メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『傾いた地平線』 眉村卓/著(角川文庫)

2019-09-01 10:22:45 | 
眉村卓/著 カバー/木村光佑 昭和62年初版

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[カバー裏のあらすじ]
これは夢か?―気付いたとき私は、十数年前に辞めたはずの会社にいるではないか!
社員たちは私を普通に社員扱いし、ポケットには次長の肩書きのついた名刺が入っている。
死んだはずの友人は出現するし、自宅の妻娘にもどこか異和感がある。

―どうやら私は、なにかのはずみでSF作家から、
異次元世界に住むサラリーマンの私へと横すべりしてしまったらしい…。

SF作家の漂流を描く、眉村卓独自の世界。

***

学生時代に柔道、俳句などをやり
サラリーマン、コピーライターの経験など
半自伝的な要素が強い今作

先日見た「唯識に生きる」という番組のテーマ
「自分とは何か?」ともガチでリンクして
やっぱり本も読む“時”があるんだと納得した

唯識に生きる 第2回 自分とは何者か@こころの時代~宗教・人生~アンコール

どんどん「あったかもしれない自分の分岐点の世界」に
シフトしていく主人公が最終的にどうなるのか気になって
数日で読みきった

眉村さんの長・中篇作品は即座に引き込まれて、素晴らしい



あらすじ(ネタバレ注意
SF作家の上村は、豪雨の中、タクシーに乗り
録音のためにH橋のA新聞ビルに来た

46歳で自分の考え方の類型化、安定に慣れた驕りに
倦怠感、嫌悪感すら抱いていた

いつもの入り口だとずぶ濡れになるからと
普段入らない、いやに古典的な回転ドアから入った

誰もいないエレベーターに乗り、
14、15階建てなのに8階までしかボタンがない
ビルを間違えたか

ドアが開くと、どこかで見た眺めだ
好奇心からそのまま歩いていくと

17年前に辞めた会社があった 「関西耐熱材株式会社」
だが、会社があったのはUビルだ

昔の同僚N:
散髪してきたんか?
あんたんとこ、お客さんがようけ来てばたばたしてるよ

頭を触ると髪が短いことに気づいた
ストライプのネクタイ、淡いグレーのスーツ

青年社員に「次長」と呼ばれ、オフィスに入る
こんな社員は僕は知らないが、上村はたしかに僕の名だ

自分が「SF作家だ」と言うと「冗談はやめてくれ」と笑われ
上村は一応、相手に合わせて、取引先と挨拶を交わした

名刺にはペンネームではなく上村徳治という本名と資材部次長とある
僕が会社を辞めなかったらこうなったであろう自分に変身したのか?

次は第二応接室に行かされ、そこにいる男には見覚えがある
高校時代の同級生・大木

彼は社内の人間関係がこじれて退社し、肝臓病で32、3で急死したのだ
その彼が生きて、自分と同じ年配になって目の前にいる!

大木:一部でもいいから払っていただかないと、零細企業は危ないんですわ

上村:事情があって、今日はムリだ というと、明日は必ずと去った

自分はここで二重の記憶を持っている
それは思ったより厄介だった

平社員の席に戻ろうとして、次長であることを思い出し
机上の散らかりようから自分の席を探して座った

SF的には多元宇宙ものの型だ
主人公が飛び込んだ世界に、本人に該当する別人がいるケースと
両者が合体するケースがあるが、後者に近い

過去に無数に存在した可能性が潜在的に生きていて、その1つに乗り移ったともいえる

退社時刻がきて、どうすればいいのか?
このまま社員になるのは嫌だ

僕は長丁場のレース向きじゃない
もっと毎日に変化や刺激が欲しい

だから会社を辞め、広告代理店の雇われコピーライターで食いつなぎ、SF作家になった
ここで適応出来るか想像するとぞっとした

一刻も早くこの状態から抜け出す算段をしなければ

自宅はあるのだろうか?
今の家は5、6年前に引っ越してきた
勤めていた時は社宅で、退社後は団地住まいだった

机の中から社員録を見つけ、住所は緑コーポ
団地住まいが手狭になり、ここに住もうとして抽選に漏れた所だ
ここの僕はくじ運が強かったらしい

外に出ると、やはりUビルだった
札入れには定期券、現金なども入っていた

自由業はサラリーマンの3倍の収入があって、初めて同レヴェルの生活が出来る
勤めていれば、電話も交通費もタダだが、フリーになると自弁になる
売上が多くても、出て行くものも大きい

電車に揺られながら2つのことを考えていた

人は習慣的にやっていたことを、知らずにやろうとすると制御困難になる
小説で他人の身代わりというのがあるが、どれほど難しいか思い知らされた

もう1つはSF作家だ
書いていた時は、いつも他者のもしもで、己ではなかった
これは他人志向的要素が強いからか 自信がなかったのか分からない

自我がそう強くなく、主体性に欠けていたせいとはみなせないか?

気づくと、降りるべき大国町のホームを出るところだった 

そのままN駅に行き、かつての自宅まで来たら
表札が上村でなく愕然とした


僕には妻と、高校2年の娘がいた
家族もろとも起きたのなら、対策を協議することになる
しかし、この世界の僕がいたらどうする?

緑コーポに帰宅すると、昨日までの妻とは何か違う気がする

今の状況は良くも悪くもない 中庸だ
中庸が人の正しい道だ と同時に真理がないと言った学者の言葉を思い出した

僕はこの部屋の間取りを知らないが
ぼんやり頭の中に起き上がってきた

妻:さっきからウロウロして、よその人みたいやないの

娘のアケミは塾だと言う
元の世界では、娘は塾は嫌だと通していた

自分の本棚にSF小説が多く、机上には市販の原稿用紙もある
どうやら本名で何か書いていると分かった

少し読み、10年ほど前に書いたものに酷似していてニヤリとした
これは拙劣だった 自分の腕を見せてやろうという意図が露骨に出ている
やはり趣味としての作品だ

それならそれでいいではないか
だが、元いた世界ではもう僕は存在していないのか?

いつかは必ず戻れると信じることにしよう でなければやりきれない
ここの生活に慣れれば、ここの僕に吸収されてしまう不安を感じた



風の強い、寒い朝
これからH町の第一工場に出張する

あと10日余りで正月
こんなことになったのは、たしか10月20日

2ヶ月のうちに確実にくたびれてきた

仕事はなんとかこなせた
会社は1人の社員が少々変わったところで、別段注意されることがない
年功序列システムも味方として作用した

むしろ家庭が厄介だった
家庭は習慣の融合体だ 個々が無意識で自分のスタイルを通している

そこで無意識に過ごせなくなった
いつもと違う言動で、妻も娘も「どうかしたんと違う?」と言われるのは毎度だ
とにかく価値観が異なる

なんとか、本来の僕に戻ろうという意志を捨てなかったから、なんとかやってきた

妻との結婚生活が長かったのと、サラリーマンが家で過ごす時間が多くないせいと
時々ふと浮かぶこの世界で生きている僕の「擬似記憶」の助けも大きい

以前の馴染みの居酒屋にも行ってみたが、一見さん扱いだった
懐具合もそうそう酒を飲めない

もの書きの時の小説のネタの仕入れや人間観察の目的ではなく
ストレス発散の効用しかない


風といえば、昔、会社に赴任した日も風が強かった
赴任先はこれから行こうとしているH町の第一工場だ

本来ならそこで長くいるはずが、本社の事情で1年で大阪本社に転勤になったのだ

若い頃なら、何が突発しても、今ほど動じなかっただろう
あの頃は毎日が未知の遭遇だった

若い時には幅がある だが逆に可能性があると揺れるのだ
未来の多様性に目を奪われて、主体性がなくなるのではないか?


高校時代、僕は俳句部にいた
弱小文化クラブの典型で、毎年の予算は少ない

ひょんなことで、学校の自治会副会長になり、予算配分会議議長になったことで
前年度よりは多い額を俳句部は得ることができた

大学で僕は柔道部に入った
1、2回生を連れて、予算会議に行くと
文化部は、どうして運動部に毎年、巨額の予算が配分されるのかと噛み付く

僕はかつて自分にどなりつけていた運動部員の立場になっていた
自分の立場が全世界で、正義だと信じていた

議長は、どういうわけか透明な存在のように思えた
自分は器用な変身屋なのか?

どんな立場にしても、片面からでは分からない
最後まで中ぶらりんの感覚もあり得るのではないか?
自分の横で野次を飛ばす役の下級生のように

運命がたまたま傾いた方向へ現実が伸びたとするなら
この迷い込みは、何かのはずみだと解釈していいのでは?

もうその先は夢の中だった

新幹線の外は雨だ
2、3年前、イギリスに行ったことを思い出させた

ストーンヘンジを観に行った
このままどこへ陥ち込むのだろうという不安感は共通している

人は心を通して外を見ているのであり、外は心を経て認知されるのだとよく納得できた

社員では海外出張なんてあり得なかった
だからストーンヘンジなどへは行っていないのではないか

待てよ 僕自身の能力を隠しているだけでは、つまらないのでは?
逆にそれを武器として利用してもいいではないか



日帰り出張のはずが、交渉が難航し、H町に泊まることになった
明朝、もう一度話し合おうと決まった

M屋という、以前から知っている旅館で就寝した

起きると、自分の寝ている場所が判然としないことがある
昨日消したはずの蛍光灯が天井にない

向こう側にもう1つベッドがあり、妻どころか知らない女が寝ている
40歳くらいの家庭の主婦そのものだ

この部屋、あの女はなんとなく覚えがある気がするという「擬似記憶」がまた浮かんだ
女は僕の妻で、息子が2人いると教えていた

元の世界に戻るどころか、もう一度起きるなんて!
妻:いつものトレーニング、なさるんでしょ?

僕はまた新しく演技をしなければならないのか?
やらなければ、惨めな境遇になり、生きていけなくなる

へたすれば、僕のすべての消滅を意味するだろう
やるしかなかった

これだけ理不尽な目にあっているのだから、やりたいようにやってもいいじゃないか
次長として身につけたことも活用してやろう

体が意外なほど軽く、妻は標準語を使っている
作業服を見て、関西耐熱材株式会社の工場勤務をしていると分かった
緑コーポより大きな家で、社宅ではないだろうか

鏡にある僕の顔はよく日に焼けて、元気だが髪が少なくなっている

トレーニングとは庭の樹に黒帯をひっかけての打ち込みと分かった
毎日やっているために、腕立て伏せも苦痛ではなかった

こんな風に体力や、顔色まで変わるなら、本来の自分とは何だろう?
そのうち、ここの僕に同化され、なりきってしまうかもしれない

緑コーポの時はまだ連続感があったが
別人になり、別の家族構成になり、元の世界との断絶が意識される

それに擬似記憶はいつまでも本物の記憶にはならない 無感動なのだ

今の家庭は出来過ぎていた 典型的な優等生の家庭で息が詰まりそうだ
本来の僕を打ち出そうと決意していたが、勇気がなかった そこまでやるのは危険だ

妻は本社社員が家に来るのを嫌だと遠回しに言った
全権を女房が握っているのを誇示するように

妻:本社の人間だぞって話し方が聞きづらいのよね

苦笑を表には出さなかった 昨日まで僕はその本社の人間だったのだ



僕は昔から宵っぱりの朝寝坊だったが、ここの僕は早起きして出勤している

やはりここはH町の第一工場で、僕は総務課長だと分かった

妻は決算前と言っていた 今は12月ではないのか?
妻に問うと10月20日だと分かった

10月20日と言えば、Aビルに入るつもりで、社員になってしまった日だ
それから2ヶ月が経過したのに、これでは異変のやり直しだ

時間は、そのような奇妙な柔軟性と、解明できない存在のしかたをしているのだろう

1つの時間の流れが修正されると、その歴史が消滅するというSFは少なくない
その場合、人の記憶もいっしょに消えるのと、記憶が残るのと両方ある

考えたくはないが、元の世界まで消滅する可能性も容認することになる
それは困る いつかは還れる そう努力しよう

経験上、もしもこうだったらという延長線上の46歳になっているようだ
社会、会社などの基本構造は一定で、僕だけが別の境遇に置かれている


工場まで徒歩通勤をしていると、昔、若い頃、ここを毎日通ったことを思い出した

ここの家庭スタイルを僕は好いていなかった

妻との気持ちの絡み合いが面倒で、出たとこまかせに行動したのは
僕が何の責任も感じていなかったからだ

自分の異変にあがいているため、自己中心的になっていることを少し反省した


腹をくくると、それなりの期待や楽しみも生まれる
思わぬ発見も経験した

大阪で生まれ育った僕は、大阪近郊以外に住むのも初めてだった
独身寮で一人になると、やたらに詩を書いた

工場には柔道部がなく、課長に嘆願して作ったのだ
どうせ居直るなら、過去のあの時期に現在を重ね合わせようと祈った

本来なら、僕は1年でここを転勤になった
周囲の環境が可変ということになる

H町の人は愛郷心が強くて有名だ
ここの僕はH町のしがらみや利害と結びついていた

妻の実家もここにある
妻はある意味、典型的な主婦で、熱心な教育ママでもあった

フシギなことに僕は大阪とほぼ縁が切れてしまった
出張しても、用が済めば、さっさと帰るのが普通だ

可笑しいのは、ここの僕が俳句を続けていたことだ
小説はどこか胡散臭がられるが、俳句や短歌なら“良いご趣味”で通るのだ
かつて全力投球で句作をしていた僕が、いつ頃からそうなったかは不明だ

かつて全くやめたのに継続しているのが柔道だ

ひとつの型にはまった生き方で、何かが欠けているように思えて仕方なかった
ここの僕がどうしてこの生活に適応出来たのだろうとフシギですらある

人はある環境に置かれ、順応しようとするうちに変わるのかもしれない
それともここの僕も不満を抱きつつ、押し殺していたとも考えられる

スポーツで体を鍛えいじめている時は、具合が悪くても安心し
安逸をむさぼっている時は、かすかな兆候にも一喜一憂する

己にトレーニングを課していたのも
日常生活をわざわざ努力が必要なものに仕立て上げる構造になっていたのかもしれない
多くの人が無意識にやっている生き方かもしれなかった

それより大切なのは、本来の僕が、どう受けとめるかだ
今は関西耐熱材とH町、極めて極限の環境に閉じ込められているという気がして仕方がない

物書きでもいろいろ世の中を眺めているつもりで、その実
限られた行動と、主観的な視野しか持たないところがあるのだから
己の小さな世界を作って、そこにはまるのは避けられない

だが、町の××さんの結婚の噂などが、その他の情報よりずっと重大なのは
やはり耐え難かった

情報は関心を持とうと持つまいと存在する
後で不意打ちを食らいたくなければ、自分なりに考えておかなければならない

だが、本人が気づかぬうちに
小さな世界が全世界だと信じるようになるのは僕も同じではないか

柔道部時代、苛酷な練習が日常になり
やがては考えもせず、食事・稽古・睡眠の日々になった

ある日、1日の休日に京都の繁華街に来て
気楽な連中に羨望と反感を覚えた

ジュークボックスでケテルビーのペルシャの市場が流れていて我に返り
周囲は普通の繁華街だと夢から醒めたようになり
また合宿へ帰るのが辛くなった

一定の小世界を、自分のものと感じるようになると
外は異様に馴染みのないものに映るとその時知った



県庁から役人が来て、島巡りをするため、案内することになった

僕は課長としての自分にどう点数をつけたらいいか見当がつかなかった
ふと、赴任した頃の上司を思い出した

高校時代、新聞部にもいたので、社内報の校正に付き合い
来月から一人で任されることになり大いに発奮した

課長:僕は昔、映画監督になろうと思った時期があって、家を飛び出したこともあるんだ

映画に誘われ、観たのは『挽歌』だった(なんとっ!!
劇場は満員で、最後まで立ち見だった

学生時代に作り上げたサラリーマンの先入観などあてにならないと悟った
今の僕は、あの課長とはまるで違う ずっと型にはまって官僚的だ

僕は役人と船に乗り、事務屋と技術屋についての雑談をした
古い体質の製造会社では、現場を良く分かっているのは技術者だという考えが強い

雲ひとつない晴れで、あと10日余りで正月とは思えない
この言葉には覚えがある

次長として第一工場に出張したのもこの頃だ
あれから2ヶ月・・・

今となればあの頃が懐かしい 元の世界とは比べものにならないが
僕の属性がより濃く残っていたからではないか?

今の分岐は、あの時よりもっと前なのだ
本来の世界から遠ざかり、投げ込まれた世界の現実感が
稀薄になってもいいはずだが、逆に現実の重みを帯びている

放り込まれた世界の僕を圧倒しなければ
本来の僕は消滅してしまうかもしれない


船をO島に着け、ハイキングコースを歩き、船に乗り、あとはH港へ帰るだけだ
眠かった 激しいめまいに襲われたのはその時だ



駅員:もう終電車は出たんですから、ホームのベンチで寝られては困ります

紛れもなく、ここは駅のベンチだ
これで3回目だ なぜ・・・

改札に出した切符には新宿とあった 東京の新宿か?
船でそうとう酔ったため、何とでもなるといった心理状態になっていた

服を見るとサファリルックに替えズボン 中年男としてはラフだ

H町住まいの世界で僕は一度も東京に行かなかった
元の僕はたびたび行っていたが、若者が多すぎやしないか?

午前2時前 辺りは年末の雰囲気などない 10月20日だった
やっぱりそうか また別の世界でやり直すのだ

ここは僕の覚えている新宿ではない
久しぶりだからそう見えるのか?

深夜喫茶に入り、コーヒーを頼み、ポケットから私物を出すと
東京のテレビ局のライター、札入れ、有名な出版社の手帳

ここの僕の筆跡は、本来のとだいぶ違う
ここで物書きをしているなら、別人と思われるかもしれない

名前は上村映生とある
高校時代に使っていたペンネームだ

住所と電話番号もあった N区K町のニューセントラルハウス202
フリーライター

この札入れにクレジットカードのたぐいが1枚もないのに気づいた

とにかく電話をかけてみようと、赤電話を回したが誰も出ない

レジでは、男がコーヒー代をカードで済ませているのが信じられなかった
(キャッシュレス時代を先見していたのか/驚

警官が2人、唐突に入ってきて、派手な服装の少年少女の2人連れの前に来た
警官:深夜の外出証明を持っているか? なければ一緒に来てもらおうか
持っていても、青少年の不純異性交遊にひっかかるだろう

2人の若者は逃げた

外出証明など聞いたことがない
これまでそういうことに知識がなかっただけかもしれない

人は自分の生活範囲内でいろいろ見聞きし、多くを知っているようでも
別の分野、世代のことだと知らないことに驚くことが少なくない


書店を見つけて、自宅の場所を調べる地図を買った
棚を見てぎくりとした ヌードの本が平積みにされ、ひしめいている
修正なし、カバーもないから、立ち見も出来る
いつからそうなったのか?

外ではサイレンが鳴り、警官が高校生ぐらいの50、60人の男女を追いかけている
警官にぶつかり「若作りしやがって」と言われ
頭に手をやるとかつらを使っていることに気づいた

今日はとりあえず安宿に泊まり、明日、電車で帰るのが賢明だ
この先に旅館があるのを覚えている

そこに痩せた男が来て、声をかけられた
ケイゴ:今日もうろうろしているのか? もうちょっと飲もう

ゴールデン街を通り、初めての店に入った
明かりを消していたが「かが」と看板がある

ケイゴ:
明かり消したのかい? また警察に踏み込まれるぞ
さっき、またスズメ族が出たようだよ
例によって1、2人クルマにはねられたって

ママ:エイセイ、あれからまだフラフラさまよっていたのかい?

僕は今夜、この店で飲んだようだった

ママ:
なんだか喋り方も今日は違うみたい
同棲していた女にみんな持ち逃げされたんじゃ・・・
あんな女のことは早く忘れるんだね

ケイゴ:オレら雑文書きは、登録作家みたいに金が入るわけじゃない

ケイゴという男の口から昔からのSF仲間、刈田丈一郎の名前が出て驚いた
しかも、僕はSF嫌いで通っていると聞いて信じられなかった

ケイゴ:
こいつ、SFとスポーツは大嫌いなんだ どちらも体制的だからね オレも賛成だ
大学で柔道部に入って、嫌な上級生に「柔道をしながらアルバイトするとは何事か」と言われて
退部したんだと

本来の僕も似たようなことを言われた覚えがあるが
あまり気にしなかったし退部もしなかった

ここの僕は違っていた
挫折感を抱き、以後はスポーツと無縁の文学青年となったに違いない

ケイゴと別れ、旅館に泊まった

ここでの僕は極めて不摂生な生活をして、身体も弱っている
家族もなく孤独で、顔つきも気のせいか皮肉っぽい

N区K町は国電の中央線でも行ける

これで3回目の異変
それぞれの世界は、僕がかつてなにかの折に
何かをしたか、しなかった分岐点から派生した
“あり得た別の人生”だった その延長線上の46歳

変わるのは僕だけだと思いこんでいたが、今度はそうではないらしい
世界のほうも変わるのではないか?

胸の痛みが強くなった いくつかの病気を持っているようだ

いくつかの法則がある
新しい世界に放り込まれるのは、常に1981年10月20日
今度も2ヶ月経てば、この世界から逃げ出せるはずだ

ここへ来て初めて擬似記憶が浮かんできた
これから帰る部屋は粗末で洗濯ものが放ってある

ここでの生活は楽ではなさそうだが
どうしても生き延びなければ



ここに来てから1ヶ月
長年の大酒と過労で、身体は弱りきっている
今日はS出版社に原稿を届けに行くのだ

受付で新聞を読み始め、ひとつの見出しにぶつかった
「きょうから兵隊さん、夜更かしやめて、さあ頑張るぞ」

ここは派手で、享楽的で自由だったが
今はそれに対しての克己心を称揚し、質素を尊び
秩序を重視しようとする勢力が大きくなっている

これは計画的に行われているに違いない

社会がゆるくなり、個人が権利や自由を主張するようになると
それに不安と反感を抱く者が増え、その潜在的な感覚に乗っかって
正義に仕立てようと操作する為政者が出るのは時間の問題だ

そうするのが使命だと信じる権力者は
あらゆる機会を逃さず、一歩一歩地固めしていくのだ


この世界はその転換期
いや、もはや取り返しのつかないところまで来つつあるかもわからない

人々はそれを感知しているからこそ、いよいよ華美に
ナンセンスが横行しているとも言える

新聞は、今後を見通して抵抗しつつ
いつの間にかその方向に調子を合わせている場合がある

ぶらぶらしていた若者が軍隊(自衛隊ではない)に更正して入るのを持ち上げている
しばらくすれば、自発的入隊となり、かの戦前戦時中のようになり
人々は窒息状態になるのではないか?

(ここを読み、今と重なって、泣きそうになった


ここには登録作家がいて、政府に優遇されている
クレジットカードを持てる作家になろうとすれば
政府に委嘱された委員会の資格認定にパスしなければならないそうだ

言論や表現の自由は、すでに大幅に制限されているのだ


しかし、僕は何もしなかった
本来の僕は気が多く、あれこれと手を出したが
この世界の僕は、何か不都合な真似をして
過去を捨てて東京暮らしをしているのかもしれないし

それに絶えずどこかが痛む
どの医者に行っていたかも分からず、売薬でしのいでいる
この体調では、消極的になるを得ないともいえる

だが、この世界の僕は責任を持たなければならない

何かやるとしても、2ヶ月で何が出来るというのだ?
もっと長く留まるかもしれない
その時は覚悟をして、もう一度考えて行動すればいいと納得させた

今は現状維持が精一杯なのだ
(権力者がそこまで追い込んで、無気力にさせたとも言えるよね

この弱気が由来するとなると、僕の主体はそれほど不安定なものだったのか

なお厄介なのは、ここの僕が職人としてこなしていた書き物を
本来の僕にそんな力がないことだ

小説を書く気分でやると「お前、いい気になるな」と怒鳴られる
むしろ広告のコピーライター時代に戻ったつもりで書くほうがうまくいくようだ


編集者K:
あんた、字がだいぶ変わったねえ
これ、いつものエイセイちゃんと違うなあ
これはこれで今までになかった一種の味があるし、これでもいいか

ここに来てからの僕は、書き直しやボツになることが多かった

K:なんだか別人みたいだぜ

上村:実は別人が僕の身体に入り込んでいるんだ

KはそんなSFを読んだと言い、ストーリーを聞くと
今の自分によく似ていて驚く

Kの言い方は、フレドリック・ブラウンの「発狂した宇宙」の文章を思わせた

K:
自分が他の存在に乗っ取られ、その記憶もある
記憶によると、自分を占領していたのは、別の自分だったらしい
そいつは、別の世界の自分になり、ある期間を過ごす
いろんな世界で同じ時間を繰り返す 奇妙な漂流なのさ

とりついたヤツは、乗っ取っている間にいろんな罪を犯して
本人がしたわけでもない罪のために逃げ回らなきゃならない
やりきれなさがこの話のテーマでね


僕が知りたいのはとりついたほうの運命だ
僕はその作品を書いた作家に会いたいと思ったが
誰が書いたかKは忘れ、調べてくれと頼んだ



部屋で眠っている間に元の世界に帰った夢を見ていた
これまでのことが夢で胸をなでおろす夢で、起きた時の失望は大きかった

風邪だけでなく身体中痛くて、このまま死んでしまうかもしれない
死にたくはなかった

今日は12月20日 異変が定期的に到来するなら
そろそろ次の世界に放り込まれる それまでは頑張らなければ

高校時代のことを思い出した
僕は友人たちと同人誌を作っていた

仲間の1人が1冊の本格的な同人詩誌を持ってきた
商業詩誌に作品を発表している詩人もいる

会員を募り、投稿を歓迎するとあり、争って詩を送り、しばしば掲載された
その詩誌で集まりがあるから来ないかと誘いがあった

全国的に有名な詩人も来るのが目当てで行くと
「あの少年たちはきっと、ものになりますよ」と言ってくれた

僕には才能があるはずだと信じ続けられたのは
その支えがあったからだ

俳句にも熱中し、俳句部の家を訪ねて議論をかわした
あれが青春前期だったのか?
行く手に未来があり、僕の取り組み方次第で、どのようにも変わると信じていた

僕はたびたび必要以上に過去の記憶をひきずり出していた
本来の僕の確認作業の頻度が落ち、鮮度が減少し
自己確認にもつながりにくくなった結果かもしれない
擬似記憶の出現の度合いも1回ごとに低下しているようだ

僕のような目にあっている人間が他にいるとするなら
乗っ取ったヤツの記憶も残るなら、他人に喋りはすまい

2ヶ月ほど別人みたいになっていた知り合いが僕の周りにも何人かいた
あれは乗っ取られていたのか?

そんな思考をやめて、本来の自分のことを考えるのが先ではないか
では、本来の僕とは何だろう?

この世界に住んでいるが、成員とはいえない
自分の全部をゆだねて生きているわけではなく
2ヶ月だけお茶をにごしていればいいという暮らし方だ

緑コーポの時は真面目に生きていた
H町の時も一応、誠実だった

つまり、1回ごとに無責任になってきた
一貫した、本来の僕とは何だ?
名前以外に何もないのではないか?

分岐時点以前は同一だが、1回ごとに昔になると
本来の僕との共通点なんてなきがごとしなのだ

本来の僕、主体、自我とは、やっとのこと生きていく
生存本能がすべてだというのか?

まず明かりをつけようとして、左半身が布団にぶつかるのを感じた
死ぬのだな



僕は歩いていた
もう別の世界で、身体も別の状態になっている 助かったのだ

周囲に焦点が合わない 手を伸ばしてメガネをかけると明瞭になった

周囲は焼け跡だった 昔の空襲に匹敵するような臭気がした
これは単なる大火ではない 地震と火事に襲われたのだ


人々は焼け跡で片付けの作業をしているから
災害直後でも、ずっと後でもない

まずは、この世界の僕がどんな立場か調べなければならない
着ているのは、周りと同じ汚れて、くしゃくしゃの服だ

ポケットには定期券はおろか、名刺すらない
上衣の縫いつけを見ると上村ではなく山田とある
メガネケースには山田徳治と打たれていた

他家にもらわれたか、妻の家の姓になったのか
何ひとつ分からない どうすればいい?

食べ物の匂いがして空腹を感じた
駅舎に来ると、東淀川だ ここが大阪であるのはたしかだ

大衆食堂の相席に座り、きつねうどんを食べた

向かいの席の女が話しかけてきた

「あんさんも、誰か捜してはるんでっか?
 わても娘を捜してるんですわ いまだに消息不明で
 もうあれから1週間になりますやろ 亡くなってるかもわからしません
 そやけど・・・大阪大地震が起きるなんて、夢にも考えませんでしたわな」

(阪神淡路大震災も予見していたかのようだ

僕はこの世界では、自分のおさまるべき場を発見出来ずに終わるかもしれない
戸籍を調べるなどして手がかりをつかむのは可能かもしれないが
成果があるか疑問だ 手数のかかる作業になるだろう

仮に自分が何者か見い出して何になるというのだ
僕は他人で、未知の環境なのだ

そういえば、前の世界の僕はあの後どうなったのだろう
それぞれの世界は、いいも悪いもないと割り切るしかない

ここでの生活は楽ではないはずだ
また2ヶ月が経過して、別の世界に放り込まれる繰り返しなのだ
これからも無数の世界に次々と放り込まれる

その本来の僕は何なのだ?
連続していたはずの名前すらつながらなくなったのだ

この調子では、ついにはただ
人間として生まれついたことだけが共通項になってしまうのではないか?

そのうちに元の世界へ帰着し、正常な時間に入るかもわからない
だが、その時の僕は、本来の僕のままなのかということを恐れる
本来の自分とは、その程度のものだったのかもしれない


まだそうだと結論づけたのではない

さっきの女の言葉を想起した

「お互い、元気出して、やっていきましょ
 それしかおませんわ
 それが、生きてるもんの務めやねんさかい」


僕は自分が知らぬうちに、昔住んでいた団地の入り口まで来ていた
新しい10月20日から12月20日までがまた始まった

永い46歳だ、と僕は思った



【児島冬樹 解説 内容抜粋メモ】

1977年頃 眉村は自宅で読書会を開いていた
若手のSF作家志望が集まるから勉強会に近い

対象になった本はポール・アンダーソンの『タイム・パトロール』
クリス・ネヴィルの『槍作りのラン』などだったが
ある時、眉村自身の『名残の雪』が選ばれた

眉村はこの席で今作を分析し、解説を加えていった

昔の剣豪が今、試合をしたら、だいたい初段程度だといいますね
 でも今の剣道では殺すことはできない
 新撰組が強かったのは、懐に飛び込み、本当に殺すための剣法を使ったからで・・・」

「今の人間が明治時代に行ったら、知識は通用しても、文章で判ってしまう
 新漢字新仮名遣いを知らない人が読んだら、なんて誤字の多い人だろうと思うでしょう」

「年号を決める規則があり、次はどんな年号かある程度予測できるんです

ほかにも伏線の場所、その意味も解説し
外来語のカタカナを極力避けたことなど
指摘されなければ気づかないだろう

その時、SFを書くには知識が必要で、知らないことは調べるべきで
それを活用して伏線を張らねばならないと知った

若い人に最も忠告したいことを聞かれて
「観念だけで書こうとしないようにして欲しい」と答えた


本書ほど明瞭に著者自身の体験、心情が吐露された作品はない
当時のことを著者はこう回想する

「レンガメーカーの資材係では、いかにしてものを安く買うか
 どれだけ長期の手形にできるかと、毎日を送っていた
 大企業に圧迫されて首を吊る下請けの男のドラマを見て
 これでいいのかと、自分でも中途半端な社員だと考えていた」
『燃える傾斜』作者後記


環境と個人の関係は、眉村が作家として出発した当初から課題としてきた

「人間は、環境を支配する生物だと言われていますが
 その人間が作りあげた社会は、1人ひとりを拘束し、変形させようと働くのです
 環境はさらに変化し、自己の認識(アイデンティティ)自体が危機にさらされていく」


作品に飛躍が多く含まれるほど
架空の話を成立させるための知識は生半可なものではない

自伝的SFという分野があるかどうか分からないが
眉村はまさにその資質により、新しい分野を開拓した

眉村には本書のテーマをさらに別な角度からみた
『夕焼けの回転木馬』という作品もある

本書がお気に召した読者なら、これもお気に召すこと請け合いだ




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