人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

目を覚ませi、反省しろi

2022-02-19 10:08:47 | スピリチュアル?
私はこれまで、ここでスピリチュアルなことについての決めつけた表現、例えば、死後の世界、前世とか生まれ変わりというものは有るとか無いとか、何年後かに何が起こるとか、ということはほとんどしてきませんでした。
それは分からないから...分かりきったことですi これは、"そんなもん無い!"、と否定も出来ないということですが、決めつけた言い方には否定的なのです。
実際にその有る無しを確かめたことの無い大多数の人間は、確かめようの無い、他人の言説を鵜呑みにして、又よせばいいのに、右から左へ、その不確かな話を流したりしてるのです。
宗教、スピ界隈にはかくも思考が停止した事態、それにとどまらない倒錯した信仰が後を絶ちません。
そこには内省というものがみられず、それがリアルな神的なもの、霊なるものを"見えなくさせてしまっている"のです。
彼らは神や霊的な存在、そうした世界について語ります。しかし、その実はそうしたもののことなど、これっぽちも求めていないのではなかろうか?
そして、"完全覚醒するのだ"、とか夢みたいなことを語ります。それも、自分が信じ込んでいる誰かさんの教えの受け売りからでしょう。
要するに人の言葉を信じているだけなのです。ということは、どこまでも自分の思いがその対象に向けて馳せてゆき、どんどん強化されてゆくばかりなのです。
もし、真実にそれが神的な、霊なるものに意識が向けられるならば、そうした思念から離れ、超えられてゆくのが普通でしょう。
そして、本当にそうしたものと直接関わるならば、考えても分からないものが有るか無いか、ということなどどうでもよくなるでしょう。
分かりきったことですi...考え、想像しているだけでは絶対に分からない、愛、平安、リアリティに与るからです。
"完全覚醒"する(誰が?)というもの自体、想像して言っているのが伝わるものですが、頭の中が空想で一杯のままで、どうして神、霊なるものの現存を受け入れることなど出来ようかi?
覚醒というのなら、いい加減に目を覚ませi、反省しろi
彼らは反省することが出来ない...だから立ち止まることが出来ない...無反省な事態はおそらく、それが自壊するまでやまないでしょう...。
いや、反省だけならサルでも出来る(古いi)...反省というより内省が出来ないのです。だから言葉のオウム返しを繰り返すだけなのです。
反省とか内省というものの内実は、これまでほとんど語られることはなかったようです。
それは、他人の受け売りでなく、自分の頭で考える、ということではあるのですが、そこには自分の思いを超えた、より深いところから来る叡知に与る、という意味合いも含まれているはずなのです。
まあ、自分の頭で考えすぎると、又別の問題も起こったりするのですが、彼らの哲学的欲求に駆り立てるものは、それに与ることにあるのでしょう。
理由は、そこに愛、平安...(この場合は特に)リアリティがあるから...分かりきったことですi
反省しろi、ったって、それが悪いと決めつけてる訳じゃないですよi
だけど、人の本来的幸福を覆い隠すことなど、誰にも許されることじゃありませんよi
...って、私の見えない相棒も言っています...。
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努力は報われないか?

2022-02-17 11:41:17 | 雑感
色々なことがあって、ほとんど見てないのですが、北京オリンピック冬季大会、男子フィギュア羽生選手、惜しかったですね。
「努力は報われない」とか洩らしていたそうな...
ああいう頂点に立ってる(何回も報われてない?)人の気持ちなど知る由もないですが、私は基本的に報われない努力というものは無い、と思っているのです。(丹念にこのブログを読んでおられる方は、"ええっi"と思われるかもしれませんが...)
これは"報い"というものの取り方にもよります。
金メダルを獲得する(銀や銅じゃダメなのか?)、いやメダルを獲得する(入賞じゃダメなのか?)、いやいや五輪に参加する...と、目指す目標に到達する、要するに成功することが報いと結び付くのであれば、それはごく少数の人間以外は報われない、と言わねばなりません。
だけど、何で多くの努力を払ってまでその道を目指そうとするのでしょう?...言うまでもなく、それに惹かれるから、そうしたい、好きだからでしょう?...それに熱心に打ち込むことで幸せに感じるんじゃないでしょうか?
でなきゃアタシャ、アホらしくてやってらんないですよ!..."やりますよi...だったらカネをくれi"、ですよi...あったり前でしょうi...いや、いくら金をつまれてもやりたくないものはやらんi、でしょう。
これ、イヤでもガマンして日夜励まなければならない、労働者渡世のことを言っているのですが(ボランティアの場合は、勿論その気があればやります、ってことです)、この場合はモロ、報酬が報いということになります。
しかし、幸福は金では買えないですね。それに与るのに私は努力を惜しみませんi...私がそうしたいから努力をするのです。そうでないものは努力ではない、使役というものではないでしょうか?...だから労働者渡世の努力とその報いというものには微妙なものがあります。
そのように、自分がやりたいことに打ち込むことは幸せなことです。努力はもう報われているではありませんか?
イヤイヤながらやる努力なら、後々に何かの肥やしにはなるかもしれませんが、多く報われないでしょう。そういうことに"もっと努力しろi"、と向けるのは筋が違うんじゃないですか?
努力は主体的に関わるものと言えるでしょう。それには、寝食を忘れても厭わない...ただ、そういうのを努力とは感じないだけです。
それが例えば、"パッと意識を向ければ、パッと何かが開かれる"、なーんてことにでもなれば...
"そんなことに努力なんてもん、ある訳ないだろーっi"
って、出たよi...だけど、ここでは多く触れていないだけで、一朝一夕でそんなことになった訳でもないのも事実なのです。"あったりめーだろi"
血の滲むようなものとは程遠いにせよ、それ相応の努力というものはして来たようではあるのです。(しかし、やっぱり修行というものには縁がなかったですねえ...でも、これだけは言えるし、分かってもらえると思う...沢山、本を読んで来ましたi...色々異なる宗教、精神的グループに関わって来ましたi...これが相応の...?)
何で他人行儀なのかというと、努力をして来た、という自覚が無いからでしょう?
私には、与えられた、与った、と感じていることの方がずっと大きいのです。
好きなことに打ち込むって、楽しい、幸せi...私の努力ならぬ努力は、既に報われているものとと共にあったのです。
これ、ほとんど成功欲、出世欲の無い、私だから感じていることなのでしょうか?
しかし、努力の先にあるものばかりに囚われていたら、今していることの幸せを見失ってしまうかもしれません。
今?...何もしていなくても、いやブログ書いているだけで幸せですとも...。
コメント (1)
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つながる

2022-02-15 11:50:26 | 求道、探究
宗教やスピ関連には数多の教えがありますが、私は例えばノンデュアリティなどで説かれる、"人は元々悟っているんです、元々神なんです..."などと説かれているものほど、その受け取り方次第でギマンとなるものはない、と思っています。
それでしたら、私はあまり縁がなかったですが、彼らがしばしば揶揄しているような、厳しい修行に勤しんでいる方にずっと尊いものを感じます。
そういう言説に接して一度もリアリティを感じたことはありません。言い換えると現実に意識がそういう方にほとんど向かわない、ということです。
微妙な言い回しの違いですが、"神はあなたの内に居るんです"、というように説かれるものは別です。"おおっ...意識が私の内部に向かう感じがして来た~っi"...むしろ"あなたは神の中に居るのです"、という方がもっとリアルに感じるかもしれません。
これは、ここに所与のまま、考えている私のままが"私は悟っている"、などとは感じられない、という当たり前のことを言っているのです。
内なる神だろうと、天にまします神だろうと、考えている私には分かりません。
それは、そう思う、信じ込むということだけで、自分の観念世界から一歩も出ない、ということなのです。
そういう精神の有り様である限り、それは、一コの自分の世界だけに意識が閉じられている状態であり、どこまでも自我意識から抜け出せない、ということです。(そして、"私が神だi"と思わせるものが何か、ということはよ~く分かりますともi...)
と、こういう言い方が出来るということは、意識が開かれる、自我を超えたものがある、ということが既に示されてあるのです。
自覚する、しないに関わらず、何人もこういう意識がある方に向いてしまう、開かれてゆくという感じは経験があるのではありませんか?
そして、この開かれた、超えられた状態にこそ、自己のリアリティ、実存というものが求められるのでしょう。
それは、言うまでもなく、そう在らしめるものがあり、そこに開かれるということであり、このことが"私は神の中に、神は私の中に..."、ということにつながるのです。
つながったi..."私はここに在る"...それは神なのか、霊なるものか、ある種の関係体か...一コの私だけからは、私は私でなくなる...そのものとのつながりあってこその私ではないかi
"オギャア"、と生まれた赤ちゃんがひたすら何かを求めるように泣き叫ぶのは、つながりを求めているのではないでしょうか?
このつながりに目覚めることが、あるいは悟りというものなのかもしれません。
これを抜きにした悟りなどというものは、自我に閉ざされたままの、その飽くなき増長というものでしかないでしょう。
だから先の教えにギマン性を感じてならないのです。私はああいう言説に多く見られるように、何故このもっとも肝心なことがなおざりにされているのかが、不思議でならないのです。
悟るとか神とつながる、と思いたい、信じたいのなら、思うだけでなく、祈ったらいいでしょう。
五井先生が「思いを祈りに昇華させる」としばしば言っておられたように。
"神なんか居ない、私が神だ"、と信じたい人は、きっとつながりを失ってしまうでしょう。
祈ることは、広く、深い意味でつながることに他ならないでしょう。
それは言葉にならない心の奥からの叫びのようなものでしょうか?
生まれ赤子のように...
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最初で最後の祈り

2022-02-14 09:52:08 | 祈りと瞑想
私は特定のメソッド、やり方というものは身に付かなかった、と何度も言っていますが、どっかでそういうものは方便だと思っていたからだと思います。
時、所、人によって変わるものは取り替えが効くものです。そして、本当の方便というものは、そうでないもの、その内実というものがそこに内包されているものでしょう。
内実となるものこそは、身に付くもの、身に覚えられるものと言えるでしょう。そうなれば方便からは自ずと離れてしまうものです。
そういう私でも祈りというものには親しんでいたのですが、五井先生の「世界平和の祈り」などは、集まりなどではやらされる訳で、結構親しんだものの、やはり身に付いたとは言えません。
しかし、その五井先生がどっかで言っていたのか、求道初期の頃から"みこころのままに為さしめたまえ..."、という趣旨の祈りには惹かされるものがあって、言葉に出さずとも祈って、というか祈らされていたようなのです。
こういう祈りというのは、先のはキリスト教ではお馴染みのものだし、言葉は違えど、どの宗教にもあるものです。我が国の神道では"かむながらたまちはへませ"となります。
出口聖師などは、「これを称へるものは、最後は救われる...」と述べられています。
こういう祈りがどういう"みこころ"を伝えているのかに思いを致せば...もう即座にあの御方の臨在をひしひしと感じてしまうではありませんかi
これほど普遍的で、根本的な祈りというものは無いでしょう。
まず、祈りは願い事ではない、ということが伝わる。こっちの願い、思いを神に聞いてもらうんじゃありません。神のみこころのままに...ということは...。
これは、全託へこちらを宣り出す、投げ出す、ということを表しているのです。
そして、いよいよ思考も為すことも神にお返しして、全託の道が開かれるならば...こちらには、正に"みこころのままに為さしめたまえ"という意識しか無くなってしまうでしょう。私のすべてがそうならざるを得なくなります。
もう、そこには何をどう祈るなんてものは無い、言葉も形も無い、身に付くなんてどころでもありません。
最初は、そのように祈ってみよう、というところから始まるのでしょうが、最初から"みこころのままに"、という心持ちがそこにつながるという線は既に引かれてあるのです。
そういうことを漠然と思うだけ、信じるだけだったらそれだけのこと...形だけの祈りもそれだけのこと...
だけど、神のみこころのままに、ということには、そんな中途半端な思いは入る余地はありません。といって力む必要もありません。"おまかせ"、ということは...
"神につながるにはどうしたらいいのか?"、なーんて訊かれても、それは、あなたの神のみこころ次第なんだから、アタシャ知りゃしませんよi
でも、何かの方便のつもりでこういうことを言うかもしれません。
それを方便ととるかどうかはあなた次第ですi
ある人はたとえ方便だと思っても、何だかそれでは済まないような"オソロシイもの"を感じてやろうとしないかもしれません。お話の段階で、どっかへ居なくなったりして(笑)
又ある人は理屈を超えてそれに赴くかもしれません。その人はきっと方便だとは思っていないでしょう。
どっち道、いい加減な気持ちではそこに赴くことは出来ないでしょう。"私が神なんだから祈るのは方便だ"、とか考えている私が居るか、神のみ前にあるか、どっちかしかないという道には...。
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素直は無敵

2022-02-13 06:18:58 | 詩的文章
素...主、糸と書いて...
素のまま
直に
素に直る
素のままで主につながる...

どうしたら神につながるかって?
祈ったらいいんだi
どう祈ったらいいって?
こう...
へえ...手を合わせて、頭を垂れて
祈ってしまうんだi...
アッケにとられるようにも...
何も言うことはないよi
何をどう祈るでなしに...そのまんまじゃないかi
こっちも"すーっ"、となってしまったよi
もう、負けたよi
何て素直なんだi
可愛い...
可愛い、素直は最高の徳
無敵...
そんなに幸せそうに祈るんだ...
素のままに...
どうしたらそんなに素直になれるの?
分からない?
分かったようなことは何もない...
素直なんだなあi
可愛い、素直は無敵...
敵わないi
無的なんだから...





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