【近代バプテスト、攻勢に出る】
ロジャー・ウィリアムズとジョン・クラークの身の安全を保ったのは、ボストンとの距離でした。
距離が遠いが故にマサチューセッツ州の法権力はプロビデンスにまでは及ばなかったのです。
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この地のバプテストたちは、もしもこの聖句自由吟味共和国に住み続けたら、みんな自由で仕合わせで楽な暮らしを続けられたでしょう。
だが”バプテスト”であるが故に、彼らはそれが出来ませんでした。
彼らは自らの大胆な人生原理に従って、敵のいるところにはどこへでも出て行って対決せずにおられなかったのです。
この時、敵はマサチューセッツ州にいました。
彼らはその地に出て行きました。
そこはプロビンデンスだったら無償で得られるものを、血と苦しみを代償にして手に入れねばならない土地でした。
【バプテスト、 ピューリタンと戦う】
そこで バプテスト自由吟味者は、ピューリタンと対決したのです!
不動の目的を抱いて圧倒的な力で戦う、彼らのインパクトは強烈でした。
ヒンガムのトーマス・ペインターは自分の子が幼児洗礼されるのを拒否しました。
彼は縛り上げられ、むち打ちの刑に処せられました。
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ヘンリー・ダンスターはハーバードの学長で、おそらく史上最も卓越した学長でした。
彼も我が子の幼児洗礼を拒否しました。
そのために彼はケンブリッジを追放され、裁判にかけられました。
有罪宣告され、州議会から訓戒を受けました。
事態のさらなる悪化は必定でしたが、早すぎる死が彼を襲いました。
それによって彼は、かろうじてその被害に会わずに済んだのでした。
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ニューポートのジョン・クラークとオバディア・ホルムズは、主日(日曜日)をリン近郊のバプティスト自由吟味者とともに過ごし、その家で礼拝を行いました。
(これは「家の教会」と呼ばれる・・・訳注)。
かれはそのかどで、逮捕され、重い罰金を科せられました。
支払えない時には「重いむち打ちの刑に処する」と宣告されました。
これを哀れんだ人がクラークの罰金を代わりに支払いました。
だが、ホルムスはひどくむち打たれました。
むち打ちはボストン通りで無慈悲に行われました。
見ていた群衆に気分が悪くなる人々が出ました。
けれどもホルムス自身は全くひるむことがありませんでした。
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ホルムズが郵便局に行く途中の道で、ジョン・・スピアとジョン・ハゼルが彼と握手をしました。
するとこの二人に、各々40シリングの罰金が科せられました。
これはバプテストに飲ませた、強い懲罰の薬、苦い胆汁の薬でした。
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このような仕打ちを、ピューリタンは戦略として入念に組み上げていました。
それは自由吟味者の“ばかげた”(彼らからすれば)行動を鎮圧するのに、功を奏するはずでした。
だが、結果は成功しませんでした。
最も苦い胆汁を飲まされても、バプテスト自由吟味者はレホボスに教会を造りました。
ボストンにも作りました。
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ボストンに自由吟味活動の教会を造るなんて!
それは鷹の巣の隣に、無知な鶏が巣を作って、雛を孵えそうとするようなものでした!
実際、ボストンの人々は仰天し、次いで怒り狂いました。
彼らは都市警官に変装してバプティストの教会に襲来しました。
そしてこの“異端者”たちの集会所のドアに、釘を打ち付けて開かなくしてしまいました。
表に警告板を付け、こう書きました。
「バプテストたちがここで集会を開くことを禁じる。如何なる集会も禁じる。このドアを開くことをも禁じる」~と。
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で、バプテストは従ったか?
従いました。
「集会を開かない、ドアを開けない」ということには・・・。
だが彼らは一週間後に釘を引き抜いてしまいました。
それとともに、彼らを襲う行政の権力も又、引き抜かれてしまいました。
州議会は最後のカードを切ったのですが、やはり成功しなかったのです。
それでもってバプテスト自由吟味者の進撃を止めようとする努力は終焉しました。
ピューリタンの祭政(政教)一致方式は崩壊しました。
ボストン市民たちは、むち打ち刑と追放の場面に食傷したのです。
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1691年にウィリアムとメアリーが新憲章を容認しました。
それは~
「マサチューセッツ湾とプリモスをまとめて一つの植民地とし、そこでは全てのキリスト教徒に良心の自由をゆるす。ただしバプテストは例外とする」
~というものでした。
これは自由についての条例と言うより、むしろ黙認(自由吟味活動を)することを暗示した条例でした。
この憲章は1834年まで有効なままでした。
【自由吟味圏、拡大する】
バプテストは慎重かつ用心深く行動しました。
その結果、雪だるまが転がって大きくなっていくかのようにして、力を増していきました。
彼らはボストンを中心にして、そこから前線を推し広げていきました。
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ニューヨークには、”かんしゃく持ち”との異名をもった、ピーター・スティーブサントという老人がいました。
彼の指揮下でしばらくの間、迫害がありました。
たが、まもなくバプテスト教会が出来始めました。
ニューアムステルダム、グレーブサンド、フラッシング、オイスター湾岸といった地に教会ができていきました。
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ペンシルバニアではことはスムースに運びました。
この地にはウイリアム・ペンのもとで、最初から力強い「自由志向の意識」が出来ていました。
(ウィリアム・ペン。1644-1718。英国のクエーカー教徒で、ペンシルバニアの創始者・・・訳者註)
この意識は他の地域にはないものでしたが、ここにはありました。
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この地域では信徒が知識を互いに教え合うために、「総会」が5月と12月にもたれていました。
それは信仰深い集会で、新約聖書中心の福音的なものでした。
ニューヨークとニュージャージーから説教者が呼ばれていました。
1707年まで、各々のバプテスト教会は総会に代表者を送り続けました。
そしてその年、初のバプティスト連盟がつくられました。
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そうした動きのなかで、フィラデルフィアは自然にバプテスト活動の中心地となりました。
「連盟」はしばらくすると植民地諸地域のなかで最も影響力の強いバプテスト団体となり、その地位は変わることがありませんでした。
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連盟は、1742年に自分たちの神学理論を明示しました。
それはアメリカ大陸におけるバプテスト自由吟味活動の全体像を描くための神学でした。
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同じ年に、連盟は信仰宣言書(告白書ともいう)も作成しました。
それはとてもカルバン的(予定救済説的)なものでした。
この事態は一つの転換点を作ったと行っていいでしょう。
従来、バプテストの神学には、全救済説の色彩が非常に強かったからです。
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この頃、南部方面でも事件が起き始めていました。
バージニアで、一つの法律が議会を通過しました。
それは自分の子の幼児洗礼を拒否した親には、タバコ2000ポンド分の罰金を科すというものでした。
この法律が含むところは重大でした。
それは最初は、人間の手くらいの大きさの、雲のようなものでしたが、速やかに拡大して嵐になりました。
その嵐は、バージニア州をこえて、アメリカ植民地全土に広がりました。
【大覚醒運動】
これに対して、いわゆる「大覚醒運動(the Great Awakening)」が起きました。
それが始まる時には、メイン州からフロリダ州にわたる地域にバプテスト教会は47ありました。*1(訳注)
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*1 <訳注>
大覚醒とは町や村のちまたで交わされる聖句解釈激論の波紋が、霊的現象も伴って広がっていく宗教復興現象。
激論は多くの地点で始まり各々拡大した。
ケンタッキー州でのものが最初と言われている。
拡大には名説教者が大きな役割を果たすことが多かった。
米国では歴史的にこの現象が一度ならず起きた。
第一次(1730年代~1750年代)、
第二次(1800年代~一八三〇年代)、
第三次(1880年代~1900年代)
~の三つが通常口伝されている。
本文ではその第一次大覚醒が語られている。
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北部には当時バプテスト教会は7つしかなく、その勢力は諸教派の中で最も弱小でした。
教会員は全部合計しても500人しかいませんでした。
だがそのとき、ジョナサン・エドワード(1703-1758)とジョージ・ホィットフィールド(1714-1770)
が覚醒運動を始めました。
(エドワードは神学者にして説教者。インディアンへの伝道者でもあった。大覚醒の火付け役をした・・・訳者註)
(ホィットフィールドは英国出身の巡回説教師。大覚醒の火付け役となった・・・訳者註)
彼らは、新約聖書重視の教会活動を主張しました。
この活動は、未信仰者の霊感を一気に開き、全ての新約重視の教会の成長機会を切り開いていきました。
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だが、奇妙なことに、バプテスト教会はこの大覚醒活動の成果に、当初は距離を置いて超然としていました。
多くのバプテスト教会は、ホィットフィールドやテネント父子たちに対して、門戸を閉じていたのです。
(父子はともに長老派の牧師だが、教団組織の制約にとらわれず、激しく霊的な説教をした・・・訳者注)
その結果、大覚醒して信仰の火に燃えた群衆は、まずは教理統一教会である組合派教会や長老派教会に殺到しました。
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だが、教団教理への従順を求める教理統一教会は、彼らの情熱を許容し続けることは出来なかった。
群衆は最終的にはバプテスト教会に来るべくしてやってきました!
旧来のバプテスト教会は、改心者の熱い心に対して、鈍感だった。
何千人という人が、悔い改めて信仰に目覚めて(霊的に覚醒して)やって来たにもかかわらず、これら回心者たちにあまりに冷淡だった。
けれども人々は結局バプテスト教会になだれ込みました。
教理統一教会を出て、強引になだれ込んだ。
それは、磁石に引きつけられる鉄の如き現象でした。
バプテスト教会では、意図せざる大覚醒ブームが起きてしまいました。
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バプテスト教会内部では「旧き光」と「新しき光」との衝突も起きました。
そしてそこから、新しい一派が生まれました。
分離派バプテスト(旧教会から新しく分離してきた新参バプテスト自由吟味者)がそれです。
他教会の全員が脱会してバプテスト教会員になったわけではありませんが、新参者の数は膨大でした。
バプテストたちは、それまで軽蔑されて、軽視されてきていました。
だが、いまや注意して扱われるべき勢力となりました。
またこの時、以前よりバプテスト自由吟味者だった人たちは、自らを正規バプティスト(Regular Baptist)と称しました。
新参者を分離派バプテストと呼んで、自分らと区別したのでした。
【分離派バプテストの活躍】
その一方で、分離派バプテストたちは、米国聖公会(英国国教会の米国支部)から米国の南部地域をもぎとりました。
それは、アメリカ植民地がイギリス王国からの分離独立を実現しつつあった、まさにその時期のことでした。
1775年から1795年にかけて、植民地独立軍は進軍を続けていたのです。
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バプテスト自由吟味者たちの戦い、平等と存在認可を求めるその戦いは、この時に最高潮に達しました。
大覚醒して信仰に燃えた分離派バプテストたちは、大挙してバージニア州に突入しました。
米国聖公会は、彼らの要求に断固として反対しました。
直ちに衝突がおきました。
南部の英国国教会(聖公会)はバプテストたちを襲撃しました。
キリスト教会がキリスト教徒を襲撃したのです!
これはアメリカ教会史で最も汚らわしい出来事です。
全植民地の歴史においても、弁解しようのない事件の最たるものです。
【熱血弁護士パトリック・ヘンリーが救済する】
1606年に出された最初の植民地憲章は、礼拝を英国国教会の儀式と教理に従ってなすべきこととして、強制していました。
次いでバークリーがやってきてひどい法律をいくつかつくりました。*1
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(訳注 *1)
ジョージ・バークリー。1685-1753。
1729年アメリカ植民地に渡り、植民者と北アメリカ先住民の教化のための大学を作ろうとして失敗し、1731年に英国に帰国した。
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この暗黒時代は、最初の連邦議会が開かれる時まで続きました。
その間、バプテスト自由吟味者たちは牢屋から牢屋へと追い立てられました。
彼らは、はむち打ち刑場から地下牢へと休む間も与えられずに引き立てられました。
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ウィリアム・ウェーバーとジョセフ・アンソニーは、チェスターフィールド郡の牢屋にぶち込まれました。
彼らは沈黙を守れと命じられました。
だが彼らは独房の小窓の鉄格子を通して、壁の外の通りに集まった群衆に向かって説教しました。
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ジョン・ウォーラー、ルイス・クラング、ジェームズ・チャイルズは暴徒に襲われ、裁判所に引き立てられました。
野獣のような目をした検察官が怒りの声をあげました。
「裁判長閣下の御意にかないますように! この男たちはどうしょうもない平安の妨害者です。 路で会う人すべての喉に聖句を詰め込んでしまいます!」
形勢は彼らバプテスト自由吟味者に不利でした。
+++
だが、50マイル(80キロメートル)離れたところにいた若きスコットランド=アメリカン系の弁護士が、この裁判のことを耳にしました。
かれは米国聖公会員でしたが、その精神は善良でした。
名はパトリック・ヘンリー。
彼は髪の毛の根元が真っ赤になるほどに怒り、馬で町に疾走してきました。
彼は頭上に起訴状を振りかざして叫びましだ。
怒りで検察官以上に野性的になっていました。
「創造神の福音を説いてのことではないか! 偉大なる創造神のために!! 偉大なる創造神のために!!!」
後年、彼は他の弁護活動で、別の名文句を発することになります。
「われに自由を与えよ、さもなくば死を与えよ!」~と。
三人の説教者は無罪になりました。
(Vol.12 5章 信教自由国家の建設に向けて 完)
>1606年に出された最初の植民地憲章は、礼拝は英国国教会の儀式と教理に従うよう強制していました。
>
> 次いでバークリーがやってきてひどい法律をいくつかつくりました。*1
意外なところで、哲学者バークリが登場してきたので、興味深く思います。しかも悪役ですか! 通常、バークリは、その観念論哲学について語られることが多くて、信仰については、敬虔な国教徒で、聖職者でもあったと紹介されます。有名なカリフォルニア大学バークレー校の創設者でもあります。主要な著書は、無神論や懐疑論を反駁してキリスト教を弁護することが目的でした。
ただし、信教自由を求める自由吟味主義者から見れば、弾圧を加える側の人間でしかなかったということになるわけですね。こういう視点は、他からは絶対に出てこないし、いくらバークリを研究していてもわからない事情ではないかと思います。
> +++
>だが、群衆は最終的にはバプテスト教会に帰ってきました!
>自己の信仰を悔い改めた回心者が何千人も出たにもかかわらず、旧来のバプテスト教会は、彼ら改心者の熱い心に対して、あまりに鈍感で冷淡でした。
>人々は方向転換して、バプテスト教会になだれ込みました。
>それは、鉄が磁石に引きつけられるが如き現象でした。
>教会では大覚醒が意図せざるブームとなりました。
ここの記述が少し、私にはわかりづらくて、以下のような理解でよろしいでしょうか。
・何千人もの回心者が出たのに、旧来の組合派教会や長老派教会は、鈍感で冷淡だった。
・人々は方向転換して、バプテスト教会になだれ込んだ。
・ただ、旧来のバプテスト教会もまた、彼らに対しては組合派や長老派と同じく冷淡だった。
・そこで「分離派バプテスト」という新しい一派が生まれた。
・旧来のバプテストは、自らを正規バプティスト(Regular Baptist)と呼んで、新参の分離派バプティストと区別した。
ご指摘感謝です。
Sabiaさんのご理解と本文の主旨は少々異なっています。
ここはミードの言い回しにくせのあるところでもあります。
訳文を修正してみました。
そして、ここで、「実はこういう意味ですよ」といってしまうと、修正訳文の不備が(まだあれば)隠れてしまいますので、修正文だけをお示しします。
これで、Sabiaさんのご理解が変化しましたでしょうか?
私が現地で聞いたところでは、大覚醒はケンタッキー州で発生し、全国に波及しました。
創始者は、やはり激しい情熱をもって説教する説教者だったようです。
https://www.youtube.com/watch?v=2H1JGIHjjJE
たとえばこんな説教でしょうか。
理屈抜きの、説教者の確信と情熱がほとばしるような説教です。
そしてそこでは癒しや不思議(夫人の髪の毛がほどけて連獅子のようにぐるぐる回ったりもしたそうです)が連発しました。
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だから、大覚醒した人々の大半は、無信仰から一気に信仰を持った人々でした。
彼らは、とにかく教会に行きたくて、どこでにも飛び込もうとしました。
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だが、こういう熱がほとばしるような新信仰者には、聖書を深く吟味してきているバプテスト教会は慎重で、まずは門を閉ざし気味だったようです。
情熱の新信仰者は、教会のことなど知りませんので、比較的門戸を開けてくれた、教理統一教会(長老派やメソディスト派などの)に飛び込んだわけです。
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だけど、教理統一教会は、情熱に任せた自由な聖書吟味は許しません。
教理に従う、というお行儀の良さを求めた。
そこで、情熱の新信仰者は戸惑い、もっと自由に聖書を探求できる教会を模索していったというわけです。
そして、有無を言わせず、強引にバプテスト教会になだれ込んだそうです。
教会では、スモールグループ用の部屋の壁が破けそうになるほど、人が詰まって大変だったそうです。
+++
すると、前からの聖句を深く習得している教会員は、やはり、新参者の情熱にはついて行かれないところが出ます。
そこで、彼らを(教理統一教会から分離してきた人との意味で)、分離派バプテストとして区分するしかなかった。
他方、分離派の方では,旧会員の穏やかさが物足りなくなります。
彼らは燃えてますから。
そこで、自分たちだけで、他地域での伝道に走り出した、という風景になったようです。