探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中・忠知系 ・・幕臣大名小笠原家の系譜 

2014-03-20 01:52:03 | 歴史

    府中・忠知系

  忠知系

 

小笠原忠知系(秀政三男)小笠原家

忠知系

小笠原忠知・・おがさわらただとも
生:慶長4年7月21日(1599年9月10日)
没: 寛文3年7月29日(1663年8月31日)
藩主:豊後杵築藩主、三河吉田藩の初代藩主。・・忠知系小笠原家初代。
父:信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。
母:登久姫(松平信康の娘)。
正室:多賀光定の娘。
子:長矩、長敦、長定、長秋。
官位:従五位下、壱岐守。
幼名:虎松丸。

小笠原忠知
豊前杵築藩 4万5000石、三河吉田藩 4万石 譜代
忠知(ただとも)
役職:書院番頭・大番頭・奏者番・詰衆

小笠原長矩
三河吉田藩 譜代 4万石
長矩(ながのり)
役職:奏者番・寺社奉行

小笠原長祐
三河吉田藩 譜代 4万石
長祐(ながすけ)

小笠原長重
吉田藩譜代 4万石、武蔵岩槻藩 5万石 譜代
長重(ながしげ)
役職:小姓・書院番頭・奏者番・寺社奉行・京都所司代老中・西の丸老中
官位:従四位下・侍従、佐渡守

小笠原長煕
岩槻藩 5万石 、遠江掛川藩 6万石 譜代
長煕(ながひろ)
官位: 従五位下・山城守
正徳元年2月11日藩主就任 - 元文4年4月21日隠居

小笠原長庸
遠江掛川藩 6万石 譜代
長庸(ながつね)
官位:従五位下 山城守
元文4年4月21日藩主就任 - 延享元年7月6日死去

小笠原長恭
掛川藩 6万石、陸奥棚倉藩 6万5000石 譜代
長恭(ながゆき)
官位:従五位下 佐渡守
延享元年8月27日藩主就任 - 延享3年9月25日移封

小笠原長堯
陸奥棚倉藩 6万5000石 譜代
長堯(ながたか)
官位: 従五位下 佐渡守

小笠原長昌
棚倉藩 6万5000石 、肥前唐津藩 6万石 譜代
長昌(ながまさ)
官位: 従五位下 佐渡守、主殿頭
小笠原長堯の次男。

小笠原長泰
肥前唐津藩 6万石 譜代
長泰(ながやす)
官位:従五位下、壱岐守
出羽国庄内藩主酒井忠徳の子。

小笠原長会
肥前唐津藩 6万石 譜代
長会(ながお)
官位:従五位下、能登守
小笠原長保の次男。

小笠原長和
肥前唐津藩 6万石 譜代
長和(ながかず)
官位:従五位下、佐渡守
大和国郡山藩主柳沢保泰の九男。

小笠原長国
肥前唐津藩 6万石 譜代
長国(ながくに)
官位:従五位下、中務大輔
信濃国松本藩主松平光庸の次男。

*小笠原長行(ながみち)
官位:従五位下、図書頭 老中、号は明山。
長昌の子で長国の養嗣子。藩主に数えない場合がある。

**幕府の中の開国派・の論客**

*小笠原長行(ながみち)
江戸時代晩期の老中・・・江戸幕府の尊皇開国派の論客の中心

この秀才は、何をしたのか?賢人という名声の”春嶽”が、政権運営を投げ出し、困難極める江戸末期の”外交交渉”を、幕府閣僚のほとんどが尻込みをする中、長行に舵取りは任せられたが、・・・

老中就任まで
長行は幼少から明敏であったので、天保九年(1838)に江戸に出て、そこで朝川善庵に師事した。安政四年(1857)に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。図書頭と称する。文久二年(1862)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月老中格、そして間もなく老中となった。同年に生麦事件が起こったとき、事態を早急に終結させるために翌文久三年5月9日(1863)、幕府に無断で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った。続いて大兵を率いて上京の途に、大坂滞在中に老中職を罷免された(。
慶応元年(1865)9月に再び老中格、さらに老中に再任される。慶応二年(1866)の第二次長州征討に際しては、総督として指揮を執っていたが、連敗を重ね、将軍徳川家茂の死の報を聞いて戦線を離脱。この失態のため、老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。

維新前後・・・徳川慶喜政権においては、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應三年6月には外国事務総裁に任じられた。大政奉還の後に戊辰戦争が起こると江戸において徹底抗戦を主張し、箱館まで転戦して新政府軍に抗戦したが、敗戦後は潜伏して行方不明。明治五年(1872)4月に東京に戻り、新政府に自首したが、8月に赦されている。
辞世の句は・・・「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。
最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓った。新政府に最後まで抵抗したためか、長行を唐津藩の藩主として認めていない史料もある。

文久三年(1863)5月、小笠原は生麦事件の賠償金を「独断」で支払ったのち、イギリスより借り入れた二隻の汽船を含む五隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。このころ、将軍徳川家茂は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた尊王攘夷派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。
小笠原一行は6月大坂に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるて、上京計画を断念した。小笠原は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元外国奉行水野忠徳、町奉行井上清直ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている。

 



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