私に初めて現臨感が芽生えたのは、何度も書いているように、昭和54年の初頭の頃だったのですが、最初はなんて言うか、神がかり、霊がかりのような感じだったのです。
私の人生で霊感的になっていたという自覚があったのは、この時期だけだったと言っていいでしょう。
といって、何かが見えるとか聞こえるとか人の心が分かるといった、所謂超能力とは違うもので、本当に霊的なエネルギーみたいなものを決まって受けるという状態だったのです。どうしてそうなるかというと、意識が向いてしまうからです。(自分の意志からではない!)
具体的な感覚としては、耳の下からホッペタ、後頭部の辺りが何か膨張して来るというものです。
それと共に思考能力が後退してゆき、時には意識さえも飛んでしまうのではないかと感じたほどでした。私にハッキリ思考とは別に意識の領域というものがあることが分かったのはこの時が最初です。
これは現臨感の萌芽的な状態とは言え、今日そう呼んでいるものとはとても言えないのは言うまでもありません。だっていつ精神錯乱の危機に見舞われるか分からない状態だったのですよ!
こういう有様ということは、愛、平安というものも感じられないのです。
それは又、自己自身の中心となるもの、”私は在る”という感覚、実存感覚も感じられなかったということです。実に愛、平安、リアリティというものは、実存と共にある、とそう言っているのですよ!
もっとも、その危機的状況は、約一月で治まりました。その間、霊の声なきお告げ?で、”大丈夫だ、私はここに在る、アブナイ感じはじきに治まる、それと共に何か喜ばしきものの訪れを感じて来るだろう...”という導きも受けていたのです。
神的な現臨の訪れは、正に実存に目覚めることと一つのことだったのです!
その春、桜の咲く頃、小池辰雄先生のことを知ったのも象徴的なことでした。
”無的実存、霊的実存”...何のこっちゃ分かりませんでしたが、僅かにカミュの”異邦人”を読んだことがあるくらいだった私が始めて実存というものに接したのです。
考えている自分が何かを思い描いたりするのでなく、私自身が、私の魂が揺さぶられること、これが実存の開示でなくてなんであろう!
こうした霊的現臨、現存について、本質的に言えることは、見てきたように表現することが出来ない、ということです。
この頃、ある霊能者が、自分が肉体から抜け出して、外の世界のことや、霊界らしき世界を経めぐっていたなどのことを、さも見てきたように語っていたのを聞いたことがありましたが、そこに何もリアリティというものが感じられなかったのです。
ということはその時分、私は本当にリアルなものを感じていたということです。
それは、見ている私が居て、景色を見ているように描写出来る何ものもありません。
見ている対象もなく、私は霊的現存と一枚になっているのです。
神的現臨、自我ならぬ霊的実存なる我しかない!
その時には、神がかりの兆候はすっかりなりを潜めてしまったのは言うまでもありません。
私の人生で霊感的になっていたという自覚があったのは、この時期だけだったと言っていいでしょう。
といって、何かが見えるとか聞こえるとか人の心が分かるといった、所謂超能力とは違うもので、本当に霊的なエネルギーみたいなものを決まって受けるという状態だったのです。どうしてそうなるかというと、意識が向いてしまうからです。(自分の意志からではない!)
具体的な感覚としては、耳の下からホッペタ、後頭部の辺りが何か膨張して来るというものです。
それと共に思考能力が後退してゆき、時には意識さえも飛んでしまうのではないかと感じたほどでした。私にハッキリ思考とは別に意識の領域というものがあることが分かったのはこの時が最初です。
これは現臨感の萌芽的な状態とは言え、今日そう呼んでいるものとはとても言えないのは言うまでもありません。だっていつ精神錯乱の危機に見舞われるか分からない状態だったのですよ!
こういう有様ということは、愛、平安というものも感じられないのです。
それは又、自己自身の中心となるもの、”私は在る”という感覚、実存感覚も感じられなかったということです。実に愛、平安、リアリティというものは、実存と共にある、とそう言っているのですよ!
もっとも、その危機的状況は、約一月で治まりました。その間、霊の声なきお告げ?で、”大丈夫だ、私はここに在る、アブナイ感じはじきに治まる、それと共に何か喜ばしきものの訪れを感じて来るだろう...”という導きも受けていたのです。
神的な現臨の訪れは、正に実存に目覚めることと一つのことだったのです!
その春、桜の咲く頃、小池辰雄先生のことを知ったのも象徴的なことでした。
”無的実存、霊的実存”...何のこっちゃ分かりませんでしたが、僅かにカミュの”異邦人”を読んだことがあるくらいだった私が始めて実存というものに接したのです。
考えている自分が何かを思い描いたりするのでなく、私自身が、私の魂が揺さぶられること、これが実存の開示でなくてなんであろう!
こうした霊的現臨、現存について、本質的に言えることは、見てきたように表現することが出来ない、ということです。
この頃、ある霊能者が、自分が肉体から抜け出して、外の世界のことや、霊界らしき世界を経めぐっていたなどのことを、さも見てきたように語っていたのを聞いたことがありましたが、そこに何もリアリティというものが感じられなかったのです。
ということはその時分、私は本当にリアルなものを感じていたということです。
それは、見ている私が居て、景色を見ているように描写出来る何ものもありません。
見ている対象もなく、私は霊的現存と一枚になっているのです。
神的現臨、自我ならぬ霊的実存なる我しかない!
その時には、神がかりの兆候はすっかりなりを潜めてしまったのは言うまでもありません。
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