後漢孝霊帝=孝霊天皇/後漢孝献帝=孝元天皇という構図が考えられます。これは非常に信憑性が高いと私は考えています。孝が付く四天皇は後漢の最後の四皇帝を神武王朝の系譜に繋いだものである可能性が高いと考えています。魏志倭人伝が倭国大乱を桓霊の間とわざわざ後漢皇帝に結びつけて記述しているのもそれを示唆するものと考えられます。
元々列島皇族の一族として中原で王朝を打ち立て運営してきた後漢の最後の皇帝孝献帝の一族が魏の曹操に皇位を禅譲したあと九州の日向に移動。その後その子孫である開化天皇が綿密な長期計画のもと、当時任那の高霊に拠点を移していた、高句麗出身ながら後趙劉氏に養子として入り後趙皇帝となった劉曜の子孫勢力で、列島皇室の血を入れて列島入りを準備していた崇神勢力を、北陸の敦賀から大彦命を将軍として近畿に侵入させ近畿を制圧。自身は吉備津彦を日向から吉備に派遣して吉備を攻略。その上で既に日向で協力関係を結んでいた公孫出身の安羅国祭司王卑弥呼を伴って近畿へ移動。近畿で崇神朝を打ち立てた。北九州では伊都国を拠点として対大陸諸国外交を行った。それが魏志倭人伝に邪馬台国という呼称で記述された。阿波の勢力もその動きに協力し、これら一連の流れを画策し統制した主体は、近江から尾張、東海、関東、東北、北陸、中部に繁栄しながらも歴史上は常に身を潜めて来たある勢力だった。このような流れを私はこの数年来考えています。
因みにこの崇神朝の一族は、後に景行朝にその座を譲った後は、東漢氏や西文氏、三津氏と称するようになり、飛鳥時代に協力関係にあった蘇我宗本家の偽装滅亡後は阿部とその名を変えてその後も現代に至るまでずっとこの列島内で有力な一族として生き残ったようです。