
大晦日ですね。
2018年最後の記事を書きましょう。
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鬱を打破する聖書の論理、を追って平安・安息まで来てしまった。
なんか、主題と離れてきてしまったような観もある。
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そこでまた、全体像を鳥瞰しよう。
筆者はヨハネ15:7の「夢の(約束の)聖句」を探究した。
聖句はこれだった~

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「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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だが、世間を見回してみれば、これを実現しているクリスチャンは希なことがわかる。何故だろう?

<「① ⇒ ②」の移行が成ってない>
ここには(I)、(II) が出来れば(III)はオートマチックに実現する、という論理がある。
すると(I)から ⇒(II)への移行に問題がありそうなことがわかる。このあたりを吟味しなければならない。
筆者はそう思って黙想してみた。すると、どうも平安・安息の状態が関与している予感がしてきた。
理由はわからないが、そう感じた。
それでともかく安息・平安を考察してみたのだった。
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だがこういう考察は、原点から展開していく思考の手がかりになるべきものである。
そこで、改めて原点から考えてみよう。

<イエスと同一化した状態>
(I)イエスの言葉の中に留まり、住まっていると、どのようにして(II)イエスの言葉が中に住まう状態になるか。
言葉に留まり住まっていると、そのイエスの言葉が一つ一つ、当人の心の内に移行していくのか? それが蓄積して(II)の状態ができていくのか?
どうもそういう形の移行にはリアリティーが感じられない。
そもそも(II)の状態とは何か?
それは(I)の段階における「イエスの状態」ではないか?
このときイエスはイエス自身の言葉を内に抱いている。
このイエスの状態に、(I)の段階にある(イエスの言葉の中に住まっている)人間が飛躍・変身すればいいのだ。
そんなことが出来るか? 出来る。
どうやって? 同一化によってだ。
人間にはその能力が与えられていることを、哲学者ベルグソンは発見している。
これは前述した。
(I)の段階にいる人間が、(I)の段階にあるイエスに同一化すればいいのだ。
どうやって? 愛することによってだ。
愛するとは精神的同一化をすることだからだ。
これを全身全霊をもってすればいい。
それによって人は(II)の状態に至ることが出来る。
イエスを全身全霊かけて愛すればいいのだ。

<父と御子の一体性>
実はイエスはこれを父なる創造神との間で実行している。
イエスの~
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「諸君が聞いていることばは、私のものではなく、私を遣わした父のことばなのです」
(ヨハネによる福音書、14章24節)
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~はそれをいっている。
父なる創造神は、当然、自らの言葉を自らの内に持っている。
そしてイエスは、その父と同一化、一体化することによって、そういう父の分身になっている。
だから、自分が語る言葉は、父のことばとなるのだ。
その際、イエスは父を全身全霊込めて愛している。
祈るときにもこう祈った~

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「『私の願いではなく、みこころのとおりにしてください』・・・(中略)・・・いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように、地に落ちた」
(ルカによる福音書、22章42ー4節)
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これは凄い祈りだよ。
全身で愛してなかったら出来ない祈りだ。
愛とは、相手に精神的に同一化しようとする精神活動だからだ。
「創造神を全身全霊あげて愛すること」によって、御子は父に同一化・一体化しているのだ。
その結果、父の言葉がそのまま御子の内に内住した状態になる。父自身の内にその言葉が内住しているように、だ。
だから、「御子が語るときには、その父の言葉を語ることになっている」のだ。

<御子と人間の間でも同じ>
御子と人間のあいだにも、その原理があてはまる。
人間が(I)から(II)の状態に移行するのも、イエスに同一化し、イエスの分身となることで、可能となる。
その結果として、イエスの言葉が内に住まっていることになる。
人間の(II)の状態とは、「イエスと同じになった自分」の状態、イエスの分身となった自分なのだ。
さすれば創造神は自分の御子イエスと同じように、その人間を自分の子(神の子)と認識する。
だから(II)の状態(御子の分身の状態)となった人間の願いはかなえる・・・そういう論理だったのだ。

<同一化には安息が必須>
そしてここで平安・安息が浮上する。
(I)の状態にある人間が、イエスとの同一化をはかるという精神作業において、平安・安息が必要になる。
なぜなら、人間は「聖なるもの」には、本能的に「恐れ」をいだくからだ。
その一つは、自らに「汚れ」を意識することによる恐れである。
人は聖なるものを認識すると、自らに「汚れ」を意識して、あとずさりするのだ。
(余談だが、在物神宗教はこの心理をベースに成立している)

<主よ私から離れてください!>
新約聖書にもこんな記録がある。
~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。

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「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
(ルカによる福音書、5章 4~8節)
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人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。
だったら復活して突然目の前に現れたイエスに対してはどうか。
弟子たちはなかなか信じられなかったが、ついにイエスだと認識した時にはどうなるか。
その「聖」なること、生前のイエスより何十倍も強烈だろう。
その聖なる度合いは、魚が捕れた時のペテロの心情なんてものじゃない。
弟子たちは、自らの「汚れ」を自覚して、強大な「恐れ」を抱いて距離を置こうとする。
自然の情として後ずさる。

<まずとにかく安息を>
だが、イエスとしては、これから彼らには、本格的に(II)の状態になってもらわねばならない。
そのためには、恐れを消し去って、復活の自分に距離を置かないで、同一化してもらわねばならない。
分身となって、福音伝道に働いてもらわねばならない。
だから、イエスは、復活して現れたとき、なによりもまず「安息(平安)あれ」といったのだ。
「自分に対して恐れのない気持ちにまずなるように」させようとしたのだ。
もう零時をまわって2019年だ。
今回はこれくらいにしておこう。
