すべての障害のある学齢期の子どもに、義務教育を受ける権利が保障されたのは、小中学校の義務教育制度実施に遅れること32年目の1979年でした。
それから28年、障害児教育の手法に関しては大きく二つに意見が分かれます。
一つは、それぞれの個性に合わせ、特別に整備された環境で、できるだけきめ細かく対応して能力を最大限に伸ばすという方法。この場合は、対応するのは専門職の大人です。
二つめは、子どもの能力は、普通学級の中で子どもたちの中で揉まれることによって伸ばすという方法。この場合は、対応するのは大人と共に、仲間としての子どもたちです。
前者のためには、養護学校や盲・聾学校など、が準備されています。
就学の際にどちらを選ぶかと言うのは、千葉市教育委員会では「最終的には保護者の判断」としています。
学校教育法が改正になり、障害をもつ子どもたちにはさらに充実したサービスを準備し、その上今までは障害児と看做されなかった子どもたちにも「軽度発達障害」としてそのサービスが受けられるようになりました。
これを、特別支援教育と言います。
これをどのように捉え、どのように考えるかについては、さまざまな議論があります。
今日は、障害があっても特別なところに通わせるのではなく、近所の子どもたちの中で育てていきたい、という方々からお話をうかがいました。
特別支援教育では、個別の支援計画を立て、特別支援教員を派遣し、普通教室から取り出して特別支援学級で決め細やかな学習指導をする、というように、素晴らしい取り組みだと考えます。
しかし、この素晴らしいサービスメニューが、差別観の上に成り立ってはいないか、差別を助長しないか、ということを私たちはよくよく考えて取り組まなければならない、ということに気づかされました。
障害があっても、子どもたちの中にいたい、子どもたちの中で教育を受けたい、という彼らの希望を「特別に」という優しい言葉によって奪ってはいないか、子どもの輪の中から排除してはいないか、という観点をもつことが必要です。
仲間の中で身につけたことは、社会の中でも活かすことができる。
また、障害児とともに過ごすことによって、多くの子どもたちには教科学習からは得られない、有形無形の知恵と思いやりが身につくのです。
自閉症の子を指して、
「この子の為に、他の何百人という子どもたちにガマンさせろと言うのですか」
という言葉を、学校の管理者から聞いたことがあります。
効率を優先する大人社会の歪を学校教育の中に持ち込むと、こんな考えになりますが、そうなってしまっては、すでに教育の場ではない、と私は考えます。
学級の中のどのような子からの影響も、教育的効果へと昇華させる力量なくして教師と言えようか、と思うのです。
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