人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と霊体のようなもの

2021-12-11 10:37:47 | 現臨、ハタラキ
前回、"考えることを深めていったら、自分が考えるのでなしに、思いを超えたものによって考えさせられてしまう"、なんてこと書いたのですが、こういうことを最初に感じたのは、似たようなものですが、自分で自分を見つめる、ということから、いつの間にか、それによって"見つめられてしまう"、ということになってしまったことからでした。
これは自己観察というものと区別して、"照明"と呼んでいるのですが、要するに意識の中で主体が、考える私からそれを超えたものに明け渡されるということを表しているのです。
ここで、その超えた、あるものとは真我なのか?、ということを仄めかしているのですが、何が真で、何が偽かは分からないですよi(仄めかすとは、即ちボカすことですi)
何だか分からないけど、現実に意識がそっちに向けられてしまうんだからしょうがないi...そこに愛、平安、リアリティがあるから...
リアリティ...現実は受け入れなければならないi...その真実性は、考える私よりもはるかに直接的に在らしめられる、というところに求められます。これはもう理屈じゃない、理屈で分かったことなど幻みたいなものだi...愛、平安から切り離された如何なる理的なものは、その現実から浮いてしまわざるを得ません。
その超えたものとは何であるか?...それを存在論、実体論で解くことは不可能です(だからボカすに限るのですi)。
それは、私がいつも"現臨"と呼んでいるものとつながりがあるのは言うまでもありません。
その実体はもとより分かりませんが、存在論に譲歩して"何か在るもの"のように表すことは出来るでしょう。例えば、"霊体"とか...
そう、人間存在は、肉体だけあるんじゃなくて、幽体、霊体、神体と順々に微細になって行くんですよ~、ってこの霊体がどっかへ消えちゃいそうです。(元々見えないんですけど...)
現臨~霊体というものに真我というか、より本来的な私を求めるのであれば、それはそのように分割出来なくなるでしょう。
正に、肉体とOO体という風に分割されるというのが、この物質次元の観方、感じ方なのではないでしょうか?
この"現臨体"(新造語)においては、見える肉体と見えない何かの境界が無くなってしまうのです。というか、そういうものが"人生の裏側"の観方、感じ方なのですi
ある方は、この"霊体のようなもの"のことを感じさせずにおれない、あるもののことを"空体"と呼んでいるのですが、全く同様のことを述べられておられました。
このように境界が分からない、霊肉一如のようなものなのだから、霊体のようなものが真実で、肉体は本来無い、幻だ、などと決めつけられるでしょうか?(実体論のような解き方は、こういう誘惑が付きものなのですi)
そのものにある時、自分の本来性に帰ったように感じられるところから、その自己を全包括したような霊体のようなものに本来性を求めることが出来るでしょう。肝心なことは肉体もそれに包括されてある、ということです。
そして、そこから切り離された時、本来性、真実性(リアリティ)から浮いてしまうということなのではないでしょうか?
肉体とは、霊体的な包括的な自己の"現れた部分"と観ることも出来るでしょう。
宗教、スピにありがちな偏った観念に囚われて、肉体を蔑視、否定することは、本来の自分に目覚める道を閉ざすことにつながるでしょう。
この目に見える現実に生を享けたという、肉体を通さなければ、本来性に帰ることは不可能だという、当たり前の現実に目覚めなければ、夜寝て、朝目覚めることすら出来なくなるでしょう...。


コメント
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