読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

教養としての認知科学

2017年03月08日 | サイエンス
教養としての認知科学
 
鈴木宏昭
東京大学出版会
 
 人間の脳のはたらきによる認識とか記憶というのは、実はけっこういいかげんで怪しい、というのが最近の学説である。本人の中での現実と、実際の世の中での事実がまったくかみ合っていないというのはしばしばあることで、よくある「言った言わない」のトラブルなんかもこれが原因なんだろう。
 こういった認識のゆがみを経済学の側面で語ったのが行動経済学で、一時期ずいぶん流行っていた(マーフィの法則とかもこの類かもしれない)。かわったところではこういった認識と事実のずれを推理小説やミステリー小説に応用したものがあって京極夏彦や島田荘司に大作がある。
 
 
 僕は認知科学という世界は、断片的にしか見知ってなかったので、こうしてまとまった形で読むのは初めてである。難解な文章ではないが骨のある内容で、読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまったが、内容そのものはとても面白い。こういう本はもっと若いころに読んでおけばよかったと思う。
 
 興味深かったのは、「言語化」することによる脳の対象認識の退化ともいうべき現象だ。
 たとえば、人間は成長するにしたがって言語化できる能力(記号化できる能力というべきか)を得ていくが、それが逆に視覚情報を頼みにする空間認識能力を退化させる。ある種の自閉症の人物が写真と見まごう細密な絵を描くことからそんな仮説がうまれたそうだ。
 否定語を連発させた後に、ぜんぜん関係ない人間に会わせてみて心象をきくとその人がネガに思えるとか、青い文字で「赤」書かれたカードを目の前にして、「青いのをとって」と言われても、その「赤」カードに手が出ないとか(これが見知らぬ記号文字だったらすっと手がでる)。
 こういう「言語化」によってかえって行動にしばりをつくってしまう現象を昔の人は「言霊」と言ったし。これを操ったのが催眠術や呪術だろうと思われる。
 
 言語化というのは、脳の情報処理のショートカットみたいなものなのだろう。対象をすばやく認識し、いくつかのパターンのひとつにおさめてしまう。たとえばスヌーピーとハチ公とパトラッシュとソフトバンクのCMのものはみんなみてくれ、色、形、二次元三次元とぜんぜん違うが、我々はこれに「犬」というコトバを与え、同一グループのパターンにおさめることで脳の情報処理をすばやくする。当たり前みたいだけれど、脳に障害によってはこれがうまくいかなくなるらしい。
 だけれど、そうやってショートカットすることによってかなりの情報が抜け落ち、もしかしたらその抜け落ちた情報の中に大事なものがあるかもしれない。スヌーピーにあってハチ公にないものは「犬」というコトバに還元されたときすべて捨象されることになる。
 また、スヌーピーの世界をコトバを駆使して説明してもなかなか真実にはたどり着かない。「全体的に白いが耳は黒いビーグル種の犬がいて、その犬はよく犬小屋の屋根の上にあおむけに寝ていて、そこに黄色い鳥がしばしば遊びに来る」という文章を読んでも、スヌーピーのいつもの光景の100分の1も伝わっていないし、どこまでやってもあの素っ頓狂な場面にはたどりつかないだろう。
 そもそもいまいここでこういう文章をかいているのは「スヌーピー」というコトバに対して共通認識があるという前提があるからで、スヌーピーを知らない人からみればそもそも何を言っているのかわけがわからないということになる。
 
 
 したがって、言語化を果たすことによって認識される世界というのは、あくまで限定された認識による世界ということになる。われわれ人間社会は、あえてこの狭いコトバ化された社会を便宜として受け入れた社会でもあるわけだ。
 ヨハネ福音書はこの世のはじめを「はじめにことばありき」と記したのである。
 
 そうなってくると、言語を取得しないまま大人の脳みそになるまで育った人間というのは、この世の中をどういう風にみているのだろうか。たとえそういう人間が表れたとしても、その脳にあらわれた認識世界を我々が追体験する技術はいまのところなさそうだが、SF小説あたりでチャレンジしているものがあるかもしれない。
 ヘレン・ケラーは喋るどころか目も耳も機能しなかったそうで、つまりは永遠の闇と無音の中に生きていたということになるのだろうが、そこからこの世の中を認識させたのがサリヴァン先生である。三重苦を負いながら大成したヘレンケラーもすごいが、このサリヴァン先生も同じくらい凄いのではないかと思う。
 
 いずれにしても、脳による世界の認識や記憶というのは、かなり脆く儚い。しかし一方で人間自身認識したものがこの世界のすべてであるという哲学も定番ものとして存在する。何が「真実」で「現実」で「事実」かというのは問いとしてもはや無意味かもしれない。
 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« know (ぼやかしているよう... | トップ | ストーリーとしての競争戦略 ... »