鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.192『自己神欲の苦しみから逃れる唯一の方法』(13章)

2007年03月20日 | ヨハネ伝解読

「ヨハネ伝解読」次に進みましょう。
 本日の聖句はこれです。

                    
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=聖句=
  「しもべは主人にまさるものでなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではありません。
それらのことがわかっていて、(なおかつ)それ(下位の者の足を洗うこと)を行うなら、
諸君はいかに幸福になることか!」(13章16~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 ヨハネは、イエスが弟子の足を洗う場面の次に、ユダが裏切ることを前もって告げる場面を記しています。

  だがその場面に入る前に、イエスが述べた一言もヨハネは記録してくれています。
「私が(諸君の足を洗ったのについて)説明したことを理解して、
諸君がそれを行うのならば、諸君は何と幸福になることか!」がそれです(17節)。

  この一言は、結構意味深いように思われます。
「なんと幸せになることか!」とイエスが言っているんですから。
ここには、人間が幸福になる秘訣があるのではないか。そういう期待を抱かせてくれます。


                    


<自己神欲>

 どういうことでしょうね? 難しいですが、鹿嶋はこう解読しています。すなわち~

  ---教団が成長し、弟子たちがその指導者となり、集団内で自分の地位が上にあるということになると、
新たに苦しみがやってくる。
まず、自分の権威を犯すものに対して怒りがこみ上げてきます。
権威を犯す者は新参者に限りません。同じ12弟子の間でも、権威・権限の犯し合いは起きうるのです。

 人間には、自分を神様のような地位に置きたいという本能が、深く深く埋め込まれるようになっている
というのが聖書に込められた人間洞察です。

                    

  それは、エデンの園で「この知恵の実を食べればあなたは創主のように賢くなれる」という蛇の言葉を、
イブが受け入れたときから始まっています。

 アダムも、愛するイブと行動を共にしました。
それ以来、人間の意識の根底には、自分を神様のようにしたいという本能が埋め込まれた---

 これが聖書の示唆する心理学だと春平太は理解しています。
ついでにそれに名前も付けました。「自己神欲」というのがそれです。

 自分を神様のような位置に置きたいという欲望です。通常、自尊心と言われているものに近いです。
よく「自尊心は人間の最も深いところにある心理」といわれます。ま
た、「人間、歳取って、最後に残るのは名誉欲」ともいわれます。
これらは、自己神欲から派生するものではないかと思います。

 (これには更に根底的な意識が考えられるのですが、ここでは述べません)


                    


 それを推定させる出来事はよくあります。

 たとえば、どんなに人格的に尊敬できる人でも、あなたを愛してくれている人でも、
自尊心に触れるようなことをいうと、その人は激しく怒ります。
まるで人格者であったことがウソであったように。あなたを可愛がってくれていたのがウソであったかのように。

  人柄が一変して時として野獣のようにもなります。そういう例を春平太は観察してきました。
自己神欲は、人がどんなに経済的に豊かになっても、世的に上位な地位についても、
その人の心の平安を脅かし続けているのです。

だが、もし「自分の教え子たちの足を洗え」というイエスの「命令を」守るならばどうでしょうか。
人はその針の筵の上にいるような状況から逃れることが出来るのではないか。

 「人の上位に立ちたい、尊敬されて支配したい、命令に従わせたい・・・」という本能が、
その時には、無くなるのですから。究極的な平安を手にしたことになる。

 イエスが「いかに幸いなことか! もしそれができれば・・・」といったのは、
そういうことを踏まえてではないかと鹿嶋は解しています。
平安こそが、人の幸福の究極の内容というのがイエスの教えの核心なのですから。


                    


コメント (2)
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