メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

唯識に生きる 第2回 自分とは何者か@こころの時代~宗教・人生~アンコール

2019-08-30 12:10:44 | テレビ・動画配信
指南役:横山絋一
ききて:草柳隆三
リポーター:小野文恵


【内容抜粋メモ】

4~5世紀頃のインドで世親・無著という兄弟によってうちたてられた「唯識」

小説「西遊記」の主人公として知られる玄奘(三蔵法師)が中国に持ち帰った後
日本には、飛鳥・奈良時代に伝来
仏の道に生きる僧侶が学ぶ根本思想として 脈々と受け継がれてきました




「瑜伽行」
ヨーガを実践する人々によって作られました
瞑想を行い自己の奥深くにある心のメカニズムを観察することから生まれました





「唯識ライブ」




唯識は、日々の暮らしの中で、自分を客観的に見つめ
心の在り様を積極的に変えていく具体的な実践を説きます

「唯識は、心と体を整える様々な智慧を持っています」(鈴を鳴らす

「瞑想」


ストレスの多い毎日を、不安を抱えて生きる私たち日々の暮らしに活かせるいう
意識の具体的な活用法を小野文恵アナウンサーが体験リポートします


こころの時代では、毎月1回「唯識に生きる」と題して
日本仏教の根本的な思想であると言われている「唯識」について
6回のシリーズで お伝えしております

お話は、立教大学名誉教授 唯識を50年以上にわたって研究し続けていらっしゃる横山さんです


唯識の歴史について




横山:
もともと唯識は当然インドですよね
紀元4、5世紀頃 無著・世親兄弟によって組織・形成され
それを7世紀の玄奘がインドを往復されて 持って帰った
それが基(慈恩大師)という人たちと「法相宗」という宗派を作る

その「法相宗」が 日本に飛鳥・奈良時代に伝わってきて
今では 興福寺が大本山としてずっと伝えているわけです

玄奘は「西遊記」の三蔵法師として我々にも親しみがありますが
日本仏教のあらゆる宗派にとっての恩人なんです

その人達もみんな唯識を勉強して、その結果、自分の信念に基づいて新しい宗派を作った
その方々の著作の中では唯識をものすごく 引用されております


●唯識の基本思想 全ては心の中で作られている

横山:
唯識っていうのは言葉からして ちょっととっつきにくいところがあると言うか
難しい というのが最初にあるんですが

アナ:
唯識というのは常識を否定したところに起こった教え
という風に受け取っていいんでしょうか?

横山:
常識だと 目の前にコップがあって このコップがないとは思えません
常識に生きてるからこそ、自他を区別して、いろんな問題が起こってくる

全部一人一人の心の中の 存在でしかすぎない
全ては心の中で作られたものである

一般の人はそれを「非常識」だと考えますが
非常識という言葉はあまりニュアンスは良くないですが

僕はこの頃、唯識は「反常識」である という言葉を使って
これから唯識の特徴を言おうと思ってるんです


「唯(た)だ識(=心)のみ」である




横山:
普通、我々は ある人と色んな出来事があって
いじめられたとか 文句を言われたとか不快な経験があった時
同じ人に会うと「嫌いな人だ」と思いますね

しかし、静かに己の心の中を観察してみると、次のメカニズムが分かってくる

見た瞬間、この人は誰ということはわかりません
しかし、過去の経験が深層からパッと飛び出してきて

その人の思いが付与されて→最後に「嫌いだ」という言葉でもって思いを強めて
この影像に付加してしまうわけです

しかし、それに気がつかずに「ここに嫌いな人がいる」と思い込んでしまう
簡単に言うと、全てのものは己の心の中で作り上げられたものである



●唯識の基本思想 「縁起の理」 他の力で生かされている




横山:
電車でこの男性は座れる席が取れた
しかしよくよく考えてみると 自分と他の人間との関係を 深く考えてみると
前の人が立っているから、あなたのおかげで 自分は座らせてもらっていると気が付くわけです
全ての存在が それによって自分が生かされている

「すべての存在が 他の力(縁)によって生かされて在る」


「自分、自分」って言うけれども、全部は他の力、縁起の力である
いろんなご縁で生かされている それが第2番目の基本思想です


自分とは一体何か?

アナ:そのことを踏まえた上で、今回のテーマは、自分とは一体何者なのか?

横山:
一番大切なことですね 生きていく上で
自分というものがわからないで生きていると
操り人形、または幽霊のように生きている
そういう生き方に終始してしまう

僕は変なことを言いますが、棺桶に入る一歩手前まで
自分とは何か?ということを考え続けていこうと
そういうことを強調して生きているんです

アナ:
仏教というのは、自分とは何か?ということを
ずっと問い続けてきているわけですよね?

横山:
一言で言うと「自分っていうのは存在しない」「無我」である

実際はそうではない
「私」「自分」が出ることがしょっちゅう 顔を出しますでしょう

ホモサピエンスである限り、人間は皆ことにつけて「自分は」と言いますしね
「自分」という思いがあるわけです

アナ:
自分とは何か?ということを問い続けることが大事なんだけれども
それには順序がある というふうにおっしゃってますね
それは何ですか?


「無我」




横山:
何か、なぜ、そしていかに という思考のプロセスがある

何かは「無我」というわけです
なぜかと言いますと 他の力で生かされている 「縁起」のゆえに無我である

最終的にわかったところで、人間いかに生きていくべきか結論されますが
実践してみてそれをつかむ以外にないと思いますね



●現代に特有の悩みと問題1 「人間関係」
この問いをめぐって横山さんが 現代社会の問題と見るのが人間関係の悩みです

円融寺@目黒区
横山さんが月に1回開いている唯識の市民講座 人生に唯識を活かす講座






横山さんとともに講師を務める尚順さんは
お寺を積極的に開いていく活動を通じて多くの市民と交流

日々の暮らしの中で人々が直面するの具体的な悩みやトラブルに耳を傾け
共に解決の道を探っています


尚順さん:
多くの方が悩みを持ってらっしゃるんですけれども
その中の多くはやはり人間関係なんですね

例えば職場ですと上司と同僚のコミュニケーションが取れないとか
上司と馬が合わない、会社の方針についていけない、人と話したくないとか

人の目が気になって どうしても自分の行動が思うようにできない
そういう問題が多いように感じます 孤独なのかなと思うんです

「自分が」こんなに苦しんでいる

人も同じように苦しんでいるんですけれども
「自分」というものにとらわれすぎているのではないかなと思います


「写経」や「念珠作り」






人間関係に悩む人に対し、尚順さんが勧めているのは「写経」や「念珠作り」です
そこには心の在り様を積極的に変える唯識ならではの工夫が込められています

尚順さん:
一つの方便なんですけれども、写経や念珠づくりは「集中力」が必要
いったん不必要なことを考えないようにする

職場、上司、同僚のことを考えて、頭が混乱しているので
一旦考えをストップさせて、目の前にあることに集中してもらう

そうすることによって余計なことを考えずに
今の自分に向き合うことができる

そうするとふと気が付くんです
なんでこんな不必要なことに対して自分が悩んでいたんだろう と思うこともある

自分の心、自分の集中を、外ではなくて自分に向ける
そういった取り組みをしていただきます

唯識との関係は 結局自分って何なんだろうと考えると思うんですよね
冷静になった時に「あれっ?」て思う瞬間

今まで「自分」と思っていた自分は
実は孤独ではなくて色々なものと繋がっている
自ずと見えてくるのは唯識の世界なんです

自分で自分の首を絞めていたんだ
唯識はまさにそのことを伝えているのではないかと私は思っています



●全ての人々が自我執着心を持っている

アナ:
今出ていたお話は、多かれ少なかれ
多くの人が感じていることだと思うんですけれども
なぜ現代にこういう問題が起こってきているのか?

横山:
人間の基本的な在り様が「自我執着心」ということは
常に「自分が、自分が」ということがある

アナ:
自分に執着するその心があってはなぜいけないんですか?
誰でも自分に執着する心は持ってますよね
そのことが どういう差し障りになるんですか?

横山:
いろんな対立が起こってくる
人間だけではなくて自然、国々のこともありますし
根本的には自我執着心なんです

例えば このボールペン
“This is a pen” これはペンですって英語で言いますね

これは間違っているんです
「これはペンです」と私は考える そこに気がつかなければいけない

何をするにも常に「私」という言葉が出てくる
それに大きな問題がある これが仏教の根本的な教義、教えである


情報過多




アナ:
横山さんはもう一つ、人間関係の他に 現代に特有の悩みと問題に情報過多
情報がものすごく今、氾濫していて
あまりにも多すぎるとおっしゃっている
これはどういうことですか?

横山:
すごく問題化しているのは携帯電話
みんな電車の中で 見ていますね 歩きながらでも見ています
遊んだり、いろんなものを流したり

簡単に言うと、いろんな情報を得たいと思っている
その情報過多というものが 人間に心の落ち着きを忘れ去ってしまう

我々は静かな心になって 自分とは何であるかを
常に考えていく人生を歩もうではないか

我々一人ひとりの心の中 宇宙の心の中がざわざわしているわけです
そのざわめきで水が氾濫していますね
情報で右往左往している心のありよう

アナ:
本来もっと発揮しなければいけない力があるとして
それが無くなっているとすればそれは何なんですか?

横山:
集中力と言っていいですね
1回限りではない 毎日毎日 1年、2年、3年と
自分とは何かを考えていく 追求していく それが念の力

そうすると心が静まってピタッと明鏡止水のように落ち着くわけです
そうすると本来の存在が見えてくる 心の中に現れてくる

そこに本来の自分 無我である 真実の自分と言い換えたい
そういう自分というものを、我々最終的に生きている間につかまなければいけない


「教行一如」

1.身体と心を結びつける
2.身心と真理真実を結びつける


アナ:
唯識はただ頭の中で考えていることではなくて
実践と結びついて初めて生きてくるという話がありました





横山:
これはヨークと言って牛車などの横木 牛と牛を結びつける横木

ヨーガというのは「結びつく」「結合する」という意味なんです

人間に例えるならば 分離された身体と心を結びつける
結合した新しい身心(しんじん)と最終的な真理真実が結合していく

その2段階があるわけなんです
ヨーガの実践 日本で一番手っ取り早いのは「座禅」 座るということ

アナ:
1回目にも 教義と結びついた実践、教えを VTR で紹介したんですけれども
その時に 座禅だけではなくて、呼吸がいかに大切かという話がありました
次のコーナーは小野文惠が 呼吸の実践についての レポートをしています


マインドフルネス 教室代表 北山さん@大阪摂津市




小野
前回、私が挑戦したのは 深い呼吸をするためのレッスン
呼吸を通して 心と体の橋渡しをする唯識の教えに基づくものでした

体感したのは 肋骨の間が広がるような息の仕方
ところが鍵になる骨が実はもう一つあったのです それは「仙骨」



(ジムでヨガをしていた時、よくここを意識してと言われたな→「ヨガ・ジムまとめ」カテゴリー参照


北山:
起点になるのは 吐いたり吸ったりする 呼吸の一つ一つの所に
まず仙骨 この三角の脊髄の最下部 骨盤の一部 ここから動き始める

(このネコのポーズ好きなんだけど、逆流性食道炎には向いてない




仙骨のある骨盤を起こすことをイメージする 骨盤を倒す 起こす
背骨の一番下にある仙骨 そこから背骨を呼吸と共に
鞭のようにしならせて動かす

(こんなにしなやかに 曲線が出ないんだよね




背骨を前後にしならせるように動かすには どこに意識を向けたら良いか 具体的に教わります

いつもお尻のところから背骨をしならせて呼吸をしているというイメージがある
肋骨も膨らみ、全体で三次元的に動く

骨盤、お腹にぐっと もっとぐっと下げて もっと下げて グッと上げて
このカーブが 分かりますか? 背骨が自分が思っていたより しなる感じ

深い呼吸ができるようになったら 体がリラックスして
心が解けてくるような そんな感じがしますよね

呼吸が浅くなっていると気がつけばいけないと思って
しっかり深い呼吸を取り戻すようになると
全体的にリラックスするから 心もゆったりとしてくる



「椅子で行う座禅」@円融寺




深い呼吸の仕方について教わった後に訪れたのは
横山さんが主催する 唯識の市民講座で取り組んでいる「椅子で行う座禅」に挑戦します

教えていただくのは 住職の阿純章さん
唯識ライブだけでなく自坊でも教えています

阿純章:
日常生活では椅子のほうが多いですから

座禅というのは「今 ここになりきる」ということなんですね

いつも頭というのは あっちこっち 過去のこと 未来のこと
色んな所に動いているものを

いま、自分の体と同じ所に 心も落ち着かせるということなので
それができれば 座禅って 立っていてもできますし
「歩行禅」もできます ご飯を食べながらでもできます


『心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門』(春秋社) その1

『心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門』(春秋社) その2

 


どういう形でもいいんです
自分の体を動かさないようにすると 一番集中しやすい リラックスしやすいので
あぐらのような形を使わなくても
いつでも十分同じようにできますので 今日はそのやり方を教えます





まず ご家庭にある椅子 何でもいいんですが
背もたれは使わないので 丸イスでもいいです
自分の体を感じるということが大切なので、なるべく頼らないほうがいいです

首筋を立てて、後頭部が天井から引っ張られているようにピンと立ててみます

その状態から 顎を軽く引いてみてください
目線をすっと下に移動します


おろした瞬間って何も見ていないですよね
何気なくふと見下ろした瞬間 流れに任せればいいです

目をつぶっていても 何か気になったら気になったままでもいいですので
その流れに任せましょう

次に、これが大切なんですが 呼吸を整えていきます
まず吐いていきます 吐ききったら今度は吸う

呼吸の長さは自分のペースで なるべくゆっくり 行なっていきます

小野:眠くなってきました

阿純章:
頭が前のほうにいくと、お仕事で疲れもあるので
首筋を立てて、顎を引いて 呼吸に意識を傾ける

呼吸をしていても どうしても思考が働くと
「私が呼吸をしている」「どこまで吸おうか」「どこまで頑張ろうか」など
脳みそが決めたがるんですが 呼吸に任せてください

「私」を取り除いて「呼吸が呼吸をしている」つもりでやってみてください
どこまで吸うか そのタイミングも決めなくて良いです

そうしているうちに雑念が湧いたり、眠くなったり、集中できない それが普通なんです
それが脳の働きなので それをネガティブに捉える必要はありませんが

なるべく「今 ここ」に意識を戻す一つのやり方として
数を数えるという方法があります 仏教の禅の言葉だと「数息観」と言うんですが

たとえば「ひとつ ふたつ」というふうに数えるのでしたらば
「一つ」でゆっくり吐いていきます

心の中で念じながら「一つ」でまたゆっくり吸っていきます
一応「十」まで数えたら また1に戻る
それを繰り返し繰り返し 行なっていきます

呼吸を整えていくと、だんだんと心が整ってくると思います

座禅で大切なことはまず 体を整える「調身」
そして次に呼吸を整える「調息」
そして一番大切なのは、心を整えるということです「調心」

「今 ここ」になりきるということですね

例えば、今、空調の音がミシミシという音がしたり、私の声もそうですし
椅子に座っている 体の感触 体の重さ いろんなことが起こっているのですが
その起こっていることと一つになるように

15分経過 鈴の音

すぐに座禅から出る必要はありません ゆっくりと意識を戻していきます
手を擦り合わせて少し温めてから 顔もさすって ゆっくり出るほうがいいと思います
顔つきが変わりましたね

小野:
あかりが さっきより明るい感じがする
人の話がよく聞こえてくるような感じがある

阿純章:
座禅をして終わった後、すっきりして 見えるもの全てが美しくなる
という感想を言ってくださる方が非常に多いです


小野:
同じことをしていてなんなんですけど
人の話を聞いているのが しんどいなという時があるんです

こうしてインタビューしたりすると、人の顔をじっと見ないといけないじゃないですか
見ていることをしんどいなと思ってしまうことがあるんですけど
座禅をやってみる前と後とでは、全然違って これは合ってるんでしょうか?

阿純章:
境界線が少しなくなってきたということですかね
「自分、自分」と思っているものがちょっと解けたような感じですかね

小野:
自分がそんなに人と隔てがあったとは思っていなかったんですけど
先ほど自己を観察してみましたけれども
本当によく気が散るんだ女だなと思いましたw

阿純章:
「気が散る女」というのは自分の頭の中で作っているだけですから それも妄想なんです
今、ここの小野さんてどういう人物ですかって言ったら 多分説明できないと思う

小野というお名前も ただの記号にしか過ぎませんし
職業も、今の自分の体には何も備わってないじゃないですか
体一つで呼吸して座ってるだけの話ですから
そこに小野さんという人物は存在しない 分かりますか?

小野:まあ肉体が一個あるだけですよね

阿純章:
ではその肉体が小野さんなんでしょうか?
心が自分かと言ったらどうでしょう?
自分の心は自分なんでしょうか?

小野:(首をかしげる)それを言われると そんなものはありませんね

阿純章:
それを仏教だと「無我」という言い方をするんですが
「我」があらゆる問題を引き起こす

無我と言うと 何もなくなくなって 消えてしまうということではなくて
「非我」 我に非ずということで考えれば、少し分かりやすいかと思います

自分だと思っている自分は自分じゃなかった
自分が持っている所有物もそうではなかった

本来、この世界の何もかもが誰のものでもない 何の境界線もない
そうすると、私とあなたという対立もなくなります 比較することもない


意見の相違があっても それはただ「幻の境界線」を引いているだけで
そこにこだわる必要もない ということにもなるので

そういう気持ち、感覚みたいなものを持っていたら ちょっと違うかもしれないですね
無我というのは幻なんだ 仮のものなんだということをどこかで思っていると
ちょっと生活にゆとりが 出てくるかもしれないです

小野:座禅の状態になるために 呼吸に意識を向けるのはどうしてなんですか?

阿純章:
体の中でコントロールできるものってありますか?
心臓を今日は止めてみよう 早く動かそうとかはできないですよね

でも呼吸だけは自分の体の中でコントロールできるんです
意識して変えようと思えば変えられる

自然に自立的にやっているものを、自分でコントロールできるようになるということは
全てのものに対して意識を向けることができる
ひとつのとっかかり 大きな窓口になるんです

体が勝手にやってることに意識を向ければ一緒にできる
それで心と体がバラバラだったものを 一つにする

その接着剤と言うか、パイプ役が呼吸
身体全体と心との間を取り持ってくれるのは 呼吸と考えたらどうでしょうか

小野:
仏教の世界のことが、こんなに即、普段の生活に役に立つ
周りが明るく見えるとか すっきりするとか 役に立つものなんですね

阿純章:
より日常生活にどんどん生かしてもらいたいなと思うんですが
仏教のせいでどうしても難しい哲学だったり、宗教だと思う方が多くて

特にいう唯識というのはお坊さんでもなかなか 気軽に触れることができない
哲学・教理というイメージがあって
でも本当言うという唯識というのは「実践行」なんです

「唯識瑜伽行派」

「今 ここ」になりきるという実践法を説いていて
いい教えがいっぱいあるわけなんです

ちょっと大胆な意見ですけれども、仏教そのものは宗教の枠から解放して
実生活の皆さんの生きる力の土台にしていただければ
本来の仏教の教えが活かされるのではないか そんなふうに私は思っているんです

小野:こんなにすっきり気持ちよくなれるんだったらやってみようと思います





アナ:今の映像をご覧になっていかがでしたか?

横山:
小野さんが座禅した後「すっきりした」「明るくなってきた」と言っていた

私も同じような体験を若い時にした
21の頃、悩んで悩んで、悩みあげて
円覚寺の居士林(臨済宗 鎌倉市にある在家の修業道場)ということで座禅を初めてしたんです

その時に僧侶が警策(けいさく)を持ちながら、私の前を歩かれて

「座禅はただぼーっと座るんじゃねーぞ
 地球の裏側のブラジルで、線香の灰がポトンと落ちたら驚くほど集中する
 そういう感じで座れ
」って言われたんです

集中することによって 地球の裏側まで包み込むような
そういう大きな心になれるんだと

僕はその時、座禅というのは すごい世界の中に入っていけるんだなということで
「よしやるぞ」と気を起こしたんです
「無になりきれ」 それを一週間ぐらい

座禅だけじゃないです
何をしても 草を抜いたり、歩く時も無になりきれとなりきったわけです 「作務」

一週間ぐらい生活しました
その後、横須賀線で東京に帰るとき、周りの風景が一変したわけです

美しく見え始めた 乗っている人がみんな笑っているような感じで
そういう体験がありました
それが大きな座禅の初体験でした 「座禅ってすごいな」と思った

風景は皆心の中の映像なんです
心が変われば、深層心理が変わる すると表層心理が変わる

同じ風景 以前に見た風景が変わって見えた
それがヨガとか座禅のすごい力だと思いました


八識「恒審思量」

アナ:
今回のテーマである 自分とは何者か ということに関して
唯識では自分、私というのをどう捉えているわけですか?

横山:「我々」「自分」ということについて四つのありようがあります




「四つの煩悩」
1.自分は何者かを知らない 我に対して愚かである
2.自分は存在すると考える 我見
3.自分が優れていると安心し、驕り高ぶる
4.自分は愛おしいと考える

この四つが自分についての心のありようではないかと考える
それは全て人の煩悩である 「4大煩悩」 わかりやすいですね



(これってどっかで読んだような気がする


横山:
一番上は「表層心」 黄色は五感覚ですね
そして「思考」「意識」 物事を言葉で考えていく心
下にあるのは 末那識と阿頼耶識

今問題としているのは「末那識」
自我執着心 唯識で捉えているというのは全てこの末那識

寝ても覚めても精進をする限り、生まれて死ぬまで 輪廻する間ずっと
この心が付属して働いている そういうことを言う

アナ:
ただ「末那識」というのは 深いところ「深層」にある心の働きで
文字通り、なかなか見えない
そのことに気づきにくいところもある
横山さんは具体的にどういう時気付くんですか?

横山:
最近はあまり緊張することはなくなったんですが
若い時なんか、人前で話す時、誰でも緊張しますよね
何百人、何十人の前で自分を意識しますね 今まで意識していなくても

若者に多いんですが、電車にお年寄りが乗ってきて
席を譲った時に恥ずかしい気持ちが起こり、いいことをしたんだということ心が起こり
周りの人が見てると思うので、出口のほうに歩いて行ったり そういうことを見かけますよね

ボランティアをやってる人は 色々心の中で葛藤があると思うんです
自分は人のためにいいことをしている

本当はもしかしたら 自分のためにやっているんじゃないかな
良いことをしているというその行為が自分に跳ね返ってきて
自分に誇りを持って そういうことはないこともないでしょ みんなあると思います

自分が何かいいことをしているんだという思いが心の中に残るんです どうしてもそれもやっぱり
末那識というものがあるという一つの証拠になるのだと思います

三つの表層的な心のありようから
深層には寝ても覚めても働いている7識がある ということが推測される
座禅やヨーガをすることによって、それをじかに掴まなければいけない

アナ:
「表層的な」というのは、つまり外側に現れて、それとわかることでしょう
人の心の動きみたいなことも全てそれは「末那識」と言われるものから出てるということですか?

横山:
これは見事な教義だと思います
心のメカニズムを解明していると言って良いと思います


アナ:
自分とは何者なのかということについてずっと伺ってきたんですけれども
つまるところ唯識では、それを端的に どういう言い方をしているわけですか?

横山:
本当の自分、真実の自分を知るために
それは一体何であるかということを最後に考えていかなければいけないと思います

例えば、夜、空に月が照っている
月の前に雲があると雲によって遮られますね
雲が晴れてくると、月が前面に出てきますね

同じように、我々の心も色んな雲みたいな障害によって乱れて、束縛されているわけです
その障害というものをどういう障害があるか ということを考えてみたらどうでしょうか


表層心と深層心




アナ:いろんなしがらみ その経緯をちょっと説明していただくと

横山:
簡単に言うと心の中の障害、束縛

それには何があるかと言うと表層心では「相縛」と言います
「あれは許せない」「あれが欲しい」という心のありように束縛されている

これが表層心「煩悩」に行って
その煩悩が深層心に種を植え付けるわけです

煩悩の「種子(しゅうじ)」によって束縛された深層心「阿頼耶識」を「そじゅうばく」と言います
それがまた 時間の経過を経て表層心に再び生まれる

「相縛」と「そじゅうばく」は相互に因果関係でぐるぐるぐるぐると展開している
どこかで断ち切らないと 永遠に巡回してしまいます
これが人間の心全体のメカニズムなんです

それが分かったらすごく怖いんです
ひとたび人を憎むと、ぐるぐるぐるぐる展開して、雪だるま式に憎い心が出始めてくる
それを遮断しなければいけない

アナ:唯識はそれをどこで遮断すべきと言っているわけですか?

横山:
この図から考えると、我々は表層心はコントロールできないから
深層心をコントロールすればいい
「相縛」をなくしていけばいい

「あれが欲しい」「これが欲しい」という欲望をなくし
「憎い」とか「嫌い」とかいう煩悩を無くしていけばいい

自分が実践して、心を浄化しようとする意識がなければ
誓願がなければいけない

アナ:
表層心を変えれば、一番深いところの心の働きも変わってくる
その大事さは分かるんですけれども
でもいかに断ち切るのか 突き詰めて考えると難しいですね

横山:
難しくないですよ

何をするんでも 自分と他者という思い
分ける心を「分別」、分けない心を「無分別」と言います

そういう心でもって生活を過ごしていくならば
だんだん末那識の働きが弱まる

執着があるからこそ現代の自他対立の関係なんです
家庭内の問題、社会問題、会社の問題、国々の争い・・・

全部そこまで通じている大きな問題を考える中で、一番大切なのは「自我執着心」
それを我々は どういうメカニズムで起こしてくるかというのを自分で気づく
それが必要になってくると思います


「菩薩行」




横山:
人間いかに生きていくべきか
何から⇒なぜ⇒そしていかに思考のプロセスがある

第一番は無我
次は縁起
結論として、人のために生きるべき「菩薩行」が展開してくるわけです

言葉を変えて言うならば菩薩として生きるという誓願

火をつけると暖かさと光が出ますね
光は智慧の象徴、暖かさは慈悲

この智慧と慈悲とを身につけよう
どんどん展開して 生きていくことを菩薩と言うんです

ろうそくが燃えている だんだんなくなっていく
それを僕は 今まで問題にしてきた

自我執着心に囚われた心身を燃やして生きる
それを人のために使い切っていこうじゃないか
それが菩薩として生きるという生き方である

唯識は難しいと言われますが 難しくしているのは人間なんです
教義的には難しいけれども、実践としては簡単なんです

エッセンスだけを我々がそこから学び
そのエッセンスの教義に従って生きていけば
必ずや真相がだんだん浄化されて
最後は阿頼耶識も浄化されていく そういうことなんです

その心のありようが「すっきり さっぱり 爽やか」にすればいいわけです
末那識と阿頼耶識に気づき、変革していく 変えていこう
そういう気持ちを起こしていただければ非常にありがたいと思います


第3回は唯識を体得する というテーマで話を伺います




唯識に生きる 第4回 深層からの健康@こころの時代~宗教・人生~アンコール


***

こうした座学もそうだけど お寺での教義を学ぶ機会が
もっと身近に広くあればいいな 自分もやってみたい


「読書感想メモリスト3」内「仏教」参照


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