八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

糸島 志登神社 聖(日知り)物語

2013-12-02 01:32:06 | イケン!

  

古代日本人は季節を正確に測るために、 

太陽 が昇る位置をどうやって記したのだろうか?

  

答えは簡単、 

山に 柱(杭) を建てればよい。

 

参考までに、 

銅鏡 には 山に杭 のマークが刻まれている。

 

01c

01c2

 

きっと、

 

古代日本での 銅鏡 は、

方位盤 として使われたのだろう。 

 

ということで、

福岡県糸島半島の太陽の動きを調べてみると・・・・ 

 

 

福岡県糸島市志登に、

糸島地方唯一の延喜式内社 志登神社 がある。

Dscf1898

  

祭神は豊玉姫である。

この社地は、海神国から山幸彦を追いかけてきた

豊玉姫が上陸した霊地として伝えられる。

Dscf1908

  

鳥居と社殿の向きの指し示す方角は西南西であり、

冬至の日没方向である。

その彼方に二丈町大入(日が大きく入る)があり、

さらに、軸線を伸ばせば唐津市の桜馬場遺跡がある。

Photo

                                   (冬至の日没) 

 

注目すべきは社殿の向きの背面方向で、

今宿横浜の今山(夷魔山)を指し示す。

 

ということは、

夏至の太陽は志登神社背後の今山から昇る。

Photo_2

                                  (夏至の日ノ出)

 

今山は頂をふたつ持つ二上山(ふたがみやま)だった。

一年のうちでもっとも旺盛な夏至の太陽はふたつの頂の間から、

神々しく昇ったのだろう。

 

志登神社の神官や巫女が拝む方向は

今山であり、すなわち夏至の軸線である。

 

この軸線をさらに伸ばせば、

能古島の白髭神社を通り、香椎の立花山を指し示す。

 

立花山は今山と同様、頂をふたつ持つ二上山であり、

立花山から昇る太陽は天孫降臨

 「天の磐座をおしはなち、天の八重雲をおしわけて、

  いつのちわきにちわきて・・」 をほうふつとさせる。

 

今山は昔、夷魔山と呼ばれ、

山幸彦が弓で夷魔を射平らげたと伝えられるが、

Imajyuku02b_4

 

夷魔とは太陽(あるいは幻日)のことで

アジア各地に残る神話、太陽を弓で射る「射日神話」との

共通性があるのではないだろうか。

 

また、

今山の白髭明神と能古島の白髭神社の符合も気になってくる。

 

白髭神とは航海の安全を司る神であり、

伊都国の海上貿易を担った集団を暗示させる。

 

今山周辺には石斧を運ぶ航海に長けた集団が

暮らしていたのだろうか。

 

そして、あらゆるものを焼き尽くさんとする

夏至の太陽は西北西の火山(日の山)に沈む。

Photo_3

                                  (夏至の日没)

 

夏至とは対照的に、一年のうちでもっとも力の弱まった

冬至の太陽は東南東の高祖山から昇る。

Photo_4

                                  (冬至の日ノ出)

 

高祖山もまた南側の槵触山(くしふるやま)との対で

二上山であり槵触山と王丸山の間の谷は

日向峠(ひなたとうげ)である。

 

日向と高祖山と槵触山とは

日向と高千穂と槵触岳を連想し、日本神話と重なる。

 

日向とはヒムカ、

すなわち日迎えだろうか。

 

冬至の日に「お日待ち」といって、

村人が集まり食事を共にして一夜を明かし、

翌朝の日の出を迎え遙拝する風習(新嘗祭の原形)を

天の岩戸伝説に重ねて思い起こす。

 

冬至とは一年の終りと始まりを意味し、

現在、私たちが正月に初日の出を拝む習慣も

冬至と関係があるのだろう。

 

そして、春分・秋分の太陽は、

糸島を象徴する可也山に沈む。

Photo_5

                               (春分・秋分の日没)

 

さらに、

 

前原市平原遺跡出土の銅鏡

「内行花文鏡」(国宝)の文様を志登神社に置き、

図が指し示す八つの方角を調べてみると、面白いことがわかる。

 

 Kagamilarge_5

 

北は柑子岳、 北東は毘沙門山、

東は長垂山、 南東は王丸山、

南は雷山、 南西は宮地岳、

西は可也山、 北西は彦山  と正確に八つの方向を示す。

 Photo_2

 

銅鏡の使用方法は解明されてないが、

おそらく、伊都国の支配者は、

太陽光を銅鏡に反射させて遠距離での光通信を行い、

測量の道具として銅鏡背面の文様を利用して地形を測り、

太陽(季節)を読んで農耕の陣頭指揮をしていたのだろう。

 

今山石斧の交易分布をみても、

邪馬台国以前の日本最古の都は間違いなく伊都国であり、

今山と志登神社は古代史において

重要な都市施設だったのではないだろうか。

 

今宿の今山は、

歴史教科書にも載る資質を十分備えていると思われるのだが、

現在の今山は北側部分を大きく削られて片側を無くしてしまった。

 

このことは郷土の歴史の喪失だけでなく、

日本の歴史の喪失だろう。

 

今では、かつて今山がふたつの頂をもった

二上山であったことを知る人も少ない。

 

 

最後に、

天孫降臨伝説 の話を持ち出せば、

 

アマテラスの孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) は、

日向の高千穂の久士布流多気(高祖の槵触山)に天降る。

 

天降った 瓊瓊杵尊 は言う。

 

  この地は韓国(からくに)に向かい、

  笠沙(かささ)の岬まで真っ直ぐに道が通じていて、

  朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。

  ここはとても良い土地である。

  

さて、この伝説をどう読み解くか?

 

 

 


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
元 小呂島の中学校教諭山口です。 (山口哲也)
2014-07-13 01:34:48
元 小呂島の中学校教諭山口です。
以前、「志登神社を中心とした伊都国」の図を、
「九州古代史の会」の会報に使わせていただきました。

実は、昨年小呂島の小中学生とともに、
銅鏡は測量器具だったのではないかとの想定のもと、
方位を測量しながら島を縦断するという実験を行いました。
この実験をまとめ、福岡県の作品展に出したところ、
優秀賞をいただき測量業界の雑誌にも掲載していただくことができました。こちらで見ていただくことができます。
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eloro/2010/jidouseitonokatudou/sokuryoukyouiku.pdf

私は、銅鏡と矛がセットで測量器具に使われたのではないかと、
子ども達と考えました。

しかも、この古代方位磁針を使って、九州島を縦横に旅することができたと考えています。

これらのことは、小呂島の古代史を推測するなかで、至った結論です。
このたび、この推測の一部を、8月の「生き物文化誌学会」で紹介させていただく機会を得ることができました。

糸島は間違いなく、古代の最先端地域であり、天皇家の故郷であり、古事記の国生み神話の主要な舞台であることは間違いありません。さらに言うなら、小呂島こそ、イザナギ・イザナミが最初に作ったとされる「オノゴロ島」だと思います。

私は、この結論を「古事記の分析」「九州の主要な前方後円墳の主軸方位」「ビロウの自生地分析」という3つの方法から推測しています。

もしよかったら、「測量」の記事をご覧になっていただきたいと思います。
返信する
『測量教育最前線』興味深く拝見しました。ワクワ... (takahara)
2014-07-14 03:07:05
『測量教育最前線』興味深く拝見しました。ワクワクしますね。

ビロウって天に向かって真っすぐ伸びる。
ということは、山のてっぺんにあれば季節を計る目印になる。
ひょっとすると、ヤマトに移るまでのヒノキ(日の木)は、
ビロウだったかもしれません???

3本の棒で三脚を作り、その真ん中に紐で銅鏡を吊るし、
銅鏡に水を張る。(銅鏡は柄の方がくぼんでいる)。
そして、その水面に磁鉄鉱?を浮かべることができれば、
方位磁石の完成?と思いました。

神武東征を案内した3本の足を持つ八咫烏とは、
三脚を担いで測量する日知り集団だったのではとにらんでいます。
航海に長けた集団、黒装束で白髭の持衰と呼ばれた人たちも
八咫烏なのかもしれません。

測量道具としての銅鏡については、
『卑弥呼の道は太陽の道』(古村豊 著)が大変参考になると思います。

あと、古代の真北と磁北のズレが興味深いです。
誰も解明できない前方後円墳の向き?についてもよろしくお願いします。
返信する
『測量教育最前線』見ていただきありがとうござい... (山口哲也)
2014-07-16 00:06:39
『測量教育最前線』見ていただきありがとうございます。
ヒノキが「日の木」であったことすらはじめて知り、
なるほど伊勢神宮の式年遷宮に使われるわけだと、
なっとくです。勉強になります。
これがもともとビロウではなかったかとの考え、
面白いです。
聖(ひじり)も「日知り」であったろうということを考えると、
今よりずっと太陽信仰が強い古代人の姿が思い浮かびます。

ビロウは、中国南方から日本に流入した民族が、
神の木としてあがめていたらしく、
現在でも南西諸島では聖地とされる御霊には、
必ずビロウが植えてあるとか。

ビロウの葉は南方では生活と密着していたらしく、
様々な用途に使えるばかりでなく、実も食用になり、
海の民にとってなくてはならない恵みの木だったようです。

このビロウをあがめる南方の民族と、
朝鮮半島から南下して九州にわたってきた、
朝鮮系弥生人が九州で出会ったでしょう。

朝鮮では太陽信仰が強く、
朝鮮の神話にも色濃くその影響がみえるそうです。

ビロウ信仰と太陽信仰の融合の痕跡こそが、
ビロウ自生地と太陽運行方位との合致のなぞの答えだと考えています。
二つの民族の出会いと、攻防が神話にのこったのが、
海幸彦と山幸彦の物語ではないかとも思っています。

最終的には朝鮮系弥生人の山幸彦が主導権を握ったものの、
南方系弥生人である海幸彦の祭祀も取り入れられ、
古代の天皇家の形作られていったことを示しているように思えてなりません。

そして、私も山幸彦集団は測量をしながら、
最初は九州を南下したと思うのです。
両民族が出会ったのがおそらく宮崎です。
ビロウが茂る青島は天孫降臨の地との伝説があります。

実は、平壌→ソウル→釜山→対馬→糸島→吉野ケ里→青島
とほぼ直線にならんでいます。

今度は、逆に青島→小呂島にラインを引っ張ると、
もっと高密度で九州の重要弥生遺跡・古墳がみつかります。

しかも、糸島から見た小呂島の遠景は、
まさに初期前方後円墳である、
纒向型前方後円墳を横から見た姿と同じです。

宮崎の最古巨大古墳は、
ことごとく、小呂島の方角に向いています。

また、青島の青島神社を参拝すると、
まさにこの方角に手を合わせることになるのです。

自分たちの民族の祖先がどの方角からやってきたのか、
ちゃんと意識していたのでしょう。

そして、そこに銅鏡という『方位盤』は欠かせなかったはずです。

どのようにこれを使ったかについては、
私たちは一つの方法として実験してみましたが、
いろんなひとがいろんな方法を実際に試してみてほしいものです。

返信する
南方系と海幸彦、朝鮮系と山幸彦の仮定は同感です。 (takahara)
2014-07-16 01:57:17
南方系と海幸彦、朝鮮系と山幸彦の仮定は同感です。

>両民族が出会ったのがおそらく宮崎

>平壌→ソウル→釜山→対馬→糸島→吉野ケ里→青島とほぼ直線

>青島の青島神社を参拝すると、まさにこの方角に手を合わせる

>糸島から見た小呂島の遠景は、まさに初期前方後円墳

魅惑的な推察が並んでいて、ますますワクワクします。

小呂島と初期前方後円墳の相似から思ったことですが、

古代人は死後に『島』に帰る意味で前方後円墳を作ったのでは?
あるいは、祭祀を行うために『島』を作ったのでは?
新しいシャーマンごとに『島』を作る(=国生み)なのでは?
という仮説がひらめきました。

また、今夜も眠れそうにありません。

追伸:本日(7月15日)糸島の志登神社が全焼したそうです。残念。
返信する
まさに、小呂島=オノゴロ島であり、 (山口哲也)
2014-07-17 21:49:50
まさに、小呂島=オノゴロ島であり、
前方後円墳=オノゴロ島であったと。

>古代人は死後に『島』に帰る意味で前方後円墳を作ったのでは?
> あるいは、祭祀を行うために『島』を作ったのでは?
> 新しいシャーマンごとに『島』を作る(=国生み)なのでは?

まさに、同じ想定を私もしています。
福岡(糸島)から旅立った弥生人たちが、
「オノゴロ島」がそこにないから、
「オノゴロ島」を造ったのが、
前方後円墳の起源なのではないかと思うのです。
「オノゴロ島」こそ、日本神話のはじまりだからです。

だとしたら、福岡に3~4世紀の前方後円墳がない理由がわかります。
だって、福岡は本物がすぐそこにあるのですから。

小呂島がオノゴロ島である痕跡は、
国生み神話にも見て取れます。
国生み神話は「大八島の国」より、
その後に生んだという「小六島」の方が、
おそらく古い伝承だと思います。

小六島は、すべて玄海灘の島々であると私は思っていて、
すでに、「九州古代史の会」では論文を掲載していただきました。

これらも含めて、いつか本を出そうと思っています。

P.S.志登神社びっくりしました。
昨年、おまいりしたばっかりでした。
返信する
前言撤回というか修正です。 (山口哲也)
2014-07-30 10:55:39
前言撤回というか修正です。
福岡にも4世紀ごろの前方後円墳がありますね!
しかも糸島に。
御道具山古墳という古墳ですが、
なんとこれも、主軸後円部が正確に小呂島に向いています!
返信する
おひさしぶりです (山口哲也)
2015-11-19 16:30:39
お久しぶりです
小呂島=オノゴロ島=前方後円墳説について,
その後進展がありましたので,お知らせします。

全国邪馬台国連絡協議会という専門家・アマチュア含めた協議会が一昨年発足しています。
そこに,上記の説をまとめて論文にして投稿したところ,
hpに掲載してくださいました。
http://zenyamaren.org/yamaren15.html

さらに会員むけメールニュースで,
「淤能碁呂太郎(おのごろたろう)さんの淤能碁呂島から日本の黎明期と邪馬 台国を考える説得力があってユニークな見解が新たに掲載されました。小呂島という玄界灘の孤島が鍵とのことです。」と紹介され,嬉しい限りです。

これを機に,hpも立ち上げましたので,ぜひ一度お立ち寄り下さい。

         淤能碁呂太郎 こと 山口哲也
返信する

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