メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『夕焼けの回転木馬』 眉村卓/著(角川文庫)

2018-03-18 14:25:15 | 
『夕焼けの回転木馬』 眉村卓/著(角川文庫)
眉村卓/著 カバー/木村光佑(昭和61年初版)

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[カバー裏のあらすじ]
大阪へ単身赴任している中原は、ある夜小さな飲み屋で村上という男に会った。
その日から中原は時の陥穽に誘われて不思議な記憶への旅が始まった。

大阪で生まれ育った作者自身が戦前、戦後を通して体験した、
憎悪や憧憬をやさしく、ときに妖しく綴った半自伝的長編!


これまでになかった“半自伝的長編”ということで、眉村さんが何年生まれか気になった
1934年と言えば、父より幾つか若い

もしもっと近ければ、地域の差はあれど、戦前戦後を生きた父のことがもっとリアルに分かるのではないかと思った
父は私にまったく当時のことを語らない 母も断片的にしか聞いたことがなく、私はそのまた聞きになる

聞いてみたいが、当時のことは思い出したくないかもしれないと思うと聞けない
今作を読んで、ドラマや映画とは違った、生の記憶を少し知れた気がした

それでも、やっぱり私は眉村さんの伝記やエッセイが読みたいのではなく、SFが読みたいので、
その部分の面白味もしっかり入っていて、新しい試みにまた引き込まれた

しかも、主人公が2人いる
交互にフシギな時空の揺らぎの中を生きている
プラス、眉村さんらしい、サラリーマンの哀愁と小説書きのどっちつかずの心象も描かれている


あらすじ(ネタバレ注意

第1章
子どもの頃、よくアテモンを作った 紙をつないで長くしたものに線を何本も描き
どの線を選ぶかで失敗するかゴールになるかというものだ

パラパラもよく描いた 紙の端に少しずつ絵を描き、パラパラめくると動くように見える

チダカッサと命名した遊びもやった 紙を複雑に折り、テーブルに置くとじわじわ開き、ぴょこんと逆立ちするやつだ
「あの、ぱっと立つやつ」では間が抜けているから、サカダチを逆にしてチダカッサというわけだ

どうやら僕はこのアテモンに人間の一生を重ねていた気味がある
戦中戦後間もない時期で、人なんていつ死ぬか分からないと感じて
その気分をアテモンに託していた

「こんなにアウトになるなら、別に進めるものも一緒にしたものは出来ないのか?」と友だちに言われ
技術的に不可能でも、そういうのがあってもいいなと思ったのも事実だ



第2章
中原力哉は、『死人の宴』という本が目についた
どうしてこんな表題に惹かれ、恐れているのだろう 自分にはそうした傾斜ができてしまっている

会社帰りに赤提灯に立ち寄り、30年近い学生時代を思い出す
まだその頃と変わっていない気がするが、数秒で50歳の中堅メーカー第一精機の役員に還る

大阪に生まれ育ち、この頃は純粋の大阪弁などあまり聞かなくなった
単身赴任は2年目で、想像よりずっと厄介だと感じた

自由な時間に読書し、酒を飲みと期待していたが、大阪支社長を命じられ
サラリーマンにとっては“あがり”に等しい それ以上の出世は難しい
この生活も東京にいた頃と何も変わらない ともかく退屈だ

社宅を選ぶ際、昔住んでいた町に近いマンションを希望したが
いろいろ思い出したくない記憶を想起させることに気づいた
死と過去の世界に引っ張られ、薄ら寒くもなる

馴染みの店に入ると、ここで時々会う顔が近づいてきた
近畿スチールという商事会社の経理課長・山本とかいう男で、彼はまったく酒が飲めない
酒飲みにとって、一座にシラフがいるのはあまり愉快ではない

彼は25、6のがっちりした青年を連れていた
山本:村上といって、うちの課にいるんです 体格ばかりで気の弱い男です

山本は村上に仕事をする際の心得について説きはじめた
うんざりして、何かスポーツをやっているのか聞いたら、拳法の有段者だという

山本:
暇があれば小説を書いている
自由な時間こそ仕事の勉強に打ち込むべきだと私は言うんですがね
あなたもそうお考えでしょう と繰り返すのだ


第3章
今取りかかっている懸賞小説応募作が、あと数日で仕上がるという貴重な時間を奪い取られ
他人の前で説教されるのは辛抱するとしても、お前はあんな男の部下なのかという目で見られるのはやりきれない

これではまた“あれ”を経験するのでは と村上は思った
彼にはそれが幻覚か白昼夢か現実か分からない 幼児期からあった気もする
人より想像力が強いのだと納得させている

いったんやってしまったことを後悔の念に駆られると、はじめの時点に引き戻されるのだ
これが時間逆行なら、そこから別のコースを進むわけで、別の人生を歩んでいることになる
山本を殴り倒すのはよくあることだ そのたびに後悔して時間が戻る繰り返し

中原が止めても、山本は「こいつは私の部下ですから」と止まらない
腰をあげてグラスが倒れてズボンを濡らした 「こいつ!
村上を突き飛ばそうとして、反射的に蹴りを入れ、山本は足元に転がった

1秒かそこらだっただろうが、試合の時と同様、本人にはけっこう時間が長く感じられる
時間の経過は別の見方が成立するのだ

一生の長さも緩慢に過ぎる時は長く経験しているのであり、
流れ方に粗密があるので、歳をとるのも、時間の流れと単純に比例していない


山本は会社での処世を至上で一般的だと信じている
上司を殴れば、会社の立場がどうなるか、部下はそんなことはしないだろうとたかをくくっている
つまり課長の自業自得だ 後悔は微塵もなかった

そのまま何も変わらなかった 元の状態に戻らない
しまったと思っていないからだろうか

課長の目には恥辱と憎悪が光っていたが何も言わず、去って行った
追いかけて謝罪したところで、あっさり受けるはずがない もう間に合うまい いいではないか

中原は驕りで飲まないかと言い、女将もそうしろと言う
みんな、どうしてこんなに優しいのだろう
自分でもわけが分からず、ぽろりと涙が落ちた



第4章
中原は昼食を食べ過ぎて、お屋敷町をもう30分以上も歩いている
大学生時代とはだいぶ変貌している

今日はなにやら妙に上手くいっているという感覚が続いている
昨夜の一件以来なにか変なのだ

あの時、自分もざまを見ろという気分だった
自分の内部に封じ込めていたものがひょいと解放された心情になった

このまま左に行くと私鉄の駅に出る
子どもの頃、その近くに住んでいた 家は戦災で焼け出され、
一家は1年ほど大阪を離れ、その後、今の町へ帰ってきたのだ

その先は通学路になる 戦意高揚のポスターが貼られていた板塀に沿って通った
その学校には嫌な記憶がいろいろあった
だが、今日の気分ならそれを平然に受け止めて、蹴散らせるかもしれない気がする

そこに見知らぬ、平凡なおばさんがだしぬけに現れた
「ご無沙汰してます 支社長さん お元気ですか?」

誰だったか、見覚えがあるような だが思い出せない
名刺をもらうとP生命保険の辻ミツ子とある 昼休みによく来る勧誘員の一人らしい

「私、こんな歳ですがまだまだ頑張りますよ 支社長さんもこれからですよ
 面白いこともいっぱいありますよ ほんまに元気出して 気張らんとあきませんがな!」


妙な励ましに心が明るくなり、この陽気なままなら、あっちに行っても大丈夫だろうと
板塀に沿って歩き、K国民学校のあった方向に歩き出した



中学4年生の力哉の教室に噂が流れてきた
4年の級長が5年相手に何人か殴ったらしい

たとえ下級生でも級長は、一般生徒とは別格だとうのが当時の学校の常識だった
級長と副級長は、担任の指名か、列長の互選で選ばれる
特権階級を構成する「級長会」があり、1~6年の級長と副級長が話し合うのだ

5時間目の自習で、級長が「外へ出ろ! 2組を助けよう!」と叫んだ
級長は担任の代弁者だ

力哉の担任・萩野「お前たちはお国のために死ななければならん そのために身体を鍛えろ」と
“小国民”にふさわしくない者には軍隊式のビンタを食わしたりする
ため
気の弱い力哉は明らかに疎んじられていた

5年になると剣道が必修で、全員が木刀を持っていた
誰からともなく、力哉らは背を向けて逃げ出した
校外へ出て、あてもなく必死に走った

後から発覚すれば、学校のみんなからは卑怯者と呼ばれのけものにされ
家の近所のとくに子どもから馬鹿にされるに違いない
家も安息の場ではない 親は息子が偉い人間になるのを期待し強制している

彼の脳裡には、戦争で自軍が潰滅して敗走するのはこんな具合じゃないか
この時、初めて、敗走する側に身を置いて、逃げる者を非難するのは酷ではないかという気がした
気づくと自分が今どこにいるかも分からない 彼は日常に還らなければならず、学校へと戻った

翌朝、萩野先生は「卑怯者! どうして死ぬまで戦わなかったのだ!」と声を張り上げた

工作の時間に模型飛行機を作って、1人が日の丸の代わりにドイツのかぎ十字を貼り付けた
先生は、いくらドイツが同盟国でも他国だ 日本人の心が欠けておると怒鳴り2発殴った
先生の権威は絶対で、先生に象徴される世の中を敵に回す勇気はなかった

体操の授業では、運動神経の鈍かった力哉は、肋木からその場跳びというのをやらせた
「貴様、跳ぶ勇気がないのか!」とわめかれ、叩かれ、運動場の隅に一人で立たされた

もっとも心の闇に押し込んだ記憶もよみがえった
4年生の3学期、力哉はなりゆきで級長になったのだ

あのバッジをつけて校内を歩き、命令を下す身になれるというのは目がくらむほどの誘惑だった
だが萩野はこれまでに何度か失態のあった役員を即座に免職にした前歴があることを失念していた
“決闘”を挑まれて、すぐ降参した列長がやめさせられたこともある

結局、力哉は誘惑に負け、バッジをつけると、周囲の態度は一変した
両親は喜び、近所の人たちは「力哉くんは偉いね」と言った

だが、初の大役の上、誰も忠告や助言をしようとしてくれなかった
彼は成り上がりで浮いた存在だったのだ

級長としての指導力なども到底持つに至らず、萩野は彼が大失策するのを待ち構えていた
1ヵ月後、彼は工作に使う粘土を忘れ物した

忘れ物や宿題をしなかった者を先生は級長に命じて殴らせる
必死で考え、雨で粘土質となった飼育舎の土で誤魔化そうとしたのが命取りになった

次の時間、萩野は忘れ物をしたばかりか、それを誤魔化した 目撃した者があると怒鳴った
彼はバッジを剥奪され、平の列長に落とされた

本当の地獄が始まったのはそれからだ
クラスメートから軽蔑の対象となり、彼の姿を見るとひそひそ話をしたりする

親は知らなかった 彼が話さなかったからだ
その前に空襲で家が焼け、学校も焼けた

このことからいろいろ学んだのも事実だ
権力を与えられるとはどういうことか、いったんそれを奪われる時どんなに空しいか
リーダーたる適性とは何か、人徳とは何かなど


その後もいろいろ転落を経験し、学校にろくに行かず、終戦となり大阪へ戻った
たとえ教訓を得たとしても、あの頃の萩野先生はいまだに異様だ
今の自分なら許してはおかない

いつのまにか拳を持ち上げて歩いていた
国道にさしかかると馬がクルマをひいている

歩いている人たちはカーキ色の国民服に戦闘帽、女はモンペ姿で、みな胸に名札を縫いつけている
掲示板には「進め一億火の玉だ」とポスターが貼られている

これは・・・タイムスリップか?

自分が滑り込んだ時代は恐ろしく、元に戻ろうと念じても変わらない
ふと見ると自分も国民服で、丸刈り、財布の中にはこの時代の紙幣が入っている
胸には中原力哉と縫いつけてある

だが住所には心当たりがない 何が何やら分からないが
少し経つと忘れていた腹立ちが湧き上がり、あの教師を殴ってやるとK国民学校に向かった



第5章
村上はわざと30分遅刻して、ポケットには辞表を入れて出勤した
黙って欠勤を続け、辞表を郵送する方法もあるが、未練もあった

山本:うちの社員には暴力団がいよるんやな おそろしいこっちゃなあ

同僚・橘かずみが言うようにあっさり頭を下げたほうが無難かもしれないと村上は謝った
山本:それでええねん 昔は武道やってる人間は礼儀正しかったもんや

なまじ謝ったために軽侮されるはめになった もっと強く出ればよかった


村上はドアの前に佇んでいた “あれ”が起きたのだ
今度は機先を制して優位に立たなければ

村上:
少しは堪えましたか 先に殴ってきたのはそっちじゃありませんか
たかが課長の分際で生意気な口をきくな!

つかみかかってきた相手の腹を蹴り上げていた
山本:貴様、懲戒免職だ!

係長に辞表を出すと受け取らず、部長が「少し頭を冷やしたほうがいい」と言った
まだ気が済んだとは言い切れなかった


また“あれ”が起きた 1つの状況でのやり直しはこれまでになかった
こんなに簡単に起きていいものか 公式が崩れたのではないか

もはや課長を殴る内部の圧力は抜け、クビは間違いないがスマートに辞表を出そう
さっきより現実味がないのを感じながら
村上:あなたのような人の下にいるのはもうたくさんです 辞めます

エレベーターの前へ来た これでいいのだ この状態が確定したはずだった



第6章
K国民学校に来た中原は、萩野の顔を覚えていないことに気づいた
女教師に父兄と思われ、6時間目が終われば職員室に帰るだろうと言われた
戦時中の教師が神聖で、高い権威を持っていた時代の誇りをもった態度だ

萩野が来ると、ひとつの信念に凝り固まった者にありがちな偏狭さに満ちているように見えた
自分より背が低いのも意外だ こんな奴だったのかと幻滅した

萩野:
あの子を級長から外したのは間違っていないと私は確信しております
学校のため、お国のため指導者は進んで身を捧げなければならんのです
そうすることで立派な小国民になり、皇国の柱となれるのです
大義親を滅すという言葉をご存知でしょう


中原:可哀相な人ですなあ、あなた


中原は一礼して校門を出た
ふと見るとうつむき加減に歩いている少年、昔の力哉自身を見つけた
少年は惨めったらしかった 肩を丸め、ひねくれた目で見ている

中原:きみ、中原・・・力哉くんだね?

この時代の子どもは、たとえ他人でも大人に反抗することなど許されていない
なにも話すことがなく、思わず「いずれ、空襲があって、学校もきみの家も焼けてしまうよ」と言ってしまった
これは歴史を変えることにならないだろうか

しかも、他の学童がいたため
「敵機は時々来て、爆弾落として逃げていくだけやないか! 国賊や! 非国民や!

中原はその場を離れた 憲兵など来たら面倒なことになる
彼は国道に出た 空襲で焼け出された家族がリヤカーを押してS市の親類の家へ行った道でもある
空襲はいつだろう 大阪の最初の大空襲の前に東京と名古屋がやられたはずだ

頭には断片的ながら鮮烈に残っている
庭の防空壕にいたが、父は危なくなったから外へ出ろと言った
大人たちは棒の先の濡らした布で火の粉を叩き消していた

女性の声で回想から覚めた 名を聞くと花子さんだと言う
花子:いざとなったら本気で、全力あげれば切り抜けられます
中原:あなたには分かっているんですね? 筋道立てて教えて下さい

花子:
なまじ理屈にこだわるからおかしゅうなるんや
男の人の理屈のお蔭で、世の中が変な方向に行ったりするんやおませんの?

花子は布袋を渡して去った 中にはこの時代の携帯食料として最も一般的な乾パンが入っていた



空は赤一色だった
あの変な男が言ったことはこれだったのか

学校での屈辱、家での必死の隠蔽作業で、彼の神経はズタズタになっていた
ものごころついて以来、何もかも滅ぶ感じしか受けなかった
戦争はますます激しくなる みんな死ぬのだと思うのが自然だった

「直撃や! 逃げろ!」

男は家も焼けると言っていた 彼は学習百科事典を小脇に抱えて逃げた
やられる前に走らなければならない 駆けながら、彼はわめき、泣いていた

バッジを隠すため外套を着て、事典を持っていたため、バランスがとれず
焼夷弾の一発が頭に命中し即死した
力哉が意識したのは、生まれてからここへ至る帰結感と、解放感だった



第7章
あれはどの辺だろうか 日が暮れ、道に迷ってしまった

パラパラを描くのに最適なのは、南海電車の萩ノ茶屋駅近くにある文具屋のカードだ
そのうちパラパラは流行らなくなり、久しぶりに店に行くとすでに畳んでいたが
冒険だった買い物は以後もずっと尾を曳いている

ずっと前は、ものを買う行為自体が苦痛だった
だからカタログを研究し、結論を出して、品を決定し、店で「あれ下さい」とだけ言うことで解決した

今はマシになったが、買うことによるプラスとマイナスがあらかじめ判定できない時が困る
予定より高機能の品や、安いが必要な働きはする品が並ぶと検討もつかず決断できない

買い物だけではない 切り捨てる側と、切り捨てられる側の問題ともいえる
被害者はいやでも意識せざるを得ないのに反し、加害者であることは忘れても済んでしまう

自分もどこかで何かを切り捨てている自覚だけは持っていたい
切り捨てられた側の気持ちを考える心を持ちたい
決断は、それほど僕には厄介なのだ

旧制中学出身と新制中学出身の違いも同じことが言える
入試を受けて入る旧制と、義務教育で無条件で入れる新制では自意識の差異があると思う

旧制のほうは選抜された自負、優位性を持ち、他人に命令する資格があると信じている
戦前戦時の「上意下達」の体制ではそうでなければならなかった
新制の僕は、旧制に対し、羨望と不信感を同時に持った

歴史は必然性が主として働く
流れに乗るか乗らないかで運命が決まり、逆らっても結局は本流に戻ると考えがちなのだ
歴史の人物が攻めろ、逃げろ、殺せ、追放せい、で何十万の運命が決められたのだ

僕たちは、絶えずなんらかの決断をしなければならない
歳をとるとともに、次第に厄介で、重い選択を強いられるようになり、疲れるのだ



第8章
村上はペンを置いた 夜更けに興の赴くまま走り過ぎると、話が当初の意図と外れることはよくある
夜が更けるほど情念的になり、バランス感覚がなくなり、危ないのだ

午前2時前
今住んでいるのは、公団の古い単身者住宅

村上は文章だけで食えるようになるまで、4Aグループというプロダクションでコピーライターをしている
コピーチーフの太田から小説を見せてくれと言われたじろいだ

彼はかつてある同人誌にいて、その批評は辛辣を極めると聞いたからだ
同人誌仲間というのは、罵り合いになりがちだと聞いたことがある
だが採用してくれた一人の言うことを断ることも出来ず、2本ばかり原稿を見せた

太田:
なかなか愉しかったよ エンタテイメントも読んでいるんだろうな
その影響で、君は筋にとらわれているよ 筋なんかなくてもいいんだ
つまり、君には小説を書く怨念が不足しているんじゃないか

そうかもしれない しかしエンタメさえろくに書けないだろうと言われたのは許せなかった
1作目が失敗なのは自分でも分かったが、2作目はある雑誌の最終候補に残り
はじめの雑誌から、出来が良ければ載せたいから書いてみないかと依頼が来たのだ

眠ろうとした時、会社を辞めて以来、時折到来する「幻覚」に襲われた
自分がまだあの会社にいて、山本課長に面罵されている
“あれ”の質が変わったのか?

彼は宴会の席で、課長の前で裸踊りをさせられている
しかも、彼にはこれが幻覚だと分かっている
腹に力を入れると宴会場が薄くなった

ウイスキーがなくなり、ジンを数杯飲んだ
ようやく目を閉じると、電話が鳴った

「私 かずみ もう10時やよ 10時半に課長と銀行に行くはずやのに何してんの!」

時計は5時をさしている
かずみの声には抵抗しがたい切迫感がある
こんなハッキリした幻覚などあるものだろうか?

これは幻覚ではなく、別の現実が並行して進んでいるのではないか
油断して乗っかると引きずりこまれるのだろうか?
自分は複数の現実に生きていて、自分が関与する現実だけがその時々に存在するという見方もできる


翌日、信用金庫のパンフレットの原稿を太田にみせ、一応了解を得て
明日、デザイナーとラフスケッチを合わせて先方へ持参し、説明するだけだ

村上は太田に引き止められた

太田:
話は2つある 君、伝記を書いてみないか?
P工業の社長が伝記か自叙伝を出したいというんだ

筆の達者な奴はたくさんいる タレント本なんてそんな連中が書いている
しかし産業界を描くとなると、それなりの通じた者がいる
いわば企業PRだからプラス面だけを出さざるを得ないが

村上は他人に代わって書くことに抵抗がある上、いいことばかりを並べた伝記など乗り気ではなかった
人間を描くなら、影があるからこそ、光が輝くのだと信じている

太田:お礼として相当な額をいってきた 昼間もその作業をしてもいい
村上はそれほど器用ではない 「太田さんはやらないんですか?」

太田:
僕は手一杯なんだ うちの古い連中は給料の安さをバイトでカバーしている
2つ目は、きみ、小説を書くのをやめる気はないか?

これは存在理由にかかわる言葉だった

太田:
小説と広告は別物だ クセの強いコピーもあるが、それは特定の会社、商品についてだ
君なら平明な文章を書ける コピーライターとして一流も夢じゃない
きみがどう受け止めるかは自由だが、考えてほしいんだ


これはスポーツでも、囲碁などにも通じる
なまじ他を知っていたり、我流だと、ある水準まではすぐ到達しても、そこで止まる
本当に強くなるには、まったく初めから本筋を学ぶ
当座の力は低下するが、本格的なレベルに達するには必要だ

彼は三流でもいいから小説書きでありたかった
だが、このままだと4Aグループからも放り出されるのではないか?

不安を振り切るため、書きかけの原稿をもって、繁華街のいつもの喫茶店に入った
ものを書くのに適当な喫茶店は意外に少ない
原稿を置けるスペースがあり、他のテーブルとある程度離れていて
店の人々がものを書く人間に寛容かどうかが重要だ

ペンを走らせることに没入していると、女の声がした 橘かずみがいる「待った?」
待ったもなにも、前の会社を辞めてから一度も会っていない
店が二重になって見える いつもの幻覚なのだ

かずみ:この頃、小説もう書いてへんの?

自分が小説をやめた? 見ると原稿とペンが半透明になりかけている
目の前のものを否定するため目をつむり、気持ちが静まると元に戻っていた

もうちょっとで、あっちへ行ってしまうところだった
だが、隙間風のような想念がわいた
自分は、本当に今の現実でいいと思っているのか?

喫茶店を出ると、行き来する人の中で山本課長が歩いてくるのが見えた
向こうは気づかなかった

なんだかひどく孤独で、物欲しげに見えた
ざまを見ろというより、苦い気分が残った

あれもまた現実が割り込んできたとすればどうなる?
彼自身にも、ハッキリしなくなっている



第9章
夜が到来するずっと前にネオンや看板がともるのを当然と思っていたが
この時代のように、ムダな明かりがなく、灯火管制下だと、少し焦りが出てきた
今夜どうするか考えなければならない

一方で、時間の流れの因果律など蹂躙してやりたい気持ちもあった
かつて住んでいた家のあたりを見て廻ろうと歩きだした
記憶の中の戦意高揚のポスターより、現実は絵も稚拙で小ぶりだった

家に近づくと記憶がどっと殺到してきた
だが、訪れるどころか立ち止まることも怪しまれるだろう

家の前を通り過ぎ、その先を左右に曲がるか迷って、引き返すほうを選んだ
彼は決着をつけたかった このままでは整理のつかない感覚が残ってしまう
懐かしさ、憎悪、切迫感、喪失感が凝固してしまい、思い返すたび耐え難く無念になるに相違ない

彼は歳をとるうち、風景や家々がけっして永続したりしないことを実感するようになっていた
学生時代には永久に続きそうに感じた町が、時になし崩しに変化するのを思い知らされたのだ
こうしてあたりを眺めると、それらが儚い一時のもののように映るのだ

防火用水、中原という表札など胸に焼きつけようとしながら
無感動な己が自分を見つめているのも感じた

これほど平静なのはフシギだ
あの辻ミツ子や花子と名乗った彼女らは何か知っている
きっと、なんとかなるのだ まず寝る所を見つけなければ

学生時代には、貧乏旅行をしてよく駅のベンチで眠った
駅舎が整備され、無用の者を排除するようになってからは不可能になった
しかし、終戦前の官憲の力が強い時代、目的もなく駅で寝ていたら捕まるかもしれない

火除け地として疎開させられた家々が残っているのを思い出した
大火事の場合は何の役にも立たないと分かったのは大空襲を受けた後だ

空き地まで暗い道を戻り、さっきと違うことに気づいた
空き家は取り壊され、数軒あるのみで、一番手近の1軒で眠ることにした


うとうとしているとサイレンが鳴った まるで空襲警報の鳴らし方だ
まぎれもなく爆弾の腹にこたえる音が始まった ここに落ちれば即死だ

なぜ今夜が大空襲なのだ?
自分はまたタイムスリップしたのではあるまいか?

慌ててはいけない 無茶に走ればかえって危険だ 50歳の男らしく対処しなければ
今死んでも夭折ではない 死ぬ時には死ぬのだ 死なない工夫をすべきだ

「いざとなったら本気で、全力あげれば切り抜けられます」と言った女の言葉を思い出した
すでに第三波の爆音が接近し、鐘が乱打されている
弾着音が連続しだした

この後、何波も敵機はやりたい放題に焼夷弾をばらまいていく
たしか艦載機の機銃掃射も行われたはずだ

どこが安全だ?
家族で逃げたS市はまだ空襲に遭っていない
その後、大阪は何度も空襲を受けて、S市ものちに焦土と化したが

気づけばやみくもに走っていた
かつての恐怖にとらえられた少年に還り、わめきながら走りつづけた

気づくと編隊音も爆撃音も止んでいる
太陽が照りつける夏の昼間なのだ

「タイムスリップ癖」という言葉が浮かんで苦笑した
場所は変わっていない S市へ向かう国道だ

これは彼の原風景なのだ 焼け跡と雑草ばかりの景色が原点だったのだ
彼は、戦後の復興が自分のスタートだと認識し、
すべて一からやり直す象徴として位置づけていた


だが、S市にもあまりいい思い出はない
転校後、彼は「ヒイキ」と呼ばれた
成績がいいのは、教師のえこ贔屓だというのだ

4月に担任が変わり、KR国民学校では人気があったが、軍隊経験のある乱暴な男で、
自分は彼に嫌われた 逞しさ、向こう意気の強さが尊重される中で
自分はひ弱でひねくれた少年だった

以後、ことごとに教師に皮肉や嫌味を言われ、無視された
じわじわと絶望的になり、未来に何の期待もしなくなった

ある日、担任は「お前たちは将来何になるつもりか」と聞いた
みな元気よく「幼年学校」「予科練」と答えた

自分は先生に怒鳴られないで済ませるにはどう言えばいいか首をひねったがあてられなかった
彼はいてもいなくてもいい人間なのだと悟ると学校に来るのも馬鹿馬鹿しくなった

嘘や仮病で学校を休むようになった
よくそうしたことは他人の注意を引きつける行動だと書かれているが
自分に関しては違う 一緒に並んで走るのに疲れただけだ

まもなくS市も空襲を受け、近所の人たちが爆死して、これも鮮明に異様な傷痕を残した
KR国民学校も全焼し、N国民学校の校舎を借りた

何度もクラス替えがあり、自分のクラスがどこなのかも分からなくなった
同様の弟と運動場で鉄棒をしたり、歩き回り、帰宅していた

次の空襲でN国民学校も焼けた
引越し先はKS国民学校だ もう場所も見当がつかなかった
いまだに、学校に行っても時間割表も持っていないという夢を見る
社会の秩序の締め付けは一層厳しく、彼はその日、その日を誤魔化して切り抜けて脅えていた

夏休みになり、通知簿をもらえないことを親に誤魔化した
こうした事柄には変に頭の回る少年だった
追い詰められると状況を糊塗し、さらに追い詰められる悪循環


終戦になり、大人の不安をよそに、彼は解放を感じた
が、それはまだ押し殺した時間だ いつまた元に戻るかもしれない

数日後、アメリカ軍兵士をぎっしりと乗せたジープやトラックが次々やって来た
気づくと、彼は両手をあげて万歳、万歳とわめいていた

自分を抑圧し、苛んできたものが、今新たな別の手で叩き潰されようとしている
彼はぼろぼろ涙をこぼして手をあげていたのは、彼自身の過去の清算で、お祭りだった


占領軍に手を振るなど、日本人として許されなかったため、周囲に通行人がいなくてよかった
ものごころついて以来軍国教育を受け、その心情が意外に彼のうちに残っていると自覚したのは中年になってからだ

彼が学校に行っていないのは間もなく父に発覚したが、父はなにも言わなかった 理由はいまだに分からない
子どもをよく叱責し、殴打も辞さない父だったが、なぜか登校を強制しなかった

ある日、父は古い本をまとめて買ってきた
美術、音楽、機械、聖書まで網羅した百科全書のような数十冊のセットだ
本が手に入らない時代、彼は全集のとりこになり、内容をほぼ暗記してしまった

年末、一家は大阪市内に引越し、S国民学校に転校し、戦後教育を受けた


うしろから自転車のベルの音がした 花子さんだ

花子:
いろいろ大変でしょ それにしても、あんさん、だいぶ自分離れしはりましたで
自分がそうだと信じていた己から離脱してるってことです

自分を見ると、もう国民服ではなく、開襟シャツで、丸刈りではなく、油のついたオールバックだ

花子:
あるがままに受け入れること 精一杯やることしかありませんわ
私はただ助言するだけ 私にも説明はムリです

私は本能的に感知したことに従って、あなたを助けるだけです
あなたもだんだん体得するでしょう

2人で国道を歩いていると、向こうからアメリカ軍のジープが何台もやって来た
これはあの時と同じだ 探してみると、100mほど先で1人の少年が
狂ったように手をあげてはおろしてわめいている あれは自分に違いない
彼は、自分の区切り、再出発、お祭りを妨害したくなかった

少年のところへ数人の少年が駆け寄り胸ぐらをつかみ殴った
止めようとした中原を花子は止めた

花子:
ほかにも青年がいたから、あなたが出て行ったら大乱闘になったでしょう
あれはあなたの過去の1つです
現在が無数の未来を持つなら、なぜ無数の過去をもってはいけないのです?


S市に戻りはったら? 今なら戻れまっせ あんさんのままやと思てると面くらいますやろけど
またお会いしますやろ 私か、私の代わりの誰かが ほな


なんだか分からないままに奇妙な充実感に包まれている
透明になった平静さとでも言おうか
自分の内部に埋もれてくすぶっていた過去と対面し、結着をつけたせいではないか?

だがこの透明感が、彼の自己保持の意識と異質なのもたしかだ
ともかく歩きつづけるしかない



第10章
村上はひかり号自由席A席に座っている
C席に女が来てちらりとこちらに目を向けてから本を読みだした

この前書いた原稿が雑誌のコンテストで最終選考に残り、落ちたものの、編集者の目に留まり
出来が良ければ載せたいと言われ、東京まで打ち合わせに行くのだ

こんなに調子良く行くものだろうか? どこかでつまずくのでは
いや、つまずきそうになっても立ち直り、頑張りつづけねばならない

その時、幻覚がきた 視野も新幹線とオフィスの二重だ
山本課長は、部下の仕事に感情的にケチをつけたせいで会社に大損害を与え、遠い出張所への転勤の命令を受けた
彼さえいなければ、あの会社は不愉快ではなかった
4Aグループでにわかコピーライターをしているよりずっと気楽だ

だが、今は小説が雑誌に載ると決まり、ひっかるわけにはいかない 消えろ
オフィスのざわめきは消えた C席の女はにっと笑い、また本を読み始めた

しかし課長の小心な保身術を考えれば、ああなる確率は低いのではないか?

震動に異常を感じ、かずみが隣りにいる これは新婚旅行なのだ
かずみと結婚しようなど考えたことは一度もない

この会話に引き込まれてはならない 新幹線の車内は見えなくなっている 目を閉じて念じたが戻っていない
かずみ:山本課長、神妙やったわねえ 部長が来るから仕様なしに来たんやろうけど

その言葉の意味を考えてならない ひたすら念じなければならない
どうやら切り抜け、C席の女はまた気の毒そうな表情で笑みを浮かべている

一体、別の現実がいくつあるのだ?

3度目の幻覚がきた 今度は太田が出てきた
4Aグループの幻覚はこれが初めてだ

自分はP工業社長の伝記を書き、太田が報酬を出している
「違う! 僕は自叙伝なんて書かなかった!」

「大丈夫ですか?」C席の女が隣りに来ていた
「むこうに引き込まれるんじゃないかと思ったわ すっと薄くなって
 踏みとどまるかどうかはあなた自身の問題で私にはどうにもできないから」

女は西本つなえと名乗った

つなえ:
完全にあっちへ行くと消えるはずだけど、そうならずにホッとした
別の現実は当人にしか見えない はっきりしたことは私にも分からないわ

あなたは、自分が捨てたものに追われているのよ
振り捨てられたほうは、あなたがまだいたらどうなっているかの現実になって追いかけてくるわけ

前はあなたの生命力、精神力、体力も強かったから封じ込められたんじゃない?
今は歳をとったから、しぶとく追ってくるようになったのよ


つなえが席を離れ、向こうからつなえに強い一瞥をくれ、かずみが来て話しかけてきた
休みをとって友だちと東京に遊びに行くところだという

かずみ:
みんな相変わらずやわ 山本課長も村上さんがいてへんようになったから
文句言う相手がなくてイライラしてるみたい

そこにつなえが戻り、自分の席に戻ったらと言い、かずみは怒り、村上が何も言わないため
かずみ:会社辞めたら、私なんか関係ないんでしょ さよなら! と行ってしまった

つなえ:
橘かずみはあなたを追う別の現実たちの象徴
彼女の意志力が強くあなたに向かっているということかなあ

村上:意志力が弱くなったら?

つなえ:現実たちはバラバラになるんじゃない? 分からない じゃ、ね

つなえはかずみと反対方向の車両へと去って行った



第11章
S市で遊びほうけた毎日は、たしかに過去を洗い流すための時間だった
上級生がいない新学制による義務教育の中学校で、みなのびのびと生きた

しかし、彼らのうちにはかれらなりのルールがあった
上から押しつけられたものでも、本に書いてあるものでもなく
自然発生的に、ぶつかり合い、より一般性になるほが普通だったが
奇妙なことに年上の人々には理解してもらえなかった
彼らが掴んだものの可能性はろくに論じられることなく、マイナス面が強調されてきたことに無念さを味わった

歩いているうちにまたタイムスリップがあった
アメリカ兵と、唇をやけに赤く塗った日本人の女がジープに乗っていた
オート三輪も走っている 活気があるが、なぜか薄汚れたようにも映る

なぜか、ぐずぐずしていてはいけない気分に襲われた
歩きつづけるうちにタイムスリップが連続的に起きている

大阪市に入り、彼のマンションに向かう
歩道を往来する人数もあきらかに増えている
季節もどんどん変わっている

春になると、大学に入った時期を想起させる
あの頃には白紙に広がる未来があった
大学に入学した時期が、彼には新規のスタートだった
衝動や欲求に応じて逸脱する可能性もあった

何十種類もあったはずの人生を後悔しているわけではない
まずまず上手くやって来たと思うが、もはや新しい絵を構想することはできない

過去は洗い流されてはいなかった
完全な清算のためには、すべての過去と対面しなければならないだろうが不可能だ

要するに、彼は振り払ったつもりでも、過去にひきずられている
生誕時ですら、環境で未来は制限されるのではないか?

上空をジェット旅客機が飛んでいる
かぶと虫型のクルマが横切る
クラクションがやたら鳴らされた時代があったのを覚えていた


このあたりが日本の高度経済成長期ではないかという気がした
仕事に食いつき、無理を承知で頑張った時代

仕事以外を顧みなくても済んだ時代が終わり、家族との精神的な絆が消え
互いに無関心になっていたのを悟ったが気づかぬふりをしつづけた
敗北を自認したくなかったのだ


自分の半生は一体何だったのだろう
大阪に単身赴任しても、東京にいた頃と本質的には何も変わらなかった
これで日常に帰還することで幕が終わるだけの話ではないかと苦笑した

大粒の雨が降り出し、散歩に出た時の服装に戻っていることに気づいた
元に戻れたのだ 同時に再び日常生活が始まる倦怠が漂っている

傘もなく、ひどい空腹に気づき、馴染みの店でいつものカキフライ定食を食べた
外に出るともう雨は止み、鰯雲の広がる青空だ
ぎくりとして振り向くと、今出た店がない

扁平すぎる妙なクルマが走っている
材木店が全国的に有名なチェーン店になっている

これは未来に入っているのではないか?
一刻も早く帰らなければ

自分の号室の前に来ると他人の名前が出ていた

ミィちゃんと自称する女が声をかけてきた

「あなたは店で食事したりしてぐずぐずしてたんです
 もともとあなたがタイムスリップしたのは、あなた自身の存在の力が弱いところへ
 性質は違えど、似たような人に会ったためで、帰着できるかはじめから危なかった

 あなたは、このまま正しい時間の流れより少し速く流されるでしょう」

女は去り、身分証を見ると第一サービス株式会社大阪営業所長 坂原道也 とある
これが花子さんの言った自分離れなのか? なぜこんな目に遭わなきゃならないのだ?
彼にはどうも、彼女らが示し合わせているように感じる

我に返り、現実的な対応を考えるしかない ここはせいぜい数年先だ
でも、元の世界の延長線上でないとしたら? 中原そのものがいない可能性もある

この所長が光輝くポストだとしても、何も知らない彼がどうやって働くのだ?
自分離れなどもう沢山だ

自宅に電話しても録音された声で、住所から名前を調べると中原ではないと言われた
第一精機にかけ、支社にいた名前をいくつか聞いても退職したり、いないと言われた

あの村上という青年と話すことで何かつかめるのではないか?
赤提灯まで20mほどの所でミィちゃんに呼び止められた

「あなた、自分離れをやめるつもりですか?
 得られるかもしれない未来を捨てて、自分に閉じこもるつもりですか?」


「ほっといてくれ」

奇妙なことに、頭の中に第一サービスで働く自分を思い出した
最近急速にのしあがった人材派遣会社だ
いや、これは何かの間違いだ

電車の振動の中で眠ってしまい、梅田で降りると
ミツ子から「支社長さん」と声をかけられた
「せっかくの新しい未来を捨てて、先の見えた自分に戻るつもりですか? 意気地なし!」

暖簾を開けて店に入ると、女将が「今週はじめてやね」と言った
行ったはずがないのに、今日会社に行った記憶もある

山本と村上のケンカは先週で、村上は会社を辞めたという
小説を書いていると言っていたから、案外上手くいくかもしれない あの年代なら

あの日以来ずっと続いていた解放感が消失していることに気づいて苦笑を浮かべながら焼酎をすすった



第12章
夢の世界はなぜあんなに暗いのか いつも夜か夕闇だ
14、5年前、「夢おぼえ」と名づけたノートを枕元に置いた時期があった
夢から話のヒントを得ようというさもしい動機からだ

だが、半身起こしただけでももう記憶は消える
中には、ハッキリ記憶したり、自分で見たい夢を見たりする人もいる
素質と訓練で可能になるそうだ
僕には無理でノートを置くのはやめてしまった

諦めると逆に夢を覚えていることが多くなった
1回限りの夢には面白いものがあり、小説に断片的に使ったりした

年月とともに特定の傾向の比率が高くなった
それらの原型は何かと分析し、自分の記憶の変改だと気づいてきた

しばしば出てくるのは路面電車だ 建物は終戦後間もない風景
昔僕が住んでいた岸ノ里か、逆に乗ると山の中で、小さい頃、親に連れていかれた場所のようだ

とにかく、夢は僕の過去の体験や印象を合成して出来ていると悟った
僕は夢を見ているかぎり、そうした異世界に生きている

これらの異世界が、過去の歪曲された蘇りではなく、あり得た世界ではないかと思えて仕方がない
時間をごちゃ混ぜにして再構成された異世界群


意識の上では、現実も夢も同じようなものではないか?
ある以外に、あり得た、あり得る、けしてあり得ない世界も存在する

僕がしばしば見る夢の1つに、まだ会社勤めをしているというのがある
大抵の任も、いまだに学校の試験の夢を見るそうだ

僕は上司に文句を言われながら働いている
そのうち、僕はものを書いて給料以上の収入をあげているから辞職しても大丈夫だと思いはじめ
目覚めてホッとする

実際は、原稿が多少売れるようになって、辞職するまである程度日がかかったため
さほどの無理もなく転身した

現在の自分は何だろう、と考えてしまう
もっといろんな形の、無数の僕が考えられる
彼らと僕とはどんな関係なのだろう

(眉村さんもユメニッキをつけていた時期があったのか
 ほんとに少しでも動くと忘れちゃうから、私は夢を反復してから
 メモに断片を書いて、ストーリーを書いている

 複数の時間流があるというパラレルワールドは、眉村さんもいくつも書いているけれども
 今作の“ペディキュアの色が互い違い”とかは昭和61年代にもあっただろうか?驚

 私は、J.ヴェルヌなど優れたSF作家は、実は本当にタイムトラベルしているのではないか
 と思うことがよくある



第13章
村上直樹(村上春樹のもじり?w)は、必ず明日までに仕上げてくれと太田に言われて
午前1時になっても机上に向かっているが眠くて仕方がない
村上の作品が初めて雑誌に掲載され、長編書きおろしの機会を与えられたのにあまり進んでいない

太田は副業を持ってこなくなった代わりに嫌がらせをするようになった
これで夜に小説を書く暇はないだろうと言わんばかりだ

零細企業では、大企業の社員のように残業手当や代休など期待してはならない
家へ持ち帰ってでもやらなければならず、もちろん特別手当など出ない
(今と同じじゃん
かといって仕事を次々変えると感覚などが揺れ、長編を書いている今は避けなければならない

電話が鳴り
「私、西本つなえ あなた、今、危ないところにさしかかっているから激励の電話をしたの」

眠くなると電話が鳴り、部屋が二重になった
彼はかずみと結婚し、共働きしながら、夜は小説を書いている これは別の現実だ
だが、コピーシートを見ても正直やりたくない 眠りたかった

なつえ:
自分が1つでなくなってもいいの? 見損なったわ
バラバラの現実で、バラバラの人間になればいいのよ!

受話器が消えた 2DKのマンションにいる
どうであろうと、小説を書き続ければいいではないか 彼は眠りについた

彼にはまだこうなる前の記憶があるが、ふっと墜落の感覚があり、バスに座っている
4Aグループの仕事を終えて、単身者住宅へ帰るところだ
しかもいくら小説を書いても相手にされず挫折しかかっていた
だが自分は、自分に合った書き方を知っている 負けないぞ

いろんな現実が次々到来し、数日続く時もあれば、半年以上の時もある
これまでの現実に戻り、つづきをやることもある


どの現実にいこうと、彼は書くことをやめなかった
小説を書くことだけは一貫したい やめはしないぞ



第14章
中原は、大阪から来た友人とホテルのロビーで落ち合う約束をしていた
何気なく見回すと村上直樹がいた
あの晩の一件も覚えていたし、新鋭作家としての名前を新聞広告などでも見かけた

あの女たちが言ったようにタイムスリップの原因が彼なら、彼に聞きたかった
彼に話しかけると、向こうも中原を覚えていた

冗談に済ませられるよう話を切り出すと、彼は真面目に「聞かせていただけますか?」と真剣に聞き
中原の話が終わると「今度は僕の話を聞いていただけますか?」とこれまでのことを話した

中原:
あなたは、いくつもの世界を転々としているというわけですか?
とすると、いろんな世界に私もいるかもしれない
なぜでしょうね こんなことになったのは

村上:あの女たちは何をしようとしたんでしょう

中原:私は元の世界に戻ろうとして、意気地なしと言われましたよ
村上:僕は見損なったと言われました

中原はフロントに呼ばれ、村上は外の夕焼けを見ていた
いやに色の濃い大きな夕焼けだ

村上:そろそろ仕事にかからないといけないので部屋に戻ります
中原:どうかお元気で

つまり、何ひとつハッキリしたことは分からないわけか
だが、自分は女たちを拒み、元の自分になりきってしまった
村上も女の言いなりにはならなかった

それが自分と村上との生に対する姿勢の反映ではないか
今の夕焼けの受け止め方にも象徴されているのかもしれなかった






【著者あとがき内容抜粋メモ】
あったはずなのに、“はず”だけが生き残り、証言してくれる者も減るばかりだ
その証言も思い込みかもしれない
その癖、過去の吸引力は強くなるばかりだ

「増え鬼」というのがあり、鬼になると2人以上で手をつなぎ、つかまっていないのを追う記憶

家が空襲で焼けた夜、広い場所でおにぎりを食った
周りも罹災者でいっぱいで、非日常的だった記憶

これらをいくら並べてもきりがない 事実か否かを言い切るのも困難だ
僕の心の中にあれば、それでいいのである





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