私は自力修行の道には縁が無かったので、その道においては悟るための条件とされる、"チャクラを開くこと"や、"クンダリーニが頭頂チャクラから抜けること"、などのことに取り組む必要が無かったのです。
だからと言って、それらのことを否定している訳ではありません。
もしかしたら、最初に爆発的な覚醒に与ったことには、そうした原理が働いたかもしれないのです。("クンダリーニ云々"についてはある人から"そうに違いないi"、と決めつけられたことがあります)
しかし、本当のところは...分からないのですi、分かろうという気もありません。
"又、ボカしたこと言う..."と思われるかもしれませんが、これはね..."囚われたらアカンi"、ということを言っているのですよi
これは言わずもがなのことですが、もし、チャクラを開くことや、"クンダリーニを上げること"が必須条件だったとして、あなたはどう対処するつもりなのですか? チャクラには7つもあると言う...さらに霊的なチャクラってのもあると言う(体的チャクラなんてのがあるのか? 、笑えない?)...今生においても、何度生まれ変わっても無理だとは思えませんか? 一つの毛穴ですら、自力で開くことは不可能でしょう。
だけど、人生には不如意なことも、常識では考えられないことも起こるもの...思いの彼方から何かが開かれるかもしれないのです。
開こうとせずして、開かれる...開く時には開き、上がる時には上がり、抜ける時には抜けるでしょう...。
それが何かは分からない...後付けでそれをチャクラやクンダリーニと結びつけるのは勝手でしょう。でも、それらは人間が造った言葉にすぎません。あんなチャクラの何かの図式通りに生きてる人間が居るかってんですよ。
そして、こういうことを目の当たりにした時、"ああ、これは神の恩寵、導きなのだなあi"、と思わざるを得ないのです。
自分の思いで何かを開こうとするよりも、そういう導き自体を受けることが先決だとは思いませんか?
そして、又それなしで何も開かれないとするのなら、悟りや何かのことよりも、それ、そのものと一つになることにこそ意識が向いてこないでしょうか?
いや、自然とそういう風に感じられてくるのが不思議なのです。
こういうのが無為的なハタラキなのです。確かにそうなると何かが開かれる、という実感があります。"ぱっi"、と。
これは自分の意念、思念で特定の部位に集中したり、開こうとする、人為的なハタラキかけとはっきり区別されねばなりません。(これは人生の裏側の知識の始めなのです)
いや、区別しようとしなくても、無為的なものにあって、自ずと分からされます。
そして、無為的なものにあっては、ゆだねるしかありません。
(無為なことを、全託を実行しようなどと、とんちんかんの極みみたいなこと言う御仁も知ってますが...)
もし、チャクラやクンダリーニのことや、毎日やってる行に励んでいる最中に、こういうものが発現したらどうしますか?
多分、そういうことに囚われていたら気が付かないのがフツーだと思いますが...(もし、神縁のある人間なら、人為的なことは一端全て終わるのが、これ又フツーであろう...)
だから...思いを、意識を開いていることが大切なことなのですi
囚われない、ゆだねる...
こういうことは、全て見えない導きの主導で行われるのです。
それは主我的なことが、そちらにゆだねられるということに他なりません。
それに与る気の無い人間には、いくらチャクラやクンダリーニがどうなろうが、高度な瞑想のテクニックが、大先生の教えがあろうが、全て無駄であろう...。
だからと言って、それらのことを否定している訳ではありません。
もしかしたら、最初に爆発的な覚醒に与ったことには、そうした原理が働いたかもしれないのです。("クンダリーニ云々"についてはある人から"そうに違いないi"、と決めつけられたことがあります)
しかし、本当のところは...分からないのですi、分かろうという気もありません。
"又、ボカしたこと言う..."と思われるかもしれませんが、これはね..."囚われたらアカンi"、ということを言っているのですよi
これは言わずもがなのことですが、もし、チャクラを開くことや、"クンダリーニを上げること"が必須条件だったとして、あなたはどう対処するつもりなのですか? チャクラには7つもあると言う...さらに霊的なチャクラってのもあると言う(体的チャクラなんてのがあるのか? 、笑えない?)...今生においても、何度生まれ変わっても無理だとは思えませんか? 一つの毛穴ですら、自力で開くことは不可能でしょう。
だけど、人生には不如意なことも、常識では考えられないことも起こるもの...思いの彼方から何かが開かれるかもしれないのです。
開こうとせずして、開かれる...開く時には開き、上がる時には上がり、抜ける時には抜けるでしょう...。
それが何かは分からない...後付けでそれをチャクラやクンダリーニと結びつけるのは勝手でしょう。でも、それらは人間が造った言葉にすぎません。あんなチャクラの何かの図式通りに生きてる人間が居るかってんですよ。
そして、こういうことを目の当たりにした時、"ああ、これは神の恩寵、導きなのだなあi"、と思わざるを得ないのです。
自分の思いで何かを開こうとするよりも、そういう導き自体を受けることが先決だとは思いませんか?
そして、又それなしで何も開かれないとするのなら、悟りや何かのことよりも、それ、そのものと一つになることにこそ意識が向いてこないでしょうか?
いや、自然とそういう風に感じられてくるのが不思議なのです。
こういうのが無為的なハタラキなのです。確かにそうなると何かが開かれる、という実感があります。"ぱっi"、と。
これは自分の意念、思念で特定の部位に集中したり、開こうとする、人為的なハタラキかけとはっきり区別されねばなりません。(これは人生の裏側の知識の始めなのです)
いや、区別しようとしなくても、無為的なものにあって、自ずと分からされます。
そして、無為的なものにあっては、ゆだねるしかありません。
(無為なことを、全託を実行しようなどと、とんちんかんの極みみたいなこと言う御仁も知ってますが...)
もし、チャクラやクンダリーニのことや、毎日やってる行に励んでいる最中に、こういうものが発現したらどうしますか?
多分、そういうことに囚われていたら気が付かないのがフツーだと思いますが...(もし、神縁のある人間なら、人為的なことは一端全て終わるのが、これ又フツーであろう...)
だから...思いを、意識を開いていることが大切なことなのですi
囚われない、ゆだねる...
こういうことは、全て見えない導きの主導で行われるのです。
それは主我的なことが、そちらにゆだねられるということに他なりません。
それに与る気の無い人間には、いくらチャクラやクンダリーニがどうなろうが、高度な瞑想のテクニックが、大先生の教えがあろうが、全て無駄であろう...。