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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

聖句上位方式は人智を超えて発生した

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 聖句上位方式は、有能な誰かが考案し、実施したのではない。
人知の産物でなく、初代教会に自然発生的にできあがったものだ。
初代教会とは、イエスの弟子〔使徒)たちが中心になって出来た信徒の集いで、人類史初のキリスト教会だ。
 
 
<残された信徒に聖霊が下る>
 
 この教会は、聖霊が引き起こした奇跡(不思議なしるし)を契機にできあがっている。
イエスが復活して昇天した後、エルサレム神殿近くの大部屋に、200人余の信徒が集まっていた。
その群れに轟音とともに聖霊が下り、信徒たちの口から異言(いげん)があふれ出した。
 
 異言とは語っている本人も、その意味を理性で解することも出来ない言葉だ。
英語ではストレンジ・タング(strange tangue)という。
 
 
<使徒ペテロ、独自聖句解読で事態を説明>
 
 轟音に驚いて駆けつけ押し寄せたエルサレム神殿参拝者は、信徒の語る異言を驚き怪しんだ。
使徒ペテロは事態を聖書〔旧約)解読して説明した。
人々は感銘を受け、その日だけでも三千人が使徒たちに加わった。
 
+++
 
 使徒たちは、彼らを数人の小グループに分け、リーダーを一人選ばせた。
そのうちの一人の家で聖書を自由吟味しあうようにした。
 
<統一教理など作れなかった>
 
 使徒たちは教会の統一解釈〔教理)を提示することはなかった。
そういうものは作れなかったのである。
 
 イエスは十字架死し、復活し、昇天する直前まで、使徒たちに独自な聖句説明をし続けた。
その都度、各々に「まだわからないのか」と指摘した。
そんな状態だから、使徒は「俺の解釈が正しい」と主張することなどできなかった。
 
 だから、教会の統一教理をつくり、新参加者に提示することなど望むべくもない。
各人、各グループに自由解釈、自由吟味させるしかなかった。
自由吟味を許すというのは、絶対正統な教理を認めないことでもある。
 
 その自然な帰結として、聖句上位方式は出現した。
不思議と言えば、不思議なことでもある。
 
+++
 
 伝道活動で新しく増えていった教会でも、この方式は実施された。
初代教会以降、一世紀間にわたって,キリスト教会と言えば、この方式の教会だった。
 
 紀元後100年頃には、初代教会方式で活動する信徒の群れが、ローマ帝国全土に点在するに至っていた。
 
 
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聖句に教理が併存する事例

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 聖句にほぼ反射的に解釈〔教理)が出現し、伴侶・併存する事態は、聖書の冒頭部分から体験することが出来る。
『創世記』にこんな話がある~。
 
 アダムとイブ〔エバ)は、食べるのを禁じられていた木の実、エデンの園の中央に置かれていた木の実を食べてしまった。
 
 創造神は、イブに問う。
  「おまえは、なんということをしたのか」
 エバ、答えて曰く。
  「蛇が私をだましたのです」
 
 創造神は、同じ問いをアダムにも投げかける。
 アダム答えて曰く。
  「イブがわたしを誘惑したのです」
 
+++
 
 こうした要旨の聖句を読むと、たとえば、こんな思い(解釈)」が人の心には浮かぶ。
「人間には、物事の責任を他者になすりつけるという罪の資質があるのだ」と。
 
他にも解釈は出来,教理はつくりうる。
 が、とにかく、聖句の記述に教理が自然併存する様、かくのごとしだ。
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「上位」主義か「至上」主義か

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 前回、教理よりも聖句に権威を置く方式を、「聖句上位主義ないしは聖句至上主義」と呼ぼう~と言った。
 今回は、今ひとつこだわって、さらに微妙な点に立ち入ろう。
 
 「上位主義」と「至上主義」との間のニュアンスの差を考える。
 
+++
 
 至上主義の語には、聖句をあがめ、教理の存在を否定する、ようなニュアンスがある。
上位主義の語には、そういう感情は少なく、両者の存在をともに認めているニュアンスがある。
 
 そして、バイブリシズムに対する、より適切な訳語は、聖句上位主義の方だと思われる。
 
+++
 
 聖句に教理はつきものだ。
聖句があれば、人は、それを解釈しようという欲求を自然に抱く。
 
ほぼ反射的に教理は現れ、心の中で、まるで伴侶のように聖句と併存する。
一方が輝いて、他方が、その輝きの陰におかれて、存在が薄れたり、見えなくなったりするものではない。
 
両者の併存を銘記するために、聖句上位主義の語を選択しておいた方がいいように思う。
 
 
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