探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家 十代当主 長将のこと 

2014-02-06 02:11:29 | 歴史

 ・・小笠原長将

 

小笠原長将
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 不詳
別名 不詳
官位 信濃守・守護
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長秀、政康

長利

概容・・・

信濃国守護・長将・・短期ではあるが守護職を任じられている。その後業績など歴史に記載がないところを見ると戦死か病死で、早くに亡くなったものと思われる。長将の子の長利は、府中小笠原家の当主として、その後に起こる小笠原家の内訌の主役になっている。

十一代長秀に入る前に、その頃の小笠原家と信濃国の状況を・・・

大塔合戦の前の状況
・・・信濃小笠原氏誕生の時代背景
・・早期の小笠原家の庶流(別家筋)に伴野氏と大井氏がある。伴野氏は東信・岩村田を拠点として栄えたが、霜月騒動で没落する。大井氏は、佐久の大井郷を拠点にして栄え、小笠原宗家が守護を勤める時、東信地方の守護代を務めたとされる。
・・小笠原長径の系流は、鎌倉時代の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となる。その一例は六波羅探題の奉行人などで、
その業績で阿波守護職・小笠原の系統になり、細川管領家と深く繋がる。
・・京都の官僚一族であった小笠原家は、はじめに、六波羅の命により、楠木正成が拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。
しかし京都小笠原系の宗長・貞宗父子は、後醍醐天皇の鎌倉幕府追討の旗を揚げ決起を促すと、綸旨を受けて足利尊氏が裏切り、尊氏が宗長を誘う書状により天皇方に寝返った。・・そして、小笠原宗長は、元弘の変以来、一貫して足利尊氏に属した。・・そして建武の新政がなると、その功績で小笠原貞宗が初めて信濃守護に任じられ信濃へ下向したが、領地や支持基盤も実績もない状況下であった。小笠原宗長・貞宗父子に鎌倉末期までの時点、信濃に所領があったという史料がない。ほぼ孤立無援で、そのなかで佐久の小笠原一族・大井氏が信頼するに足る強力な在地勢力であった。大井氏の協力で、小笠原政長・長基と守護職を引き継ぎ、北条残党を掃討し、信濃全域に勢力を及ぼすに至った。初めは伊那郡の伊賀良荘を領有し、次ぎに南安曇野郡三郷村の住吉荘・近府春近領、島立・小池・塩尻・新村南方を得て、拠点を松尾館から府中の井川館に移し、府中松本を中心に一族勢力を展開した。・・小笠原氏は、その後も足利幕府に協力し所領を拡大し、守護権を名実共に強化し領国支配を布く勢いとなった。・・・応永6年(1399)5月10日、将軍足利義満から「信濃国春近領下地の事一円宛行うところなり」と御教書を得て、春近領全域を領知した。・・・小笠原長秀の信濃守護の補任の時である。
 大塔合戦直前の小笠原氏の所領は
 伊那郡・・伊賀良庄・福地・片切・田島・小井弖(伊那)・二吉(伊那)・赤須(伊那)・名子(伊那)の緒郷
 筑摩郡・・浅間・二子・塩尻・小池(近府春近領)・島立・新村南方(近府春近領)の緒郷
 安曇郡・・住吉庄・大和田郷・大妻南方
 更級郡・・小嶋田郷・船山郷(春近領)
 佐久郡・・沓沢郷
 水内郡・・志津間郷
 高井郡・・志久見郷(春近領)闕所分
 ・・・小笠原氏の所領はの北条得宗家一族の旧所領と国衙領がほとんどである。

 詳細・・
 信濃国内の北条闕所地・・(嘉歴4(1329)年の史料)
 ・伊賀良庄が江間遠江前司(江間流北条氏)後家以下、
 ・四宮庄が金沢時顕跡、
 ・筑摩郡松本の国府周辺の棒荘が北条英時、
 ・安曇郡住吉庄(安曇郡三郷村・梓川村・豊科町)が大妻兼澄の所領、
  ・・・兼澄は承久の乱に際し後鳥羽上皇方で討死、乱後没収され北条得宗一族の所領、
 ・「春近領」とは、鎌倉幕府草創期「春近」という名称で設立した所領で、将軍家を本所とする関東御領のこと、
  ・・・信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。
  ・・・信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近のこと
   ・・・近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある島立・小池・塩尻・新村南方など6郷、
   ・・・伊那春近領は、現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な領域、
   ・・・奥春近領は船山郷・志久見郷など諸所に散在、
  ・・・信濃春近領は北条得宗家守護管轄領で、守護の所職と不可分の「狭義の守護領」もあったという。

北条氏守護が国衙に在庁し国司の任も兼任。属する武士も御家人化していた。
・・国衙領は北条氏一族の総所領の50%程度といわれ、その権益は莫大であった。
・・鎌倉幕府倒壊後、伊賀良庄・小泉庄・塩田庄のように早期に建武政権が新知領有の宛行状を発してあれば問題はない、
・・それ以降は、近郷の豪族が浸食し、所領を既成事実化しようとした。
・・・小笠原氏守護方は室町幕府公認の所職権益者として、浸食者の排除にかかる。
以上が、北条の恩恵を受けた信濃武士の、中先代の乱を代表とする戦乱の、裏側の経済的理由の面であり、この幕府への抵抗は、南北朝時代の北朝=幕府への抵抗であり、論理は「敵の敵は味方」という実利主義に基づく。

小笠原氏は南北朝以後、伊那を本拠に、かつての国衙領が多くを占める松本筑摩から北信地方まで所領を拡大していた。大塔合戦は、新任守護の小笠原長秀が、その所領地拡大で、善光寺・上田・佐久盆地の穀倉地帯にまで触手を伸ばしたのが起因とも言われている。国人一揆の有力諸士の支配領域と重なっていた。・・・当然足利義満の厳命が背景にあった。



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