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sky is blue

言わなければよかったのに日記

冒険的で懐古的? あゆのイビツな音楽性 【前編】

2005-11-27 22:30:53 | AYU
浜崎あゆみの1stアルバム『A Song for ××』(99/1/1)に「SIGNAL」という曲がある。これがもう笑っちゃうくらいに……ダサい。今となっては、「あゆ、こんな曲歌ってたのぉ?!」って感じだ。歌詞もすごいし、そんな風にキメられてもぉって感じで、もう私なんかは大好き!?(笑) もちろんそれは「今のあゆ」があるからなんだけど。イントロがはじまった瞬間、吹き出しちゃうし、笑いなしには聴けない。私の、今こそあゆに歌って欲しい曲No.1である(絶対無理だろうなぁ)。だけど、この「SIGNAL」に限らず、「Hana」とか他の曲も、やっぱりちょっとダサい。やはりこれは「今聴くと」なのかな。

このある種の「ダサさ」は、2ndアルバム『LOVEppears』(99/11/10)でも、1st程ではないにしろ、やっぱりどこか残っている。だけど、3rdアルバム『Duty』(00/9/27)からは、これが不思議となくなっている。今聴いても「古くさい」と感じないのだ。あゆに対して(もしくはエイベックスに対して)、「流行りもの」というイメージを持っている人も少なくないかも知れないが、この頃からのあゆの楽曲が、そのイメージとは裏腹に「普遍性」を持ち得ていることはどのように評価されているのだろうか。まぁ、そんなこと言っても、5~6年しか経ってない判断ではあるけれど。

音楽において、この「古くさい/古くさくない」の基準は、よく分からないことだったりする。その時の流行やサウンド面の技術、ジャンル的なことなどが関係してくるのだろうが、結局は曖昧である。その答えがハッキリ分かるんだったら、誰も苦労しないよ!って話である。

ただ、一つだけ言えるのは、この『Duty』あたりから、あゆの音楽に対する意識が明確に変わったということだ。それまでは“用意された楽曲を歌っているだけ”という印象が拭えないが、『Duty』は、もう最初っから明らかに気迫が違う。曲調もサウンドの方向性も、そして、あゆの歌い方も、それまでと全然違う。何だかクドいし、何かを背負ってる感じがする。それまでは、ダンサブルな曲にしても、バラードにしても、爽やかで軽快だった曲調も、重々しく暗い感じになっている。歌詞もそれまでと違っていて、前の“何となく思ったことを書いている”という感じではなく、自分が“歌いたいこと、歌うべきこと”を模索して書いているような感じだ。生みの苦しみである“もがき”を感じる。要は、音楽に意識的になった、自らの表現方法として音楽と向き合いだしたってことなんだろう。

当然、「前の方が好きだった」という人も出てきただろう。前の方が「ピュア」だったと。それはある意味では当たっているのかも知れない。意識的になるということで、ピュアではなくなるという見方もできる。でも、それによって、彼女が“自分が本当にやりたいこと”をやるのなら、それが彼女の「本性」なのではないだろうか。そして、「本性」が出れば出る程、その表現は“純度が高い”ということになるのではないだろうか。

『Duty』から音楽に意識的になったと書いたけど、順番が逆だろ!とか遅いよ!って声も聞こえてきそうだ。それについては彼女自身が一番自覚していることだろうし、色々と葛藤もあったみたいだ。もっと違う音がやりたいとか、そういう欲が出てきたにも拘らず、怖くてなかなか踏み切れなかったらしい。「ザ・エイベックス!みたいなものを壊しちゃいけないんだって。その勇気もなかった」と語っている。そんな彼女を目覚めさせたのは、他でもないお客さんだったようだ。はじめてのツアーでお客さんのパワーを目の当たりにして、そういう自分に引け目があった分、「負けると思った、お客さんに」と語っている。その辺から、もし「違うな」と思われても、「それを振り向かせる事に、自分は生きる喜びを見るんじゃないか」と思えたとのことだ。

そして、あゆの音楽性は急速に変化していった。遂には、CREA名義で作曲までするようになる(幽霊説はここでは無視でお願いします…笑)。はじめて作曲した曲が「M」なのだが、やはりどこか歪で、未完成って感じで、強引な展開をする変な曲だった。だけど、それを歌うときに発せられる彼女のエネルギーは、確かにそれまでにないものだった。だから、音楽的にどうのと言うよりも、曲を作るという行為自体が、「浜崎あゆみ」という“アーティスト”が真の意味で産声をあげるために、必要なことだったんだと思う。そう。『Duty』から予兆はあったものの、アーティスト「浜崎あゆみ」が本当の意味で誕生したのは、「M」であり、後の4thアルバム『I am...』(02/1/1)であったと私は捉えている。はじめて「浜崎あゆみ」が全貌を現し、裸になり、剥き出しになったのは『I am...』だったと(産声のようなアルバムかな)。

「M」はミリオン行ったらしいが、それについての彼女の発言で印象的なのがある。「あの曲は、そんなに売れる感じじゃなかったと今でも思ってる」「あんなに売れちゃいけないと思ってた」と言っている。「浜崎あゆみのCDをただみんなが買っただけ? だから聴いた事ない人、バラードなのかアップなのかなんだかわかんないけど、なんでもいいから『あっ、あゆ新曲出したんだ。買わなきゃ!』っていう人が、凄く今、日本にいるっていう事だと思ってる」とまで言っている。なんて生意気なんだ!(笑) 買った人に失礼じゃないか!(笑) でもなぁ、正直だよなぁ。だってこれ、他でもない「音楽」で自分を評価して欲しいって気持ちの表れでしょ。それを誤魔化しではなくちゃんと伝えたいってことでしょ。音楽に対しても、ファンに対しても、真摯でいたいってことじゃん。自分で作曲するようになって、尚更その気持ちに気付けたのかな。それにしても、「凄く今、日本にいるっていう事だと思ってる」なんて、なかなか言えないよ?(笑) でもそれが現実だったりするんだから、カッコ良いよなぁ(笑)。

肝心のサウンドがどのように変化していったかと言うと、簡単に言えば、どんどん「ロック」になっていったのだ。もう十分、「ザ・エイベックス」(笑)は壊している。

こういうことを言うと、こういう変化自体「流行を読んでる」とか言う人もいる。でも、果たしてそうだろうか。別に私は「流行を読む」ことが悪いことだと思っているわけじゃないし、歌は世につれるものなのだから、「流行」や「時代」の影響を受けることは当然のことだと思っている。けど、あゆのこの変化はそれとは別次元な気がしてならない。客観的に見れば、むしろ、この変化は「冒険的」だったのではないだろうか。もし本当に「流行を読む」んだったら、もっと言えば「売れる音楽」を作りたいだけだったら、自ら作曲までしてこんな冒険しなくったって、「ザ・エイベックス」な音楽に、その時その時の流行りの音を上手く取り混ぜてやってりゃ、それなりに人気もあったんだから、それで良かったはずだ(と思う)。だけど、こんな荒々しいまでの変化――。やはりこれは、「流行」のためでも「売れる」ためでもなく、他でもない「浜崎あゆみ」というアーティストが真に生まれるために必要なことだったんだと思う。

大体、流行を読むんだったら、もっと違う方向にシフトしてたような気がする。だって、「ロック」って流行ってた?(笑) 仮に流行ってたとしても、あんなコッテコテのベッタベタなロック・サウンド全然“流行り”じゃないよね? そもそも、あゆがロックをやる必要なんてあったのかな?(世間的に) むしろレトロな方向というか、変化自体は「冒険的」ではあったけれど、サウンドの方向性としては「懐古的」というか、そんな気がするんだけど。更に、あゆが作曲したことによって「未熟」な面も露わになっちゃったし。そういった複雑な側面が、あゆの音楽に対する人々の理解をややこしいものにしている気がしないでもない(いや、私もまだよく分かってませんけど)。実際は、分かりやす過ぎるくらいバカ正直なのにね。

いずれにせよ、結果的には、2~3年の「流行」で終わらず、デビューから7年以上経った今でも第一線で活躍しているわけだけど(これ、どのくらいの人が予想できてたんだ?)、それは結果論であって、「流行を読んで」そうなったのではないと思う。そもそも、「流行」ってそんな単純で簡単なものでもないと思うし、結局は「伝わるもんは伝わる」ってことなんだと思うし、思いたい。だって、「音楽」を通してあゆのその「姿勢」が評価されたのだとしたら、それはもはや「流行」とかそういうものではないよね? 大体、彼女の「音楽」を聴いてみれば、そんなことすぐに分かるはずなんだけど。それなりの結果を築いた今だからこそ、敢えて言うのだとしたら、「流行を読んだ」のではなく、「流行を作った」と言えるのではないだろうか。敢えて言うのだとしたら、ね。

【後編】に続く。