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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

31.「恐れ」「愛」「安息」および「同一化」

2019年01月01日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
大晦日ですね。
2018年最後の記事を書きましょう。
 
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鬱を打破する聖書の論理、を追って平安・安息まで来てしまった。
なんか、主題と離れてきてしまったような観もある。
 
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そこでまた、全体像を鳥瞰しよう。

筆者はヨハネ15:7の「夢の(約束の)聖句」を探究した。
聖句はこれだった~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、世間を見回してみれば、これを実現しているクリスチャンは希なことがわかる。何故だろう?



<「① ⇒ ②」の移行が成ってない>

ここには(I)、(II) が出来れば(III)はオートマチックに実現する、という論理がある。
 
すると(I)から ⇒(II)への移行に問題がありそうなことがわかる。このあたりを吟味しなければならない。

筆者はそう思って黙想してみた。すると、どうも平安・安息の状態が関与している予感がしてきた。
理由はわからないが、そう感じた。
それでともかく安息・平安を考察してみたのだった。
 
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だがこういう考察は、原点から展開していく思考の手がかりになるべきものである。
そこで、改めて原点から考えてみよう。

 
<イエスと同一化した状態>
 

(I)イエスの言葉の中に留まり、住まっていると、どのようにして(II)イエスの言葉が中に住まう状態になるか。

言葉に留まり住まっていると、そのイエスの言葉が一つ一つ、当人の心の内に移行していくのか? それが蓄積して(II)の状態ができていくのか?
 
どうもそういう形の移行にはリアリティーが感じられない。
そもそも(II)の状態とは何か?

それは(I)の段階における「イエスの状態」ではないか?
このときイエスはイエス自身の言葉を内に抱いている。

このイエスの状態に、(I)の段階にある(イエスの言葉の中に住まっている)人間が飛躍・変身すればいいのだ。

そんなことが出来るか? 出来る。
どうやって? 同一化によってだ。
人間にはその能力が与えられていることを、哲学者ベルグソンは発見している。
これは前述した。

(I)の段階にいる人間が、(I)の段階にあるイエスに同一化すればいいのだ。

どうやって? 愛することによってだ。

愛するとは精神的同一化をすることだからだ。

これを全身全霊をもってすればいい。
それによって人は(II)の状態に至ることが出来る。

イエスを全身全霊かけて愛すればいいのだ。

 
 
<父と御子の一体性>
 
実はイエスはこれを父なる創造神との間で実行している。
イエスの~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が聞いていることばは、私のものではなく、私を遣わした父のことばなのです」
 (ヨハネによる福音書、14章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~はそれをいっている。

父なる創造神は、当然、自らの言葉を自らの内に持っている。
そしてイエスは、その父と同一化、一体化することによって、そういう父の分身になっている。
だから、自分が語る言葉は、父のことばとなるのだ。
 
その際、イエスは父を全身全霊込めて愛している。

祈るときにもこう祈った~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「『私の願いではなく、みこころのとおりにしてください』・・・(中略)・・・いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように、地に落ちた」
     (ルカによる福音書、22章42ー4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

 これは凄い祈りだよ。
全身で愛してなかったら出来ない祈りだ。
愛とは、相手に精神的に同一化しようとする精神活動だからだ。

「創造神を全身全霊あげて愛すること」によって、御子は父に同一化・一体化しているのだ。

その結果、父の言葉がそのまま御子の内に内住した状態になる。父自身の内にその言葉が内住しているように、だ。

だから、「御子が語るときには、その父の言葉を語ることになっている」のだ。
 
  
 
<御子と人間の間でも同じ>

 
御子と人間のあいだにも、その原理があてはまる。
 
人間が(I)から(II)の状態に移行するのも、イエスに同一化し、イエスの分身となることで、可能となる。
その結果として、イエスの言葉が内に住まっていることになる。
 
人間の(II)の状態とは、「イエスと同じになった自分」の状態、イエスの分身となった自分なのだ。
 
さすれば創造神は自分の御子イエスと同じように、その人間を自分の子(神の子)と認識する。
だから(II)の状態(御子の分身の状態)となった人間の願いはかなえる・・・そういう論理だったのだ。

 
 
<同一化には安息が必須>
 
そしてここで平安・安息が浮上する。

(I)の状態にある人間が、イエスとの同一化をはかるという精神作業において、平安・安息が必要になる。
 
なぜなら、人間は「聖なるもの」には、本能的に「恐れ」をいだくからだ。
その一つは、自らに「汚れ」を意識することによる恐れである。

人は聖なるものを認識すると、自らに「汚れ」を意識して、あとずさりするのだ。
 
(余談だが、在物神宗教はこの心理をベースに成立している)


<主よ私から離れてください!>
 
新約聖書にもこんな記録がある。
 
~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
 (ルカによる福音書、5章 4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。

だったら復活して突然目の前に現れたイエスに対してはどうか。

弟子たちはなかなか信じられなかったが、ついにイエスだと認識した時にはどうなるか。
その「聖」なること、生前のイエスより何十倍も強烈だろう。
その聖なる度合いは、魚が捕れた時のペテロの心情なんてものじゃない。
 
弟子たちは、自らの「汚れ」を自覚して、強大な「恐れ」を抱いて距離を置こうとする。

自然の情として後ずさる。
 
 
<まずとにかく安息を>

だが、イエスとしては、これから彼らには、本格的に(II)の状態になってもらわねばならない。
そのためには、恐れを消し去って、復活の自分に距離を置かないで、同一化してもらわねばならない。
分身となって、福音伝道に働いてもらわねばならない。
 
だから、イエスは、復活して現れたとき、なによりもまず「安息(平安)あれ」といったのだ。
「自分に対して恐れのない気持ちにまずなるように」させようとしたのだ。

もう零時をまわって2019年だ。
今回はこれくらいにしておこう。





コメント
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