助ぶ六゛

楽しかったこと、おいしかったもの、忘れられないこと

コートジボワール

2006年07月17日 | 助六の創作


ニュイは21歳で初めて挫折というものを知った。
挫折の多くは、その訪れの前に静かな凪の時期をもたらす。その時期になると、インスパイアの嵐に掻き立てられるように脈打つイマジネーションは、無風地帯の幟のようにぴくりとも反応しなくなる。やがて杭は腐食し、幟は畑の土に帰す。そして、人はただの人に戻る。
だがニュイの味わった挫折はそうではなかった。幟を支える杭はまだ瑞々しく弾力性を失っていないのにもかかわらず、外部からの圧倒的な力を受けて無惨にも折られてしまった。畑には折れ目のささくれだった杭が一本、無表情に吹きすさぶ風に耐えるだけだった。

ニュイはその少年時代のほとんどをパリで過ごした。パリは刺激的な街だった。彼の随一の芸術的センスの半分は、パリの街が生み育んだものと言っていい。残りの半分は、彼の血が先祖から受け継いだ、脈々と流れるノワールのリズムだった。彼の先祖はアフリカ大陸のコートジボワールという、暑さは苛酷だが住む人々の気質は穏やかな海沿いの国に静かに暮らしていた。北方からその豊かな恵みを狙った略奪者たちが大挙してやって来るまでのあいだは。
ニュイの父親はパリ市内の電話会社でシステムエンジニアとして勤務していた。ノワールにしては比較的裕福な家庭に恵まれたせいもあって、ドイツの工科大学を卒業してすぐ、さしたる苦労もなしにその職を得ていた。父親の勤務は昼夜交代制で、同じアパルトマンに暮らしているにもかかわらず、ニュイと顔を合わせない日も週に何日かあった。均整のとれた顔だち、すらりとした体躯は、研究室に閉じ込めて羨望と嬌声を浴びせないでおくにはいささか勿体無いほどだった。
母は平日は市内の病院で医療事務の仕事をしていた。患者の応対、カルテの整理、薬剤の在庫管理、医療保険の給付手続き。毎日が同じルーチンの繰り返しで、刺激には乏しかった。あるとき、刺激欲しさに向精神薬をまるまる1ダース懐にいれたことがあったが、そのときもさしたる問題にはならずに、彼女は雇用され続けた。もちろん夫にもそのことは告げられなかった。
そんな彼女が唯一心をときめかすことができるのが、週一回のバレエ鑑賞だった。週末になると、彼女は病院の仲間やリセ時代の友人を誘って、劇場に足繁く通ったものだった。お気に入りのダンサーの公演ともなると、仮病を使って病院を休む始末だったが、仲間達は彼女のバレエ中毒を良く知っていたし、医療事務の与えるストレスの危険性についても熟知していたので、好意的とはいかないまでも多くの場合黙認した。いつしか彼女の夢は自分の娘をプリマドンナにすることになっていた。

そんな夫婦のただひとりの子として育てられたニュイは(彼が誕生したときの母親の落胆ぶりは記すべくもない)、立って歩くことができるかできないかぐらいのときには、すでに専属のバレエ教師をつけられていた。
私立の小学校、中学校、リセと進級するにしたがって、専属教師の努力の甲斐もあってニュイのバレエの才能は次第に開花し、ついには国際的に知名度の高いローザンヌ国際バレエコンクールに出場するほどになった。ローザンヌ国際コンクールはスカラーシップ・コンクールであり、そこで審査員の注目を一身に集めたニュイはモスクワでより質の高いバレエの指導を受ける権利を得た。ニュイの一番のファンである母は悲しんだが、専属教師が「ニュイは才能もあるし、モスクワのバレエ団に私の親しい友人がいるから」と強く後押ししてくれた。ニュイはスーツケースに用具一式と防寒着を詰め込むと、ひとりモスクワへと旅立った。

モスクワでの日々はニュイにとって快適だった。街はパリほど華やかではないが、その分本来の目的であるバレエに集中することができた。会話のほうもすぐに問題なくなった。どういうわけか、ニュイには外国語会話の天賦の才というものがあった。
だがニュイが一生を捧げようとしたバレエとの決別は、すぐそこに迫っていた。ある冬の朝、ニュイはいつものように中古のカワサキで下宿をで、稽古場に向かった。外の空気は凛と冷え、防寒着の下のセーターを通り抜けて肌を刺してきた。グローブの中の掌が、毒虫に刺されて何倍にも膨れ上がっているように麻痺していた。普段と同じ現象ではあったが、その日は前夜に摂取し過ぎたズブロッカの影響もあいまって、それに対処する神経伝達速度にわずかなタイムラグを生じていた。ハンドルが左右に小刻みにぶれているのを自覚していたが、時に気に留めるふうでもなくニュイは速度を75km/hまで上げた。それでニュイが気付いたとき、カワサキはいつもなら避けて通るはずの、凍てついた路面列車の軌道にタイヤをとられていた。カワサキはニュイを乗せたまま道路を斜めに滑走し、肉屋の前の新聞スタンドに突っ込んだ。スタンドは大破したが、ちょうど朝刊の仕分けをしていた店主は事故を免れた。翌日の地元紙に事故は大きな見出しで掲載され、のみならず、期待の新進バレエダンサーの不慮の事故として、フランスの全国紙にも大きく掲載された。

幸いにもニュイは生命を取り留めた。だがバレエダンサーとしては再起不能だった。彼は大学病院のベッドの上で手厚い看護を受けながら、あらがい難い運命というものの存在を知った。心が無性にささくれだった。ただの人になったことを痛感した。ニュイの失意は、バイカル湖よりも深かった。何人かの同僚が見舞いに来たが、誰もニュイを慰めてやることはできなかった。
3か月後、ニュイはフランスに帰国し、両親の元でリハビリに努めた。そして日常生活に支障をきたさないほどに回復した頃、エンジニアの父が日本の電話会社との技術交換のために長期出張にでることになった。父はニュイの心身がまったく異なった環境に耐えうることを専属のカウンセラーに確認したあと、ニュイに一緒に日本へ行かないかと誘ってみた。向こうでも私は研究で忙しいだろう。身の回りの世話をしてくれる人間が欲しいが、母さんは環境を変えることを極端に嫌う。もちろん日本でメイドを雇ってもいいが、少しでも気心のしれているお前のが相応しいと思うんだ、と。
気心がしれている?とニュイはいぶかった。気心なんてしれてないじゃないか。少なくとも物心がついてバレエ漬けで暮らしているあいだは、父との会話らしい会話はひとつとしてなかった。それを今さら気心がしれているなんて。だいたい父には挫折の経験すらないじゃないか! いつも、なんでもよくできて、誰にでも好かれて、世界中が父のためにお膳立てを整えてくれる。でも同時にニュイは、そんな成功と引き換えに父が犠牲にしているもののことを良く知っていた。父はそれらにたいしてひどく心を痛めているだろうことはさすがにわかっていた。それは妻であり、家庭であり、ニュイだった。もしかしたら、父は「やりなおし」をしようとしているのかもしれない。だったら、自分自身の再出発にもふさわしいんじゃなかろうか。

かくしてニュイ父子は東京での共同生活をはじめた。といっても、父はパリにいたときと同様、ほとんど家にはいなかった。ふたりは麻布にこじんまりとした機能的な3LDKを借りた。家賃は月に18万だったが、父の月収の何分の一かでこと足りた。はじめニュイは東京の街をぶらぶらとしていた。東京はパリにも増して刺激的な街だった。目に入る風景にはエキゾチシズムとモダニズムが見事に融和し、すれちがう若者たちもまたパリジャンに負けず劣らずバラエティーに富んでいた。だか彼らはあまりにも独自の伝統に無関心のようにも感じた。欧州の若者はもっと自国の伝統文化をライフスタイルに自然に取り入れている。息をするくらい自然に。だがこの国の若者の洗練さは、肉付けた洗練ではなく削ぎ落とした洗練だった。ノワールであり、ガイジンであるニュイはそんな雑種多様な街の洪水を、厳しい批評家の目と少年の抱く憧憬とを持って自由にかきわけ泳ぐことができるのだった。父がそこまで見据えていたのかどうかは定かではないが、それはニュイにとって最高のリハビリテーションであった。
やがてニュイは街歩きにも飽きてきた。そこで麻布のクラブでできた友人のつてを頼りに、思い切ってある会社の面接を受けることにした。ニュイにとって初めての社会参加であった。そこは輸入ジャムを専門に扱う小さな商社で、応募者の国籍は問わないということだった。
そしてニュイはロシア語の技能が重宝がられ、見事に採用されることになった。


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