メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

3.10 本土空襲全記録@NHKスペシャル

2019-03-10 15:38:25 | テレビ・動画配信
語り:ミムラ

観ながら宮崎駿さんの『風立ちぬ』『この世界の片隅に』を思い出した

なぜ、ここまで戦争は人の倫理観や道徳観を無感覚にできるものか

今のきな臭い時世
1人1人が実体験者の語り部の声を聴き
こうした映像を見返して、戦争とは一体どんなものか
憎しみの連鎖の果てに何があるか、改めて考える番組


【内容抜粋メモ】

戦争の実態を伝えるため、遺体の映像が流れます

72年前 私たち日本人は、空襲警報がなるたびにモグラのように地下に身を隠した
はるか上空を飛ぶB-29から降り注ぐ無数の爆弾

空襲の実態は、これまでそれぞれの町では語られてきた
しかし、その全体像となるとあまりに空襲の数は多く、明らかになっていない






今年、空襲の実態を示す映像がアメリカで新たに発掘された
アメリカ国立公文書館にも大量の映像や攻撃記録が眠っていた






「ガンカメラ」






178カットに及ぶ戦闘機から撮影されたガンカメラのフィルム
日本各地で撮影されたガンカメラの映像(家々がすごく近い




至近距離から攻撃される民家や港
子どもたちが学ぶ学校まで 攻撃されていた


「本土空襲マップ」
今回、新発見の映像や未公開資料など、空襲に関するあらゆる情報を集めた
爆撃や銃撃が行われた日時、場所、規模、そして被害

資料と映像を突き合わせて細かくデータ化した
それらをもとに「本土空襲マップ」を作成
これまで断片的にしかわからなかった空襲の全体像を描き出した

すると、空襲を受けた回数は、従来の見方よりはるかに多く
2000に上り、犠牲者はおよそ46万人に迫ることが分かってきた

さらに、当初は軍事施設に限られた空襲が
日米の熾烈な戦いの中で果てしなく拡大していく過程も明らかになった
日本人全てが標的になった


投下された焼夷弾は2040万発 撃ち込まれた銃弾850万発
データと映像から見えてきた凄まじい空襲の実像
日本を焼き尽くした本土空襲の全貌に迫った


超空の要塞 B-29




アメリカで開かれた 航空ショー@アメリカペンシルベニア州
第二次世界大戦中の米軍機が空を飛ぶ
注目の的は「長距離爆撃機B-29」

「今のアメリカがあるのは、彼らのおかげです」 大きな拍手

アメリカ軍による日本本土空襲の主力だった(みんなで内部を見に行く




第二次世界大戦中 4年の歳月と30億ドルの巨額の費用をかけて開発されたB-29
航続距離は従来の1.5倍 日本からハワイまでとほぼ同じ およそ6000キロにも及ぶ

このB-29が本格的な本土空襲を可能にした
機体の腹には、爆弾40発を搭載
焼夷弾なら一度に1000発を投下できた


2万ページを超える戦闘報告書や作戦計画書
今回発掘されたアメリカの日本空襲に関する機密文書
NHKは、これらの資料と記録映像をもとに
空襲の計画と、その結果を網羅した2種類の「本土空襲マップ」を作成した


「Japanese Target Data 攻撃目標リスト」




「本土空襲マップ攻撃計画」
本土空襲が始まる1年前 アメリカ軍が既に作成していた攻撃目標のリスト
神戸、呉など、標的は日本全国1000箇所を超えていた
兵器工場や飛行場、航空機産業




軍事関連の施設に限定して精密爆撃を行うことが当初の計画だった「戦闘報告書」
だが、実際に空襲を行った後の報告書は違った
爆弾を投下した日時と場所、被害の規模がそれぞれわかる


マリアナ諸島 サイパン




この計画のためにアメリカはある島を抑えようとしていた
今はビーチリゾートとして賑わう島 東京までは 2400 km

サイパンにB-29の基地を作れば、爆弾を積んでも日本まで往復できる
マリアナ諸島をめぐって日米の熾烈な戦いが始まる


戦闘機翼に取り付けられた記録用のガンカメラ
機銃を撃つと自動的に撮影が始まるこのカメラは、戦いを克明に映していた


【1944年2月 マリアナ諸島の戦い】
日本軍との空中戦 炎を上げて落ちていく戦闘機

当時アメリカは、太平洋で日本の勢力圏を次々と奪っていた
日本にとってマリアナ諸島は「本土防衛の要」 激戦となった
次々と落とされる爆弾の映像


【1944年7月 サイパン陥落】






当時島に住んでいた日本の民間人も巻き込まれ
日本側は合わせて5万人が犠牲になった
(バンザイクリフから女性が飛び降りる有名な映像

「次の目標は東京だ 戦い抜いて勝利を収めたら、全員でパーティーだ!」
兵士から歓声が起こる


しかしアメリカ側もこの攻防で3400人が戦死
日米互いに憎しみを募らせた




【1944年11月 本土空襲開始】

サイパンに100機を超えるB-29が集結した
最初の攻撃目標 東京の飛行機工場に向けて飛び立った


標的は「中島飛行機 武蔵製作所」






1000の攻撃計画からアメリカがまず目標に選んだのは、東京の飛行機工場
中島飛行機は、日本の主力戦闘機のメーカーで
ここではゼロ戦のエンジンを作っていた

その工場を狙った空襲の映像
ほとんどの爆弾が標的から外れ、工場の外に落ち、市民にも犠牲者が出た




工場から200mの延命寺という寺があった

住職の中里さん(当時8歳):
これは250キロ爆弾の破片
この爆弾が私の家の裏に落ちて人が次々亡くなった




その時初めて爆弾で亡くなった人を見ました
爆弾で土が口や目、耳とかにすごく入ってですね
こうやってバンザイして死んでましたね

毎日爆弾が落ちて空襲に来てますからね
だから一度も寝られない 逃げなきゃダメだから


B-29の命中率はわずか7%
この空襲を記録したアメリカ軍の機密文書が存在した
B-29 24機が爆弾231発を投下したが、その命中率はわずか7%
「満足できない結果」と記されている


東京の後、京都、愛知、兵庫の飛行機工場も爆撃
2ヶ月で13回の空襲が繰り返されていた
しかし これらの空襲に参加したB-29 31機のうち
当初の目標を爆撃できたのは半分に過ぎなかった それはなぜなのか?


B-29の搭乗員だったデイヴィッド・レマールさん(95)@ペンシルベニア州




本土空襲の作戦に22回加わった
軍需工場だけを狙って遥か上空から爆弾を当てることは至難の技だったと言う

レマールさん:
ターゲットは地図で把握していましたが
日本の上空は天候が不安定で、いつも嵐が吹き荒れていました
ですから高度を上げたり下げたりしていたんです

B-29は、日本軍の迎撃を避けるため1万mの高度を飛んだ
だがそこは風速100mの「ジェット気流」が吹き荒れ、厚い雲が視界を阻む空だった

アメリカ軍が計画した精密爆撃は行き詰っていた


●精密爆撃から「無差別爆撃」
アメリカ陸軍航空軍は、日本本土空襲の指揮官を更迭
第21爆撃機集団司令官カーチス・ルメイ少将を呼び寄せた




ルメイは、本土空襲の方針を精密爆撃から「無差別爆撃」へと大きく転換させました
軍需工場に当てるのが難しいなら、都市全体を住民もろとも標的にしようという作戦です
「民間の中には、小さな工場も入り混じっている」と無差別爆撃を正当化しました

ルメイ:日本人は薄っぺらい木造家屋が密集した町で暮らしている


「新型焼夷弾」






そこで、日本の二階建ての家屋を再現し「焼夷弾」による延焼実験を行った
ルメイは本土空襲用の兵器として新型の焼夷弾を採用しました

粘り気を加えたガソリンが充填されています
燃焼力を高め、消火しにくい工夫を凝らした新型焼夷弾
アメリカは実物大の日本の家屋を再現し、実験を繰り返しました


【1945年3月10日 東京大空襲】

焼夷弾を満載したB-29 325機が日本に向かう
新型焼夷弾32万7000発が住宅密集地にばらまかれました
この空襲で12万を超える人々が犠牲になったと見られています
紅蓮の炎がどんどんどんどん広がっていく

浅草で空襲に遭遇した柴田さん(当時13歳)
消防車がホースで水をかけても消えたもんじゃない
焼け焦げた死体が転がって 最初は何かなという感じでしたけれども
いくつかみると 人間が焼け死んだんだって

しかもね、焼夷弾による火だから、言ってみれば
空からガソリン撒いて火をつけられたようなものですから
ひどいもんだな この世の地獄って言うけれど、本当だなっていうね







暮らしを根こそぎ奪われた日本の市民の間に復讐を誓う声が高まりました




一方、ルメイは空襲の翌日こう宣言しました

ルメイ:
私は約束する
もし、ジャップがこの戦争を続ける気なら
奴らには全ての都市が完全に破壊される未来しか待っていない

ルメイによる無差別爆撃が実行に移された背景には何があったのか?


【1938~1943年 重慶爆撃】
重慶市民4000人 防空壕で窒息死








日本は、当時国民政府の「臨時首都」だった重慶を
長距離爆撃機で200回以上空襲
1万人以上が犠牲になりました

焼夷弾を使った攻撃で逃げ惑う生徒たちの映像

都市に継続的な無差別爆撃を行った史上初の例でした
「日本への爆撃は当然だ」とみる空気がアメリカにあったのです


他の大都市にも広がる無差別爆撃
東京大空襲の翌日から他の大都市にも無差別爆撃が次々と行われました
名古屋、大阪、神戸

192万発の焼夷弾による空襲で市街地が焦土と化しました
本土空襲による犠牲者は累計で14万人を超えました

アメリカ軍のB-29にも日本軍の応戦で損害が出ていました
マリアナの基地に戻ったB-29には無数の銃弾の跡
戻らない機体も数多くありました




プロパガンダ
B-29の撃墜を日本が宣伝する映像です
「醜翼撃墜」の大きな文字






空襲開始から4ヶ月でアメリカ軍が失ったB-29は105機
搭乗員の死者行方不明者は864人
捕虜になるものも多くいました


「アメリカ側の宣伝映画」
捕虜になったアメリカ兵の残虐な仕打ちを国民にアピールしました








「皆さん 今日はジャップを殺しましたか?」

映画『1984』のようだ


攻撃対象は地方の軍事都市へ広がった(4月~6月にかけて)




軍港のある呉や、飛行場のある鹿屋など地方の軍事都市である
空襲が拡大した背景には硫黄島があった


硫黄島




アメリカは、日本からこの島を奪い、最新鋭の戦闘機を配備しようとしていた
戦闘機は、航続距離が短く、サイパンからは日本を攻撃できない
硫黄島に基地があれば、そこから出撃し、B-29を護衛して
ともに日本を空襲することができる

硫黄島を巡る争奪戦は熾烈なものとなった

海岸に築かれた日本の陣地を攻撃する様子がガンカメラに記録されていた
アメリカの上陸部隊は島に一気に押し寄せた


【1カ月後 アメリカは硫黄島を占領】
アメリカ国旗を立てる映像
そこにB-29の護衛を専門とする部隊が配備された


B-29護衛部隊 第7戦闘機集団
最新鋭の「P-51戦闘機」100機以上が本土空襲に加わることになった






元P-51パイロット ジェリーさん(93)@アメリカフロリダ州
この車はまるでP-51戦闘機に乗ってるみたいなんですよ




愛車のナンバーはP-51硫黄
4ヶ月にわたって日本への空襲に加わった

(誇りに思っているんだな


ジェリーさん:
(飛行機の映像を見ながら)これは私の部隊です

零戦がB-29を攻撃しようとしていました
その零戦を私は背後へ回って撃ちました
パイロットはパラシュートで脱出し
そのまま私の目の前まで飛んできて一瞬目が合いました




零戦がいなくなったのでB-29は爆撃を始めました
日本人が焼け死んだところで、彼らは所詮人間ではなく敵
それが戦争なのです


硫黄島では7000人近い仲間のアメリカ兵が殺されました
私は仲間の死体のにおいを毎日嗅いでいたんです

敵陣の真っ只中に突っ込んで日本人を殺すんだという殺意が
私の胸にあったことは確かです


P-51部隊が護衛についたことで、日本は急激に制空権を失っていった
このことが本土空襲を地方の軍事都市にまで拡大させた

P-51部隊の他に新たな任務が与えられた
ガンカメラの映像の分析からそれが詳細に見えてきた

第7戦闘機集団 史料研究家 マーク・スティーベンスさん
日本の戦闘機が迎撃してこなくなったので、B-29の護衛は不要になりました
そこでP-51に与えられた新たな任務 それは地上への攻撃でした

その標的は飛行場に並ぶ軍用機や燃料庫
超低空から肉眼で見ながら攻撃し、日本の戦闘力を徹底的に奪っていった


低空からの攻撃がいかに有効だったか
日本の研究者たちの映像解析でもわかってきた

「ガンカメラ映像解析チーム」




上空からの空襲を避けるため、迷彩を施した軍事施設も
低空からの攻撃には無力だった

「かなり細かく迷彩を施してるな 低空からしたら目立つ バレバレだな」

こちらはアメリカ軍を撹乱するための偽物の戦闘機
(そんなものまで作ってたんだ あんなにたくさん




最初はつられて銃撃したものの、すぐに見破られた

「こういう風に機体が綺麗に並んでますけれども
 よく見ると、下に本来は車輪があるけど 車輪じゃなくつっかい棒なんですよね
 だからダミーってよく分かります」


6月中旬までにB-29の爆撃と戦闘機の低空からの銃撃で
主だった飛行場や軍事都市は軒並み破壊された
本土空襲開始からの犠牲者は18万人を超えた

アメリカ軍は攻撃の手を緩めず、空襲の範囲をさらに広げていきました
これまで標的となったおよそ40の都市に加え
北海道、岡山、静岡、長岡など地方の中小都市182まで拡大していました




もはや大都市には破壊すべき標的がなくなり
空襲とは無縁だった街も次々と攻撃されるようになりました
攻撃された場所の数はひと月で160箇所にのぼりました


【1945年7月 鉄道関連施設が狙われる】
ガンカメラが捉えた鉄道への機銃照射 場所は奈良県王寺駅

鈴木知英子さん(当時13歳)
突然、空襲警報が出た
キャーキャー泣きわめきながら列車から降りて
それこそみんな 押し合いへし合い 泣きわめきながらいきましたね

低空からの激しい銃撃で鈴木さんは背中を撃たれました
近くの自宅まで這って逃げたものの、そこでまた撃たれて倒れました





知英子さん:
銃弾はこんな小さなものですよ こんな小さなものが体中をボロボロにする
これが40年間わからんと体の中に持ってたから
鉛毒で体がボロボロになるまで分からなかった

今も体には銃弾を受けた跡が残っています




なんでそんな 笑いながら 撃ってくるの 顔も見えてるし

私の邪推かもしれないけれども、その時間は勤労奉仕に行く
女学生やら中学生がいっぱい
王子駅から乗るとわかってて狙ったのかもと話したりするんですよ、友だちと


なぜ学生が乗る列車が狙われたのか?


「臨機目標」
まさにその日の攻撃の報告書が見つかりました
列車を銃撃し破壊したことが記録されています
ところが当初の攻撃目標を見ると「大阪の飛行場」と書かれています

実はこの頃、日本の飛行場に戦闘機は少なくなっていました
パイロットは自らの判断で目標を変更して撃ってよいとされていました

これは「臨機目標」と呼ばれました
このことが攻撃対象をさらに拡大させていたのです


ジェリーさん:
機銃掃射のターゲットは、地上で動くもの全てでした
日本にあるもの全てのものが臨機目標だったんです

そこに人がいようといまいと関係ありません
私は飛行機から敵を撃ちまくることに夢中になっていたんです




北海道から九州まで全国各地で繰り返された鉄道への攻撃
毛細血管のように全国に広がり、日本を支えてきた輸送網が断ち切られていきました
鉄道への空襲で2111人が犠牲になりました




動くもの全てが標的になった
日本軍の潜水艦
青函連絡船
機帆船木造の輸送船
乗用車
阻塞気球(米軍機を妨害する気球
馬まで!


空襲の40%以上が九州に集中「オリンピック作戦」






終戦直前、もう一つ大きな動きが浮かび上がった
この時期P-51を始め、アメリカ陸軍 航空軍による
空襲の40%以上が九州に集中していた それはなぜなのか?

その背景を示す文書があった 「オリンピック作戦」
九州から本土上陸を果たそうとする作戦をアメリカ軍は進めていたのだ

鹿児島と宮崎の海岸から上陸し、九州南部を攻略
そこを拠点にB-29で関東を空襲し、日本を降伏に追い込む計画だった

日本軍はこの作戦を事前に察知
各地から部隊を送り込み、九州の守りを強化した
かき集めた兵力は60万人に上った

本土空襲をめぐる憎しみの連鎖は九州の地で
後戻りできない最悪の事態へとエスカレートしていく


●上陸を阻もうと日本が準備した「特攻作戦」
鹿児島県吹上浜 アメリカ軍の上陸予定地の一つ
各地から動員されてきた部隊は、海岸で奇妙な訓練を開始した

中山重雄さん(当時8歳)は、その光景が目に焼き付いている
それは、爆弾を抱えて戦車に飛び込む「特攻」の訓練だった




重雄さん:
しっかり抱いて、3mくらいこうやって走る
こういう格好(地面に這いつくばり)で
2人同時にハリボテの戦車のキャタピラーの下に飛び込む

精鋭の兵隊さんじゃないですよね
40歳に近いのかな うちの親父くらいの人が

ああいうことして戦車が止められるのかなと思いました
もうそれより他に方法はなかったのかな

(聞けば聞くほど馬鹿馬鹿しい 作戦もなにもあったものじゃない
 上の人たちは、それなりの教育を受けてきたにも関わらず
 なぜここまで愚かになれたものか


海軍航空隊 串良基地跡
鹿児島の地下深くに築かれた特攻作戦の中心基地
特攻は、目標に体当たりする時、ここにモールス信号を送り続けた
信号が途絶えることは、パイロットの死を意味していた








大本営が策定した「決号作戦」
本土上陸を狙うアメリカ軍に、全兵力をあげたところで打撃を与えようとする作戦だった
決号作戦に備えて様々な特攻兵器が開発され九州に配備された
「人間魚雷」など九州南部だけで40箇所の特攻基地が建設された






アメリカ軍はすでにフィリピンや沖縄の戦いで特攻による大きな被害を受けていた
命を捨てた体当たりを「神風」と呼び、日本に対する恐怖心を強めた
当時のアメリカの雑誌記事:神風は20世紀の人類の仕業とは思えない不気味な兵器だ
(戦争の兵器は全て不気味だ

特攻機が軍艦をめがけて落ちていく有名な映像




ジェリーさん:
日本は何をするか分からない
その恐怖が膨らむにつれ、アメリカ軍の日本への攻撃は激しさを増していった

出撃する1時間前、軍曹にいつも興奮剤を渡されました
なんとか気分を高揚させようと飲み込みました(興奮剤って麻薬じゃなくて?

一度死を意識してしまったら戦闘機に乗ることなどできなくなります
恐怖に勝たないと敵に撃ち落とされてしまうんです
とにかく日本人を殺す それが任務でした


標的になった学校
一部の校舎に「決号作戦」を準備する兵士たちが駐屯していた(なぜ学校?!
多くの子どもたちが犠牲になった




兄・久保富喜夫さん(当時11歳)、妹・サダ子さん(当時9歳)
(映像を見ながら)わー すごいやね 農芸学校の運動場
ほら 農芸学校やられた 2回もやられた
あの辺が我が家




学校のすぐそばで空襲に遭い、逃げ込んだ防空壕 そこを爆弾が直撃した
久保さんの4歳の弟と1歳の妹が亡くなった




富喜夫さん:
弟は「天皇陛下万歳!」と言って
そのまま♪鉄砲を担いだ兵隊さん と歌いながら亡くなった
水が欲しい 欲しいと言っていた

仏壇に手を合わせる二人
「水を飲め がぶがぶ 欲しいと言ってただろ」

九州の的になった子どもたち
激化する戦闘は、子どもたちの間にも「敵と戦う」という気持ちを高めさせた


「義勇兵役法」
国は最終決戦に向けて全国民を戦闘に総動員する「義勇兵役法」を制定
小中学生の年齢でも、志願すれば戦闘に加われるようになった


(貴族院議長公爵って誰? この法案を出した人のご子息はどこにいたの?





少年:先生 僕たちはきっと米英をやっつけます!
先生:みんなもしっかりやれよ
生徒:はい!


関屋文夫さん(当時14歳)宮崎市
学校で繰り返しアメリカ軍への攻撃方法を学んだ
敵がそこに上陸してきた場合には
そこに人間が来た場合には、君たちは構えて
そして敵の急所を目指して突けと言われまして 何回も練習させられました
「一人一殺」で練習しろと教えられました
(機関銃に対して槍竹って・・・




子どもも大人も軍人も民間人も、いつのまにか果てしない殺し合いの中にいた






【1945年7月 アメリカ陸軍航空軍報告書(アメリカ軍の機密文書)】




民間人とは、いかなる軍の組織にも属さないものである
この定義によれば「日本に民間人はいない」
全てのものが国防に動員され、あらゆる男、女、子どもが軍隊の一員となっている
従って、日本の全人口は我々の正式な軍事目標となるのだ


【8月6日、9日 広島と長崎に原子爆弾投下】
2機のB-29から落とされた原子爆弾 21万を越す命が奪われた




日本の降伏は目前だった しかし本土空襲は止まなかった
終戦の前日 東京大空襲の場合、779機のB-29が出撃した








(今、もし日本を壊滅させようとするならば
 核爆弾を撃つよりも、全国各地にある原発を狙ったほうが早い


【8月15日 日本降伏】
1年にわたる空襲の結果66の都市は焦土となった
本土空襲の犠牲者の数は少なくとも45万9000人


ジェリーさんは戦後38年経って日本を訪れた
その時ふとしたことで心が動いた

ジェリーさん:
街で子どもがピースサインをしてきた時、戦争とは全く違う気持ちになりました
自分が攻撃した場所には人間がいたということを、その時初めて理解したんです

ビルの谷間から空を見上げてみると
B-29が私に爆弾を落とすのが見えるような気がしました
なぜだか打ちのめされるように心が痛みました


語り部の活動を続ける鈴木さん




駅で体に銃弾を受けた鈴木さんは、戦後、
戦争の悲惨さを伝えるために語り部の活動を続けている

鈴木さん:
これ ガンカメラって言ってね こんなもんでね 撮られていた
撃たれていただけでも腹が立つのに
撃ちながら写真を撮っていたと思ったら 腹立ちますよ

そやけどおばちゃん撃ってた、撮ってたその人は恨んだらあかんと思ってる
この人も撃ちたくなかった
こんな小さい子を殺したくなかったんよ

おばちゃんが一番言いたいのは、命は一つ
戦争になったらこの命を取り合いする 命がなくなる
そんなことをね しっかりと覚えといてほしいと思うんです



【関連番組ほか】

天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相@歴史秘話ヒストリア

『母と子でみる1 東京大空襲』早乙女勝元/編 草の根出版会

731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~@NHKスペシャル




なぜ 悲劇は生まれたのか 写真家・船尾修 旧満州の旅@BS1スペシャル






なぜ日本は焼き尽くされたのか@BS1スペシャル






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