探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

下条家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-06 01:25:58 | 歴史

下条氏

 三階菱に梶の葉 (清和源氏小笠原氏流)

吉岡城

  吉岡城跡地

概容:

所在地: 長野県下伊那郡下條村陽皐(ヒサワ)7094-1
遺 構: 曲輪、空堀
形 式: 平山城
築城者: 下條康氏
築城年代: 文明7年

吉岡城・・・吉岡城は、北の沢川と南の沢川に挟まれた台地上に築かれた城だ。 現在、主郭部が吉岡城趾公園となっている。

吉岡城は、台地の西から二つの出郭・主郭・二の郭と曲輪が配置された連郭式縄張りで、曲輪がそれぞれ空堀によって防御されている。・・・ 城の遺構は、主郭部の半分が国道の切り通しとなってしまっているが、主郭虎口部の空堀と主郭背後の出郭との間にある空堀がよく残っていた。 また、二の門外が城下町で枡形の跡や上町・屋敷町・大手・大手裏・竪町・横町等の地名が残っている。

歴史・・・吉岡城は、文明七年に下條康氏によって築城され、以後七代112年間下條氏の本拠地となった城である。・・・下條氏は、甲斐源氏武田氏の庶流で、小笠原氏の庶流と認めていいか分からないが、六代康氏が小笠原政康の子で文明二年に下條家を継ぎ、居城を大沢から吉岡に移した。・・・九代信氏は、武田信玄の妹を妻に迎え信玄の伊那先方衆として武功をたてたが、天正十年の織田信長の信濃攻略に際して、家老の謀反にあい三河に逃れたが、彼の地に没した。・・・下條頼安(信氏の次男)が、天正十年の本能寺の変後に徳川家康の助勢を得て吉岡城を奪回した。しかし、天正十二年に松尾城で謀殺され、天正十五年に下條氏は改易となった。その後、吉岡城は代官所等にあてられていたが、寛永年間に旗本知久氏によって取り壊された。 

 

出自に関して・・・

以下、「戦国 武家家伝下条氏」からの引用による ・・・『 』の部分

『伊賀良荘は、のちに下条郷と呼ばれるようになり、下条氏が来住し、富草の古城に居住するようになった頃は不詳。この伊賀良荘は、南北朝期に足利尊氏に属した小笠原氏が地頭職を有し、有力な地頭代が領内を統治していた。・・・しかし、下条郷と小笠原氏の関係を物語る史料は知られていない。下条氏が甲斐国から来て、下条郷に居住し、小笠原氏との関係は次第に濃くなった。

下条氏の出自
下条氏が下条郷に来住した時期は不詳、さらに出自についてもまた不詳。しかし、その本拠が甲斐国下条の地であることは間違いないと考えられている。
甲斐源氏武田氏系図によれば、武田刑部大輔信成の子に、陸奥守信春がおり、その弟に下条五郎武春があって、武春が武田系図における下条氏の初見である。また、円光院本武田系図に、信春の子信満を満信とし、その弟伊豆守信継に下条殿と注記している。多少の相違があるものの、下条氏が室町時代の初期、武田氏の一支族が甲斐国下条の地に分居して、下条氏を称したことは間違いないようだ。
そして、伊豆守信継は下伊那に来住した下条伊豆守頼氏と同一人物ではないかと推定されるが、その確証はない。

『下条由来記』によれば、「甲斐国下条等国乱レルニ依リ、武田之門葉流来ル」とし、下条氏が甲斐武田氏の支族を記し、初め大沢の地に居を定めてこれに住した、とする。そして、最初に来たのが下条伊豆守頼氏で、伊賀良荘が下条と呼称されたのは、下条頼氏来住による、というのである。伊那郡下条氏の祖は伊豆守頼氏といい、それは「下条記」には応永元年(1394)の春ということになる。

どうやら、下条家は最初から小笠原一族では無いようである。それが、婚姻を重ねて、次第に小笠原一族と同等になったようである。家紋を見れば、諏訪神族との関係を想像させるが、その関係性の痕跡は見つかっていない。

信濃に地歩を確立する
応永七年(1400)七月、小笠原長秀が信濃守護に補任され、伊那衆と呼ばれる伊那郡の諸豪族を率いて善光寺入りをせんとした。しかし、北信濃の国人領主たちは小笠原氏の守護補任を喜ばず、小笠原氏と北信国人連合は対立し、ついに合戦へと発展した。「大塔合戦」である。この時の守護勢の中核は伊那衆であり、北信濃の豪族村上氏を盟主とした反守護勢と戦った。戦いは守護小笠原方に利あらず、伊那衆が苦戦に陥り、伊那衆は、反守護方に破られて悲惨な形で終焉した。
大塔合戦は守護小笠原氏の大敗北となり、長秀は悄然として京都に逃げ帰った。このとき守護方の伊那衆のなかに、下条伊豆守・同美作守の名が見える。この伊豆守は伊那郡に初めて来住した下条伊豆守頼氏と比定されるが明らかではない。
・・・累歴は、下条氏は頼氏が初めて大沢の地に居住して居館に永住し、頼氏死去のあとは子景氏が同じ伊豆守を称してその跡を継いだ。景氏が仏門に入ってので子の義氏が家督を継いだが幼少であり、景氏の室が当主を代行した。義氏も早世したため、景氏の弟で義氏の叔父にあたる開眼寺の住職であった運碩が還俗して下条家を継ぎ、大沢城主となった。・・・運碩が家を継ぐまでの下条氏は、出家、早世が続き、家運は振るわなかった。運碩が入って下条をよく固めたことにより威勢を取り戻すに至った。運碩にも子がなかったので、小笠原政康の子康氏が入って下条家を継いだという。・・・小笠原氏は信濃守護であり、この小笠原家の康氏が跡を継いだことは、以後の下条氏の勢力伸長と社会的地位の向上に大きく寄与した。また、この養子から、下条・小笠原両家がともに甲斐源氏の一族同士として、交渉があったことをうかがわせる。さらに、小笠原氏が養子を送り込むほどに、当時の下条氏が相当な勢力基盤を築いていたこともうかがわせる。・・・下条氏を継承した康氏は、文明二年(1470)、天然の要害ではあっても地形があまりに狭小な大沢から富山に城を築いてこれに移った。以後下条氏は吉岡城を拠点として領内の地理的環境をよく活用して、生産経済的基盤の確立に努めた。下条氏の勢力は次第に強大となり、戦国時代の天文年間(1532-54)に、南接の関氏の所領をも併せて、一時は下伊那地域最大の大身に成長するに至るのである。

小笠原氏の有力麾下として活動
永享十二年(1440)鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して結城氏朝が幕府に叛旗を翻した「結城合戦」と呼ばれるこの戦に、信濃守護小笠原政康は幕府の命を受けて出陣した。信濃の諸豪も小笠原氏の軍下で結城城攻囲戦に加わった。・・・『結城御陣番帳』によれば、その二十番に「下条殿」とあり、つづいて同下野守殿、同山田河内殿、さらに二十二番に下条将監殿が見える。下条一族が守護小笠原政康に従って関東に出陣したことが知られる。さらに下条氏が番を形成する勢力であったことがうかがえる。*番・・およそ百騎で構成された。・・・幕府権力は磐石になったと思われたが、嘉吉の乱で将軍義教が殺害されると、以後幕府は動揺を続け、次第に権威を失い、応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起った。乱は京にとどまらず全国に拡大し、確実に戦国時代に移行していった。・・・応仁・文明の乱が吹き荒れる文明五年(1473)、小笠原家長は幕府の命を受けて、美濃国土岐氏の大井・荻島の両城を陥れた。将軍足利義政はこの戦功に対して、家長および小笠原一族、被官中に対して感状を与えてその戦功を賞した。その対象者に、小笠原治部少輔殿、同左馬助殿と並んで「小笠原下条伊豆守殿」がみえる。下条氏が小笠原氏の有力麾下を示したものである。・・・小笠原氏は、政康死後の家督相続で小笠原家は三家に鼎立していた。守護家で鈴岡城主の政秀、政康の孫家長の松尾小笠原家、そして持長の孫で林城に拠る長朝の府中小笠原家というように、小笠原一族は三つ巴となって抗争を続けたのである。鈴岡は宗康の子政秀が居住し、吉岡の康氏は小笠原政秀と緊密な関係を保った。・・・この小笠原氏の分立は、明応二年(1493)、政秀が家長の嫡男定基に謀殺され、定基は府中の長朝の孫長棟に敗れて蓄電したことで、府中小笠原氏によって統一されたのである。世は群雄が乱れ撃つ戦国時代の様相を深めていた。

武田信玄の信濃侵攻
十六世紀になると、信濃の隣国甲斐では武田信虎が国内を統一し、その鋭峰を信濃国に向けてきた。さらに、家督を継いだ武田信玄(晴信)は西上の野望を抱き、伊那郡に着目し、この地を西上の兵站基地にすることを目論んだ。・・・天文十四年(1542)信玄は、諏訪頼重の上原城を陥れ、頼重を甲斐で自刃させて諏訪氏を滅ぼした。ついで伊那郡北部に兵を入れて、高遠城を攻撃して高遠氏を逐い、さらに、福与城の藤沢氏を降参せしめた。以後も、信玄の侵攻は伊那郡に向けられた。
・・・天文十七年(1545)四月、信玄は上伊那に侵攻し、再び藤沢氏の居城を攻めた。このとき、下条氏をはじめ片切・大島・座光寺・知久・保科氏らの伊那衆二千余人は、藤沢氏を後援するため小笠原長時を将として武田軍と戦った。しかし勝敗は決せず両軍ともに兵を退くに至った。・・・その後、藤沢氏は武田軍に降り、武田氏の侵攻は続いた。武田氏は府中・小笠原氏に兵を向け、両者は塩尻峠で戦ったが、小笠原氏は敗れて総崩れととなり、林城に逃げ帰った。その林城も武田氏の攻撃で落ち、十九年(1547)、小笠原長時は城を捨てて村上氏を頼り逃避してしまった。、天文二十三年(1551)七月、信玄は大挙下伊那郡に侵攻、伊那郡の諸豪は信玄の軍門に降った。抵抗したのは知久頼元で、最後は捕らえられ誅殺されるに至った。下伊那は武田氏の支配下に入った。・・・下条氏も武田氏の軍門に降り、以後、武田氏の麾下に属する。信玄は西上に対して伊那郡の重要性を認識し、下条郷に注目した。そこで、下条信氏の室に自分の妹を嫁がせ、信玄は信氏を義弟として遇した。信氏もこれに応えて武田方として三河方面に出兵し、信玄の西上を有利にすることに努め、信玄から感状を賜っている。以降、信氏は信玄から命で三河方面の警戒にあたった。・・・元亀三年十月、信玄は西上の軍を発した。しかし、その途上で信玄は病死する。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年(1575)、織田・徳川連合軍と三河長篠で戦い、敗北を喫した。以後、武田氏の威勢は下り坂を転がっていくこことなる。』

もともと、武田と同族であり信玄の妹の嫁ぎ先になった下条家は、徳川・織田の防衛戦線を担い、かつ三河進出の橋頭堡の地理的条件の役割があった。信玄の三河侵攻では、勝ち取った奥三河の足助城の城代を勤めている。さらに徳川との交渉の、”取次”の役割もになっている。織田・徳川の連合が、桶狭間で今川に勝利すると、駿河に於ける徳川と武田に境界線の協定に、下条信氏は役割を果たしている。このとき徳川側の”取次”役は、東三河の旗振りの酒井忠次であった。織田信長が本能寺で殺害されて以降、信濃の諸豪族が徳川家に臣下していく時、そのほとんどが、酒井忠次の”取次”でなされた、と聞く。

『時代の変転
天正十年二月、織田信長は武田氏を覆滅せんと軍を発した。伊那口には信長の嫡子信忠が進攻してきた。これに対し、勝頼は下条信氏を防御に当たらせた。信氏は寡兵をもって織田軍の攻撃をよく防いだが、一族の九兵衛氏長が織田方に内通するに至り、ついに陣地を捨てて逃れ去った。以後、伊那における武田方の抵抗は途絶え、織田軍は松尾城の小笠原信嶺を降し、さらに飯田城の坂西織部・保科正直らを逐った。・・・ついで、織田軍は高遠城を守る仁科信盛を討ち破り、武田氏の勢力は伊那谷から潰えてしまった。そして、諏訪を経て甲斐になだれ込み、武田勝頼一族を天目山麓田野に追い詰めて勝頼を討った。ここに、甲斐源氏嫡流を誇り、甲斐国守護として永く勢力を振るった武田氏は滅亡した。・・・下条氏長は、織田氏によって下条氏の旧領を安堵されていたが、信長が本能寺で横死すると、氏長の立場は不安定なものとなった。氏長から人心は離れ、旧臣らは信氏の子で信正の弟にあたる頼安をたて氏長を除かんとした。これに、徳川家康も同調し、氏長は殺害されて、頼安が下条氏の家督を継承したのである。・・・以後、下条氏は徳川氏の麾下に属して信濃の反徳川勢力の進展を阻止することに活動した。この頼安の忠勤に対して家康は褒賞している。頼安は徳川氏に従属して下条氏の家名をよく存続せしめ、家康から伊那郡において松尾の小笠原信嶺と、知久郷の知久頼氏の所領を除く地域を与えられ、下伊那における下条氏の統制力を強化することになり、下条氏は伊那郡の大半を領有し、南信濃に一勢力を築き上げるにいたった。

下条氏の没落
頼安の死後、甥の信正の嫡子が家康から一字を貰って「康長」として継いだ。しかし、生じた重臣間の不和は治まらず、下条氏崩壊へと事態は動いていく。天正十三年八月、家康は真田昌幸征伐のため出陣したときに起こった。この上田の陣で、下条氏は陣小屋を焼失するという大失態をおかした。康長はすぐ家康に陳謝したため、特別に許された。・・・騒動は一件落着したと思われたが、失火の因を作った佐々木新左衛門は、事を構え家康に讒訴したのである。家康はあらためて康長の重臣らを駿府に召し出し尋問吟味した。老臣らは窮地に陥り下条へ逃げ帰ってしまった。・・・翌十五年三月、康長は徳川氏から飯田城に招致され拘禁されるに至った。その後、康長は飯田城から逃れて隠棲し、下条氏は没落した。』


 



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