読書の記録

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13歳からの反社会学

2010年09月24日 | 社会学・現代文化
 13歳からの反社会学

 パオロ・マッツァリーノ

 過度にデータ武装した説得というのは、実はむしろ非常にうさんくさいものである。だから世論調査とかの結果をもとにした論述は話半分で聞いておいたほうがよい、なんてことを先日述べたのであるが、そこでお馴染みマッツァリーノからまさしくそこらへんを扱った新刊が出た。

 「情報には必ずそれを発した人物がおり、その人物の人格とは切り離せない」「バカは極論が好き」「オトナになるというのは何を選ぶかというのを考えること」など鮮やかな物言いも目につくが、著者のスタンスつまり要は言いたいことというのは、これまでの刊行のものとほとんど変わらない。反社会学とは何か、というのを最新の時事も用いて改めて易しく説いたものといってよいだろう。

 だがこれまで出ていた本にはなかった新しい切り口として「偽善」というのが出てくる。
 「偽善のススメ」である。

 著者は、最終章で「偽善」を薦めており、著者ならではの考えを開陳している。13歳にこの話をするというのが本書の真髄で、あとは全部サービスかもしれないというくらい、この最終章は迫真に迫る。(文体はいつもの感じだが)
 偶然なのか、あわてて一章割いたのか、とてもタイムリーである。つまり「偽善」は「正義」であるのか、という話なのである。

 自分の子供が13歳のとき、偽善はなぜいけないのか、あるいは偽善は悪くないのか、と問いかけられたら自分は何と答えるだろう。
 個人的には、それは偽善だ、と突っ込まれる根拠を一切もたない「善」というのは、本質的にありえないと考える。
 だから、ことはそれが偽善かどうか、ということよりも、「偽善」という定義がなぜ起こるのか、という指摘の動機に本質があるように思う。

  “人はなぜ、偽善を指摘したがるのか。あるいはそれを偽善にしたがるのか。”

 ここに、人間の僻みや嫉妬を見る。自分がやってなくて、自分でない他のだれかがやっていることに対し、自分がやっていない理由を正当化するために用いられるロジックが「偽善」である。

 だが、この「偽善」の指摘は、正義の告発だろうか。本来は善に当たらない人をあいつは本当は善ではない、と告発し、彼が善として評価されることを防ぐこの行為、そのものは善だろうか。

 つまりは「偽善を指摘する」その行為そのものが偽善なのである。偽善=本当は人をおとしめていることを指摘することそのものが「おとしめている行為」なのである。
 だから、「偽善」の議論は意味がない、と思う。考えるのは、なぜ「偽善」という概念を繰り出そうとするのか、という動機のほうだ。
 
 もしも13歳になった自分の子供が偽善は悪いことか、と尋ねてきたら、「それは偽善かどうか」と考えることそのものが、つまらない思考の罠にかかっているのだ、ということを諭してみたい。

 
 ちなみに、“ことわざ”というのは、どこかのだれかが上手いこと言って、そのあまりの上手さにみんなも使い始めていつのまにか共有の知的資産になったものなのだろうが、そういう意味でもっとも新しい“ことわざ”であろうもののひとつに「やらない善よりやる偽善」というのがある。もともと例の巨大掲示板あたりが発祥なようで、うまいこと言うやつがいるなあ、なんて感心していたら、どうやったらこれを論破できますか? なんて相談しているのもあった。
 ただ、無知から行われる善がトンデモない悪を引き出すことなども実は歴史が証明しているわけで、スヌーピーの世界「ピーナッツ」ではルーシーが「人類史上もっとも大きな害をなした人々は「いいことしたつもりだった」と考える人種だった」と看破している。
  まあ、みんな偽善の答えには悩んでいるのだ。



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