探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

伊奈忠次の出自を探る

2013-05-26 00:31:30 | 歴史
伊奈忠次の出自を探る

伊奈忠次の出自を探る 2012-08-17 03:42:54 | 歴史

伊奈忠次の祖父忠基 以前。

荒川易氏のとき、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため三河国に移り松平家の家臣となった。その子忠基は松平広忠・徳川家康に仕えて小島城を居城とした、・・・説。

易氏は太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を保科の里に住まわせた。太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した、・・・説。

後説の方に易次が二人出てきた。
叔父が易正だとすれば後説の方が、整合性がある。
さらに、金太郎易次は伊奈忠基の可能性がかなり高くなる。伊奈忠基の幼少名はなんと呼んだのだろうか。

武将系譜辞典 足利文書・・
荒川易氏戸賀崎氏元裔?四郎
易次易氏子太郎熊蔵

以下、つじつまが合うかどうかの考査。並びに、当時の状況把握。

伊奈忠基 不詳~1570
姉川の戦いで戦死 70過ぎとも72歳で戦死ともいわれている。
伊奈忠基は、元服を過ぎても後見人の叔父易正が城を戻して呉れないため為、三河に出たとある。
元服(15歳前後)とすると、1498年から1514年頃は、まだ信濃・伊那にいた計算になる。
保科正俊が生まれたのは1509年だから、5年間の「熊城(熊蔵)」での重複の共同生活の可能性ある。
易正には正則という子があり、正則の子が正俊であるから、伊奈忠基は易正・正則・正俊の3人共に面識があるということにもなる。その頃、叔父易正は保科家を背負い活躍していたのだろう
保科正則は筑前守とも称し高遠(諏訪)頼継の家老。続いて、保科正俊(1509-1593)も、弾正とも称して、高遠家の筆頭家老の地位にあった。

さらに、年代の考察・・
忠基の祖父荒川易氏は、足利義尚から信濃に領地を貰って移り住んだと言われている。この時期も不詳だが。
足利義尚の将軍在籍期間は1473~1489年、たぶんこの間に、荒川易氏は信濃の伊那に来たと思われる。
その場所は、信濃守護の幕府直轄の代行所が有っただろう場所、信濃の河野(豊丘村)あたり。このことは、あとで追いかけてみる。

仮に、年代・年齢からの推論・・
この時代、結婚年齢は今より若かったようだ。男子は元服(15歳前後)をすぎて5年ぐらい。女子は省く。結婚してから、長子は1,2年後、次子はその2,3年後に生まれる。もちろん、例外は当然ある。12歳男子と8歳女子の結婚も歴史書に記載があるが、この様な政略結婚等は省いて考える。
荒川易氏が1475年頃に30歳前後で信濃・伊那に来て、子供の易正を保科の里に、易次を熊蔵の里にすまわせた。そして生誕の年を探れば、太郎市易次が1470年代前後、易正は1472年前後か。伊奈忠次の祖父の忠基(=金太郎易次)の生誕期は、父の太郎市易次の28歳前後の時、1498年頃(+-2)と考えられる。また、保科正則の生まれた時期は、1490年前後?と推測される。そして、正則の子保科正俊は1509年に生まれる。
そして、荒川易氏とその子の太郎市易次は伊那か、少なくとも信濃で死んだと思われる。三河まで遺体を運ぶという習慣が無いとすれば、墓はその地のどこかにあるのだろう。伊奈忠基は当然墓の場所を知っていただろうし、子の家次や孫の忠次に語り継いでいただろう。
こう書いても、若干の疑問が残る。
名前からの疑問、易次の次は通常は次男の意味で、太郎市の太郎は嫡男の意味。
太郎市易次の子は金太郎易次。太郎市易次は金太郎の元服を待たずに、若くして亡くなっている。その場合、この時代は、名前を引き継ぐのだろうか。
易正が長子で、易次が次男であれば、年齢の推論からも、疑問が小さくなる。

歴史書で確認されていることは、「伊奈忠基 不詳~1570」。「正則の子保科正俊は1509年に生まれる」。

後は、「両家、荒川家と保科家の家系図」。
その間の年代は、すべて推定・・・だが、「当たらずといえ、遠からず」と、確信がある。

時を経て、1563年に三河一向一揆が起こる。
場所は、東三河の碧海郡、矢作川の西岸地域である。矢作地方の郡代を勤めた伊奈忠基一族は、家康側と一向一揆側に二分する。やがて1564年に、家康側が勝利すると、一向一揆側にいた伊奈家の家次や貞吉や忠次は三河を追われるように離散する。家次や貞吉は堺に、忠次は伊那に、逃避する。伊奈忠次が14歳の時である。

この頃、伊那には保科正俊がいた。当時保科正俊は55歳である。1552年に高遠家が武田信玄により滅ぼされて以降、保科正俊は槍弾正として、武田の臣下にいた。高遠城の城将として、身分は先方衆(120騎持ち)としてである。以来正俊は、信玄に従軍し、数々の戦いに参戦している。高遠城は高遠家が滅亡して以来、秋山信友が城代を勤めた後、秋山信友は飯田城に移り、信玄の子の武田勝頼が高遠城主となった。1570年勝頼の後に、高遠城主となった武田信廉が高遠城主になった折、保科正俊は嫡男の正直に家督を譲り、次男の内藤家の箕輪城に引退した。保科正直は1574年には高遠城守備を命じられている。

*先方衆(120騎持ち)とは、大名領国の外に知行地を持ちながら、その大名に臣下することをいい、戦国大名は、およそ1万石で正規軍250人と数えられることから、逆算すると5千石弱くらいの、小豪族と思われる。

そして、伊奈忠次は伊那に逃避した。伊那の何処だろうか?。
塩尻の元荒川家家臣のところ、さらに明科の熊倉の里にいった、という説があるが、少し無理があり、説得力を感じない。あまり合理的で無い様に思う。
伊奈忠基が存命でもあり、その祖父から伊那行きを勧められたのではないか。同じ血を引く保科正俊・正直のところへ行ったのではないだろうか、と考えている。藤沢を含む高遠近辺である。そして、治水の研究もかねて信玄堤、釜無川・笛吹川などの近辺なども可能性を感じる。この時、武田信玄の有力な家臣となっている保科正俊の「つて」で、である。保科正俊は、すでに「槍弾正」と呼ばれ、高遠城将であり、藤沢城に住んでいた可能性がある。

1564年から5年間、正俊が55歳から60歳まで、伊奈忠次が14歳から19歳までの5年の間の話である。


伊奈忠次の出自を探る2 2012-08-21 14:15:11 | 歴史

伊奈家の家紋の話

関東代官頭、伊奈忠次の先々代は荒川と名乗っていた。

所は、高遠の山深く、三峰川の支流、山室川の上流に芝平の里があり、そこに諏訪神社がある。そこで不思議なものを見た人がいる。二つ巴紋である。もともと諏訪神社の家紋は「梶葉紋」とされているのにだ。灯籠の宝珠の下に巴紋がある。正式名称は「二つ頭左下がり巴紋」というのだそうだ。宝珠とは玉葱状の石細工で、灯籠の笠の上に存在する。
芝平諏訪神社の、ごく近くの地名に荒屋敷がある。荒のつく名前の屋敷がそのまま地名になったのだろう。
残念なことに、この芝平地区は廃村になっている。度重なる土石流災害と川の氾濫が原因だそうである。諏訪神社の歴史を知る人や荒屋敷の名の由来など知る古老はますます少なくなりそうだ。

信濃国高遠。

伊奈忠次は、この地に二回来た可能性がある。一回目は、三河一向一揆の後で、一揆側に付いた忠次の敗戦逃避の時、祖父忠基(易次)は元気でおり、叔父易正の孫の保科正俊も現役の頃。二回目は、武田戦に勝利した織田・徳川家が信濃を織田領に、甲斐を徳川領に分けてまもなく、本能寺で信長が殺されて、家康が信濃を徳川領にと動いたときである。この時、伊奈忠次は、その作戦の主力メンバーであった。この時、保科正俊は、北条家の後押しもあり、高遠家の城主であった。この保科正俊の懐柔の役目を伊奈忠次が担った可能性は極めて高い。この時のチームリーダーの酒井忠次への取次も伊奈忠次が行ったのだろう。もちろん、親戚同様に仲の良かった真田家の信之からの斡旋もあった。真田信之は父と違い、家康の家臣であった。この保科家と真田家の親戚つきあいは、共に武田家臣の時の川中島の合戦以来と思われる。武田家臣の三弾正のうちの二人、槍弾正の正俊と攻め弾正の真田幸隆。真田幸隆が川中島で上杉勢に囲まれた絶体絶命の時、単騎で幸隆の所へ飛び込んで助けた、とあるが、この時以来と思われる。

伊奈忠次は、家康が信濃経営に乗り出す前、駿河に呼び出されて、家紋の変更を命令されている。この時から、九曜紋から二つ巴紋に変わる。これで二度目。一度目は、家康に反抗して、一向一揆に参加し、後に許されて、家康の子、信康に仕えたとき、(たぶん自主的に)葵紋を止め、九曜紋にしたのだろう。
前の葵紋が双葉葵なのか、茎葵なのか、不明。さらに、二度目の九曜紋は、角九曜紋なのか、九曜紋なのか、不明。
つまり、荒川家から伊奈家へと続く伊奈忠次の家紋は、最初「葵紋」次ぎに「九曜紋」最後に「二つ巴紋」そして替紋として「剣梅鉢紋」と変遷した、という流れであるが、前の二つは、書に記載があると言う程度の話で、信頼度は少し薄い。巴紋は墓などに彫られているので、確定的であろう。家紋に替紋もある、と言う事実も最近知った。
伊奈家の以前の葵も気になるが、保科家の家紋は角九曜紋だから、さらに気になるのは九曜紋のことである。

鴻巣に勝願寺という寺がある。
伊奈忠次はこの寺の墓に埋葬されている。また、この寺には、真田信之の正室と子供の墓もある。
鴻巣の勝願寺に、伊奈忠次と三代目の関東郡代となった伊奈忠次の次男忠治とあと2つ、計四つの 宝篋印塔の墓ががある。

控え室の雑談記 伊奈忠次の治水技術・知識の原風景を探る 
2012-09-04 13:27:19 | 歴史
知識や技術とか強烈な精神構造がどのように培われたか、を探ることを、出自とは言わない様だ。突然に、強い精神が生まれることも、急に知識や技術が身につくことも、無いとすれば、その人の、生まれてこのかたにあるのは必然、それを、原風景と呼び、探ってみる。

祖父忠基の三河

元服を終えた金太郎易次は信濃を離れ、三河に行く。そこで名前を伊奈熊蔵忠基と変える。伊奈熊蔵忠基が小島城の城主となるのが、後年の約60歳(1561年)の時だから、およそ45年間三河のの何処かに生活して、徐々に一族郎党を増やし、地元と密着し、小豪族としての体裁も整えていったのだろう。頼ったのが、荒川・戸賀崎の吉良一族であろう事は、後の一向一揆の時、一族の約半分が、東条吉良家の荒川義広(弘)に与したことからも伺われる。この三河一向一揆のリーダーは荒川義広の実兄の吉良義昭である。三河の新参者の伊奈熊蔵忠基は、おそらく、絶えず氾濫を繰り返す矢作川の河川敷の荒れ地か、荒れ地の近くを領地として与えられたのではないか、これは想像であるが、後に散見される治水の知識や堤防の技術から伺える。矢作川の河川敷荒れ地を耕作地に替えながら、少しずつ力を増大していったのではないか・・・祖父熊蔵忠基から始まる、伊奈熊蔵忠次の伊奈流と言われる治水技術の原風景である。
西尾市の歴史人物の「偉人録」の伊奈熊蔵忠次の項に、本多清利さんの「家康政権と伊奈忠次」の紹介文がある。
「三河一向一揆の反乱に連座して父子ともども小島から追放された。・・・各地を転々として渡り歩く放浪生活・・・忠次は質実剛健の士分であったが、なりふりかまわず食を求めて雑役に従事した。すなわち行く先々で、地頭や地侍が河川の堤防や、用悪水路の補修を施工していれば、一般農民とともに人足として働き、・・・忠次なりに堤防や用悪水路のより有効適切な施工技術を生み出し、地頭や地侍層を驚かせた。・・・」
本多清利さんは、西尾市や付近各地に残る伊奈忠次の風聞を言語データとしてつなぎ合わせて、上記の本を書いたのだろう。
伊奈忠次の足跡を追いかけてみても、治水の基礎知識、施工技術のレベルの取得は、この時期でしかあり得ない。


伊奈家の精神風土 2012-09-13 01:59:09 | 歴史

三河一向一揆

伊奈熊蔵家・伊奈半十郎家が関東代官頭時代・関東郡代時代に業績を残した各地には、地名を残したり、伊奈を冠にした神社や、銅像を残したりしている。いわゆる「官」のリーダーを民衆の手で、尊び懐かしんで、のことで、このことは、他にほとんど類を見ない。業績に対する尊敬や人気は、神様仏様伊奈様と称せられ、事あるとき(災害や飢饉)、幕府よりも郡代様頼りだったことが、当時の各地に残る資料からも伺われる。

時には、幕府の意向をも無視して、窮民救済を行った伊奈家(熊蔵家・半十郎家)の精神構造とは、どんなものだったのだろうか。家康や将軍に対しての距離感、窮民に対しての距離感は、幕府のトップ官僚の立場であったから、余計に興味がわく。そこに宗教は存在するのだろうか。
代々、関東移封後の伊奈家は、浄土宗の有力檀家であった。伊奈熊蔵家は忠次を中心に前後四代の墓を、鴻巣の勝願寺に持っている。忠家、忠次、忠政、忠冶(半十郎)の四人である。忠克以降の半十郎家は、川口市の源長寺にある。また、忠政の嫡子の忠勝は九歳で病死しいるが、伊奈町小室の願成寺に葬られている。三寺とも浄土宗である。
・・・この項の目的とは違うが、熊蔵家と半十郎家の関係を少しだけ説明しておきます。忠次の嫡男の忠政が亡くなったとき、忠政の子の忠勝も九歳で亡くなり、熊蔵家はここで改易になり断絶する。後に、忠勝の弟忠隆が成人を迎える頃に許されて、旗本として復活するが。幕府天領と関東治水事業は伊奈家の名声と業績を惜しむ声が多く、忠次の次男の忠冶が関東郡代として引き継ぐこととなる。なお、将軍家光の相談役だった保科正之(家光の弟)が行った、末期養子の禁の緩和(嫡子法の改革)は、由井正雪の乱のあとだから、この数十年後のことで、伊奈家の改易・復活には関わっていない。医療の貧弱だったこの頃は、領主(城主=大名・小名)が若死にする場合が多く、改易となれば、配下の大量の武士が浪人し、多大の政情不安が起こり、この因で由井正雪の乱も起こった。保科正之の嫡子法の改革は、数ある保科改革の善政の一つといわれている。・・・

伊奈熊蔵忠次を祖とする、伊奈家は代々、敬虔で真摯な仏教信者であったと聞く。
では、伊奈熊蔵忠次が若くして経験した、三河一向一揆とは、何であったのか。
三河一向一揆については、簡単な解説や大久保彦左衛門の「三河物語」などで、実際よく分からなかったが、、最近、杉浦幹雄さんのブログで「父なる教えー浄土真宗ー」を読ませてもらった。分かりやすい解説だ。
それを基に、要約しながら考査してみる。

三河地方の浄土真宗の根付き方。
三河地方には従来より、聖徳太子信仰と善光寺信仰が、多く見られるようだ。今もお寺や旧家には聖徳太子絵像と長野善光寺絵馬がかなりの数、残っているそうな。この人達は、念仏集団を作り、講という形で集会を行っていた。
15世紀、三河浄土真宗の萌芽は親鸞の矢作での説教に始まった。時が経ち、蓮如の時代になると、蓮如の弟子に如光が現れて、精力的に真宗の布教を行うようになる。彼は油ケ淵の伝説のボスとも呼ばれ、入り江の油ケ淵の漁業権、内陸の寺町の商業権、城の出入りも統轄したようである。如光は佐々木上宮寺で息女と結婚し、上宮寺の住職となり、ここを拠点に、オルガナイザーとして、布教拡大に力を発揮してゆく。門徒は百姓だけでなく、武士・町民、さらに職人や漁業関係者も多かった。宗教活動は、矢作地方で、縦割りに組織を超え、横割りの宗教的連携活動をしている。浄土真宗の信者には家康の家臣も多くあった。
三河一向一揆
人質生活から、岡崎に戻った家康が、まず目論んだことは、西三河の支配と領国造りであった。真宗の寺がかなり多く、年貢徴収には何かと文句が多い。本願寺には喜んで寄進するし、寺内町は商業が繁盛しているし、「不入」特権があり既得権が他にもあった。家康22歳の時の決断は、真宗の寺をけしかけて、門徒を分散させ、蹴散らすことであった。家康の直参家臣で真宗門徒の石川・本多・鳥居などの一族は敵味方に分かれた。東条城の吉良義昭は非門徒であったが、一向一揆に組みして蜂起した。伊奈熊蔵忠基は家康側についた。孫の忠次と父は吉良(荒川義広)の一向一揆側についた。家康はまずここから攻めた。戦況は、一揆側の直参の家臣団は家康とは戦いぬくいし戦意も喪失する。圧倒的に家康有利に進んだ。リーダーの吉良義昭は早々と降参してしまう。
ここで、家臣の大久保が和議を提案し、1562年に和議が成立する。条件は、坊主を除き、一揆参加者は赦免、一揆張本人の助命、「不入」特権の承認であった。この様にして、三河一向一揆は終結する。
伊奈熊蔵家は東条吉良の同族の吉良(荒川)義広との義で、一向一揆側に加担したと言われている。配下に真宗信徒を多く持っていただろうことは、想像できるが、熊蔵自体は真宗信徒であると言う資料は出てこない。
・・・家康の参謀・本多正信も三河一向一揆に一揆側で参加した。あと各地を放浪し、後に家康に帰参した。後年に死しての墓は、京都東本願寺に埋葬されて、ある。改宗しなかったようだ。・・・
時をほぼ同じくして、一向一揆が各地で起こっている。代表的なのは、三河一向一揆を含めて三つ。加賀の一向一揆、長島(伊勢)の一向一揆。織田信長は、長島一向一揆で二万人、比叡山の焼き討ちで三千人、高野山金剛峯寺で千人の、世界でも類を見ない大量殺戮を行っている。この頃も、織田信長は、石山合戦で、本願寺門徒と対峙していた。京にある僧侶寺院・貴族・朝廷は、この怨恨を明智光秀に託した。これが、世に言う「本能寺の変」である。この背景分析は、教科書で習ったことと違った結論だが、合理的で、ある意味正しいと思っている。

さて、伊奈忠次の精神風土だが、一向一揆に参加して敗れたが、浄土真宗への信仰の宗教心はどうも見えてこない。
改宗したという痕跡も見つからない。伊奈忠基の、一揆が起こったときの檀家寺が何処だったが分かれば、話は別だが、資料は今のところ見つかっていない。以後の伊奈熊蔵家は一貫して浄土宗徒である。

関東天領を預かる代々の伊奈家に貫流する、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、はどこから来るのだろうか。
仮説する。
小田原の役(北条征伐)のあと、五国大名となり巨大化した家康を危険視した秀吉は、関東移封を命じた。家康の重臣達は、荒廃している関東をみて、こぞって反対した。その中で唯一関東に行くべき、と主張したのが、伊奈忠次であったという。
その時、伊奈忠次の頭の中には、すでに利根川の東遷、荒川の西遷の青写真があり、関東平野中央部の広大な河川敷的荒れ地を、豊穣の作地に替えうる方策があり、伊奈家代々の仕事とする自負もあった。この自負があったからこそ、関東に行くべし、と主張したのだろう。優れたテクノラート官僚の、グランドデザインでもある。事実、関東移封当時、180万石とも、250万石ともいわれた家康の所領は、後に400万石になった、と言われている。
そのすべてが、伊奈家の業績では無いだろうが、中核は、常に伊奈関東代官頭・郡代であった。
民を豊かにし、徳川家を豊かにする事を絶えず冠にした職業倫理観は代々引き継がれる。この職業倫理観は、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、と共通する。度々起こる自然大災害の際、この救済は伊奈家以外できないだろうという自負と倫理観をもって対応する。それも歴代である。
上記は、仮説である。


芦川殿館 2012-10-26 01:24:52 | 歴史


伊那忠次から5代前の荒川易氏の信濃入りの場所は何処であったのだろうか?
・・・6代前の説もあるが、伊奈家の祖は荒川易氏・荒川太郎市易次・荒川金太郎易次=伊奈忠基・伊奈家次・伊奈忠次という系譜が、合理性が高いと思うので、5代前とする。

荒川易氏は足利義尚より信濃に領地を与えられた、とある。場所は、将軍足利家の領地と考えるの自然に思う。当時の幕府直轄地の可能性の高い郷は河野・伴野庄(今の豊丘村)あたり。承久の乱の歴史に名を残して以降、河野氏・伴野氏の名前は歴史から消えていく。小豪族になったのか、家が廃絶したのかは不明。その頃、信濃を代表する大豪族は、信濃四大将と言われる四家、小笠原家、諏訪家、村上家、木曽家である。この豊丘村は不思議な地域で、他藩の飛び地領土だったり、幕府直営地であったりして、隣接しているにもかかわらず、信濃守護の小笠原家の領地でなかったようだ。これは、小笠原が足利尊氏の臣であり、信濃守護も将軍足利家より任命されたことに由来することに思う。
河野の地に、芦川殿館の遺構がある。館と城の違いは、単なる大きな住居とその住居に戦闘(争)・防御機能を付加しているかどうか、による。また、芦川の名乗りは、足利氏が地方に出て名乗るとき、足利を名乗るのが憚られるとき、と聞く。つまり、足利氏(足利傍流)の別称と考えていい。
荒川易氏は足利傍流である、と言うことを踏まえれば、荒川易氏は、芦川館に住んだ可能性高い。

時は、文明の内訌。
信濃四大将の二つ、小笠原家は松尾・鈴岡・府中(松本)で三つ巴の内乱、諏訪家は、上社・下社・惣領家、しばらくして高遠家も加わり、内乱、やや早めの、戦国時代に突入した時期。
荒川易氏は、子供二人を豪族に、の思いを託して養子に出す・・・推測。
易正を保科の里、易次を熊城(蔵)の里へ。


易正を保科の里へ 2012-10-26 20:10:38 | 歴史

文明の内訌

文明15年(1483年)に諏訪家(諏訪大社の上・下社の大祝と惣領家)に一族間の勢力争いの内乱が起こった。
これを、文明の内訌(内乱)と呼ぶようになる。
諏訪一族の内乱は、中世の歴史に詳しい人でも、すぐには頭に入らない、複雑で特異な事情を含んでいる。また、神社や神道を理解していなくては、解けない状況もある。さらに、鎌倉期の幕府と諏訪家の関係も特殊だ。それを踏まえて、比叡山や高野山の寺が兵を持ったように、神社が兵を持つようになる。僧兵ならぬ神兵(=諏訪神党)だ。この諏訪神党の中核は、大祝の継承権を持つ嫡子以外の次男や三男など、惣領家も同じ、さらに諏訪家の有力な氏子などであったが、諏訪家が北条得宗家と御身内関係を持ち、養子などで血縁関係を持つ頃に、諏訪神党は信濃各地に勢力を拡大増殖した。この諏訪神党のうち、有力のものは、諏訪大社の神事・祭事を経済的なものを中心にプロデゥースした。この役に就く諏訪神党の豪族は、有力豪族として神党内の支配的な立場につくと言われる。
権力の二重構造である。
個人的には、この複雑な権力構造が、守護小笠原家の大大名への道を妨げ、甲斐武田の信濃侵略を招いたと思っている。

易正を保科の里へ

荒川易正が保科の里へ養子にいったことは、史実から確認されている。保科の里は、川田郷保科(長野市若穂保科)であろう、というのが、各書にある一般論のようだ。
だが、そうであろうか?
保科の里は、川田郷保科の他に、1500年前に、藤沢郷に幾つかの保科の痕跡を見ることができる。1482年保科貞親は荘園経営で、高遠城主高遠継宗と対立。この時保科貞親は高遠継宗の代官であった。高遠家の荘園の範囲は、藤沢・黒河内地区プラス近辺と見るのが妥当に思う。そうすると、保科貞親の居城はこの範囲内。同年の守屋満実書留によれば、藤沢台の八幡社が保科家の鎮守とあり、また七面堂に保科家の墓がある、とある。この地も保科の里である可能性がでてきた。
ここにたどり着くのを妨げた要因は、藤沢の名前である。鎌倉初期に納税を怠った藤沢黒河内荘園主の藤沢氏は、その咎めで比企能員に殺される。だがその係累の藤沢氏がずっと藤沢郷にいたのだろう、と思い込んでいたが、これは大きな勘違いで、後の、福与城の戦い(武田信玄と藤沢頼継)の藤沢氏と鎌倉初期の藤沢氏を結ぶ関係資料は、探したところ出てきていない。どうも別流らしい。藤沢頼継等の藤沢家の地盤は箕輪六郷とあり、高遠とは近接だが、境界線は出入りがあったのだろうが、藤沢郷や高遠が地盤ではない、と言うのが推論の結論だ。
信濃に来て間もない荒川易氏が子供を養子に出す先が、川田保科の里は遠すぎて、やや不自然で、秋葉街道を北上すること約50kmの藤沢郷保科の里の方が理にかなっている。
高遠継宗が城主・荘園主で代官の保科貞親と対立したのが1482年、保科家親・保科貞親(筑前守)・正秀・正則・正俊と続く藤沢郷保科家の何処に、易正は位置づけがあるのだろうか。それは、貞親の養子であり正秀=易正となり、やがて代代高遠家の重臣の地位を上げていく。途中、1488(前後1)年に村上顕国の侵攻で、川田郷保科の保科正利が合流してくる。・・・この様な流れであろうと推測する。ここに資料はない。

だが、どうして諏訪神党と接点をもったのだろうか?・・いつ・どこで・なにが・なぜ・だれが・だれと・・疑問符は少しずつ真実近づけてくれる、と信じている。その危うい思考の過程を記録していくことは、後年に同じ疑問を持った人(=後輩)に、多少の時間の余裕と道筋を示すことができる、と思っている。結論は当然違ったものでもよい。

当時、河野・伴野(現在の豊丘村)にいた諏訪神族は、知久家一族と思われる。箕輪の知久沢を源流とする知久家は、伴野地頭を経た後、この頃はすでに、より領地の広い知久城に移っていた。神ノ峰城の築城はこの頃より後である。この地に残っていたのは同族の虎岩氏である。虎岩氏もまた諏訪神族である。
荒川易氏と虎岩氏が接点を持ったという資料はないが、同時代の同場所で接点を持たなかった、と言うのも不自然であろう。当然ながら、虎岩氏は諏訪神族の内情にも詳しい。家系存続が最優先課題の時代に、その問題を抱えた保科家と繋いだ可能性はある。それが虎岩家の本家の知久氏であったのかもしれない。偶然かもしれないが、知久氏の系譜の中に、易を名前に取り込んだ系譜がある。・・資料がほぼ無い、推論である。


易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。 2012-10-27 17:29:41 | 歴史

熊城(蔵)の里
伊奈忠次の祖父伊奈忠基は、三河に流れて、それまでの荒川(金太郎=幼名)易次から伊奈熊蔵忠基と改名したと言われる。そのいわれは、伊那の熊城の城主だったことを、誇りに思い、懐かしんで付けた名前だとされる。城を蔵に替えて。確かに、城を名前に使うのはおかしい。徳川家康の家臣になった折りにも、問われれば、答える内容だったと聞く。以後、五代にわたり、関東郡代頭(小室丸山)時代まで、伊奈熊蔵家は続く。

では、熊城は何処にあったのだろうか?
熊城の場所の特定は、極めて困難な作業であった。今でも、確信まで行っていない。

伊那の古城で熊城と名前が付いている城は幾つかある。
一つは、長谷にある、市野瀬氏築城と言われる「熊野城」、あと二つは、諏訪大社近くの文明の内訌で戦争の拠点になった諏訪の「新熊城」、さらに向城(別称小熊城)。諏訪を伊那とは呼びませんが、中世は藤沢・高遠地区と諏訪は同一文化圏・生活圏なので、少し無理して範囲を広げています。この三つの城とも、荒川・保科家の流れから可能性を感じるが、否定する要素も多い。

神稲

以前から気になっていた地名がある。豊丘村神稲だ。神稲は「クマシロ」と読む。この読み方は、クイズで出されても、正解率が極端に低そうな難しい読み方だ。、稲を「シロ」と読める人はほぼ無いように思える。熊稲の成立は、明治8年に、近在の田村・林・伴野・福島・壬生沢の5村の合併により生まれた。当時は、熊稲村と呼ばれた。
この熊稲の壬生沢と言うところに、芦川館と浅間城の古城が二つある。地元では、足利一族が隠棲したと伝承されているようだ。隠棲とは、字のごとく、隠れ住むことを意味する。

以下、推論である。
壬生沢の芦川館(中心)に住んでいた荒川易氏・太郎正易次・金太郎易次の一族の居城では、1510年前後は、すでに易氏・太郎正は死んでいたと思われるが、叔父の易正は、保科一族ともども壬生沢の荒川家に合流してくる。高遠家は満継の時代になって衰退し、代官職の保科家も藤沢郷を離れざるを得なかったようで、幼少金太郎易次の後見役としてこの地に居座った。金太郎が成人しても出て行かない叔父易正に悲観して、金太郎易次は伊那を離れ、三河に流れたようだ。一方保科易正(正秀/正利/正尚)は小笠原家に合力し、やがて駄目な満継が引退し、頼継が継承すると、息子の正則を高遠頼継の旗本として送り込み、弾正正則は重臣の家老職になる。壬生沢は保科家が継承し、小笠原家の先付衆としても、又諏訪神党としても、この地に存在したため、壬生沢の城は神城(カミ、クマとも読む)とも呼ばれた。
・・・証拠となる資料はない。神城=熊城=熊稲の語源の推理である。稲は城の当て字。あくまで推測である。

状況証拠として
1545年、武田と対峙した福与城の戦いの中に、藤沢方を応援した小笠原信定(鈴岡)の家臣団、下伊那・中伊那の旗本衆のなかに、保科弾正があります。・・・小平物語
1548年、藤沢頼継が保科因幡に、保科旧領の藤沢御堂垣外200貫を安堵したとあります。保科因幡が誰であるか、不明ですが、保科一族と見ています。換算式(1貫=5石)に従えば、で、1000石。・・・御判物古書の写し(守谷文書)
1552年、戦功により、保科筑前(正俊)は武田信玄より旧領に加えて、宮田700石、諏訪沢底500石を与えられています。
武田の軍役で、保科弾正(正俊)は120騎の兵力を持っていたと書かれています。換算式(1万石=250人の兵力)に従えば、、120騎は4500石ぐらい。上記以外に領地が2300石ありそうで、そこが何処かは不明ですが、本拠地藤沢以外で宮田が飛び地であることから、宮田近辺もが想像されます。前述の流れから豊丘や長谷が可能性高い、と思われます。

上記を書くに当たって、こんなに資料の少ない、推理推論の多いストーリーを晒していいものか、悩み、論理整合性に欠けてはいないか、読み返し、個人的な多忙もあり、筆がほとんで進みませんでした。


伊奈忠次の源流の再資料
5代前の荒川易氏の信濃国 2012-12-17 00:41:22 | 歴史


頼んでおいた資料が届いたと近くの図書館から連絡が来た。
「豊丘村村誌」である。知久氏と芦川氏館の項をを調べたいので、取り寄せをを頼んでおいたのだ。
埼玉県に住む者が長野県の図書館に蔵書されている資料を見るには、近くの図書館を経由する方法があるのは最近知ったことである。

以下、原文をそのまま記載する。
「豊丘村村誌」上巻、P143-P144・・
第1章第8節 壬生沢の足利殿
これより先、天正元年京都の室町幕府の第十五代将軍義昭は、武田信玄と結んで織田信長を討たんと画策し、却って信長のために追われ、将軍はここに亡びてしまった。この時に足利氏の一族の者が亡命して、信州の山奥の壬生沢の天険、字あしかわに拠り、その名あしかがをかくしてあしかわと言ったという伝承があって、村内ではこれを知り「足利殿」と言い、京都から来た足利氏であると伝えている。これを明らかにする文書はないが、足利氏の遺品と称するものを見れば単なる伝承ではないと思われる。足利一族が亡命して隠棲したと言う所は壬生沢中心の高台を利用した天険の地に構築された城砦である。正面から城址が見えず、南と北に開け、東方は山地につづき、館の址は今水田となっている。付近には土塁の址、物見台、すずみ場、碁打場、馬屋のつるねなどの地名があり、無名の墓もある。東方の渓谷から引水した井桁の址も残っている。この城址から足利時代の茶臼が発見されたが、俗鄙では到底見ることのできない大型のうすで、しかも精巧にできている頗る貴重なものである。足利殿はここで農耕しながら武技を練り、したたかの黄金をためたらしい。そして勢いにまかせて矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されてしまった、と言うのである。この時のこして行った馬の鞍、青貝ずりの矢筒、弓矢、画軸などがあるが、いずれも室町時代のものと見られる。足利殿は山伝いに帰牛原へ出て西国を目指して逃げ去ったという。遺品は壬生清美氏方に保管されている。」
P701-P702
第2章 伝説 芦川館
「壬生沢の字芦川という所に芦川殿の館あとというところがあって、そこを中心にしていろいろのいいつたえをもつ地名が散在し、それに関係した遺物が保存されております。
芦川殿は足利殿という殿様であったといわれております。むかし遠い西の方から世をのがれてはるばる壬生沢の山中へ入り込んで来て、ここにおちついて、りっぱな館をかまえ一族が大へんはびこり武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げて行ってしまいました。その時のこしておいていったという弓の矢二本と青貝ずりの矢筒の馬のくらがのこっております。館あとの東の丘の上の天伯さまの森の中に芦川殿の使ったという茶臼がまつってあります。それでこの近所に一族のお墓らしい古い墓石がいくつもならんでおり、屋敷あとにあったお墓からは刀が出ました。その近くに弓のけいこをしたというまとうずるね、敵の弓矢をふせいだというどるいのあと、物見台のあとらしい涼み場、碁うちば、馬屋のあった馬屋のつるね、井戸のあと、水を引いた井水のあとなどがのこっております。
今でも春になるとお姫さまの大事にしていたという紫色のかわいらしい百合の花がこの森のあたりに咲いて、その昔をかなしげに物語っております。芦川殿が館をすてて逃げる時にたくさんの黄金を埋めておいたという所にこんな歌がのこされました。
   朝日さす 夕日かがやく 芦川の ちがやのもとに 黄金千両
芦川殿は大切にして持っていたお薬師さまと籾だけは途中の農家へあづけておき、いのちからがら逃げていきました。それから何年かの後こっそり牛を引いて取りに来ましたが、その籾はもうありませんでした。仕方なく牛を引いて帰って行きました。そこが帰牛原でした。」

第1章は、第2章の基本構成を基にして、この筆者独自の足利氏解釈を被せて書いた解説文とみえます。
筆者独自の足利氏解釈は15代将軍の足利義昭の経歴の所ですが、私の知識では、足利義昭は織田信長と途中で対立して西国に逃げたが、本能寺あと、連絡を取り合っていた秀吉の九州征伐など助け、関白・将軍時代を少し続けたあと、朝廷に秀吉に連れられて将軍職辞退した、そのあと、秀吉に一万石の領地をもらって大名になっている。
・・・記憶が正しいか、そのあたりの歴史の再確認もしてみたい。
第1章も2章も、足利氏が「武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げ」ました。
あるいは、「矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されて」しまいました。
・・・武士の権利や傲慢な振る舞いや威張ったことで、郷民に追放されるのだろうか、という疑問である。これが、隣接する「武力をもった」領主などだったら、話が別なのだが。


荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ
・・についての疑問 2013-02-18 14:24:29 | 歴史


荒川易氏が信濃に来たという定説について、以前より、かすかな違和感を感じていた。

定説・・・
足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 ..

悪い癖で、定説・・・足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 .に違和感を感じている。
この違和感に事実の根拠は無い。もとより根拠は状況証拠であり、思いつきであり、想像である。

足利将軍9代義尚は、将軍在位は比較的短い。在位は1473-1489年の16年間である。覚えでは、日野富子の子として生まれた義尚は、将軍職がほぼ決まっていた義視を、日野富子が無理矢理押しのけて、山名宗全の後ろ盾で、将軍職に就かせたという。将軍職に就いた当初は、政務や政権に熱心で執着し精力的であったという。後半思いが侭ならずに諦観し、自堕落であったという。
義尚を取り巻く政治の状況はどんなであったのだろうか?
時まさに応仁の乱の最中である。足利義視派の細川勝元と足利義尚派の山名宗全が、義尚の将軍就任の直前に、相次いで没すると、将軍家も、次ぎに控える大豪族も、次々と一族を二分する対立構造を生み出して、戦乱するのが、応仁の乱の特色である。畠山家も、斯波家も、信濃小笠原家も、美濃土岐家も、諏訪家も同族内争いが起こっている。東軍と西軍の対立の戦乱である。だが、応仁の乱は、当時の人も現在も、要因の分からない戦乱である。幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなり、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出された。当時の人間にとっても理解が困難であったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲はほぼ全国に広がっていった。
ここでは東西両軍に参加した信濃に関係する守護大名や豪族を名前を挙げる。
東軍;斯波持種、小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、斯波義敏・斯波義寛
西軍;小笠原清宗:信濃、土岐成頼:美濃、吉良義藤

この様なときに、将軍義尚は荒川易氏に信濃に領国を与えたのだろうか?が疑問であり、かすかな違和感の要因はここであろうと思いつく。果たして、天領(足利家領地)が信濃にあったのだろうか。あるとすれば春近領だが、すでに小笠原領に帰している。室町時代前半中盤を通して、信濃国の豪族で、足利家側に属していたのは小笠原家、(大井家)、村上家、市河家であり、北条残党を駆逐して領地化したのは、ほぼこの四家であろうと思う。この四家が足利家に寄進したのであればいざ知らず・・・。ここで思いつくのは、西軍諸大名に対する後方撹乱策なるもので、軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判や御教書等の発給である。
歴史書に、応仁の乱の時、東軍の将であった足利義尚は、松尾小笠原家長に、西軍の府中小笠原清宗と美濃土岐成頼の成敗を命じた、とあったことを思い出す。この時代の背景を鑑みれば、御教書である可能性が高く、形は義尚発給であっても、実際は細川勝元か子の政元の発給であろう。これで、荒川易氏は信濃に出向いたとすれば、辻褄が合ってくる。つまり、西軍の成敗の御教書か軍忠状を持った将軍名代の荒川易氏が、松尾小笠原家に訪れて援軍し、勝利すれば領地の一部を獲得するという図式であろう。その後、松尾小笠原家が府中小笠原や美濃土岐家と戦ったという事実はあるが、勝利したという事実はない。なお、土岐成頼は美濃の守護であり、臣下に後の明智光秀の先祖をもち、府中小笠原清宗は信濃の守護であった。そして、荒川という豪族が信濃に誕生したという資料もない。
だが、注目すべきは、この頃に荒川易氏の系譜が諏訪一族に養子に入り、また諏訪上社と松尾小笠原が同盟したという事実が歴史書に見られる。対抗上か、府中小笠原は諏訪下社との関係を深めている。
ここで、荒川易氏の前の系譜を確認しておく。
荒川氏は足利氏傍流で足利義兼の子の義実が戸賀崎氏を名乗り、戸賀崎義実の子の満氏の次男が荒川を分家した。
以下 荒川頼清, ─, 荒川頼直, ─, 荒川詮頼, ─, 荒川詮長, ─, 荒川詮宣, ─, 荒川易氏, ・・と流れる。
特に、荒川詮頼とき、足利尊氏に貢献し、石見の守護を短期勤める。その後、同族の吉良家などと大豪族の細川家の勢力下にあったものと思われる。拠点も同じ三河で、細川氏とは祖先兄弟であったらしい。荒川氏の一部はあるとき細川氏の氏神の村積神社(岡崎市)の神官でもあった。
以上の背景を考慮すると、細川氏の御教書か軍忠状の可能性は、信憑性が増してくる。

荒川易氏を「えきうじ」と読むか「やすうじ」と読むか、不明である。検索では「えきうじ」でヒットする。
ならば、嫡子の易次と次男の易正も読み方が変わる可能性がある。

ここで確認したことは、荒川易氏が信濃に来た目的や理由、その時行ったことや残っている事実、その後に行ったことや残っている事実で、子孫と思われている人を含めての検証である。
応仁の乱前後の、9代将軍義尚の時代の、荒川易氏を取り巻く背景を確認しながらの、整合性を意識した「想像」である。


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