部長室だより

部長室から日々の様子をお伝えいたします。

夏越の頃

2012-06-30 11:59:14 | 日記

 6月30日は、1年の後半を心新たに迎える為の神事で夏越という。昔の日本は会計
年度は6月・12月の2期決算でした。外国でも12月・6月決算である。9月始業・6月
終業で7・8月の酷暑の中は休暇で、学校も同様でした。しかし、日本の明治政府は
国家意識からか、和洋を足して2で割った、9月・3月の2期決算とした。その結果、
4月始業、3月終業という世界では通用しない不便な習慣を生み出してしまった。
 近年、大学の始業を9月にするという動きが出てきている。私たちは、1学期の途
中ではあるが、気持の上で1年の折り返しとして前半を振り返り、7月に臨んでみて
も良いかもしれないですね。

※切り替えの日といえば、1635年の今日、徳川3代将軍家光が参勤交代を制度化した
 と言われています。当時の諸大名は、国元と江戸を一年おきに行ったり来たりと
 大変でした。お金もかかったのでさぞかし気が重かったと思います。ご苦労様!

【雑草とさげすまれ、臭いと嫌われている「どくだみ」の可憐な花】
 ~白い十字架に似ている~


歌の贈り物

2012-06-29 08:10:26 | 日記

 本日は、中等部において一学期最大の行事「合唱コンクール」が市の文化会館で
行われます。約1か月にわたりクラスの絆を確かめ合いながら、朝・昼・放課後の
短い時間を利用して練習したきた成果を披露する日です。
 6月29日という日は、日本人作曲家の至宝と言われる「滝廉太郎」が1903年に亡
くなった日となっています。23歳という若さでした。日本人の心に残る名曲を残して
くれた天才とも言えます。
 彼は、1879年に東京の芝で生まれ、父の転勤に伴い1890年に大分県に転居し、翌年
12月から竹田の官舎に移り住んだという。竹田での生活は2年4か月に及び、山紫水明
の土地で多感な少年時代を送り、四季折々の豊かな自然の中で音楽の天分を伸ばした。
その後上京し、東京音楽学校に学び首席で卒業した後、同校の教師に着任した。3年間
のドイツ留学へ出発前の1901年、「中学唱歌」を出版しその中に収められていた名曲が
『荒城の月』であった。
 名曲は時代を超えて、私たちの心に感動を呼びこむ。本日の合唱コンクールの課題曲
3年『旅立ちの日に』、2年『翼をください』、1年『朝の風に』はそれぞれ名曲のひとつ
でしょう。中等部の合唱コンクールを初めて体験するにあたって、ふと私の心に一つの
メロディーが流れてきた。・・・バリーマニロウの『歌の贈り物』のメロディーが・・・

【学年別合唱コンクールリハーサルの風景~小中体育館2階にて~】








国際交流について

2012-06-28 08:16:00 | 日記

 作新学院は、近年アメリカだけではなくアジアの国々とも国際交流が盛んになって
きています。5月には台湾の南寧中学が来校し、6月には中国の北京第四中学が来校し
ました。7月には小学部に、北京の復興門外第一小学校が来校予定です。
 本日6月28日は貿易記念日となっています。1963年に制定されましたが、その由来は
江戸時代末期である1859年のこの日に、徳川幕府が300余年にわたる鎖国政策から脱却
して、米国・英国・ロシア・オランダ・フランスの5カ国との友好通商条約に基づいて
横浜・長崎・神戸・函館の4港において、自由貿易がスタートしました。これを記念し
て、日付を太陽暦に換算したこの日を貿易記念日に制定したといわれています。
 我が国日本は、あらゆる分野で自給自足が難しい状況のもとに、諸外国との貿易によ
って、経済が成り立っていることを改めて再認識する日にしてはいかがでしょうか。

 ※ちなみに本日は「悪天候の日」とも言われ、年間を通じて最も天気が悪い日なのだ
  そうです。テルテル坊主でも・・・・・。でも実際は晴天ですね。

【幕末・開港当時の横浜の風景絵画】



【幕末の国際貿易港である長崎の風景】


人生の目標になる人

2012-06-27 08:20:43 | 日記

 本日6月27日は、自ら重度の障害を追いながら各国の障害者教育、平和活動に貢献
した世界的偉人ヘレン・ケラーが1880年に生まれた日である。彼女は生後19か月の時、
突然熱病に襲われ、視覚と聴覚を失う。6歳の時、ボストン盲学校パーキンズ学園卒業
のアン・サリバンと出会い、指話法や読唇法などを熱心に学び、名門ラドクリフ大学
に進学する。講義内容を手に綴ってもらう方法で、4年間でギリシア語、ラテン語、ド
イツ語、フランス語を完全にマスターし、優等で卒業した。
 彼女は、何故このように努力を継続することができたのだろうか。それは、目標と
する人物がいたからと言われている。その人とは、日本の江戸時代である1746年に現在
の埼玉県に生まれた国学者である塙保己一であった。彼は7歳の時に病気により視力を
失ったが、その後苦労しながらも学問で身を立て、国文学・国史を主とした666冊にわた
る一大叢書『群書類従』の編纂を成し遂げた。
 ヘレン・ケラーは、1937年4月26日に来日した際、講演で次のように語っている。
「私は幼い時、母から、『日本には幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、
 努力して立派な学者になった塙保己一先生という方がいました。あなたの人生の目標
 になる人ですよ』と聞き、苦しい時、辛い時もくじけず努力することができたのです」
 
 私は、目標となる人物がいるといないとでは、努力するときに気合いが違ってくること
を、ヘレン・ケラーは教えてくれていると思います。彼女が尊敬した人物が日本人であっ
たという事実を知り、改めて日本人としての誇りを噛みしめています。

《ヘレン・ケラーが残した名言》

○『不幸のどん底にあっても、この世には自分にできることがあると信じましょう』
○『誰かの苦しみを和らげてあげられるかぎり、人生は無駄とはならない。』
○『人生で最も胸が高鳴るのは、他人のために生きる時である。』

【ヘレン・ケラーの年代別写真】









【塙保己一と群書類従】