人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と無化

2016-04-02 18:54:33 | スピリチュアル
”人は神と一つである”
とはしばしば宗教、スピ界で謳われています。
これ、ヨーロッパ中世の暗黒時代でおおっぴらに言っていたら、命がいくらあっても足りないですね。
こうした言説をして異端扱いされた信徒達の一体何人が火あぶりを初め凄惨な刑に処されたことか!
所謂神秘主義者の中で、顕著にそうした言明をした人は、ドイツのマイスター・エックハルトでしたが、彼は超名門パリ大学の教授でしたので、生前死罪を免れましたが、死後その墓は取り壊されてしまいました。
それにしても、一体何が当時の教会権力機構をヒステリックなまでの異端取り締まりに駆り立てたのでしょうか?
異端者の多くは教会権威に依拠しない、神、キリストへの直接的関わりを説いた(つまりは真の無教会のはしり?)ので、権威の弱体化を恐れたのでしょうか?
いや、神との同質性を強調したその異なる福音こそが、永遠にこの世から葬り去るべきサタンの表明と映ったのでしょう。
現在でこそ、忌まわしい極刑こそ無くなりましたが、教会(ことにプロテスタント)側では、危険視する向きも少なくありません。
私には昔からこうした背景には、主としてユダヤ=キリスト教など一神教のある伝えに知られざる人類史の中で、葬り去るべき忌まわしい記憶が刻印されていたように思えてなりません。
エドガー・ケーシーやルドルフ・シュタイナーといった所謂幻視家が語るその確証の出来難いアカシックな言説の数々は、私には一寸捉えにくい面が有るのですが(ま、否定も肯定もしないというスタンスです)、彼らは伝説のレムリア、アトランティス文明が滅亡した要因として、当時の人々が意のままに事物を動かす、魔術的な力を行使し、乱用したためらしいことを仄めかしています。
中世の教会が盛んに異教的魔術の封印を行っていたことに思い合わせると、さもあろうかという気にもなります。
短絡的な神人一体の言説は、殆どの場合単なる観念的教説としか見てませんが、中には如何にもカリスマ,生き神サマ然としていて、”必要なものは何でも寄ってくるんだ!”とか息まいている人とも会った事が有ります。私は冷静に彼が周りの人間の心を操作しているのを洞察して、とても嫌悪感を覚えたものです。
神と人間は根底において同質であり、人間は神の子と呼ばれる存在なのかも知れません。
しかし、子は親にとって代わることは出来ません。
子は成人になるまでいくつか通過儀礼を通る必要が有ります。
それでもいくつになっても、子は子であり、親は親でしょう。
そして現世に生を享けた人間がそのままで親族権に預かる訳でもありません。
前記エックハルトは手放しで、”人は神と一つになる”と言っていたのではありません。
彼は何よりもという事態のことを知っていたのです。
そして又彼は当時の煩雑なスコラ的有神論が支配的だった教界にあって「神は根源において絶対無である…」とあらゆる西欧の宗教思想をひっくり返すような言葉を残したのです。
有神論的な神に対して、この絶対無としての神を神性と言って区別したことも画期的でした。
人は無化のハタラキに有って神と同質になれるという事です。
私はこのプロセスを欠いたどんな超越体験も魔境と隣り合わせのものだと思います。
魔の道に関わるくらいなら、その道は”フタ閉めされたほうがいい!”とすら感じています。
私はここで神という言葉を安易に使い過ぎたかもしれません。
でも、もし、何か自分を超えたものに導かれている人であれば、強化された倫理観といったものでなく、言葉で言い表せないものへの愛と畏敬の感情は自ずから湧いてくる事が知られると思います。
そうでない人は無暗に超越的なことなどを求めるより、どんなものであれ、自分に向いた信仰を学んだ方がいいでしょう…
自らプロメテウスの火に飛び込むようなマネをするのなら…









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