魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

misunderstand

2008-03-22 22:59:38 | Weblog
「かわいそうに名前だってないんだから。名前がないのってけっこう不便なのよね。でも私にこの子に名前をつける権利はない。ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで、名前をもらうのは待ってもらうことになる。この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない。独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」

ティファニーで朝食を/トルーマン・カポーティ 村上春樹訳





前にTVで、日本文学の翻訳者である外国人が、


オリジナルは不変であるが、翻訳はその時代によって異なる。


と言っていたのを思い出した。





大学1年の頃に、カポーティに挑戦したことがあったが
難しく、理解することができずに断念した。


村上春樹の言葉で翻訳されたカポーティは
渇いた細胞に、水分が行き渡るような心地よさとともに理解することができた。




翻訳でこんなにも雰囲気が変わるとは。


最初に読んだときは、アメリカ文学について無知であったことも原因の1つであると思う。






村上春樹による解説も素晴らしい。
このためだけに本を買う価値がある。

チャンドラーのロング・グットバイも然り。







今では、分析しながら読むという癖がついてしまったため、
ホリーのフラジャイルな奔放さ、マーロウの不器用な熱さをも客観的に読み込んでしまう。

こんな繊細でナイーブなアメリカ文学に
多感な十代に出会えていたら、今とは違う人格形成をしていたかもしてない。