鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

10.<戦後の「一億総懺悔」がもたらしたもの>

2013年08月26日 | 聖書と政治経済学



マッカーサーの好意でキリスト教を導入の努力がなされたにもかかわらず、日本人は受け付けなかった。
なぜか?

日本人は、戦後、まず一億総懺悔をしたのだ。

日本は第二次世界大戦で負けた。
学校でも隣組でも軍需工場でも、「絶体に負けることがない」と教わっていたのに負けた。
神風が吹くといわれていたのに吹かなかった。

いま思えばなんと「空しい戦」だったか。人民は栄光の戦と教えられて戦地に赴いた。
多くの人々のいのちが、空しく散った。

父親には守るべき家族があったのに。
学徒たちには生きてしたいことがいっぱいあったのに。

学徒より若い多くの少年たちも、神風特攻隊という自爆テロに参加して死んだ。
死んだら霊魂は靖国神社に宿り、国を守る常勝の神々になれると言われて死んだ。

なのに、米国の物量の前にまさかの敗戦をしてしまった。
神国日本なのになぜだ?

一瞬呆然とした後、日本人民は考えた。




<クソッ、騙されていた!>

俺たち国民は欺されていたのだ!

何故欺されたか? 
「魂がどうこう]というような「見えない世界の話」を事実として信じたからだ。
「天皇は現人神(人の姿を取った神)」などといわれて信じたからだ。

「もうこういう見えない世界の話は絶体に信じないぞ!」 
そして、「これからは神とか霊魂とかいう話が出たら即座に逃げよう!」~と堅く心に決めた。

こうして一転、対極に走ったのだ。




<戦前も異例に単純な人生思想>

単純な思想の対極もまた単純にしかならない。
もともと終戦時に青少年だった世代の人生思想は単純そのものだった。

戦前の軍国国家は、小学校から人民に「国体への献身」という単純な行動目標を与え、
国家的ヒロイズムでそれを装飾した。
本屋の店頭には「軍神」のものが満載され、ちまたにはヒロイズムに満ちた軍歌が流れ続けた。
こうして全情報環境が、それ一色に染め上げられたのである。

受け手は子供だ。
彼らは英雄的感動と共に、何の疑念もなく苦も無く没入した。
青少年になっても、その国家目標に向かって邁進する、ということだけが彼らの人生観となった。
そういう単純きわまりない人生観、世界観だけをもった人間に育成されたのだ。

自由で多様性に満ちた社会環境ではそうならない。
そういう情報環境なら、子供でも子供なりに、人生や世の中に疑問を持つものである。
「オレはなぜ存在しているのか」「何のために生きるべきなのか」
「そもそも人間は生きるに値するものなのか」 「社会とは何なのだ」・・・等々を漠然と意識する。

だが、軍国教育のなかで育った子供たちの人生思想は明快だった。
教唆される国家目標に貢献する人生以外に、人生を考えることはなかったのだ。

この状況は、いまも、共産主義国の子供たちにみることができる。
日本の戦前・戦中派もまた思想的には純朴そのものの人間として造られたのである。
(だから日本軍の現場的戦闘力は強力だった)



<坊主は縁起が悪い・・・・・>

人間というものは、単純な思想を信じ続けていて、あるときそれが事実と違うと知ると、その思想を反転させる。
心のバランスを保つのに必要だからである。
戦後青少年の思想は単純に反転した。

戦後日本に一斉に花開いた「一億総懺悔」ブームはそういうものであった。
その主軸は「もう霊魂などの話は絶対に信じないぞ!」であった。

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この怨念含みの情念が生む社会事象は、当時幼年だった鹿嶋の記憶にいまも残っている。

たとえば、戦中派の青年たちは仏教のお坊さんを徹底して馬鹿にした。
「今日は縁起が悪い。坊主を見てしまったから・・・」といった会話が当たり前のようになされた。
で、子供たちもそれをまねて、同じ台詞を口にしていた。

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余談だが、それでも、人が死ぬと彼らは僧侶にお経を頼みにいっていた。
戦中派の霊魂理念には、理念などといえるほどに「知」は介入していなかったからである。
それは学校で反復教唆されるスローガンにすぎなかった。

だから、反転してもそれは「理念」にはならず、情念・情感のままであった。
情感にすぎなければ、そこには矛盾した慣習も簡単に混入するのだ。

そんなわけで、お寺の収入はゼロにはならなかったが、終戦後、仏教僧侶の経済生活は極貧を極めた。
(これが高度成長期にみごとに復讐されることになる。
仏教僧侶は、葬儀への出演に何十万円、戒名をつけて何十万円と請求し、それを受け入れさせた)




<戦後日本の欲望文化>

話を戻す。

一億総懺悔は、戦後日本に特異な精神文化を形成した。

目に見えるもの(物質)だけしか信じない。
確かなのは個人個人の心に湧く欲望だ。
それを素直に追求して何が悪い。

学歴も生涯所得のため、オカネのためだ。
働くのは、テレビ、クルマ、マイホームのためだ。
セックスブームもオーケー。

欲望バンザイ!

その路線上でいまだに「野心の勧め」などといってもうけている欲望女もいるが、
つまるところは、こんなのをセンセイといって崇拝するマスコミと人民の方に責任はある。

ともあれ戦後日本にはそういう精神(?)文化が濃厚にできあがった。
ラジオ、テレビ、新聞をはじめとするメディアでのメッセージ、ドラマ、情報は、
みなこの精神文化の上に形成されていった。

このなかで、マッカーサーが日本人の精神改造のために植えた苗は、またたくまに枯れてしまった。
こういう土壌には、キリスト教精神は根付かないからだ。

次回、その事情を、キリスト教の思想構造に焦点を当てて考えよう。









コメント
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