~~少し余裕が出来ました。
「ヨハネ伝解読」を一寸進めてみようと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた『今、人の子が栄光を受けます。そして創主が彼の中で栄光を受けます。そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)のなかで栄光を受けるならば、創造主はご自身の中で彼(イエス)に栄光を与えられるであろう。そして創主は(これから)すぐに彼(イエス)に栄光を与えられましょう』」(31~32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~~いや~ぁ、難しいですねぇ。
ともあれ、前回の聖句「悪魔がユダに入った」(27節)は「ユダに悪魔の“思い”が入った」と解釈することにいたしましょう。
するとユダは外に出て行きます。そして後に、イエスを捕らえようとする一群を連れてくることになる。ですから、ユダが最後の晩餐の場から出て行くところでもって、事態はクライマックスに入っていくわけですね。
で、このタイミングにイエスの口から出たのが、本日の聖句です。
ここは難しい。なに言ってるのかわかりにくい。
ですけどこの聖句の中では「栄光(glory)」がキーワードらしいことはわかります。
けれども、このグローリー(栄光)というのが、わかったようでわからない聖書用語なんですね。今回はそれを考えましょう。
栄誉のような感じもする。栄誉として解釈すると、通るところもよくあるのです。しかし、力と解した方がよく意味をなすところもあります。そうかというと文字通り、光と解せそうなところもあります。
どうもこの聖書用語は、多義的(たくさんの意味を持っている)な言葉なようです。
でもそれを、そのままにしておいたら、解読になりません。なにか、より根本的で統一的な意味を見出しておきたいことろ。そこで今回は、グローリーに対する春平太の個人的解読を示すことにします。
結論から言いますと、グローリーの実体は、創主から出ているエネルギーとイメージするのがいいと鹿嶋は考えます。
創造主から出ているエネルギーは、聖書では、「いのち」という言葉で示されている「いのちエネルギー」です。
<力>
エネルギーは、そもそも力でもあります。だからグローリーは力でもあることになる。この力という側面は、後の光や誉れよりも、根底的です。グローリーの実体が、いのちエネルギーなのですから。
<光>
エネルギーは光を発することもあるのではないかと思われます。一定の凝集をすると光を発するとイメージできる。で、いのちエネルギーの発する光を示す言葉が栄光です。
栄光の光は、この世の物的な光(light)とは違います。近代物理学が明かしているように、この世の光の実体は、光子という一つの素粒子です。素粒子は非造物ですから、こちらは「被造の光」です。
対して栄光(glory)という光は、「創造の光」です。鹿嶋は被造物というのは「いのち」エネルギーが凝固して形成されていると想像しています。その被造物の源になっている存在が発する光ですから、これはまた、被造の光などとは比較にならない深さ、強さを持っているとも考えられます。
<誉れ>
光輝くモノに対しては、非造物である人間や天使は、誉れを感じ、仰ぎ見る本性をもっています。栄光は被造の光よりも桁違いに輝かしい強烈なものです。そこで栄光の光を発するものに対しては、とりわけ他者は栄誉を与えるようになります。かくしてグローリーは栄誉という面も持つことになります。
余談ですが、聖書というのは、煎じ詰めたら、いのちエネルギーの方程式理論ではないか。そういう印象を鹿嶋は受けています。この「いのち」の行方、あり方に注目したら、奥義は顔を出すのではないか、というのが春平太の感触です。
~~本日の聖句に戻りますと、これからイエスはさげすまれ、拷問され、多量の血を流し、十字架で処刑される・・・という苦難に遭います。もうこれは彼がこの世に来たときすでに決まっているのであって、それが彼の果たすべき究極の仕事なのです。
その彼がこの仕事を成し遂げられるように、いま創造主は、栄光という創造の光を発するエネルギー(力)をイエスにふんだんに与えます。このあたりまでは問題なさそうですが、それ以上の詳細はホントにわかりにくいです。次回から、解読を試みましょう。微力ながら・・・。どうなるかわかりませんけど・・。
「ヨハネ伝解読」を一寸進めてみようと思います。
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=聖句=
「彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた『今、人の子が栄光を受けます。そして創主が彼の中で栄光を受けます。そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)のなかで栄光を受けるならば、創造主はご自身の中で彼(イエス)に栄光を与えられるであろう。そして創主は(これから)すぐに彼(イエス)に栄光を与えられましょう』」(31~32節)
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~~いや~ぁ、難しいですねぇ。
ともあれ、前回の聖句「悪魔がユダに入った」(27節)は「ユダに悪魔の“思い”が入った」と解釈することにいたしましょう。
するとユダは外に出て行きます。そして後に、イエスを捕らえようとする一群を連れてくることになる。ですから、ユダが最後の晩餐の場から出て行くところでもって、事態はクライマックスに入っていくわけですね。
で、このタイミングにイエスの口から出たのが、本日の聖句です。
ここは難しい。なに言ってるのかわかりにくい。
ですけどこの聖句の中では「栄光(glory)」がキーワードらしいことはわかります。
けれども、このグローリー(栄光)というのが、わかったようでわからない聖書用語なんですね。今回はそれを考えましょう。
栄誉のような感じもする。栄誉として解釈すると、通るところもよくあるのです。しかし、力と解した方がよく意味をなすところもあります。そうかというと文字通り、光と解せそうなところもあります。
どうもこの聖書用語は、多義的(たくさんの意味を持っている)な言葉なようです。
でもそれを、そのままにしておいたら、解読になりません。なにか、より根本的で統一的な意味を見出しておきたいことろ。そこで今回は、グローリーに対する春平太の個人的解読を示すことにします。
結論から言いますと、グローリーの実体は、創主から出ているエネルギーとイメージするのがいいと鹿嶋は考えます。
創造主から出ているエネルギーは、聖書では、「いのち」という言葉で示されている「いのちエネルギー」です。
<力>
エネルギーは、そもそも力でもあります。だからグローリーは力でもあることになる。この力という側面は、後の光や誉れよりも、根底的です。グローリーの実体が、いのちエネルギーなのですから。
<光>
エネルギーは光を発することもあるのではないかと思われます。一定の凝集をすると光を発するとイメージできる。で、いのちエネルギーの発する光を示す言葉が栄光です。
栄光の光は、この世の物的な光(light)とは違います。近代物理学が明かしているように、この世の光の実体は、光子という一つの素粒子です。素粒子は非造物ですから、こちらは「被造の光」です。
対して栄光(glory)という光は、「創造の光」です。鹿嶋は被造物というのは「いのち」エネルギーが凝固して形成されていると想像しています。その被造物の源になっている存在が発する光ですから、これはまた、被造の光などとは比較にならない深さ、強さを持っているとも考えられます。
<誉れ>
光輝くモノに対しては、非造物である人間や天使は、誉れを感じ、仰ぎ見る本性をもっています。栄光は被造の光よりも桁違いに輝かしい強烈なものです。そこで栄光の光を発するものに対しては、とりわけ他者は栄誉を与えるようになります。かくしてグローリーは栄誉という面も持つことになります。
余談ですが、聖書というのは、煎じ詰めたら、いのちエネルギーの方程式理論ではないか。そういう印象を鹿嶋は受けています。この「いのち」の行方、あり方に注目したら、奥義は顔を出すのではないか、というのが春平太の感触です。
~~本日の聖句に戻りますと、これからイエスはさげすまれ、拷問され、多量の血を流し、十字架で処刑される・・・という苦難に遭います。もうこれは彼がこの世に来たときすでに決まっているのであって、それが彼の果たすべき究極の仕事なのです。
その彼がこの仕事を成し遂げられるように、いま創造主は、栄光という創造の光を発するエネルギー(力)をイエスにふんだんに与えます。このあたりまでは問題なさそうですが、それ以上の詳細はホントにわかりにくいです。次回から、解読を試みましょう。微力ながら・・・。どうなるかわかりませんけど・・。