人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人格、真我、世界

2016-11-20 10:54:40 | 哲学・思想
「人格は、それが普遍的内容を以て自己を充たすことによって、自己を実現する」(ベルジャーエフ)

ベルジャーエフが随所で語っている人格というものは、通常思われているものとは随分異なるものです。
私はいつも彼が一体どうしてこの我々(所謂我々の人格のことです)の内奥に実存する、このあるものを指して人格などと皮相的に理解されるような言葉で言い表したのか、と思ってしまいます。
その辺の事情は、所謂人格などより、いや他の何ものにもまして我々に近く、真ッ中心にあり、真っ先に知らねばならないものであるにも関わらず、我々にはずっとベールがかかっており、知られることが無かった、という逆説によって理解出来るかもしれません。人格とは千古の謎なのです。
所謂人格などは、例えば非二元論などのインド哲学では、全く不問にされて空無の中に溶解されてしまうものでしかないでしょう。
しかしベルジャーエフはその著「孤独と愛と社会」の中で、「インドの宗教哲学においては、真の人格論は見出せない」としながらも、アートマン(真我とされるもの)については、「自我の深み、人格の核心にあたる」ものであり、あるいはそれを「人格論となるように解釈することが出来るかもしれない」と仄めかしています。
果たしてこの人格と真我とはいかなる関係が有るのでしょうか?
インドの導師ラマナ・マハルシは専ら個的自己は勿論、客観的世界すらも自体実在しているものでは無くて、真我のみが実在している、と説き、世界で叫ばれている諸々の危機的状況についても、”世界のことは神が面倒を見るだろう…あなたは世界のことよりあなた自身を知るべきだ…真我に目覚めなさい…”の一点張りのようです。(この真我、アートマンはラマナにあって梵我一如説のようにブラーマンとの一致に導かれるものではありますが、尚も真我を強調するところに微妙な響きが伝わってきます)
この真我の実現というのは、全く普遍性とつながるとされる世界とは没交渉の、自己の内面への追及ばかりを意味していたのでしょうか?
それは客観世界とは関わりを持たず、主観的とされる世界にばかり自己を深めて行く道なのでしょうか?…ある面ではそうでしょう。ただこの主観的とされる観方というのは、客観的世界から対語のように言い慣わされてきた観方に過ぎません。
”客観ー主観”正にこれは慣用表現なのです。ここからは我々自身の実相も、世界とされているものの実相も見出すことが出来ないでしょう…。
ラマナに限らず、インドの精神的伝統では、エマソンの”オーヴァーソウル”やベルジャーエフの”ソボールノスチ”に対応するような精神の内奥に息づく超個的というか、個的にして普遍的な共同体的理念についてはほとんど語られることがありません。
ここで精神的共同性と言っているもの…それは個々の連繋の重なり合いのようなもの(コミュニティ)を想起するものではあっても、私という主体から離れてしまうものでは有りません。私はその共同的全体の部分的構成にあるのではなく、共同体的なものそのものでもあるのです。
これは”彼らが言う”客観的世界には見出され得ないものなのです。
そして人々はあたかもそこに普遍性というものが広がっているかのように感じていますが、実際はどうなのでしょうか?
何処までも幻想に過ぎない、実体の無い蜃気楼を追いかけまわし、かえって見える世界をいよいよ混迷と不調和に陥れて行くばかりではないでしょうか?だが、この夢想は我々の精神の内奥からもたらされているのです。そこでは私も普遍的共同性も主体なのです。
ここにおいては”客観ー主観”という観方は意味を成しません。彼らの所謂客観世界は止揚されて、私とあなたの主体的世界がものを言うのです。
こう言っても私はこの見える世界が幻想である、と決めつけるつもりはありません。如何に幻想性に満ちたものではあっても…
仮想的なものには必ず、その原像が映し出されている筈であり、幻想というものは、実相の開顕を予想するものなのです。見える世界に見えない世界が応現するのです。
自己実現、真我の実現…それは普遍的共同性から切り離されたの実現のみを意味するものなのでしょうか?
否、私はそこに決定的な分離状態しか見い出すことは出来ません! 全体から切り離された一コの部品に過ぎない私に一体何が実現するというのだろう…
普遍的世界と切り離せないものこそが、私の全てなのです!
真我の実現とは、この全ての自己の実現のことであろう…
ラマナは言う”真我の実現こそはこの世界に計り知れない恩恵をもたらす…”と…
彼は語れざる自己と世界に横たわる神秘の連繋について仄めかしているのでしょう。
自己の実現と普遍世界の実現は一つのものなのです。そしてそれは自己と自己を超えたものとの共同によって実現するでしょう…。

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普遍世界の夢

2016-11-19 11:50:20 | 哲学・思想
ここ、数十年間で爆発的に進化し、普及したものと言えば、OA機器、およびそれに伴うIT関連のものである、という事に異論ある人はいないと思われます。
私が前からずっと漠然と感じていることは、このキカイを媒介にして進行している現代社会の大きな流れというものは、何ものをも介さない我々自身の未来の有り様を先取りしたもので、やがてどっかでこの複雑に入り組んだ主客の転倒現象も入れ替わる時が有るだろう、というものです。
現在我々は、より高度で住みやすい社会をこれらのキカイに託したものの、悪しき衝動をはらんだ自由意志という、有史以前から造物主にとって真に好ましくない遺伝子が誤って”子たち”に植え込まれたか、キカイが勝手に突発的に進化、増幅し出して翻弄されている有様のようです。
このITを駆使した世界的なグローバル化の動きというものが、しばしば陰謀論のネタとして、取り上げられているのですが、ほとんどの陰謀論者というのは、その情報をネットで仕入れ、これまたネットで色々話を盛って発信しているのです。これ、昔から新聞、テレビを見、Hな事などを考えながら”3S政策はヤバイ!”と言っている向きと同じく、私がナンセンスこの上ないものと感じている事です。
私とて、こういう事をさせてもらっている以上、この恩恵には計り知れないものを感じている次第です。
この世界的規模のグローバル化の動きというものには、陰謀論者が夢想しているようなアリ塚を思わせる、権力によって統制された管理社会など、機械化された人間世界(これはある程度実現化しているか…)というものが映し出されています。
この恐るべき転倒をどう食い止めたらいいのか…しかし、私にはこの動きというものにある種の必然性を感じているのです。
何ものかが企図したのか、我々の集合意識の反映でか、この動きの淵源には人種、民族、宗教を超えた垣根の無い世界…普遍的世界…こうしたヴィジョンの実現というものがあったことでしょう。
そして…この普遍世界への希求は我々一人一人の内奥から来るのです。
私は一人一人…と言っているのであって、一般人とか国際人とか国民とか何教の信者とかいった、その他大勢のことを言っているのではありません!
政党の演説とか宗教のプロバガンダなど、”明るく住みよい社会の未来を約束します”とか”この教えは宇宙最高神のお告げです。これを信じれば宇宙の真理を体得出来ます”とか、その言説には如何にも流通普遍を思わせる煌びやかな言葉で溢れています。
だが…その普遍的なものを謳っているような言葉の裏に有るのは、全くそれとは似つかない相対の極限かと思われる、自分たち、仮想の天国の住人たち本位の独善的かつ誇大妄想的なものに過ぎません。凝り固まった思念に憑りつかれた人間には、如何なる垣根の超越も普遍性も意味をなさないのです。それらが超克されない限り、彼らに普遍世界は開かれないのです。
彼らが推進してやまないものは、自派の目差す天国の実現へ向けて、そのイデオロギーを周囲に拡散し、勢力を拡大していく事に有るのです。
彼らの目指す普遍世界というのは、どこまでも実現、達成、建設されねばならないものです。そして、これが過熱してくるといよいよテロをも辞さない様相を呈してきます。
彼らが見ている理想の普遍世界は虚像に過ぎないのです。それは如何なる実現化に向けての建設的努力によっても実現できません。
こうした試みは数多ある我々の歴史が証明しているところであり、そのあくなき破壊的衝動は現代世界を脅威に貶めているのはご存知の通りです。
だが我々の歴史は、我々の内面の神秘については知らなかった…
普遍世界は我々の本源において既に与えられているのです! それはまた、一人一人の人格の内奥と切り離されたものでは無いのです。
この個的なものと普遍的なものとの分かち難き互換性については、もどかしくも言い表す術が見つかりません。
我々のこの客観的現実で語られる普遍性というものは、この他の誰でも無いあなたや私の普遍性から分裂した、それ自体内実性を欠いたものばかりだったのです。
あなたがあなたであることと、私が私であることに一体どんな障壁が存在するでしょうか…
果たしてこの私の普遍世界というものは実現するのでしょうか?…それは取りも直さず、それがまさにこの見える現実に目の当たりにする、ということに他なりません。私には希求してやまないものが有る! これは一人一人の内奥から染み出てくる音信なのでしょう…それが過去幾多の人に蜃気楼の如く映し出されて、悲劇的な試みへと導かれていくのでしょう。
だが我々はもはや”やり主”たり得ません!
それは、それ自体が一にして普遍的なものの自己実現に依るのでしょう…。

















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随所が主となる

2016-11-17 10:42:38 | 求道、探究
「随所に主となれば、立つところ皆真なり」

この臨済禅師の言葉は、企業の訓示などでもしばしば取り上げられていて有名ですが、目の前の事物を自分と分けて対象化することなく、そのものになり切るなど、主体的に処していく、という意味だそうですね。
しか―し…ひねくれ者の私はそんな通り一遍のことを書く気などありません。
使徒パウロは、かく言う「万物は主によって存在し、私たちも主によって存在している」(コリント書)
この主とはもちろんキリスト・イエスを指している訳ですが、私はよくぞ聖書の訳者は、この”Lord”に主という訳語を与えてくれたものだ、とつくづく感嘆させられます。
主とは…抽象概念でない、あなた自身の主とは?…あなたの生きる主体とは?
私はここに、本当の自分が何だかわからなくて、アチコチ探究してたり、置かれた事物を目の前に懸命に「そのものになるんだ、無念無想だーッ…」と自分からなり切ることに余念のない有り様(自力の探究)でも無く、上から(エライ人など)言われるままにただ教えを信じ込み、自分以外の超越した存在とされるものにひたすら縋っていくという有り様(他力信仰)でも無い、第三?(これは巷でほとんど認知されてないのです!)の主なる道を提げたい気持ちに駆られてくるのです。
私はいくらこの問題だらけの有機体を客観的に見つめようとしても、自分自身の主体を見つけることが出来ませんでした。
唯一の救い主(とされる)イエスはじめ、何らかの信仰対象は、既に特定の宗教信仰というものが破綻してしまったので、到底受け入れることなど出来ません。
だが…こうした手探りの探究、信仰の真似事を通していつの間にか芽生えてきたのです。”ジンジン”とあるものが…
ある書物に読み入っていて、内側からあるいは上から身が震えるような共感を呼ぶ時、祈りや瞑想が深ーくなって、自分と周りとの境目がボヤけてきて、しばし至福にあった時…いつもこのものに包まれていたのです。
主体…確かに他の何物にも置き換えられないこの人生の真っ中心のもの…それはこのチッポケな自分には、帰せられないものです。と同時にそれはどこまでも私そのものでもあります! それは上よりの力であり、内側から抗し難く突き上げてきて、全身全霊に及ぶものです。
小池先生は晩年「私の祈りは”主様!”の一言で足りてしまう…」とよく言われていましたが、全くそれは我が主に違いありません!
誤魔化してはいけません! それ自体、主体となるにはおぼつかず、問題だらけの思われたままの自己、自我にとって真我、神我的なものこそ主であるのです。
”我が一切である”…私自身と一枚のものです。
私はこの語るに微妙にして自明なる契機によって、このままの自分が悟ったり、神そのものになってしまうような誘惑、眩惑からも、自分の外に超越者を信じ仰ぎ続ける依存的信仰からも自由でいられたのです。
主体性を欠いた人生ほど不毛な、不幸な事は無いです…本当に身が頷いている訳でも無いのに、大衆、世間に迎合したり、ちっとも気が進まないのに、ナア、ナアから歩まされてしまった生き方…有るとも無いとも分からないようなものへの妄想信仰…これらはますます”心ここに非ず”という事態に堕ってしまうことになるでしょう…
主と共にある時、精神を集中せずとも、自ずと心はここに帰ってきます。我らの主は現実に臨むものだから…
そしてあなた自身ばかりか、あなたの観る世界,歴史にも光が当てられて来ます。
随所に主となれるのは、そうあらしめる主あってのものなのです。
随所に…というか随所主となるのです。











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迷いを超えて

2016-11-15 17:19:07 | スピリチュアル?
「私が若かった頃、伝統的に尊いとされる教会の教義を振りかざして、私を悩ませていた立派な人につい、こう言ってしまったことがある。
”私が完全に自分の内面に従っていれば、伝統とされる神聖など、私に何の関わりが有るでしょう”
すると、その人は言った。
”しかしあなたのそうした衝動は、上から来るものでなくて、下から来るものかもしれないですね…”
私は答えた。
”私にはそうは思いません。しかしともかく、もしも私が悪魔の子なら悪魔の子として生きるまでです”」(R・W・エマソン)

なまじっか宗教とかスピなどに関わると、余計な知識を背負いこんで、先入観に捉われてしまい、本来精神が自由でなければならないはずのものが、かえって不自由をかこつハメになってしまうものです。
その中に、サタンとか悪霊とか憑依霊など自分が見た訳でも、感じた訳でも無いのに信じ込んでしまう向きが有ります。
守護霊とか聖霊とか所謂高級霊よりも熱心に信じてたりします。
墓場とか病院などにはそういうのがウヨウヨとか…こういう人というのは、”ジンジン”とした感じよりも、”ザワザワ”とした感じに馴染んでいるらしいです。
悩み多き普通の人よりも、トラワレを背負いこんでいるのに、当人は特定の教えで約束されていることを信じているのか、救われたつもりになっているようです。ま、どう信じようと、どう感じようと人それぞれですが、私はあらゆるトラワレから自由にならないと、”救われた”とは思えてきません。
ここで所謂”悪い霊”について私の感じていることによると、これは人間の思念に付きもの、”憑き物”である…思念と共にあり、思念がその素材?になっている、というように思われてくるのです。
思念が凝って、それが我々の有機体から独立して、あたかも霊的生き物のように感じられる、VR的なあるもの(この理由でそれは現実に存在するのか、生命体なのかどうかは決めかねるものです)のことでしょう。従ってそれらの住む世界?であり、同じようにある種の信仰者が勝手に空想して捉われている地獄というものも思念から生まれたものだ、と言えるでしょう。
こういう信仰に捉われている人は、中々上よりの力に捉われてしまう事がありません。
大体、上よりの力とか見えざる導師というものが、得体の知れないモノに思えて信頼出来ないでしょう。それとも自分のような悪い、罪な人間(内心こう思っている人が多い)に高級霊などがかかるハズ無いと思いますか?
自分を信じなければ本当は何も信じられなくなるのです。
他所から何かの霊がかかってくるという事自体が捉われた固定観念なので、私はそういう人にはこの種の話はあまりしないようにしているのですが、まずは迷いの霊よりも守護の神霊、ガイダンスと親しむことが先決なのです!…こっちは一概に思念から云々、という事は言えず、自ずと思念を超えたものに意識が向かうものだと思います。
どちらにせよ、”引き寄せの法則”に照らせば、自分にあるものが寄ってくるのだから、結局自分の在り方、心の持ち方の問題ってことになりませんか? その方が有るのかどうか分からないものに捉われるよりもずっと自由になりはしませんか?
諸々のトラワレから自由でなければ、恩寵の契機は開かれません。
又、それが臨んだ時、本当の自由を実感することが出来ます。それは上への、自己への信頼から生まれるのです。
そうでなければ、いつまでも”善霊か悪霊か、高級か低級か、信じなければならない信仰か自由への飛翔か…このまま迷い続けるか迷いを超えたハタラキに全託するか…精々気が済むまで(なるべく下を見ずに天を仰いで)思案されたらいいです…そのうち世界が終わってしまうかもしれませんが…
どうせ生きてても浮世は迷いばかりです。思いっきり迷いに飛び込むまでです。”地獄も一定住処で可なり”、”ドエライ悪魔との心中も可なり”ということです。もはや迷いは無い!…


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神の都合、人の都合

2016-11-14 16:53:42 | 
宗教やスピなどには、ご存じのように悟りとか覚醒という事がついてまいります。
お金払って信仰とか修行とか勉強会などに関わるのは、そのためですよね。
関わる人たちはホントに悟りとかを求めているんでしょうか?
漠然といつかはそういう事も有る、という風に感じているだけなのでしょうか?
そういう人は、今ここにそれが臨むという現実的な視点が欠けているのでしょう。
あるいは他人に煽られて、何となく従っているのでしょうか?
宗教、スピ界隈には、”悟るのは今デショ!”(ちと古いか…)などと上記したような空気を巧みに利用して、高額の悟りコースなどに誘導しようとする向きもありますので、要注意です。
教師たちによってはこのように煽るような事を言ったり、逆にこんなこともしばしば言われたりします。
”悟ろうとか、目覚めようとか、神秘体験したいとかいった欲望を捨てなければなりません”とか…
全く、おっしゃる通りだと思います。
より高いレベルの悟り、究極の悟り…ワンネス…どこまでも自分がそうした境地に達したい、という限りなき自我の肥大と隣り合わせの危うさ…
又、悟りに至るとされる数多の瞑想法、メソッド…”こうすれば必ず悟れます!”などと煽ってはいますが、私は寡聞にしてそうして”悟りました”と言う話は聞きません。
仮に居たとしても、どうして同じやり方で修行しているのに、大多数の人にはそういうものに預かれないのでしょうか?
ここには最も肝心な事がおざなりにされているのです。
そもそもの悟り、魂の目覚めの根底的なもの…このものなくしては起こり得ないもの…このものは、あなたの内奥にあるものを通じて、どうされようとしているのか…そして、あなたはそれにどう答えようとしているのか…この事を等閑にされて、例えば”悟ろうという欲望を捨てなければならない”などと他を通じ、または自分で決めつけたとしても、それが上よりの促しから来るものだとしたら…内から押し出してくるものを断ち切れるものでしょうか?
そして、このもの自身からくる促しの前に、一体人為的なやり方、メソッドが一体何になるでしょうか?
数多の信仰…何の宗教、何の神への信仰でしょうか?
このものから離れた全ての信仰、修行そして悟りというものさえも、それ自体中身が抜け落ちてしまうのです。
一歩一歩修行して何時しか悟るとか、何の神を、教えを信じるとか、どういうやり方がいいとか、複式呼吸が出来たとか、何分、何時間坐らなければならないとか…これは全く銘々の都合のことを言っているに過ぎないのです。
上よりの都合?が無ければ何一つ始まらない、というのに…
”そんな事言っても、天には声無しなんだから身もフタも無い”という方も居られるかも知れませんが、そういう人は祈ること、祈り心というものに馴染んでいないのだと思います。
声は聞こえずとも、祈りなどを通じて、自ずと惹きつけて止まないものが芽生えてくる事が有ります。
これは本当に上よりの促しなのか、と訝る事も有るでしょうが、どこまでもどこまでも止まないものに、それが出てくるものに合わせ、あろうとするものに合わせる…これはそうしようとしなくても、そうなる人は誰に教わろうとしなくても、理屈抜きにそうなってしまうものです。
それは、自ら目指す悟りの境地などといった自分の都合などより、神的なものと共にあることに自ずと親しんでしまうのです。自ずとそちらに意識が向いてしまうのです。
神は自分の奥にある意志を無視しては、意識に切り込んで来ません。
しかし、”まだ自分にはその時が来ていない”といった自分の都合など聞いちゃくれません! 天国の門は開く時に開くし、閉じる時に閉じます。
祈りを通して、神的なものと共にあることで、神の都合(御心)と人の都合が合わされるのでしょう…。
それは神的なものへの信頼と自己信頼が一つのものであるという事なのでしょう。










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