人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは普遍的な道

2023-02-13 09:31:02 | 祈りと瞑想
トルコ~シリアの大地震災害...地震国である我が国のこと、又トルコは友好的な国でもあるし、対岸の火のようには思えないものを感じます。私には祈るしかありません。
ああいう悲惨な状況に接すると、普段神仏のことなど思わない者でも祈らされたりするものですね。
いや、神がああいうメに合わせているのだ、といって離れてしまう者も居るかもしれません。
私は正直そういう神と、私がいつも言っている、私の実存と切り離されない神的現存と同一のものとは感じられません。というか、そういう自然法則の支配者みたいなものは、私の実存、現存感覚にはどうしたって入ってきません。
真実は神に聞かないと分からないでしょうけど...”そうだ!”...え、誰か応答しましたか?、気のせいかな?
祈っても苦境から救われないかもしれない...現実に救われないんだから神など存在しないのだ!、ってなるのかもしれない?
そう、多くの人がそう信じてる、思っている神は存在しないのかもしれません。
しかし、私は現実的な救われというものは無くとも、平安、安らぎに与ることは何度も経験しているのです。
それはいつも言うように、祈りという形を取らなくても、神に意識を向ける、向いちゃう、ということなのです。
ああいう状況下では、例えば瞑想とか座禅観法をしよう、なんて心持ちには中々なれないものですが、そういうことなら出来る、というかやらされちゃうようです!
同じように、重い病床にある時でもそうです。祈るしかない!
私には身に付いている...何の特別な方法も無い、身に付いているのはそれしかありません!
祈りというのは、すべての信仰者は勿論、時にはそうでない人にも普遍的な道ではないかと思います。
何の神とか、どんな祈りの文句、やり方というものを超えて!...又、苦難の状況にあってはそういうものは超えられてしまうものでしょう。
そして又、心底からの祈りには、対象となる神仏が何であれ、自然に自分自身と切り離されたものでは無くなって来るものでしょう。
平安、安らぎに与るということはそういうことなのです。
”そうだ!”...って又!...
私はずっと祈りながら、否祈らされながらこれを書いている、否書かされているのでした。
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