助ぶ六゛

楽しかったこと、おいしかったもの、忘れられないこと

レオ、大輔と会う。

2006年07月31日 | レオのつれづれ


先日、助さんの実家で飼っているダックスフンド・大輔に会ってきました。
家に知らないひとが入ってくると、ひどく吠えるということなので、助さんのお父さんが散歩に連れ出し、その間に私が入って帰宅した大輔を迎える作戦に打って出ました。

「おかえり~」
助さんのお母さんの声とともに足を洗った大輔がすごい勢いで、部屋に入ってきました。
隣にすわった助さんにまずとびかかってあいさつ。
次になんと私のところにシッポを振ってとびかかってきます。
作戦成功に全員がニヤリと微笑んだ瞬間、嗅ぎ慣れない私の匂いに気づき、吠えだしました。

気づくのおそいよ…

みんな思い思いにつっこみをいれてから、さっそくなだめにかかります。
でも、全然鳴きやみません。目を充血させ、ごほうびボーロにも目をくれず、でもしっぽを振りながら、ただただ吠え続けます。そのうちお母さんがひとこと

そんなに鳴くとブンするよ!

私はその”ブン”を見てみたい欲求をこらえるのに必死。
(私の想像では、両手をもってグルングルン振り回した後、ブンッと投げ飛ばすかんじ)

そのうち、大輔も疲れてきて、大好きなササミを食べたりしているうちに吠えなくなりました。
みんなホッと胸をなで下ろし夕ご飯を食べだした頃、今度はひたすら私にじゃれついてきて、靴下、さらにはズボンをひっぱって脱がそうとします。
ここで脱げばさらに仲良くなれるかもしれないという思いもよぎりましたが、こんどは助さんのご両親との仲が微妙になりそうです。ここは脱がされないようにふんばりました。ナイス判断! 

最後になりましたが、とても可愛かったです。
とくに大好きなミルクをおねだりしている時の瞳のうるうる加減は、ぜひマネしてみたいと思っています。



野に咲く葡萄の露に濡れつつ

2006年07月31日 | 助六のおいしかった
九州・博多で人気の自然派ビュッフェが東京に進出したということで、ロハス途上人の私はさっそく言って参りました。
場所は東京・丸の内に昨年11月にオープンしたTOKIAの3階。
お店の名を「食彩健美 野の葡萄」と言います。
お店のプロフィールには「安全・安心にこだわった健康家族応援レストラン。信頼のおける食材を使った和洋創作料理は80種類以上。天然だしや無添加フォンドボーを用いて丁寧につくります」とありますが、果たしてどんなもんでしょうか。



お店の外観です。割烹着を着た店員さんが、目の前で調理をしています。
店に入ると、席に案内され、店員さんがシステムの説明をしてくれます。
時間は1時間半でおかわり自由(当たり前ですが)。
取り皿は木製で、汚れたら随時店員さんがちゃっちゃと片づけてくれます。

さっそく、料理を取りに行きました。



全部で80種類以上の料理が並んでいる様子は、なかなか壮観。
たくさんの種類をちょっとずつ取り皿によそったら、こんな風にわけのわからない盛り合わせになってしまいました。

気を取り直して、今度は「夏野菜のカレー」を取ってきます。



野菜は有機および減農薬を選び、添加物や化学調味料はできるだけ使わないといった配慮がカラダに優しいです。
ロハス予備軍の僕も大満足。



パスタやラザニアなどの洋のものもちゃんとありますので、お子様も大喜び。



左から、デトックススープ、ココナッツカレー、冷や汁。
最後は汁物3点でまとめてみました。

ビュッフェというと、たいていメニューが決まってしまっていて、どこに行っても同じ的な変わり映えのなさがありますが、このお店は小料理屋に並んでいるような家庭料理が充実していて、バイキング的乱暴さではない様相で胃袋を満たしてくれます。
少々座席間隔が狭いのがネックですが、お料理的には充分採算のとれる満足度でした。

場所柄、お好みで盛り合わせができるお弁当なんかも販売するといいかもしれませんね。

われらハンブルガー

2006年07月28日 | 助六のおいしかった
今日は仕事帰りに、人形町の「BROZER'S」に行ってきました。
ここは、BRUTUS第585号「日本一の『手みやげ』はどれだ!?」のハンバーガー部門で、堂々一位をとったお店。
時間が早かったので、僕たちが店内に入った時は空席がありましたが、しばらくすると空腹感とビーフパティの居場所を交換しに来た客たちですぐ満席に。
インテリアはアメリカンなダイナーな感じ。
『レインマン』に『俺たちは天使じゃない』に『ブルースブラザーズ』。
店名にちなんでか、「兄弟」をテーマにした映画のポスターが飾られています。
レオと「今度ポスターが貼られるとしたら、間違いなく『間宮兄弟』だ」などとくだらないことを言っている間に、メニューをじっくりと吟味して、僕はロットバーガーを、レオはアボカドバーガーをチョイス。
どのハンバーガーにも、フライドポテトとオニオンリングとピクルスがついてきます。



ロットバーガーは、「オーナーが修行した、シドニーのバーガーショップのレシピをもとにしたメニュー。パインにチーズにベーコンといった具材のバランスのよさは、まさに職人芸。ソースもスイートチリなど4種を用意」ということで、僕はオーソドックスにBBQソースを選択しました。



どうです? この迫力。
テーブルに備え付けられている紙包みを使って、具材がこぼれないように大口を開けていただきます。

やっぱ、網焼きのハンバーグステーキはおいしいなあ♪

うっすらと肉汁の染みついた指先まで舐めつくして、幸福感に浸りながら店を後にしたのでした。

超実践的法律問題(解答編)

2006年07月25日 | 助六のつれづれ
さて、解答の発表です。
結子さんは100万円を返してもらうことをあきらめて、宿を出ました。

そして1ヶ月後。
結子さんはまた100万円を持って、同じ旅館にやってきます。
今度は新しい恋人の助六さんも一緒です。
そして結子さんは、今度は恋人の助六さんの見ている前で、宿の主人に100万円を預けました。
恋人たちの甘~い夜が過ぎ、翌朝。
宿屋の主人がひとりでいるところを見計らい、結子さんは主人に100万円を返してもらいます。
今回は恋人の助六さんが証人として見ていたので、主人はきちんと100万円を返してくれるはずです。
これで準備は整いました。

結子さんは帰京すると、恋人の助六さんを証人として立てて、2回目の100万円につき、裁判所に対して返還請求訴訟を提起しました。
この場合、100万円を主人に預けたかどうかについては、恋人の助六さんが立証してくれますから、次の争点は「100万円の返還がなされたか」という点に絞られます。
当然のことですが、宿屋の主人は「確かに返した」と主張しますし、結子さんは「返してもらっていない」と主張することになって、水掛け論になってしまいます。
そこで登場するのが、「立証責任」です。「金銭の返還」という主要事実については、その立証責任はお金を返したと主張する方に課せられます。
そうすると、100万円を返してもらった時、フロントには結子さんと宿の主人しかいなかったのですから、主人は目撃証人を立てることができませんし、受領証などの書証もないのですから、結果的に宿の主人の敗訴、すなわち、結子さんは100万円をさらに返してもらえるということになるのです。

どうですか? ちょっとびっくりな方法でした。
でも法律を使いこなしている感じがしますよね。

超実践的法律問題(ヒント編)

2006年07月21日 | 助六のつれづれ
仮に、設問の状況で訴訟を提起したとしましょう。
争点は、結子さんが本当に100万円を宿の主人に預けたか、という一点に絞られます。
当然、結子さんは「確かに預けた」と主張しますし、宿の主人は「そんなものは預かっていない」と主張し、水掛け論になってしまうでしょう。

このような主要事実につき「真偽不明」の場合でも、悲しいかな、裁判所はなんらかの判断を示さねばなりません。
そこで、法律の世界では、当事者の一方に主要事実を立証する責任を負わせ、これを証明できなかった場合には不利な法律判断を受けてもやむを得ないというルールを設定しました。
これが立証責任です。

そして設問の場合、立証責任は結子さんのほうに課せられます。
そうすると、フロントには結子さんと主人しかいなかったのですから、結子さんは目撃者を証人として証拠調請求することもできず、また、預かり証のような決定的な書証を提出することもできないのですから、結局結子さんは敗訴になってしまう確率が高いですね。

ならば、立証責任を宿の主人のほうに転換してしまえば良いのです。
さて、どうしたものでしょう。

超実践的法律問題(設問編)

2006年07月21日 | 助六のつれづれ
とある弁護士さんに教わった問題です。
結子さんは、現金100万円を所持して、しまなみ海道へ傷心旅行に出かけました。
お目当ての隠れ宿に着くと、さっそくチェックインです。
しかし結子さんは、旅先で大金を持ったままでは危ないと考え、フロントで100万円を預けました。
預けた時には、フロントには結子さんと宿の主人のふたりしかいませんでした
そして主人はなぜか預かり証をくれませんでした
翌日の朝、結子さんは100万円を返してもらおうと、宿屋の主人に申し向けました。
すると、主人はそんな金は預かっていないと言い張ります。

さて、結子さんはどうしたら100万円を取り戻せるでしょうか。

【ヒント】
 結子さんは裁判所に100万円の返還請求訴訟を提起することになります。どうすれば勝訴できるかを考えて下さい。

非他力 不小人 カレー

2006年07月19日 | レオのおいしかった
さてさて、この前の連休の初日にクレー展から帰ってきた私達は、とくに頭を使わないでも作れる”みんなが大好きカレーライス”をつくることにしました。しかし千葉の佐倉にある美術館からの自宅までは2時間近くかかって、駅前のスーパーで具材を買った時点で私達はかなりぐったり。ふらふらして具材を家の冷蔵庫につっこんでから、しばらく寝てみました。

グゴゴッグルウルルグ~キュイ~ム…

しばらくして、助さんのお腹の鳴る音で目が覚ましました。やはりカレーライスを作ってくれる小人はいなかったようで、鍋にカレーはできていません。小さく首を振って準備開始。使うルーは助さんちで好評だったというプライムジャワカレー辛口。どうやら油脂分をカットしてカロリー30%オフってのが売りのようです。






でけた!今回は挽肉とトマトとほうれん草のカレーです。


そいえば、レオは初ジャワカレー。リンゴとハチミツのバーモンド育ち(甘口)の私は、そのスパイシーさにびっくり!
トマトが全体の味をうまくまとめあげる役割を果たしてくれて、なるほど、これが岩城滉一のお味なのかと思いながら、おかわりまで、とっても美味しくいただきました。

そして夕飯後ナナの11、12巻を読むのに夢中で食べ損ねたケーキが明朝のご飯となりました。デパ地下でけっこう見かけるオッサレ~なお菓子屋C3 のもの。その贅沢な甘さを堪能。



(助さんが食べたマンゴーケーキ)



(私の食べたぶどうのチーズケーキ)

そして昼ご飯は“一晩寝かせたカレーでうどん”





( 昨日から飲んでいた天狗舞とともに)

だし汁と最後に散らした浅葱によって、欧風カレーはとたんにねじりハチマキを巻いた和風っ子となり(助さん談)、グッと日本酒の味をひきたてるようになりました。

いやあ、ほんとグウタラクウネルな休日でガソリン満タンになりましたとさ。

ファンタジスタもたじたじ

2006年07月18日 | 今日もフットサル
なかなかフットサルの練習をする時間をとれないので、こんな書籍を購入してみました。



ファンタジスタの肉体改造法 (DVD付)


浦和ユース出身で中央大学法学部卒(!)、現在プレデター浦安フットサルクラブでフィジカルコーチをしている梅沢康隆さんという方が監修しています。
ぱらぱらっと斜め読みしてみたのですが、フットサルに特化した正しい筋肉の使い方、姿勢の矯正の方法などが、たくさん掲載されていますね。

ほーう。

アルゼンチン代表のアイマール選手は、筋トレはしていないのだそうです。
実践で使えない筋肉を作るより、思い通りに動かせるカラダを作ることが大事なのだそうです。

職場にいるときなど、普段ボールをさわれない時のちょっとした息抜きにもいいかもしれない。

付録のDVDがついていたので、観ながらさっそく10分ストレッチをやってみたのですが、軽く汗をかいていい感じ。
しばらく続けてみようと思います。

コートジボワール

2006年07月17日 | 助六の創作


ニュイは21歳で初めて挫折というものを知った。
挫折の多くは、その訪れの前に静かな凪の時期をもたらす。その時期になると、インスパイアの嵐に掻き立てられるように脈打つイマジネーションは、無風地帯の幟のようにぴくりとも反応しなくなる。やがて杭は腐食し、幟は畑の土に帰す。そして、人はただの人に戻る。
だがニュイの味わった挫折はそうではなかった。幟を支える杭はまだ瑞々しく弾力性を失っていないのにもかかわらず、外部からの圧倒的な力を受けて無惨にも折られてしまった。畑には折れ目のささくれだった杭が一本、無表情に吹きすさぶ風に耐えるだけだった。

ニュイはその少年時代のほとんどをパリで過ごした。パリは刺激的な街だった。彼の随一の芸術的センスの半分は、パリの街が生み育んだものと言っていい。残りの半分は、彼の血が先祖から受け継いだ、脈々と流れるノワールのリズムだった。彼の先祖はアフリカ大陸のコートジボワールという、暑さは苛酷だが住む人々の気質は穏やかな海沿いの国に静かに暮らしていた。北方からその豊かな恵みを狙った略奪者たちが大挙してやって来るまでのあいだは。
ニュイの父親はパリ市内の電話会社でシステムエンジニアとして勤務していた。ノワールにしては比較的裕福な家庭に恵まれたせいもあって、ドイツの工科大学を卒業してすぐ、さしたる苦労もなしにその職を得ていた。父親の勤務は昼夜交代制で、同じアパルトマンに暮らしているにもかかわらず、ニュイと顔を合わせない日も週に何日かあった。均整のとれた顔だち、すらりとした体躯は、研究室に閉じ込めて羨望と嬌声を浴びせないでおくにはいささか勿体無いほどだった。
母は平日は市内の病院で医療事務の仕事をしていた。患者の応対、カルテの整理、薬剤の在庫管理、医療保険の給付手続き。毎日が同じルーチンの繰り返しで、刺激には乏しかった。あるとき、刺激欲しさに向精神薬をまるまる1ダース懐にいれたことがあったが、そのときもさしたる問題にはならずに、彼女は雇用され続けた。もちろん夫にもそのことは告げられなかった。
そんな彼女が唯一心をときめかすことができるのが、週一回のバレエ鑑賞だった。週末になると、彼女は病院の仲間やリセ時代の友人を誘って、劇場に足繁く通ったものだった。お気に入りのダンサーの公演ともなると、仮病を使って病院を休む始末だったが、仲間達は彼女のバレエ中毒を良く知っていたし、医療事務の与えるストレスの危険性についても熟知していたので、好意的とはいかないまでも多くの場合黙認した。いつしか彼女の夢は自分の娘をプリマドンナにすることになっていた。

そんな夫婦のただひとりの子として育てられたニュイは(彼が誕生したときの母親の落胆ぶりは記すべくもない)、立って歩くことができるかできないかぐらいのときには、すでに専属のバレエ教師をつけられていた。
私立の小学校、中学校、リセと進級するにしたがって、専属教師の努力の甲斐もあってニュイのバレエの才能は次第に開花し、ついには国際的に知名度の高いローザンヌ国際バレエコンクールに出場するほどになった。ローザンヌ国際コンクールはスカラーシップ・コンクールであり、そこで審査員の注目を一身に集めたニュイはモスクワでより質の高いバレエの指導を受ける権利を得た。ニュイの一番のファンである母は悲しんだが、専属教師が「ニュイは才能もあるし、モスクワのバレエ団に私の親しい友人がいるから」と強く後押ししてくれた。ニュイはスーツケースに用具一式と防寒着を詰め込むと、ひとりモスクワへと旅立った。

モスクワでの日々はニュイにとって快適だった。街はパリほど華やかではないが、その分本来の目的であるバレエに集中することができた。会話のほうもすぐに問題なくなった。どういうわけか、ニュイには外国語会話の天賦の才というものがあった。
だがニュイが一生を捧げようとしたバレエとの決別は、すぐそこに迫っていた。ある冬の朝、ニュイはいつものように中古のカワサキで下宿をで、稽古場に向かった。外の空気は凛と冷え、防寒着の下のセーターを通り抜けて肌を刺してきた。グローブの中の掌が、毒虫に刺されて何倍にも膨れ上がっているように麻痺していた。普段と同じ現象ではあったが、その日は前夜に摂取し過ぎたズブロッカの影響もあいまって、それに対処する神経伝達速度にわずかなタイムラグを生じていた。ハンドルが左右に小刻みにぶれているのを自覚していたが、時に気に留めるふうでもなくニュイは速度を75km/hまで上げた。それでニュイが気付いたとき、カワサキはいつもなら避けて通るはずの、凍てついた路面列車の軌道にタイヤをとられていた。カワサキはニュイを乗せたまま道路を斜めに滑走し、肉屋の前の新聞スタンドに突っ込んだ。スタンドは大破したが、ちょうど朝刊の仕分けをしていた店主は事故を免れた。翌日の地元紙に事故は大きな見出しで掲載され、のみならず、期待の新進バレエダンサーの不慮の事故として、フランスの全国紙にも大きく掲載された。

幸いにもニュイは生命を取り留めた。だがバレエダンサーとしては再起不能だった。彼は大学病院のベッドの上で手厚い看護を受けながら、あらがい難い運命というものの存在を知った。心が無性にささくれだった。ただの人になったことを痛感した。ニュイの失意は、バイカル湖よりも深かった。何人かの同僚が見舞いに来たが、誰もニュイを慰めてやることはできなかった。
3か月後、ニュイはフランスに帰国し、両親の元でリハビリに努めた。そして日常生活に支障をきたさないほどに回復した頃、エンジニアの父が日本の電話会社との技術交換のために長期出張にでることになった。父はニュイの心身がまったく異なった環境に耐えうることを専属のカウンセラーに確認したあと、ニュイに一緒に日本へ行かないかと誘ってみた。向こうでも私は研究で忙しいだろう。身の回りの世話をしてくれる人間が欲しいが、母さんは環境を変えることを極端に嫌う。もちろん日本でメイドを雇ってもいいが、少しでも気心のしれているお前のが相応しいと思うんだ、と。
気心がしれている?とニュイはいぶかった。気心なんてしれてないじゃないか。少なくとも物心がついてバレエ漬けで暮らしているあいだは、父との会話らしい会話はひとつとしてなかった。それを今さら気心がしれているなんて。だいたい父には挫折の経験すらないじゃないか! いつも、なんでもよくできて、誰にでも好かれて、世界中が父のためにお膳立てを整えてくれる。でも同時にニュイは、そんな成功と引き換えに父が犠牲にしているもののことを良く知っていた。父はそれらにたいしてひどく心を痛めているだろうことはさすがにわかっていた。それは妻であり、家庭であり、ニュイだった。もしかしたら、父は「やりなおし」をしようとしているのかもしれない。だったら、自分自身の再出発にもふさわしいんじゃなかろうか。

かくしてニュイ父子は東京での共同生活をはじめた。といっても、父はパリにいたときと同様、ほとんど家にはいなかった。ふたりは麻布にこじんまりとした機能的な3LDKを借りた。家賃は月に18万だったが、父の月収の何分の一かでこと足りた。はじめニュイは東京の街をぶらぶらとしていた。東京はパリにも増して刺激的な街だった。目に入る風景にはエキゾチシズムとモダニズムが見事に融和し、すれちがう若者たちもまたパリジャンに負けず劣らずバラエティーに富んでいた。だか彼らはあまりにも独自の伝統に無関心のようにも感じた。欧州の若者はもっと自国の伝統文化をライフスタイルに自然に取り入れている。息をするくらい自然に。だがこの国の若者の洗練さは、肉付けた洗練ではなく削ぎ落とした洗練だった。ノワールであり、ガイジンであるニュイはそんな雑種多様な街の洪水を、厳しい批評家の目と少年の抱く憧憬とを持って自由にかきわけ泳ぐことができるのだった。父がそこまで見据えていたのかどうかは定かではないが、それはニュイにとって最高のリハビリテーションであった。
やがてニュイは街歩きにも飽きてきた。そこで麻布のクラブでできた友人のつてを頼りに、思い切ってある会社の面接を受けることにした。ニュイにとって初めての社会参加であった。そこは輸入ジャムを専門に扱う小さな商社で、応募者の国籍は問わないということだった。
そしてニュイはロシア語の技能が重宝がられ、見事に採用されることになった。

非暴力不服従系ラーメン

2006年07月17日 | 助六のおいしかった
昨日はパウル・クレーの展覧会を観に、千葉県佐倉市にある川村記念美術館に行ってきました。
京成佐倉駅は日暮里から京成線特急で約50分。
久しぶりの連休を利用した、ちょっとした小旅行です。

駅から美術館までは送迎バスが運行中。
そのバス停の正面に、こんなラーメン屋さんを見つけてしまいました。



元祖世界のガンジーラーメン

その異様なたたずまいに、おもわず腰が引けてしまったのですが、「中井正広のブラックバラエティ」でも紹介されたことのある有名店みたいですね。
今度同美術館でジャコメッティ展があるので、その時には「ミトコンドリアXラーメン」にチャレンジしてみたいと思います。