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sky is blue

言わなければよかったのに日記

ブラックホールの中心で、愛をさけぶ

2005-11-26 00:44:24 | AYU
随分前の話になるけれど、菊地成孔の『CDは株券ではない』で、浜崎あゆみの『Moments』(2004/3/31発売)が取り上げられた。『CDは株券ではない』は、“bounce.com”で連載されていた、JポップのCD売り上げ枚数を発売前に予想するというもの(そして毎回外れるというのがウリ?笑)。やはりというか当然というか、いつかあゆも取り上げられるんだろうな、いや、取り上げられないわけがない! と、ワクワク、そして、ビクビク(笑)しながら待っていたのだが、遂にキタ! ああ、あゆが菊地さんに斬られてしまう。いや、あゆも菊地さんに斬られる日が来たのね。立派になったじゃん!(笑)

で、これがなかなか面白痛かったので(面白く、かつ、痛いところを突かれたという意味…笑)、せっかくだから、それを受けて私も真面目(?)に語ってみようかなと。

菊地さんは、「僕が最もその肉体を愛する女性」と、あゆの肉体的な魅力を十分認めた上で(「天上界に君臨する事は変わりません」とまで表現してたのには笑った)、誹謗にならないことを祈りながら、「僕は彼女の歌が、死ぬほど聴いたのにもかかわらず、全く区別が付かないのです」と書いていた。

これは、、、、、、分かるなぁ(オイ!)。

いやいや、違うんですよ。本当は決して「同じではない」し、少なくとも私は「区別付くよ!」って胸を張って言えるんです。それどころか、あゆの「音楽性の変化」についてだって語れます。だけど、ここで言っている「区別が付かない」というのも、何となく分かるのよ。まぁ、菊地さんが言ってることと私が言ってることは必ずしも一致するわけではないだろうけど、話を進めます。

菊地さんはここで、「エルヴィス・プレスリーだって、初期ビートルズだって、大スターというものは、多かれ少なかれそういう物でしょう」とフォロー(?)を入れている。そうなんだよね。例えば、サザン、ユーミン(クリスマスの特番『松任谷由実のオールナイトニッポンTV』でユーミンとあゆ対談しますね!必見!)、矢沢永吉。もしくは、奥田民生、ドリカムなんかでも良い。そういう人たちも、私の中では、少なからず「同じに聴こえる」って側面、あると思う。これは、それが良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかとは別の話。でも、本当は「同じではない」ってことも頭の別の部分では分かっている(つもり)。それどころか、むしろ、今挙げたような人たちは、音楽性の幅が広い方ではないだろうか。色々と革新的なこともやられている人たちだとも思う。それなのに、「同じように聴こえてしまう」という現実もまた、私の中にあるのだ。金太郎飴みたいな。それは、多分、例えばサザンなら、もう「サザン(とそれを取り巻く漠然としたイメージ)」って存在が大きすぎて、まっさらな状態で触れることが極めて困難な状態に陥ってるからっていうのがあると思う。それだけ、「サザン(あるいは桑田佳祐)」っていうブランドというかネームというかキャラクターというか看板というかが、確立されているってことだと思うし、悪く言えば「一人歩きしている」ということになるのだろうけど、そんなのある程度有名になってしまえば避けられないことであって、それだって強烈な個性として、自らが築き上げたものの一つとして、誇りに思って良いものだと私は思う(裏を返せば、一貫した「何か」があるってことだからね)。大衆芸術というものは多かれ少なかれそういうものだしね。そして、そういう中でも「自分」を失くさないでいられる人だけが(かつ、「自分の殻」をぶち破ることもできる人だったら最強!)、「大スター」でいられるのだ。

洋楽の例だと、例えばクイーンなんか、あれだけ音楽的に多方面のことをやっていながら、フレディという強烈な個性の塊によって、「同じに聴こえる」って側面、あると思う(言っときますけど、私、クイーン大好きですからね)。

今話題のRAM RIDER(浜崎あゆみのリミックスや片瀬那奈への楽曲提供などもしつつ、自らの活動も行い、ジャパン・フェスやサマソニへのDJ出演などもしている)が、インタビューでこんなことを言っていた。彼は、TM NETWORKに強く影響を受けたらしいが、「TK(小室哲哉)全盛期で、曲が量産されてくあの感じがおもしろくて。『小室哲哉の曲はぜんぶ同じじゃん』って誰かが言ってるの聞くたびにうれしかった。むしろぼくも『RAM RIDERの曲はぜんぶ同じ』って言われたいくらい。サビだけちょっと聴いて誰が作ったかわかるっていうのはすごいことですよ。ポップスってそうやって大量生産されて、スポイルされてもいいからどんどん供給して、みんな同じだと思われても何年か経って聴いたらちゃんといいものが残ってるっていう、そこがポップスのいいところだと思うんですよ。――中略――いま聴くと、あの熱かった時期には見えなかったものがちゃんと見えてきますね」。

そんなこんなで、菊地さんが言う、あゆの歌が「区別が付かない」というのはよく分かる。ただ、一つだけ苦言を言わせてもらえば、取り上げたのが『Moments』ってところにも問題はあったと思う。あれは、それまでの集大成的な曲だったから、既視感ばかりが目立つのは仕方ないっていうか、そういう曲だからってのがあるからなぁ。ま、そうだとしても、あゆも、それくらい「浜崎あゆみ」という強烈な個性を放っているってことに間違いはないだろう。何事にも、良い面と悪い面がある。その強烈な個性は、武器にもなれば足枷にもなる。その強烈な個性ゆえにアピールできるものもあれば、それゆえに「区別が付かない」ということもある。そういうことなんだろう。そして、菊地さんは、それゆえに「彼女の歌を聴けば聴くほど、乖離してゆく」と書いていた。うーん。これも、悔しいけど分かるなぁ(オイ!)。さっき、武器にも足枷にもなるって書いたけど、そういう、同じに聴こえてしまうビッグネームの人たちって、それが良い悪いとか好き嫌いとかじゃなく、どこか敬遠しがちになってしまうところ、私にもあるもの。それが同じ国の人だったら尚更。なんかもう、聴く前から「お腹一杯です」みたいな。こればっかりは、どうしようもないなぁ。何かのキッカケで扉が開くのを待つしか。私だって、好きになる前は、あゆのこと「全部似たような曲じゃん!」とか思ってたもん(笑)。だけど、扉は開かれてしまったんだよね。開かれたら最後、あゆの曲が決して「同じではない」ことも分かってしまうし、その「変化」も嗅ぎ取ってしまう。だから、それ(扉が開いたこと)は、あゆの実力であると素直に認めたい。だって、菊地さんと同じように「区別が付かない」って思っていた私を、それどころか嫌っていた、これまた菊地さんと同じように乖離していた私を、巻き込んでしまったんだもの。私の扉をこじ開けたのは、他でもないあゆなんだもの。いや、あゆがノックをして、私が開けたのか。どちらにしろ、あゆにそれだけの力があったってことだよ。って、私、エラそうですけど(笑)。

ついでに、菊地さんは、最後の方にこう書いていた。「この歌を真摯な意味で必要とする人々の心と、彼女の肉体をどこまでも愛してゆく僕の心と。全盛期のマドンナに匹敵するほどの〈ボディが持つメッセージ性〉を彼女が持っていることを、この歌を必要としている人々にはどれぐらい届いているのか?」。

うおぉぉぉぉ! 分かるよ、分かるよ、これ~!

そりゃ私は、あゆの「歌」が大好きだけどね。でもね、この彼女が持つ「ボディが持つメッセージ性」ってのも分かるの! あゆってさ、バレリーナみたいっていうか、アニメのキャラクターでも良いんだけど(笑)、こう「ただそこにいる」だけで、なんらかのメッセージを発しているような、そういうオーラ、あるんだよなぁ。体全体で何かを発しているっていうかさ。またまたフレディを例に挙げちゃうけど、フレディって、なんかもう「そこに立っている」だけで、何か発してるじゃん。ルックスとかスタイルとか動きとか表情とか眼力とか、もうすべてで、なんか発してるのよ! そういうの、あゆからも感じるな~。クラクラしちゃいます。「ボディが持つメッセージ性」。うんうん、分かるぅ~! 体全体で表現してるっていうか、表現になっちゃってるっていうか。単純に言うと、ビジュアルの部分で訴えかけてくる部分ってのも、あゆ、大きいよねってこと。誰にでもできる芸当(才能)じゃないですよ、これ。で、菊地さんは、「彼女の歌を真摯な意味で必要とする人々の心」と「彼女の肉体をどこまでも愛してゆく僕の心」との狭間に広がったブラックホールみたいんを見てるのかなぁ? だとしたら私は、その両方に共感してしまうっていう、そういう立場だなぁ。ううーん、それはそれで、なんとやら…って感じだなぁ。引き裂かれていくっていうか。もしかして、狭間のブラックホールにハマッた一人?(笑)

まぁ、何でも良いや! だってさ、どうであれ、菊地さんは、あゆを語るときに、あろうことか、「エルヴィス・プレスリー」と「ビートルズ」と「マドンナ」の名前を挙げて語ってくれたんだよ? その意図がどうであれ。もう一回書いちゃうよ? 「エルヴィス・プレスリー」と「ビートルズ」と「マドンナ」だよ? そんな名前を挙げてあゆを語ってくれたこと自体、超嬉しいし、あゆだって、超嬉しいでしょ? ほら、あゆ、喜びなさいよ! ここ、喜ぶところよ!

……にしても私、あゆ、べた褒め(惚れ)だなぁ。とほほ。