「人格は、それが普遍的内容を以て自己を充たすことによって、自己を実現する」(ベルジャーエフ)
ベルジャーエフが随所で語っている人格というものは、通常思われているものとは随分異なるものです。
私はいつも彼が一体どうしてこの我々(所謂我々の人格のことです)の内奥に実存する、このあるものを指して人格などと皮相的に理解されるような言葉で言い表したのか、と思ってしまいます。
その辺の事情は、所謂人格などより、いや他の何ものにもまして我々に近く、真ッ中心にあり、真っ先に知らねばならないものであるにも関わらず、我々にはずっとベールがかかっており、知られることが無かった、という逆説によって理解出来るかもしれません。人格とは千古の謎なのです。
所謂人格などは、例えば非二元論などのインド哲学では、全く不問にされて空無の中に溶解されてしまうものでしかないでしょう。
しかしベルジャーエフはその著「孤独と愛と社会」の中で、「インドの宗教哲学においては、真の人格論は見出せない」としながらも、アートマン(真我とされるもの)については、「自我の深み、人格の核心にあたる」ものであり、あるいはそれを「人格論となるように解釈することが出来るかもしれない」と仄めかしています。
果たしてこの人格と真我とはいかなる関係が有るのでしょうか?
インドの導師ラマナ・マハルシは専ら個的自己は勿論、客観的世界すらも自体実在しているものでは無くて、真我のみが実在している、と説き、世界で叫ばれている諸々の危機的状況についても、”世界のことは神が面倒を見るだろう…あなたは世界のことよりあなた自身を知るべきだ…真我に目覚めなさい…”の一点張りのようです。(この真我、アートマンはラマナにあって梵我一如説のようにブラーマンとの一致に導かれるものではありますが、尚も真我を強調するところに微妙な響きが伝わってきます)
この真我の実現というのは、全く普遍性とつながるとされる世界とは没交渉の、自己の内面への追及ばかりを意味していたのでしょうか?
それは客観世界とは関わりを持たず、主観的とされる世界にばかり自己を深めて行く道なのでしょうか?…ある面ではそうでしょう。ただこの主観的とされる観方というのは、客観的世界から対語のように言い慣わされてきた観方に過ぎません。
”客観ー主観”正にこれは慣用表現なのです。ここからは我々自身の実相も、世界とされているものの実相も見出すことが出来ないでしょう…。
ラマナに限らず、インドの精神的伝統では、エマソンの”オーヴァーソウル”やベルジャーエフの”ソボールノスチ”に対応するような精神の内奥に息づく超個的というか、個的にして普遍的な共同体的理念についてはほとんど語られることがありません。
ここで精神的共同性と言っているもの…それは個々の連繋の重なり合いのようなもの(コミュニティ)を想起するものではあっても、私という主体から離れてしまうものでは有りません。私はその共同的全体の部分的構成にあるのではなく、共同体的なものそのものでもあるのです。
これは”彼らが言う”客観的世界には見出され得ないものなのです。
そして人々はあたかもそこに普遍性というものが広がっているかのように感じていますが、実際はどうなのでしょうか?
何処までも幻想に過ぎない、実体の無い蜃気楼を追いかけまわし、かえって見える世界をいよいよ混迷と不調和に陥れて行くばかりではないでしょうか?だが、この夢想は我々の精神の内奥からもたらされているのです。そこでは私も普遍的共同性も主体なのです。
ここにおいては”客観ー主観”という観方は意味を成しません。彼らの所謂客観世界は止揚されて、私とあなたの主体的世界がものを言うのです。
こう言っても私はこの見える世界が幻想である、と決めつけるつもりはありません。如何に幻想性に満ちたものではあっても…
仮想的なものには必ず、その原像が映し出されている筈であり、幻想というものは、実相の開顕を予想するものなのです。見える世界に見えない世界が応現するのです。
自己実現、真我の実現…それは普遍的共同性から切り離された私の実現のみを意味するものなのでしょうか?
否、私はそこに決定的な分離状態しか見い出すことは出来ません! 全体から切り離された一コの部品に過ぎない私に一体何が実現するというのだろう…
普遍的世界と切り離せないものこそが、私の全てなのです!
真我の実現とは、この全ての自己の実現のことであろう…
ラマナは言う”真我の実現こそはこの世界に計り知れない恩恵をもたらす…”と…
彼は語れざる自己と世界に横たわる神秘の連繋について仄めかしているのでしょう。
自己の実現と普遍世界の実現は一つのものなのです。そしてそれは自己と自己を超えたものとの共同によって実現するでしょう…。
ベルジャーエフが随所で語っている人格というものは、通常思われているものとは随分異なるものです。
私はいつも彼が一体どうしてこの我々(所謂我々の人格のことです)の内奥に実存する、このあるものを指して人格などと皮相的に理解されるような言葉で言い表したのか、と思ってしまいます。
その辺の事情は、所謂人格などより、いや他の何ものにもまして我々に近く、真ッ中心にあり、真っ先に知らねばならないものであるにも関わらず、我々にはずっとベールがかかっており、知られることが無かった、という逆説によって理解出来るかもしれません。人格とは千古の謎なのです。
所謂人格などは、例えば非二元論などのインド哲学では、全く不問にされて空無の中に溶解されてしまうものでしかないでしょう。
しかしベルジャーエフはその著「孤独と愛と社会」の中で、「インドの宗教哲学においては、真の人格論は見出せない」としながらも、アートマン(真我とされるもの)については、「自我の深み、人格の核心にあたる」ものであり、あるいはそれを「人格論となるように解釈することが出来るかもしれない」と仄めかしています。
果たしてこの人格と真我とはいかなる関係が有るのでしょうか?
インドの導師ラマナ・マハルシは専ら個的自己は勿論、客観的世界すらも自体実在しているものでは無くて、真我のみが実在している、と説き、世界で叫ばれている諸々の危機的状況についても、”世界のことは神が面倒を見るだろう…あなたは世界のことよりあなた自身を知るべきだ…真我に目覚めなさい…”の一点張りのようです。(この真我、アートマンはラマナにあって梵我一如説のようにブラーマンとの一致に導かれるものではありますが、尚も真我を強調するところに微妙な響きが伝わってきます)
この真我の実現というのは、全く普遍性とつながるとされる世界とは没交渉の、自己の内面への追及ばかりを意味していたのでしょうか?
それは客観世界とは関わりを持たず、主観的とされる世界にばかり自己を深めて行く道なのでしょうか?…ある面ではそうでしょう。ただこの主観的とされる観方というのは、客観的世界から対語のように言い慣わされてきた観方に過ぎません。
”客観ー主観”正にこれは慣用表現なのです。ここからは我々自身の実相も、世界とされているものの実相も見出すことが出来ないでしょう…。
ラマナに限らず、インドの精神的伝統では、エマソンの”オーヴァーソウル”やベルジャーエフの”ソボールノスチ”に対応するような精神の内奥に息づく超個的というか、個的にして普遍的な共同体的理念についてはほとんど語られることがありません。
ここで精神的共同性と言っているもの…それは個々の連繋の重なり合いのようなもの(コミュニティ)を想起するものではあっても、私という主体から離れてしまうものでは有りません。私はその共同的全体の部分的構成にあるのではなく、共同体的なものそのものでもあるのです。
これは”彼らが言う”客観的世界には見出され得ないものなのです。
そして人々はあたかもそこに普遍性というものが広がっているかのように感じていますが、実際はどうなのでしょうか?
何処までも幻想に過ぎない、実体の無い蜃気楼を追いかけまわし、かえって見える世界をいよいよ混迷と不調和に陥れて行くばかりではないでしょうか?だが、この夢想は我々の精神の内奥からもたらされているのです。そこでは私も普遍的共同性も主体なのです。
ここにおいては”客観ー主観”という観方は意味を成しません。彼らの所謂客観世界は止揚されて、私とあなたの主体的世界がものを言うのです。
こう言っても私はこの見える世界が幻想である、と決めつけるつもりはありません。如何に幻想性に満ちたものではあっても…
仮想的なものには必ず、その原像が映し出されている筈であり、幻想というものは、実相の開顕を予想するものなのです。見える世界に見えない世界が応現するのです。
自己実現、真我の実現…それは普遍的共同性から切り離された私の実現のみを意味するものなのでしょうか?
否、私はそこに決定的な分離状態しか見い出すことは出来ません! 全体から切り離された一コの部品に過ぎない私に一体何が実現するというのだろう…
普遍的世界と切り離せないものこそが、私の全てなのです!
真我の実現とは、この全ての自己の実現のことであろう…
ラマナは言う”真我の実現こそはこの世界に計り知れない恩恵をもたらす…”と…
彼は語れざる自己と世界に横たわる神秘の連繋について仄めかしているのでしょう。
自己の実現と普遍世界の実現は一つのものなのです。そしてそれは自己と自己を超えたものとの共同によって実現するでしょう…。