飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

悪魔崇拝の起源

2018-11-03 20:43:59 | 日本論と宗教論
人の心に善と悪の両方の要素があると、我々を含めた人類一般と同じように考える氏族があったとします。この氏族の神はこの氏族の人々に善の心を持って生活することを掟している。この掟に逆らって悪の心を持って行動した時、そのような行動が社会習慣化して決して見過ごせない状態になった時、そのような社会習慣に染まった者達にのみ自然法則に従った滅びが齎される。この時、この氏族の人々の意識の中では、彼等の神が怒り、制裁を加えたと意識される。

このようなことを過去の記憶としていくつか持った場合、このようなタイプの滅びの予想される集団に対して、ある義人が、同族としての哀れみと怒りの混ざった感情から、この集団に「このままでは神の怒りが来るぞ」と警告を発し、この集団がその警告を受け入れたものとします。

「本当に全員の心から悪の心が取り去られたのか?本当は残っているのに、外見上取り去ったふりをしているだけではないか?『警告を了承した。反省している』と言っただけでまた同じことを繰り返した人々が過去にも何人かいたぞ」。

「確かにその通りです。悪に染まった私たちにも家族や恋人など愛する者に対する感情を善の種としてこの心に宿しています。悪に染まったことをこの心に思い知らせ反省させ、もう二度と悪に染まらない為に、この心に痛みを与えなければいけません。ここに、私達の中にいながら悪に染まらず皆から愛されている者がいます。この者を自ら失うことで、この心に痛みを与え、二度と過ちを繰り返さないようにします。これを、私達の改心の証として神が受け入れてくれますように」。

このような申し出があれば、この申し出を受け入れたのが我々現代日本人だったら、「分かりました。その言葉で十分でしょう。神も分かってくださると思います。実行するには及びません」などと言って彼等を赦すことでしょう。

しかし、このような選択が認められるということは、同時に、それとは全く逆の選択も認められなければいけないことを意味しています。この場合のこの人の発言は「『神が赦す』と発言する越権行為など、私にはとても犯せません。私にもあなた方の同族としてあなた方の愛する者への哀れみの気持ちがありますが、今はどうしようもありません。私達もあなた方と痛みを分かち合います」といった感じになるでしょうか?

神への生贄は、このようにして出てきたものと考えられます。このような意味での生贄を要求する神は、それだけで悪魔と断定するわけにはいきません。実際、イエスの崇拝する神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イサクにたった一人の愛息ヤコブを生贄として捧げることを要求しました。このことをもって、イエスの神を悪魔と決めつけることはできないでしょう。

神に生贄を捧げた時に、心の痛みを感じ、心の底から改心する人々の間に、生贄の苦しむ表情と血の色を密かに快感の種にする者達が紛れていたとします。友人の不幸を心の底で喜んでいる自分を自覚し愕然とした経験のある人は少なくないと思いますが、そのような感情のもっと程度の激しい感情を抱く者達がいたとします。この者達は、この部族内に「神への生贄」と称して生贄の習慣が定着することを欲したことでしょう。「そんなことを望むのは良くない」と言ってそのような欲望が押しとどめられた時に、自分たちだけで密かに集まって、陰でこの習慣を定着させることもあったでしょう。

こんな彼等が習慣として生贄を捧げ続ける時、彼等の神は、彼等の行いによって、悪魔へとその姿を変貌させられたのです。

これこそ悪魔崇拝の起源ではないでしょうか?

生贄の苦しむ表情と血の色を快感の種にするような心を彼等に与えた存在者を想定した場合、これこそ実体としての悪魔でしょう。

ユダヤ教の中に紛れ込んだ悪魔崇拝者達によってこのような意味での生贄とされたのがあのイエスでした。イエスの死によって全人類の罪が贖われたと考えることで生まれたのがキリスト教ですが、これを悪魔崇拝の儀式とみなしたのがパリサイ派でした。このパリサイ派の一員でイエスの死後イエスの弟子達を大いに迫害した者達の一人だったのがサウロです。このサウロが「復活したイエスに会い、改心するよう導かれた。パウロと改名した」と言ってキリスト教団に加わり、主にギリシャ語を喋る人々の支持を集め、アンティオキアという名の町で発展させたのが、ヨーロッパキリスト教の起源です。ヨーロッパのキリスト教はその始まりの瞬間から、本質的に悪魔崇拝だった可能性が高いのです。

それに対して、このパウロに懐疑の目を向け続け、アンティオキア教会とは一線を画し、イスラエルにおいて良きユダヤ人として生活する人々も、ごく少数ながら、存在していました。彼等はイエスの死を悪魔崇拝の儀式として捉える人がいたことなど思いもよらず、イエスの死を自分たちの責任として捉え、イエスの眼差しの記憶と共に、心の底から改心した人々だったと考えられます。この人々のことをギリシャ語でキリスト教徒と呼ぶのは最早、不適切です。私はイエスメシア教徒と呼ぶべきだと考えます。そして、彼等の自称もそうだった可能性が高い。何故なら、彼等の子孫と目される人々が諸般の事情からやむなく中東の地を離れ、東に向かい、長い旅路の果てに列島に辿り着いた時、彼等が本拠地として定着した土地のひとつの地名が現在「うづまさ」(←エスマシャ←イエスメシア)という名称で残っているからです。この「うづまさ」は「太秦」と漢字表記されています。「太秦」とは中国語で「秦」の大元、ローマ帝国やパルティア王国を意味しています。

この人達が先にこの列島に入ってきていたイスラエル十氏族をはじめとするいくつかの部族と協力し合ってこの列島で定着させたのが神道であり、天皇です。

神道や天皇も、現在では悪魔崇拝の人々に乗っ取られてしまっているものと考えられます。現在そんな神道や天皇を隠れた原因として生じる様々な事件の真相を、神道や天皇を悪魔崇拝と捉え切ることで明確に切り取り、その分かりやすさから多くの人の支持を集めている人がいます。その人の存在のことを私はつい二週間前に知り、その人の文章を読むことで、大きな刺激を受けました。天皇や神道、密教のことを世界全体の本当の支配主と捉え、アメリカの金融ハザール偽ユダヤがとかロスチャイルドがとかいった言論に終始する有名陰謀論者の欺瞞を暴いている点なんか、私と全く同じと感じました。と同時に、この人の危うさに気づくことにもなりました。

この人の主張をさらに推し進めると、必然的に、神道や天皇を、従って、日本のアイデンティティをなす伝統文化と一般に考えられ、私がクリスチャンとして、本当のキリスト教の所在の場所であることを見出した、そんな神道や天皇を、仏教などその他のものも全部ひっくるめて、根こそぎ滅ぼすという結論になるでしょう。その後には、残された庶民や平民による新しい宗教と究極の民主政をとなることでしょう。この新しい宗教と民主政こそ、私は大問題だと考えるのです。こんなものの実在性を信じ切ることが、私にはとてもできない。

神道や天皇を滅ぼすというのでは良くありません。現在神道や天皇を乗っ取っている者達の正体を暴き、その者達をこそ滅ぼして、神道や天皇の地位に本来の相応しい人々が復帰できるようにする。こう考えるのが最も正しい。私はこのように考えます。