探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

雑談記 山と川と道のある風景-三州街道-

2013-05-24 18:42:37 | 歴史
雑談記 山と川と道のある風景-三州街道-

雑談記 竜東と竜西 あと雑感  2012-07-25 23:24:35 | 歴史

テンプレートの使い方も知らないままブログを始めて、間違いに気付いても、編集修正方法も知らないままここまできました。
いまは少しだけ解りかけてきたので、折を見て修正していきます。

ブログに興味を覚えたのは、「比企の丘から」に多少触発されたところがあります。
ここで「比企の丘から」のブログの方に感謝しておきます。

また樹堂さんから出典資料のご教授をいただき、感謝しております。
また混迷したときは、お世話になりたいと思っています。

次は、三州街道を南下します。
街道を上る、下るとは、京都に向かって、と聞いたことありますが、この場合は、天竜川の沿道とする故に、南下としておきます。

竜東とは何か?という軽い質問がありました。
これは、天竜川を挟んで東側を指し、地名としては藤沢・長谷・高遠・河野(豊丘村)、阿島(喬木村)・知久(下久堅。上久堅)などで、その多くは、諏訪一族が領主とした地域で、諏訪神党の聖地でありました。
河野(豊丘村)は少し複雑です。
竜東は、対岸よりも山が川縁までせり出してくる割合が多く、その分、作物耕地が少ないようにも思えます。
対して対岸は竜西と呼び、教科書にも載るくらいの典型的な河岸段丘で、上部は果樹園の好適地、その下の地域は水田の好適地になっています。この竜東と竜西を総じて伊那谷とよんでいます。いまは、竜東と呼ぶことは多くても、あまり竜西とは呼んでいませんが。
「信濃の国」の県歌に、松本伊那佐久善光寺、四つのたいら(平)は肥沃の地・・・とありますが、伊那谷は伊那平(たいら)とは、昔も今も呼びません。

次のテーマは伊奈忠次から四代前の伊奈易氏・易次の信濃の国の赴任地を探っていこうと思います。その前に、少し寄り道をします。まさに道草ですが、三州街道から少し離れていますが、三河の豊川です。・・・豊川・伊奈城、ですが、編集で記述位置を変更。


雑談記 木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実
                    2012-11-08 01:15:14 | 歴史

木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実

三州街道は赤石山脈と木曽山脈の間を貫流する天竜川の西岸沿いの道筋です。飯田を少し下ると、天竜川と離れて、やがて木曽山中に入り、東山道古道と分かれて、足助の方に降りていきます。
木曽山脈は木曽駒ヶ岳(日本百名山)を主峰に、宝剣岳、三ノ沢岳、空木岳などの頂を連ねていきます。この稜線を繋ぐと、不思議なことに、知多半島に繋がります。まさか、知多半島までを木曽山脈とは言わないが、この山脈の骨の構造がほぼ直線的に連なっているのだろう、と思われます。

三河湾から突き出た半島は二つ、渥美半島と知多半島。
この渥美半島の先端付近に、伊良湖岬があります。

椰子の実

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
・・・
・・

島崎藤村の詩です。
この詩が作られた逸話を、昔、国語の教師に聞いた覚えがあります。
柳田国男が詩や小説など文学に情熱を燃やしていた若い頃、病気療養で約一ヶ月ぐらい伊良湖に滞在したとき、浜に流れ着いた椰子の実のことを、当時の文学仲間の島崎藤村に話して、島崎藤村が「椰子の実」の詩を作ったんだ、と教えられました。島崎藤村は、渥美半島も、まして伊良湖岬も行ったことが無いんだよ、と言ったのを、うろ覚えに記憶しています。
柳田国男は後に文学を嫌って民俗学の大家になりましたが、職業としては、政府の農政官僚です。どちらが本職だ?なんて分かりません。柳田国男は、明治政府の大審院の判事の柳田家に養子に入り姓を変えました。柳田家は旧飯田堀藩の藩士であり、その頃は東京にも飯田にも家があったみたいです。柳田国男の本籍地は、以来三州街道の飯田になっています。

柳田国男の「海上の道」に愛知県の名前の由来が書かれています。
「あえ」の「よる」「ち」
=珍しいものが;寄ってくる;地 ・・・・・ あいち(愛知)
となるそうです。・・・・・*「海上の道」柳田国男全集(4)

椰子の実の浜辺での発見で、柳田国男は、日本民族の祖は「南洋諸島」であると確信したと言っています。・さて、どうでしょうか。


雑談記 三州街道と木曽山脈  2012-11-17 18:49:54 | 歴史

三州街道と木曽山脈

11月初旬、山岳の広葉樹が紅葉し、山里の街路樹が色付き始める頃、山懐深くから、群れた野生の猿が食料を求めて果樹園に出没してくる。昨年同様、今年の秋の南信濃の風景だ。被害総額○○円とテレビが報じています。

木曽山脈は赤石山脈と平行するように山岳を連ねる。間には、天竜川が貫流し、川に寄り添うように、三州街道が走る。
木曽山脈は、木曽駒ヶ岳(西駒)宝剣岳を主峰とし南下するにしたがい、山容は丸みを帯び、山頂を低くしていく・・。
これには理由があります。木曽駒以北の山を構成する岩石は、頁岩、石灰岩、砂岩など比較的強度が強いのに対して、以南の山は、花崗岩を主として比較的弱くもろい。その結果を、木曽山脈の幾つかの特徴に見いだすことが出来ます。山頂が低くて山容が丸みを帯びているのは、花崗岩が風雪に耐えかねて崩れやすかったのだろうと思います。同じ理由で、山から流れ出る谷川は、山を削りながら土石を運び、里に広大で層の厚い扇状地を造成したのだと思います。時には、激しく山崩れを伴った土石流も当然あった。この層の厚い扇状地を削りながら流れる谷川は、深い谷も作ったのだと思います。そして、この扇状地を深く切り込んでいく川を「田切川」と呼んだ。昔は、田の意味は耕作地であり、畑も水田も含まれていたそうで、畑と水田が区分は後年であるそうです。

伊那谷の扇状地は、果樹園好適地であり、リンゴ、なしの他様々な果物が生産されてます。先述の野生の猿の食料の果物はまさにこの地の生産物です。猿も生きることに大変ですが、果樹園生産者も損害が甚大です。

三河高原のことを、通常は木曽山脈とは言わないが、木曽山脈に連綿と連なっていて、構造は同じです。矢作川、巴川、足助川は、この三河高原を水源とする川であります。この三河高原は南部木曽山脈と同様に花崗岩を主構成とする岩石で出来ています。矢作川の氾濫は、三河高原から削り散られた花崗岩土石が、比重の重い石英部分を主に、川床を高く堆積してきた故の氾濫だと言われています。矢作川洪水への対策、治水技術が、技能集積して伊奈忠次に伝わり、やがて利根川・荒川の東遷・荒川の西遷へとつながったのだろう、と感慨をもって木曽山脈を眺めています。

*門外漢なので、花崗岩の性質につては、かっての理学部地質学科の友人に確認しました。花崗岩は、特に酸性雨に弱いみたいです。
*山崩れの土石流災害をこの地方では昔「蛇ぬけ(ジャヌケ)」と呼んでいたそうです。「言い得て妙」と思っています。

大田切川、中田切川、与田切川など

寧比曽岳1120M・・三河高原最高峰。
恵那山2191M・・通常、木曽山脈最南端。
ただし、御嶽山・・独立山岳(活火山)、木曽山脈ではありません。

雑談記 赤石山脈・木曽山脈 2012-11-20 18:14:30 | 歴史

赤石山脈・木曽山脈  天竜川と三州街道

諏訪湖を水源とした天竜川は太平洋へと流れ出す。
諏訪湖釜口水門から浜松市までの213KMの長さだ。
天竜川を下流に向かって、左に赤石山脈、右に木曽山脈と、日本でも有数の山岳の間に伊那谷があり、川治沿いに三州街道は走っている。昔は、この三州街道は、東山道の脇往還であり、信濃からの京の都への道であった。
また、この道は、平安時代から、物流の産業道路として存在し、最初は細々と、やがて室町時代頃から大量の物流の道として栄え、山国の農産物や工芸品と三河湾の海産物の運搬に使われる道となる。この状況は、東海道線・飯田線の鉄道が敷設される明治時代まで続き、産業道路としての役割を終焉する。

赤石山脈と木曽山脈と飛騨山脈の三つを総称して日本アルプスと呼び、赤石山脈を南アルプス、木曽山脈を中央アルプス、飛騨山脈を北アルプスと呼ぶ別称もあるが、個人的にはこの別称は好きでない。

赤石山脈

赤石山脈は、深田久弥さんの選んだ日本百名山の約1割の名山を持ち、3000Mを超す七つの高峰を誇る。その主峰は日本第二の高峰の北岳だが、地元では盟主はあくまで赤石岳である。赤石岳の名前の由来はラジオリヤチャード岩盤が赤かったためと言われる。ラジオリヤチャードとは放散虫、赤い虫(ラジオラリヤ?)のこと。赤石山脈は、かなり地味で、富士山に次ぐ第二の高山を持ちながら、なぜか登山家の人気でも飛騨山脈に後れをとっています。
昔、登山好きな友人(誰かの記憶が薄れて)が聖岳(?)に登ったときの話。
聖は急峻ではないが、行けども行けども木立のなかを歩き、疲れてへとへとになり、やがて視界が開けたら、辺り一面お花畑で、それは見事で絶景であった、雷鳥もいた、
と話してくれたのを覚えています。
これは、聖岳に限らず、赤石山系の山全体の、山麓の深さとそこを抜けた中腹のお花畑の様子を物語る特徴です。
飛騨山脈が火山の山脈で、溶岩を積み上げた構造を持ち、急峻になり、ある高度から視界を遮るものがなくなるのに対し、赤石山脈は地盤隆起型の山脈で、山懐がやたらと深い、更にかなりの高度まで、山林を持っているのが特徴のようです。
これでは、素人受けはしないし人気も出ないことも頷けます。登山を趣味としない、山に登らない僕が、登山家にひんしゅくを買うことを覚悟で言えば、赤石山脈の山林をショートカットする登山方法を開発すれば、絶景のお花畑や雷鳥は苦労せず見たい風景で、一挙に人気化するのでは、と思っています。
飛騨山脈と赤石山脈との違いは、山頂付近の浸食された形状は似ているとしても、下部に行くにしたがい、浸食の歴史にかなりの差があります。赤石山脈が高山植物の宝庫で、お花畑の広大さや、雷鳥や鹿や熊などの今では珍しくなった動物たちの楽園を数多く残しています。逆に言えば人を近づけない条件がいくつもあるからだと思います。

その分野で有名な動物写真家の宮崎学さんのホームグランドは赤石山脈・山系です。

前述で、花崗岩で出来た山岳の特徴を、かなりの独断で木曽山脈を題材に書いたが、同じ視座で赤石山脈を眺めると、北部の甲斐駒ヶ岳や鳳凰三山(地蔵岳・観音岳・薬師岳)が花崗岩を主の地質とした山岳であり、北岳(日本2位の高峰)や間ノ岳以南は頁岩・砂岩・石灰岩などの地質となっています。
この為か、古くから、北部赤石山脈を源流とする三峰川や藤沢川、山室川は土石流災害が頻繁に発生したと言われています。また北岳あたり以南の山岳を源流とした谷川に大きな扇状地を見ないのは、やはり地質の関係があるのだろうと想像しています。ただし、天竜川の支流の谷川の地形を見ている限りでの話で、山の反対側の太平洋に流れ込む川の地形は確認していません。富士川や大井川、阿部川など、どの山岳を水源にしていて、どのような地形なのか、大変興味をもっています。

今ひとつの特徴は、赤石山脈と天竜川の間の山岳地帯に、中央構造線(糸魚川静岡構造線)が走っています。いわゆるプレートとプレートがぶつかり合う所の境界線で、赤石山脈の地盤隆起型にも関係が深く関わっているのだろうと思っています。中央構造線は、長い谷を作ったり、所々に太古の地層を露頭したりして、地質学者や太古の歴史に興味を持つものの、垂涎の場所にもなっています。地盤隆起は今も続いており、2,3年で約1cmぐらいの隆起があるそうで。この太古の地層は新第三紀の地層で、海の地層とも呼ばれ、海に関する物が発見されています。赤石の名の由来となった「ラジオリアリチャード(放散虫=赤い虫)」や大鹿村の*「塩泉」などが、太古このあたりが海であったことを示しています。貝などの化石も探せばあるのかもしれないが、秩父地方で発見される化石は、第四紀地層から発見されるそうです。
*「塩泉」・塩分を含んだ泉が湧き出し、煮詰めて塩も作っている、岩塩は探したが見つからなかったそうだ、鹿塩温泉


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