忙しくても必ずパソコンの手をとめ、話しかけてきた部下のほうに体をむけ、彼ないし彼女の顔をみて、しっかり話を聞く」ということである。ゆめゆめ手も止めず顔も上げずの応対だけはNGなのである。


二十世紀の音楽

吉田秀和
岩波書店

底本は1957年に書かれたもの。ストラヴィンスキーやヒンデミットが存命どころか現役作曲家として出てくる。にもかかわらずここに書かれたクラシック音楽業界が持つ限界、作曲家と演奏家と聴衆という三角関係がクラシック音楽を袋小路に導くことを本書は予言しているのだがまさに現在その通りである。吉田秀和おそるべしである。この人こそは知の巨人だった。巻末に出てくる人名辞典も興味深い。1957年にまとめられた本にあってブーレーズやシュトックハウゼンは出てくるが、ペンデレツキやクセナキスは出てこない。今となってはすっかり忘れられた「現代音楽」の作曲家の名前が気鋭の音楽家として紹介されていたりして栄枯盛衰、弱肉強食を感じる。


女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

西原理恵子
KADOKAWA

この本の感想はこんな断片ではなくてちゃんと一篇として書けそうだけれど、十二分に話題になった本であり、いまさらぐだぐだ書くのもあれなのでまあいいや。およそ1時間くらいで読めてしまうが読後感は胸いっぱいである。彼女ならではの女子の生き方論であり、独特の迫力と無類の説得力があるのは確か。それを支えているのは彼女の人となりだろう。この人は無頼派の芸風ではあるし、たしかにそういう人なんだろうけれど、一方では繊細というか傷つきやすくもあるんだなと思った。たしかに一見雑に見えるが、あれだけ笑いどころや泣かせどころのツボをおさえたマンガを書けるということはやはりそうとうに繊細な神経を持っているといえる。「毎日かあさん」もたびたび心を痛めて休載していた。あの画風作風は気の赴くままなのではなく、周到に計算された超絶技巧ということになる。そりゃ神経すり減るわ。


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物は言いよう

2019年12月23日 | 言語・文学論・作家論・読書論
物は言いよう
 
ヨシタケシンスケ
白泉社
 
 
 本書は絵本作家ヨシタケシンスケの読本である。
 
 僕はヨシタケシンスケの「発見」はかなり早かったと周囲に自慢している。ヴィレッジヴァンガードで自費出版「デリカシー体操」を見つけたのが最初だからこれは相当に初期なのだ。この自費出版は、カバー紙がなく、奧付まで手書きという味わい深いシロモノだった。
 小さなカット割りのようなイラストが1ページにいくつも描いてある。その多くにはセリフがついていて、1コマ漫画というのもちょっと違うし、単なるイラストカット集とも言い切れない面白味があった(後年になって「スケッチ集」という言い方になった)。
 その後、そこそこ名のある出版社からスケッチ集が出るようになった。「日本のチャーリーブラウン」というコピーが付くようになって、なるほどうまいこと言うなと思ったものである。
 
 したがって、ヨシタケシンスケは僕にとってはアーティストというカテゴリーの人だった。現在の彼の肩書は自他ともに「絵本作家」ということだが、個人的にはちょっとばかり違和感がある。
 しかし、絵本作家として累計100万部以上を売り上げたというのだから、立派な「絵本作家」だろう。本書にも書いてあるが、彼に絵本を書いてみないかと誘ってみたのは某出版社の編集者である。彼の独特の作品をみて絵本作家としていけるんじゃないかと見抜いたのだから慧眼である。しかも最初に絵本を提案してきたこの某出版社には自信がなくて断ったらしく、次に「お題」をもって絵本を提案してきた別の出版社(白泉社)で受諾したとのことであるから、何がどうつながるかわからない。
 
 僕自身の彼の本の購入歴でいうとスケッチ集は自分のために買っていたが、絵本に関しては知人の子供あてに数冊プレゼントしたくらいで自分の書棚には1冊もない。ただ、読む機会はいくらかあった。図書館や病院やキッズスペースなんかに置いてあることが多いのである。”大人も楽しめる”からほかに幼児向けの本しかないような場合は彼の絵本を手にすることになる。また、しゃれたカフェなんかに、インテリアがわりに彼の本が置いてあったりする。
 そういった彼の何作目かの絵本に「それしか ないわけ ないでしょう」というのがある。このタイトルはけっこう哲学的というか人生の至言のようなものを感じていた。
 本書で言及がされていた。彼の口癖なのだそうである。
 提示された枠外にも可能性や選択肢はぜったいにある、というこのセンスはアーティストにとって必須のものだとは思うが、なにかとややこしくめんどくさいこの世の中を渡るにあたっての大事な感覚でもあろう。意外にもこのテーマをあつかった子どもむけ絵本はこれまでなかったんじゃないかとも思うが(絵本の世界はあまりよく知らないけれど)、子どもにも、それから子どもと一緒に読むオトナにも「それしか ないわけ ないでしょう」という一呼吸はぜひとも覚えておきたいことである。
 
 ところで本書「ものは言いよう」はちゃんと自宅に購入した。中学生の長女がケタケタ笑いながら読んでいる。
 

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クラスメイツ

2019年02月23日 | 小説・文芸

クラスメイツ

 

森絵都

角川文庫

 

 

北見第2中学校1年A組の24人の生徒それぞれにフォーカスした24章による連作小説である。全編を通して4月の入学式から翌年3月の終業式までの1年間が流れていく。この1年の間にはいろいろなイベントや事件があって、それをA君の目線、Bさんの事情、Cさんの気持ちで多面的に描かれることになる。このあたりのしかけもふくめて、瀬尾まいこの「あと少し、もう少し」と近い世界観の小説といっていいだろう。(はて、どちらが先なのかな?)

もちろんこの小説の見どころは、思春期の入り口に入った多感な中1男女の立ち振る舞いである。中1というのは13才。僕が思うに、年齢的にいちばんぐちゃぐちゃしやすいのは中2すなわち14才である。13才というのは中学1年生というよりはむしろ小学7年生くらいの感じもするのだが、いわば「14才」という試練のプレ期が中学1年生と位置付けることもできる。前厄みたいなものだ。

 

この小説に出てくる中1の登場人物でもそこかしこに出てくるが、この時期のメンタリティの特有のひとつに自分中心の天動説感覚というのがある。自分が面白いものは相手も面白い。自分がくだらないものは相手もくだらない。自分が正しいと思うことは相手も正しいと思ってくれる。自分の話は相手は聞いてくれる。それも素直に、無自覚的に天動説なのであって、いきがっているわけでも開き直っているわけでもない。小学生高学年あたりから中学1年生あたりの子どもが容易に持ちやすい感覚だ。これは転じて、間違っているのは他人のほうである、歩み寄るべきは他人である、サブカルなのは他人のほうである、くだらないのは他人のほうである、身分不相応なのは他人のほうであるという感覚もよびおこすことになる。

ところが本当のところはこの世の中は地動説である。A君もBさんも、質量も組成も、その温度も、抱えている衛星の数もそれぞれが異なるひとつひとつの個性をもった惑星である。

これらの地動説の中心、太陽にあたるものの正体は非常につかみにくい。公共、空気、時によっては大人の事情とか呼ばれる輪郭のぱっとしないガス星雲みたいなものである。

思うに、中学生も2年生つまり14才くらいになると、なにやら自分ではない正体不明なものこそが中心にあり、自分よりも他人のあの人のほうが美しい惑星だったり中心点に近い惑星だったりすることに気づくようになる。そして自分は決して中心体ではないことを知り、それに傷ついたり自己肯定感を下げてしまったりする。

中学1年生というのはその手前、”なにかうまくいかないことが多くなった気がする”を知覚するあたりだろう。なぜうまくいかないかはわからない。相手が自分と同じ気持ちになっていないことには気づいているが、自分が相手の気持ちによりそってみるという判断心は降ってこない。ただ、なんかぎくしゃくする、親の言うこともしっくり腹落ちせず気に入らない、とにかくなんだかうまくいかないというのが身体感覚的に気づいていく。やがて、どうやら世の中は思い通りではないことに突き落とされるのが中2である。

逆に「うまくいっているとき」の幸福感は、相対的に非常に大きいものになる。仲間うちでの異常なもりあがりは、自分が中心点にいられていることの安堵からの解放感のようなものだろう。

そういう観点からみれば、中1というのは「14才」とはまたべつに実に切ない期間である。

この小説の舞台である1年A組も、24人それぞれが、なにかうまくいかない。期待と失望、刹那的な大もりあがり、いつまでも続く沈黙がある。24人それぞれが「プレ14才」の時期として身体感覚的にもどかしさをひとり抱え込む。

このあとには24人それぞれの「14才」の試練が待っていることになる。

 

しかし、地動説だからといってそれぞれの惑星は孤立しているのではない。万有引力よろしく、惑星は惑星同士でもはかなげながらも牽引しあい、作用しあっているのである。自分のふるまいが他人を動かし、他人の言動が自分の選択を決めていたりする。そしてそれらのエネルギーが実は得体のしれない中心部の力学にもなんらかの影響を与えている。

この小説でも、24人のたちふるまいは、本人の気づきとはべつに、実は他のクラスメイツの言動が牽引しあい、作用しているものだったりもするのだ。そして24人それぞれの不器用なたちふるまいと決意が、実は1年A組という社会の変容をゆっくりと動かしていている。このクラスにただよう空気ーー4月の入学式から始まって翌年3月の終業式に至るまでの空気が、当初はてんでばらばら各個人の気持ちと事情で始まった物語が、実は少しずつこなれていい塩梅のところに着地していく様が見て取れる。

そのこと自体に24人のクラスメイツはあまり気づいていないかもしれないかもしれない。だけれど、もしこの小説を中学1年生が読んで(中学2年生でもよいけれど)、自分も他人も、あんがい捨てたもんじゃないことにちょっとでも気づいてもらえれば、その先の「14才」にダークな気分に落ち込んだときもちょっとは乗り切るエネルギーになるんじゃないかと思うのである。

 


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あと少し、もう少し (ネタバレ気味)

2017年08月14日 | 小説・文芸

あと少し、もう少し

瀬尾まいこ
新潮社

 

 小学生の娘の夏休み読書感想文用として買い与えたのだが、娘の机で積ん読状態だったので手にとって読んでみた。

 なかなかどうして面白いのである。小説上の構造としても気が利いている。

 

 この小説は田舎の公立市野中学校を舞台にしている。その中学校の陸上部が地区の駅伝大会に出る。

 駅伝というのは、走行区間が6区あって、つまり走者は6人必要なのだが、あいにくこの陸上部で長距離を走れる部員は3人しかいない。

 そこで、部長である3年生の桝井くんは外部から3人スカウトしなければならない。

 どうにかこうにか集まった6人は、いじめられっ子の相楽君に、不良の大田君に、お調子者のジローに、中二病をこじらせた渡部君に、唯一の二年生俊介君に、さわやか部長桝井君である。

 彼らはそれぞれ内側に繊細な悩みを抱いており、葛藤と逡巡がある。この小説は、そんな彼らの物語である。走区ごとに章立てされていて、それぞれの走者の一人語りで各章が構成されている。

 読者によって感情移入の対象はかわるだろう。うちの娘なら、いじめられっ子の相楽君か、中二病の渡部君だろうな。

 

 だが、大人の僕が、いちばん気になったのは陸上部の顧問になった上原先生である。

 上原先生は、美術を担任する二十代後半の女性の先生で、陸上どころかスポーツ全般ダメっぽい。それまでは定評ある鬼コーチが担当していたのだが、公立中学校は異動があるから、巡り合わせでこんな頼りない先生が顧問になってしまった。

 本当は、この上原先生の章が欲しいくらいなのだが、この小説はあくまで中学生男子6人の視点でしか語られない。上原先生の姿は彼ら6人のフィルターでしか描かれない。慣れない運動部の顧問に右往左往するばかりで、部員からタメ口を叩かれる始末である。

 

 しかし、この上原先生、なかなかトリックスターなのである。物語の要でけっこういい仕事をする。

 だがらこそ、上原先生の章が欲しいなと思うのだが、彼女がそもそもどういう人で何を思い、何に悩んで何を決心し、何に挑もうとしたかは読者の想像に委ねられている。マンガやラノベならば「天然だけどなんかスゴイ」というカリカチュアでいいけれど、これは青春小説なので、彼女にも深いところがあると思うのである。

 

 男子6人の視点で描かれている限りの上原先生は、ひょうひょうとしている。無頓着というか、気負いがない。

 ただし、状況証拠としてはこの人はものすごく人の機敏に敏感である。だから部員たちのちょっとした異変や、心の引っ掛かりにすぐ気がつく。

 しかし、そういう人は本人自身もすごく傷つきやすいし、ましてこの人は美術の先生だ。明らかにお門違いの領域の顧問を託され、七転八倒している。この人のひょうひょうは一種の「心の鎧」である、というのが僕の想像だ。

 

 実は上原先生の鎧の内側を一瞬かいまみせるところがある。それが渡部の章ででてくる。この章は渡部の一人称で綴られる。

 部長の桝井君がみんなの前で、上原先生に心ない一言をぶつけてしまう。以前の顧問のほうがよかったと言ってしまったのである。解散したあと、渡部君は上原先生をなだめようと声をかける。優しい声をかけてくれた渡部君に上原先生は言う。

「ジローなんかさ、先生たちがどこの学校行くのかって教育委員会が決めてるの?ってあのあと興味津々で訊いてきたくらいなのに」
上原は笑った。あいつならやりそうだ。いい意味でも悪い意味でもジローは無神経だから。
「あいつは馬鹿だからな」
「だけど、ああいうふうになれたらいいよね」
馬鹿で単純でお気楽なジローみたいに?(これは渡部君のモノローグ)

 前後の文脈で、これは渡部君はジローのようになりなさい、とは言っていないことがわかる。したがってこれは、上原先生自身の問いである。上原先生は、斜に構えた渡部君を攻略することはできても、ジローのような屈託ない態度をとることは苦手なのだ。

 上原先生は、この陸上部の顧問という仕事を生来の真面目さでちゃんとやろうと努力はしている。しかし、残念ながらこの事態をジローみたいに、前向きに受け止めることはできず、やる気がみなぎっているわけでもなく、仕事だしやれることをやろうとい温度感でやっているのである。そういう自分を自覚もしているし、その突き放した態度が「ひょうひょう」となって現れる。

 

 その上原先生が鎧を解いたのが、桝井君がラストスパートをかけるときの応援と、最後の「まだもう少しこういうことができるってのはいいかな」というセリフだ。桝井君からは「先生、やる気が出たんだね」と、それまでの気概が今ひとつであったことを見抜かれている。

 上原先生は、スポーツはダメでも人をモチベートさせることが上手な、つまりある種大事なリーダーシップ性をもった人物と言えなくもないけれど、僕は、やはりこの上原先生は渡部君と同じように、妙に自分のココロに鎧をまとって、自分の「芸風」を仮面にしながら対象との距離をはかるタイプではないかとみている。だから同じタイプの渡部君はすぐに急所をつくことができた。それが本当は良い方法ではないということも知りながら。

    それがかなぐり捨てられたのが最後の応援の部分だろうと思う。このとき上原先生はひょうひょうを捨て、涙を流しながら、貧血にあえぐ桝井君に声援を送っていた。仕事としての顧問ではなくて、仲間としての感情だった。


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バッタを倒しにアフリカへ

2017年07月29日 | サイエンス

バッタを倒しにアフリカへ

前野 ウルド 浩太郎
光文社


 の次はバッタかよ! と言いたくなるほど話題を呼んでいるらしい。
 
 実際、この本は面白い。のほうも思ったけれど、生物学者というのはタフなんだなあと思う。

 舞台はアフリカのモーリタニアだ。モーリタニアといっても西アフリカのほうだっけ、くらいがせいぜいだ。そういえば、モーリタニア産のタコって、よくスーパーに並んでいるなあ、なんて思ったり。

 本書の面白いところは、バッタのフィールドワークのエピソードもさることながら、モーリタニアの地における自然風土と人々の暮らしもまた描かれていることだ。なぜ、日本のスーパーにモーリタニア産のタコが並ぶのかについても、本書で初めてその背景を知った。そうか、そうだったのか。


 バッタ(イナゴのほうがわれわれ日本人としては通りがよいが)の大群が押し寄せ、農業に壊滅的な被害を与える、という話は、知らないわけではない。パールバックの小説「大地」には中国大陸でのイナゴの襲来が描かれているし、わが日本でも、江戸時代に繰り返された飢饉の中には、天候不順だけでなく、このイナゴの大量発生もあった。

 アフリカでは、イナゴの襲来は「神の罰」と称される現象だ。ドキュメンタリー映画か何かで映像をみた覚えもある。

 しかし、まさか、そのど真ん中で奮闘している日本人がいるとは思わなかった。それも、青年海外協力隊とかユニセフとかではなく、生物学者が研究として乗り込んでいるのである。たまげた。


 いまだ著者の研究は途上で、バッタの被害を効果的に食い止めるまでの成果は上がっていないようだが、こういうところに日本人が活躍しているのだというのはなんだかとても誇らしい気がする。しかも、純粋にバッタが好きで好きで、そこにはもちろんポスドクの無収入としての苦悩とか、うまいこといかない研究とか、モーリタニアの厳しい日々があるのだけれど、本書全体に立ち込めるモチベーションの高さとあふれる希望は、まばゆいばかりだ。

 また感動的なのが、著者が赴いた研究所の所長のキャラクターだ。この所長の言動だけでも、日々の自分の生活やふるまいをひどく反省させられてしまう。




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教養としての認知科学

2017年03月08日 | サイエンス
教養としての認知科学
 
鈴木宏昭
東京大学出版会
 
 人間の脳のはたらきによる認識とか記憶というのは、実はけっこういいかげんで怪しい、というのが最近の学説である。本人の中での現実と、実際の世の中での事実がまったくかみ合っていないというのはしばしばあることで、よくある「言った言わない」のトラブルなんかもこれが原因なんだろう。
 こういった認識のゆがみを経済学の側面で語ったのが行動経済学で、一時期ずいぶん流行っていた(マーフィの法則とかもこの類かもしれない)。かわったところではこういった認識と事実のずれを推理小説やミステリー小説に応用したものがあって京極夏彦や島田荘司に大作がある。
 
 
 僕は認知科学という世界は、断片的にしか見知ってなかったので、こうしてまとまった形で読むのは初めてである。難解な文章ではないが骨のある内容で、読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまったが、内容そのものはとても面白い。こういう本はもっと若いころに読んでおけばよかったと思う。
 
 興味深かったのは、「言語化」することによる脳の対象認識の退化ともいうべき現象だ。
 たとえば、人間は成長するにしたがって言語化できる能力(記号化できる能力というべきか)を得ていくが、それが逆に視覚情報を頼みにする空間認識能力を退化させる。ある種の自閉症の人物が写真と見まごう細密な絵を描くことからそんな仮説がうまれたそうだ。
 否定語を連発させた後に、ぜんぜん関係ない人間に会わせてみて心象をきくとその人がネガに思えるとか、青い文字で「赤」書かれたカードを目の前にして、「青いのをとって」と言われても、その「赤」カードに手が出ないとか(これが見知らぬ記号文字だったらすっと手がでる)。
 こういう「言語化」によってかえって行動にしばりをつくってしまう現象を昔の人は「言霊」と言ったし。これを操ったのが催眠術や呪術だろうと思われる。
 
 言語化というのは、脳の情報処理のショートカットみたいなものなのだろう。対象をすばやく認識し、いくつかのパターンのひとつにおさめてしまう。たとえばスヌーピーとハチ公とパトラッシュとソフトバンクのCMのものはみんなみてくれ、色、形、二次元三次元とぜんぜん違うが、我々はこれに「犬」というコトバを与え、同一グループのパターンにおさめることで脳の情報処理をすばやくする。当たり前みたいだけれど、脳に障害によってはこれがうまくいかなくなるらしい。
 だけれど、そうやってショートカットすることによってかなりの情報が抜け落ち、もしかしたらその抜け落ちた情報の中に大事なものがあるかもしれない。スヌーピーにあってハチ公にないものは「犬」というコトバに還元されたときすべて捨象されることになる。
 また、スヌーピーの世界をコトバを駆使して説明してもなかなか真実にはたどり着かない。「全体的に白いが耳は黒いビーグル種の犬がいて、その犬はよく犬小屋の屋根の上にあおむけに寝ていて、そこに黄色い鳥がしばしば遊びに来る」という文章を読んでも、スヌーピーのいつもの光景の100分の1も伝わっていないし、どこまでやってもあの素っ頓狂な場面にはたどりつかないだろう。
 そもそもいまいここでこういう文章をかいているのは「スヌーピー」というコトバに対して共通認識があるという前提があるからで、スヌーピーを知らない人からみればそもそも何を言っているのかわけがわからないということになる。
 
 
 したがって、言語化を果たすことによって認識される世界というのは、あくまで限定された認識による世界ということになる。われわれ人間社会は、あえてこの狭いコトバ化された社会を便宜として受け入れた社会でもあるわけだ。
 ヨハネ福音書はこの世のはじめを「はじめにことばありき」と記したのである。
 
 そうなってくると、言語を取得しないまま大人の脳みそになるまで育った人間というのは、この世の中をどういう風にみているのだろうか。たとえそういう人間が表れたとしても、その脳にあらわれた認識世界を我々が追体験する技術はいまのところなさそうだが、SF小説あたりでチャレンジしているものがあるかもしれない。
 ヘレン・ケラーは喋るどころか目も耳も機能しなかったそうで、つまりは永遠の闇と無音の中に生きていたということになるのだろうが、そこからこの世の中を認識させたのがサリヴァン先生である。三重苦を負いながら大成したヘレンケラーもすごいが、このサリヴァン先生も同じくらい凄いのではないかと思う。
 
 いずれにしても、脳による世界の認識や記憶というのは、かなり脆く儚い。しかし一方で人間自身認識したものがこの世界のすべてであるという哲学も定番ものとして存在する。何が「真実」で「現実」で「事実」かというのは問いとしてもはや無意味かもしれない。
 

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生き延びるための作文教室

2015年11月30日 | 生き方・育て方・教え方

生き延びるための作文教室

石原千秋
河出書房新社

  僕が学校の読書感想文について思っていたようなことをまさしく書いてくれていた本。つまり読書感想文における「自由に思ったことを書きなさい」は罠であるということ。「自由」といいながら、実はこの先に行ってはいけない「ガラスの壁」というものが存在することを看破している。

 本書が指摘するのは、だからといって優等生的な文章を書いて花丸をもらっても、果たして卒業後の実社会ではたいしてデキる大人にならないということだ。そんな心にもない予定調和のかたまりをまとめる作文技術がついたところで、誰かの便利屋さんとして重宝がられるくらいで、自分で課題を発見して切り開いていくような才覚は身につかないからだ。

 しかし、だからといって読書感想文はてきとーにすませてよい、というわけではない。なぜなら学校もまた社会の一部であり、この学校という社会では「上手な読書感想文」を書くスキルは求められるからだ。

 つまり、学校において一定以上の評価を得られ、かつ実社会に出ても存在感を確立し、一目おいてもらえるような作文技術とはありやなしや。

 それが本書の「生き延びるための作文教室」である。実社会において存在感を確立できる力がつき、かつ学校の読書感想文としても評価されるガイドラインとして、「ガラスの壁」内側ぎりぎりに立脚して己を見失わないことの手心を教えている。そのコンセプトは「審査員特別賞狙い」。なるほどうまいことを言う。

 「審査員特別賞」というのは、審査会議で満場一致にはならないが、1人か2人の審査員に強烈な印象を残したものだ。実はそのくらいのものがいちばんユニークとインパクトを擁し、人々を動かすチカラがあったりする。今日において価値があるものとはそういう賛否真っ二つにわれるようなものだ。全員が却下したものというのは残念ながら社会評価に到達する以前の力不足であるが、全員が賛同したものというのははっきりいってオトナの評価基準を穴埋め的に満たした(あるいは減点法に強かったというべきか)予定調和であることが多い。オトナの見解の追認でしかなく、なにも新しい価値観を提案していない。ごくまれに全員がうならされる、というすばらしいものもあるわけだが、そんな技術がある人はそもそも読書感想文どころか作文も苦ではないだろう。したがって、みんなにはいい顔してもらえなかったかもしれないが審査員の1人か2人に、「いや、こいつはけっこうおもしろいぞ」「このまま見捨てるのは惜しいぞ」と思わせたものこそが、ホントになにか光るものがあると思ってよい。実社会で力を発揮するのはこういう賛否真っ二つのアウトプットが出せる人間である。

 本書には「審査員特別賞」をねらうための「ガラスの壁」内側ぎりぎりをつく方法論が述べられている。こういうのがわかると、読書感想文という苦行も、ひとつの攻略したくなるゲームのようになるのではないか。

 

 


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13歳からの反社会学

2010年09月24日 | 社会学・現代文化
 13歳からの反社会学

 パオロ・マッツァリーノ

 過度にデータ武装した説得というのは、実はむしろ非常にうさんくさいものである。だから世論調査とかの結果をもとにした論述は話半分で聞いておいたほうがよい、なんてことを先日述べたのであるが、そこでお馴染みマッツァリーノからまさしくそこらへんを扱った新刊が出た。

 「情報には必ずそれを発した人物がおり、その人物の人格とは切り離せない」「バカは極論が好き」「オトナになるというのは何を選ぶかというのを考えること」など鮮やかな物言いも目につくが、著者のスタンスつまり要は言いたいことというのは、これまでの刊行のものとほとんど変わらない。反社会学とは何か、というのを最新の時事も用いて改めて易しく説いたものといってよいだろう。

 だがこれまで出ていた本にはなかった新しい切り口として「偽善」というのが出てくる。
 「偽善のススメ」である。

 著者は、最終章で「偽善」を薦めており、著者ならではの考えを開陳している。13歳にこの話をするというのが本書の真髄で、あとは全部サービスかもしれないというくらい、この最終章は迫真に迫る。(文体はいつもの感じだが)
 偶然なのか、あわてて一章割いたのか、とてもタイムリーである。つまり「偽善」は「正義」であるのか、という話なのである。

 自分の子供が13歳のとき、偽善はなぜいけないのか、あるいは偽善は悪くないのか、と問いかけられたら自分は何と答えるだろう。
 個人的には、それは偽善だ、と突っ込まれる根拠を一切もたない「善」というのは、本質的にありえないと考える。
 だから、ことはそれが偽善かどうか、ということよりも、「偽善」という定義がなぜ起こるのか、という指摘の動機に本質があるように思う。

  “人はなぜ、偽善を指摘したがるのか。あるいはそれを偽善にしたがるのか。”

 ここに、人間の僻みや嫉妬を見る。自分がやってなくて、自分でない他のだれかがやっていることに対し、自分がやっていない理由を正当化するために用いられるロジックが「偽善」である。

 だが、この「偽善」の指摘は、正義の告発だろうか。本来は善に当たらない人をあいつは本当は善ではない、と告発し、彼が善として評価されることを防ぐこの行為、そのものは善だろうか。

 つまりは「偽善を指摘する」その行為そのものが偽善なのである。偽善=本当は人をおとしめていることを指摘することそのものが「おとしめている行為」なのである。
 だから、「偽善」の議論は意味がない、と思う。考えるのは、なぜ「偽善」という概念を繰り出そうとするのか、という動機のほうだ。
 
 もしも13歳になった自分の子供が偽善は悪いことか、と尋ねてきたら、「それは偽善かどうか」と考えることそのものが、つまらない思考の罠にかかっているのだ、ということを諭してみたい。

 
 ちなみに、“ことわざ”というのは、どこかのだれかが上手いこと言って、そのあまりの上手さにみんなも使い始めていつのまにか共有の知的資産になったものなのだろうが、そういう意味でもっとも新しい“ことわざ”であろうもののひとつに「やらない善よりやる偽善」というのがある。もともと例の巨大掲示板あたりが発祥なようで、うまいこと言うやつがいるなあ、なんて感心していたら、どうやったらこれを論破できますか? なんて相談しているのもあった。
 ただ、無知から行われる善がトンデモない悪を引き出すことなども実は歴史が証明しているわけで、スヌーピーの世界「ピーナッツ」ではルーシーが「人類史上もっとも大きな害をなした人々は「いいことしたつもりだった」と考える人種だった」と看破している。
  まあ、みんな偽善の答えには悩んでいるのだ。



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クルマは家電量販店で買え

2008年11月12日 | 経済
クルマは家電量販店で買え---吉本佳生

 「スタバではグランデを買え」の続編。この手の続編ものはだんだんクオリティが下がる(というよりはテーマが散漫化していく)のが定番なのだけれど、前作が比較的消費財や低価格な日用品を商品を題材に「コストとは何か」を追求したのに対し、本作は「ドル・オークション」「シグナル効果」「囚人のジレンマ」「裁定」「サンクコスト」などのテクニカルタームまわりを扱って差別化している。


 かなり熱をいれて解説されているのが「ドル・オークション」というゲーム理論で、オリジナルは1ドル札のオークションで1セント単位で競り落とすというもの。このゲームのミソは、最高落札価格を提示した人は、その金額え1ドル札はもらえるが、「2番目に高い入札をした人は、その入札額を胴元に払わなければならない(もちろん何ももらえない)」というルールの存在である。
 これ、僕が大学のときも、とある講義で教授が学生相手に自分のサイフから1万円札を取り出して開催した。状況がよくわからなかった僕はぼんやり傍観するだけだったが、最終的には3万円近くまで上り詰めてしまったように記憶する(またこの教授が容赦ない人で、学生から本当に巻き上げていた)。

 この「2番目に高い入札をした人は、その入札額を胴元に払わなければならない」というのは非常に恣意的な特殊ルールのように見えてしまうが、これは要するに玉が一つしかないというゼロサムの状況でコストをかけた争奪戦を意味しており、現実の社会にかなり蔓延している。議席数1の選挙とか、一括受発注のビジネスコンペとか、一番乗り競争とか。その栄光を勝ち取るために、いつのまにかその玉の「価値」以上の出費をしてしまっていることは非常に多い。
 この「ゼロ・オークション」の罠は、「売上高至上主義」の企業が特に陥りやすい。利益率至上主義だとどこかでブレーキをかけるのだが、不思議なもので、人は利益率よりも売上高のほうがモチベーションを維持しやすい。売上高のほうがスケールメリットが評価される一方、利益率主義は基本的にケチくささを伴うからだろうか。また、規模の経済性やネットワーク外部性などによって量は質を変えることがあるが、反対に、質が量を変える、というのはあまりないからでもある。
 特に日本人はDNA的に「売上高至上主義」(要するに質より量)なところがあるように思うが、これは農耕民族的なものに由来しているのかもしれない(作物を安定的に収穫するには、一定以上の作付面積が必要であるのに対し、狩猟の場合は最小限のエネルギーで効率よく獲物を追い求めないとすぐに歩き疲れて疲弊してしまう)。


 ところで、これを応用させ、相手を競わせて自分の価値を本来以上に吊り上げさせるという方法がある。
 就職活動において、第1希望がA社だとする。そして、A社の第1次面接で、A社と競合のB社の第1次面接を通過したことを伝える。これは「B社の第1次は通過する人材である」というシグナル効果をねらっている(この「シグナル効果」も本書では詳細に扱われている)。それはかなりのプラス情報ということでA社の第1次面接は通過する。面接官というのは大変なプレッシャーを負わされており、「第3者的な根拠」というのはとても気にしやすい。次に、B社の第2次面接で、A社の第1次面接は通過していることを伝える。B社にとっては「A社の第1次は通過する人材である」というシグナル効果を発揮する。あとはマッチポンプだ。
 そして最終的にA社の最終選考を通過する。彼がそこまで残った根拠は「B社の最終選考を通過するくらいの人材だからだ」というのが強く作用している。ところが実はこれは当人の価値がバブルになっているのだ。元を正せば「B社の第1次を通過する人材」だけだったのだが、A社とB社のにらみ合いで勝手に人材評価が吊りあがっているからである。そんなうまいこといくか、と言いたくなるがこれは実話である。

 つまりこれは「シグナル効果」を「ドル・オークション」でバブルにさせた実例なのだ。この戦略のミソは、何が何でも「B社の第1次は通過しておく」ということと、A社とB社の競合関係がある意味で対等、というところにある。特に採用人数が少ない業界で有効とされており、これが最も有効とされているのは何をかくそう民放女子アナの採用の場合だ。よって、最近の採用された女子アナは他局の内定や最終選考も残ってきた人が多い。そんな各局のお目がねにかかってきたわりに??と思いたくなるような人材を感じるのは、ここらへんが原因なのかも。

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「最長片道切符の旅」取材ノート

2008年05月09日 | 旅行・紀行・探検

「最長片道切符の旅」取材ノート---宮脇俊三---ノンフィクション

 果たして誰が買うんだろうか、とも思うが、勝算があるからこそ新潮社も出版したのだろうな。

 僕が、初めて「最長片道切符の旅」を読んでみたのは、小学5年か6年生の頃だったと思う。既に何冊か彼の本は読んでいて、文芸春秋から出た「時刻表おくのほそみち」なんかは編集者との掛け合いなんかも楽しくてかなり気にいっていたのだが、一方で「最長片道切符の旅」はさすがに長大で、しかも一人旅という渋いところもあり、一回目は途中で挫折してしまった。始めて完読したのは中学生になってからだったと思う。
 それからは彼の他の本と同じく、この「最長片道切符の旅」も何度か読み返していて、去年も一度読んでいる。だから、たいていの文章やシーンは、正確とまではいかなくても、なんとなく思い出すことができる。

 で、何が言いたいかというと、それくらい宮脇俊三氏の著作、ならびに「最長片道切符の旅」を読み込んだ人でなければ、この「『最長片道切符の旅』取材ノート」は面白くないだろうな、ということである。だって、これは「最長片道切符の旅」を執筆するために旅行中にひたすら綴っていたメモ書きの集大成なのである。

 つまり「取材ノート」には記録されていて、本編には採用されなかったエピソード、あるいは本編に用いられたエピソードなどが知れたり、走り書きで冗長なメモ文が、本編では精錬されて一級の文章に変貌していることが対比できたりとか、個人的にはなるほど、へーそうか、と非常に面白かったわけだが、しかしどうにもマニアックであることは否めない。また、宮脇俊三氏自身が、自分が鉄道マニアであることを充分自認してながらも、世の中へのアウトプットとして、マニアとしての内輪受けに堕さないことに腐心しており(彼の文章に「同じ井戸の中の蛙同士で万歳三唱したってつまらない」といった文章があり、なんてうまいこというんだと感心した覚えがある)、しかも文章の仕上げにかなり神経を使っていた作家だけに、こういう本が出てしまうことは、決して本意ではなかったようにも、ちょっぴり思う。


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