前回、イエスとの同一化をするには、意志の力で全身全霊をあげての愛で愛することが必要と述べた。
今回は、その同一化という精神作業をする際に横たわる、もう一つの大きな障害について考える。
障害とは「罪の意識・自責の意識」だ。
これがあったのでは、人は安息の中で手放しでイエスに同化していくことができず、取り除くためには、知識が必要なのだ。

<暫定的な教えと究極の真理>
イエスは罪についても多くを教えていった。
だが、それは二重構造になっているのだ。
暫定的な教えと究極の教えとがそれを構成している。
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知識には究極でないものと、暫定的なものとがある。
人間の見つけ出す知識は後者であって、科学においてはそれは仮説という語で示されている。
科学は人間の行う認識行為だ。
人間は全ての事象を認識できないので、そこで得る知識は暫定的なものであって、それを仮説(仮に設定した学説)という。
人は新しい事象見えてきたとき、その理論(仮説)を修正する。
だが、修正した理論も、また仮説であって、科学ではそれを繰り返す。
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科学でも真理という言葉を使うが、そこでの「真理」は、人間には到達できないが、遠く望んで進む夢の目標、という意味だ。

<創造神は「究極の知識」を知っている>
だが、その視野に創造神が加わってくると、話は変わってくる。
創造神は「究極の知識である真理」をも知っているのだ。
万物を創造した創造神は、全ての事象を知っている。
自分が創ったのだから、全事象が認識範囲なのだ。

<だがイエスは暫定知識も教えた>
もちろんイエスもそれを知っている。
だが、知っていながら彼は、暫定的な教えもしているよ。
下記の聖句でイエスはそれをずばり直接言っている。

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「わたしには、諸君に話すことがまだ沢山ありますが、いま諸君(弟子たち)にはそれを耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます。
(ヨハネによる福音書、16章12節)
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最後の晩餐での言葉だ。
イエスはここで、自分が今話してきたのは、真理ではなく、暫定的な知識だ、といっているのだ。
真理とはもう修正の必要がない「究極の知識」を意味する。
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彼は人々(弟子たちも含む)に、罪についても語ってきた。
だがそれは暫定的な知識だという。
究極の知識(真理)は、聖霊が来て教えてくれるからね、とここで
いっているのだ。

<旧約の「戒め」は不完全で暫定的>
この究極の真理を知るには、まず、従来の罪の知識はどのように暫定的であるかを知る必要がある。
暫定的というのは、不完全な、という意味も含めている。
従来教えられてきた罪とは~
① 「律法を守らないこと」だった。
イエスは病人を癒やしたとき「もう罪を犯さないように・・・」といっている。
その罪は実はこれだった。
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姦淫の現場でとらえられて、イエスの前につき出された女を救った後に語った罪もこれだ。
有名な話だけれど概略を示しておくと~
「石打ちにすべき(して殺す)ではないか」と迫るユダヤ教の僧侶たちにイエスは
「罪なき者から先に石を投げよ!」という。
すると彼らは一人また一人と去って行って、女とイエスだけが残される。
その女にイエスは、
「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないように」という。
~この罪も「律法に反する行為」だ。
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だがイエスは、他の場面で「律法の戒めは不完全だ」と教えている。
それを示すために彼は「姦淫の罪」をとりあげる。
そしてこれも有名な
~「女を見て姦淫の情を抱くのは、行為と同様に罪だ」
~という教えをユダヤ教僧侶たちにカマす。
この戒めは旧約聖書に記されているが、そこで記されているのは行為に関する戒めだけだ。
だがそれはいわば「表の意味」であって、実はそれは「思い」に関する戒めも含んでいるというのだ。
そしてイエスは「わたしは律法を完全化しにきたのだ」といっている。
つまり、従来の旧約の律法の戒めは不完全なものなのだ。
不完全だが、わかりやすいので、暫定的に与えた知識だったのだ。

<真理には聖霊が導き入れる>
では、究極で完全なものとはなにかというと~
② 「イエスを信じないことによるもの」だという。
~イエスはその真理に弟子たちを「聖霊が来て導き入れる」という。
ではどうしてこれが完全なのか?
次回にそれに入ろう。
