諏訪の乱 改訂
二回目
諏訪大社・・・上社の歴史 第一章 平安期から鎌倉期
諏訪大社・・・上社の歴史 第二章 室町初期 中先代の乱
諏訪大社・・・上社の歴史 第三章 室町時代 南北朝の対立
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◆ 諏訪大社・・・上社の歴史 第一章 平安期から鎌倉期
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諏訪大社・・・上社の歴史 第一章 平安期から鎌倉期
2013-12-14 23:49:31 | 歴史
諏訪大社・・・上社の歴史
第一章 平安期から鎌倉期
諏訪大社という神社の内部対立のことを、諏訪の内乱と銘打って、内訌のこと、小笠原一族の坂西家のこと、下社の金刺家のこと、高遠家のことと分けて書いてきましたが、諏訪家の対立の通史を解析してみます。当然ながら、重複した箇所が出てきて、冗長になることは覚悟の上ですが、さらに付け加えるならば、小笠原家三家の対立の構造も片手落ちに成り、不完全なものになってしまうのは分かっています。この両勢力はある時期複雑に絡み合いながら歴史を進展させ、この対立の消耗戦は両系統の体力を消耗させながら、甲斐武田の軍門に下ることになっていきます。
さて、諏訪大社の上社と下社が明確に分離してくることから始めます。平安時代の頃上下社の両者は別れていきます。最初の頃はほとんど対立関係は無かったようです。
それは、下社が金刺氏という系譜をもって登場してきます。その祖は金刺舎人という人で、この舎人の系譜にある貞継が始めて下社の大祝を名乗ります。この貞継は大祝になってから金刺宿禰姓を賜ったとあり、彼の兄は太朝臣の姓を賜ったとあります。そして源平時代に、源(木曽)義仲に従って活躍した手塚別当・金刺光盛という人物が「平家物語」に登場しております。「金刺系図」によると、次ぎに出てくる大祝は盛継で、別名を「諏訪太郎太夫」とあります。続いて、盛重、盛高、重願、盛径と続きます。「尊卑分脈」をみると、源氏の系流の満快流の系図のなかに、手塚太郎信澄、その孫に諏訪太郎盛重、盛重の子に諏訪太郎左衛門尉盛高その弟諏訪三郎左衛門尉盛経が見え、この二つの系譜は重なっているようです。ここら辺は、よく理解が出来ない部分ですが、同じ人が金刺を名乗り、手塚も名乗り、諏訪も名乗っていた、と言うことのようです。更に清和源氏の満快流の系図にもなって、源氏との関係をもうかがわせるものとなっています。これを、無理矢理理解するとすれば、諏訪下社の神官の姓は金刺氏であり、木曽義仲に臣下して転戦した武家の方は、同族ながら手塚とか諏訪太郎とか名乗っていたのではなかろうか、と整理します。
・・・清和源氏満快流。源満仲の五男源満快を祖とする信濃源氏。満快の曾孫為公が信濃国を受領(ズリョウ)して伊奈箕輪の上の平に住む。この頃金刺家の大祝・諏訪敦光と源為公の子が婚姻して、子の敦俊が知久沢に住み、知久を名乗る。以後この両者の系流は、伊奈を中心に地方に拡散し、武家の時は信濃源氏を名乗り、普段は諏訪神党を名乗る様になる。彼等は知久氏をを始めとして、中津乗氏、伊奈氏、村上氏、依田氏、片桐氏、大島氏、堤氏などに分かれ、主に南信濃を中心に勢力を持った。知久氏以外は諏訪家の血筋であるかどうかは不詳であるが、彼等は同族の意志を維持し続けて行動も共通するようだ。・・・
一方、上社の方はこの頃名乗る姓は見つけられません。上社の初見の大祝は乙頴で、名前は神子といい、また熊古ともいったと書にあります。恐らく読み方は、「くまこ」であろうと思われますが、苗字とは思えません。上社の方は、俗世とは別の世界にあるようです。
大祝乙頴は「隈志侶」・・くましろ・・とも呼ばれ、この頃は通常、神を「くま」と呼んでいたようです。・・・やたらと「当て字」だらけで読み当てるだけでも一苦労です。
とにかく、上社・下社とも大祝が出現するのは(文字として登場するのは)、平安末期からのようです。従って上社、下社がお互いを主張し始めるのはこの頃からのようです。
諏訪氏の武装・・・
諏訪上社の大祝が諏訪氏を称し、武士化していったのは他の武士と同様に平安時代末期のころと思われる。諏訪大社は、この頃から軍神の扱いを受けており、諏訪神を祀る諏訪大祝と一族も武士団として成長していったものと思われます。先に見たように諏訪上社の諏訪氏は「神氏」で、下社の諏訪氏は「金刺氏」といわれています。先述のように、古代において金刺氏の名は見えるが、諏訪氏(神氏)の名は見えない。諏訪氏と一族は「神氏」とか「神党」などと称されるようになるのが鎌倉時代の後半で、文永八年(1271)『笠原信親證文目録』に「左衛門尉神信親」とあるものが初見で、以後次第に神氏を称するものが増えてきます。諏訪社の神官の姓は、上社・下社ともに金刺氏であり、鎌倉時代以前は諏訪社の所領は「上下社領」であり、神社としては上・下に分かれていたが、所領は完全には共有であったようです。
それが、鎌倉時代に入ると、上社・下社に分かれた史料が増えてくる。『神氏系図』によれば、有員から十六代目とされる為信は子の為仲を「前九年・後三年の役」に源義家の軍に従わせたという。その後為信の子の代から庶子家が分出するようになり、のちに神党と称される武士団に発展していくことになる。また、上社諏訪氏では大祝は、諏訪郡の外に出ないという定めがあり、「保元・平治の乱」「治承・寿永の乱」の戦いには、子息や一族が大将となって出陣したという。
信濃の諏訪上社も、頼朝時代から将軍家領であった。社家諏訪氏が北条得宗の家臣(御内人)になり、続いて北条氏領となったようだ。北条氏の信濃支配の要点は、大祝をはじめとする諏訪武士団の家臣化であり、仕組みであったようです。
北条得宗家との関係・・・諏訪氏が大きく勢力を伸ばす契機となったのが「承久の乱」であり、その後の北条氏との密接な関わりであった。
・・『吾妻鏡』・上社大祝・諏訪盛重は、嫡子信重を東山道軍に派遣した。
・・『承久記』・信重は「軍の検見役に指添えられ」たとみえ、信重は信濃国・諏訪氏系武士団の統率者として派遣されたものと考えられる。
・・・承久の乱の後、諏訪盛重は大祝の職を退き、鎌倉に出向して執権・北条泰時に仕えて活躍した。
諏訪社にかぎらず、一宮と位置ずけられた宮は、その造営・祭祀などに関して国衙に管掌される面が多く、東国では事実上は守護が管轄していた。こうした政治的な背景から、諏訪社の造営・祭祀などを仲介として諏訪氏と北条氏の主従関係が生まれたものと推測される。さらに、御射山祭(=御狩神事)は軍神としての背景を持ち、得宗家との特異な関係が成立する。
以後、諏訪氏は北条氏家臣団の最有力者として、北条氏の勢威が高まると、それに比例して諏訪氏の武威も高まった。その結果、諏訪氏のもとに信濃各地の武士が集まるようになり、諏訪氏を中心とした血縁あるいは地縁の武士が連合してできた党的な武士団が「神党」である。
○構成員・小県・佐久郡方面から滋野姓を名乗る祢津・望月・臼田氏
・諏訪・伊那方面は、四宮・三塚・笠原・千野・藤沢・中沢・知久・香坂氏
・高井郡など広い範囲の武士たちが集まっていた。
北条氏はこうした諏訪氏を中心とした武士団を育成し、掌握していたのである。
一方、北条氏の信濃支配において、諏訪氏が大祝をつとめる信濃の諏訪社の祭祀組織が果たした精神的役割も大きかった。諏訪上・下社の神事奉仕は、十二世紀ごろから国衙の管掌のもと武士たちによって行われてきた。鎌倉幕府はこの制度をもって武士を統制しようとし、神事奉仕の頭番にあたった御家人は鎌倉番役を免じられるなど、多くの特権が与えられた。北条氏が幕府の実権を握るようになると、諏訪氏との主従関係を活かして、制度を積極的に編成し、信濃御家人を統轄する有効な手段としていった。
・・・以上が、北条得宗家と諏訪家の関係だが、ほぼ、この部分の解説は、諏訪家が北条家の御内人となって親密になったとしている。この部分は分かるようで分からない。御内人とは、一族の、親戚同様の身内人(御内人)という意味であろうが、命運を伴にする関係が見えてこない。御内人は、諏訪家だけでなく存在する。
そこで、諏訪家と北条家の関係を、具体的に追求すると・・・・・
まず、源氏と諏訪家が関係を持ったのは、木曾義仲の時、下社の金刺盛澄は義仲を庇護したという伝承が下社に伝わる。頼朝の挙兵に合わせて、木曽義仲が呼応して挙兵した時、金刺盛澄は次男の手塚光盛を義仲に付けた。手塚光盛は、義仲の連戦の時、中核として、腹心として奮戦した。やがて、義仲が敗れ、木曽軍が追われる立場になった時、弓の名手の手塚光盛を惜しんだ頼朝の重臣・梶原景時は、光盛を鎌倉幕府の御家人にして助けた。これを見ると、鎌倉幕府との関係を持ったのは、諏訪下社の方が先のようである。疎まれていた梶原景時はやがて失脚し、それに伴い、下社金刺家と鎌倉幕府との関係も薄らいでいったようです。
その頃から、諏訪大社は頼朝からも北条からも尊敬を受けており、一定の庇護も受けていたようですが、最初は諏訪家が鎌倉へ出仕しても御家人の立場でした。
承久三年(1221)5月、承久の乱が起こります。・・・後鳥羽上皇は、現在の京都市伏見区にある鳥羽にある離宮・城南寺の流鏑馬にかこつけて、畿内とその近国十四ヶ国の武士千七百人を集めて、執権・北条義時討伐の宣旨を諸国に下したのです。この時執権の北条氏は、都の軍を向討つべく、北条領の武士を招集して、軍を東海道、東山道、北陸道の3手から都へ進めます。 この時、諏訪の大祝・盛重は、帰趨を迷い神託したと言います。その神託の結果は、"鎌倉につき直ちに出陣せよ"というものでした。そこで、大祝・諏訪盛重は、長男の諏訪信重を総大将にして、諏訪一族を出陣させます。東山道ルートです。このルートには、後に信濃・甲斐を支配する小笠原、武田の祖の系流も参加していました。
この時の諏訪一族の戦いの様子は、他を抜きんでるものだったようです。それにもまして、諏訪神社の神託が勝利を決めたと言うことで、北条義時は大祝・諏訪盛重に感状を送り、神領を寄進しました。参加した諏訪系の諸族にも、諏訪・伊那のみならず西国にも、論功行賞として所領が与えられました。ここに諏訪大社が、北条得宗家の軍神として確固たる地位も確立しました。
大祝・諏訪盛重は、北条義時の再三の要請で、鎌倉幕府に出仕することを決意します。まず、大祝職を長男の信重に継がせてから鎌倉に出仕します。間もなく、鎌倉法華堂に火事が起こり、盛重は民家を壊して延焼を食い止めます。この功績で、執権北条の隣接に屋敷を貰います。北条得宗家に最も信頼された護衛の役職です。更に5代執権北条時頼から、長子宝寿丸(時輔)の傳役(モリヤク)を仰せつかります。この流れを見ると、親戚以上の信頼度です。こうして、上社の系譜、諏訪盛重は、御内人の中でも、北条家と特別な関係が出来上がっていきます。信濃からは、諏訪家の他に、藤沢氏や祢津氏や保科氏などが鎌倉へ御家人として出仕していました。諏訪家は彼等の棟梁的な役割も果たしていたと思われます。上社系の諏訪一族から、何人も鎌倉に出仕し、幕府の役職に就いています。鎌倉末期の頃、小坂円忠もその一人で、学識豊かで文官として働き夢想国師に信頼されます。
この様にして、諏訪家と北条得宗家は、護衛の武官として、育ての親として、治世の文官として、祭事の奉行として、相談役として、様々な顔を持ちながら、やがて姻戚を結ぶようにもなり、北条と極めて近しい関係になり、北条滅亡の時は命運を伴にする関係になっていったようです。
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◆ 諏訪大社・・・上社の歴史 第二章 室町初期 中先代の乱
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諏訪大社・・・上社の歴史 第二章 室町初期 中先代の乱
2013-12-18 16:03:37 | 歴史
諏訪大社 上社の歴史
第二章 室町初期 中先代の乱
後醍醐は元弘三年 / 正慶二年(1333)隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(後尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
後醍醐天皇
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。
建武の新政
これが建武の新政と言われる政変の表面的な経緯であるが、持明院統と大覚寺統の天皇即位の交替ルールの破棄とその後の独占を意図した権力闘争であったようだ。その政権の目標・目的とするものは、表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。既に中世的な荘園制度が崩壊の兆しを見せ、多量の武士団が各地に生まれる情勢になっている最中、現実とは乖離した後醍醐の復古政策は、中世の武士層には受け入れがたいものであった。
建武の新政が、内部矛盾で後醍後天皇と足利高氏の離反を生じると、中世武士団の多くは、足利高氏の側に付いた。以後両者は南北朝を立てて、長い対立の時代に入る。
北条残党
一方で、建武の新政で敗れた北条得宗家に、恩義のある者達も各地に残存していた。この者達は、北条得宗家の時代の復古を求めていた。
北条得宗家が、新田義貞の攻撃を受けて滅亡の時を迎えている鎌倉での出来事。泰家の命を受け、諏訪盛高は亀寿丸(後の北条時行)を戦火から逃して、諏訪で匿い育てます。
その時の逸話
泰家の命を受け、諏訪盛高はさっそく亀寿丸のいる扇ヶ谷行き、亀寿丸を、母親の安達氏から奪います。母親が新田勢に捕らわれ、逃亡の事実を告げられることを恐れて、「大殿様の冥土の旅路へ、ご同行願うためお連れに参った。」と言い残します。安達氏は、驚愕の中、我が子を取り戻そうとしますが、力尽きて古井戸に身を投げたといわれています。
盛高は、鎌倉の諏訪屋敷に戻り、一族一同を集め、事の子細を打ち明けます。亀寿丸様を連れ落ち延びて北条再興の機会を窺うこと、亀寿丸と共に自害して果てたと見せかけるために、この屋敷に火を放ち、この場で諏訪一族残余の者すべてが自害してほしい、と 要請します。諏訪武士達は、盛高の本懐の為に、涙ながらに亀寿丸の前に手を付き、やがて屋敷に火がかけられ、「亀寿丸様は、はや自害なされた。者ども死出の旅に遅れまいぞ。」屋敷外に響けとばかり叫び、殉死体の中に亀寿丸がいると誤認されるように、相次いで火中に飛び込み、自刃していきます。
盛高一行は、新田軍の負傷兵に化け、亀寿丸を隠した武具を抱えて、屋敷から密かに脱出します。やがて鎌倉を遠く離れると、北条氏の守護国であった信濃の地へ、逃避します。
ここには一つのサブストーリーを構想しております。この構想は、根拠や論拠は薄いのですが、前後の状況を考えると、可能性としてはかなり高いと思います。
仮想のストーリー
北信濃から鎌倉に出仕した保科氏は、御家人としてあったが、鎌倉信濃武士の棟梁としての諏訪盛重の存在が大きくなると、盛重に同調して行動するようになった。そして星霜を過ぎて得宗家滅亡の時が来ると、保科氏は諏訪盛高と一緒に、亀寿丸を隠して逃げ、諏訪にたどり着いた。以後、保科氏は、亀寿丸を隠して育てる当事者になる。その地域は上社神領の一部であり、その神領の一部は、亀寿丸の育ての経済の支えであった。亀寿丸が成人し時行と元服して中先代の乱の旗頭に成り、敗れた後大徳王寺の戦いで時行が逃亡して去ったあとは、保科はその頃同盟した宗良親王の庇護者になった。
・・・白州松原の伝承や、時行や宗良親王の隠棲場所や、高遠家の祖の諏訪頼継と保科の関係性を想像すると、導き出されたストーリーは、あながち棄て去ることはできない。しかし全て状況証拠ばかりで、断定するには証拠が足りない。この保科氏は、正俊、正則、正光の系譜の保科とは別系流です。
このようにして諏訪氏は北条氏との関係を背景に勢力を築き、最後まで北条氏に忠節を尽くすことになった。そのことは、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦したことからも知られる。・・・中先代の乱、南北朝の内乱と続きます。
南北朝時代・・・元弘三年(1333)、北条氏の滅亡で、後醍醐天皇による建武の新政が開始。しかし、それは公家たちによる時代錯誤が多く、公正を欠き、多くの武士が反発した。そして、新政に対する反乱。そのほとんどは北条氏が守護を務めた国とか、北条氏の旧領で発生した。そのなかで、最大の反乱が建武二年(1335)、「中先代の乱」である。しかし、信濃ではそれ以前から北信と中信で反乱が起こっていた。
信濃で北条残党の反乱が続出したのは、信濃国がかつて北条氏の守護任国であり北条政権の強力な基盤になっていたこと、諏訪氏を中心とした諏訪神党という有力な武士団が形成され北条氏に忠節を尽していたことが挙げられる。さらに、北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社・大祝のもとに匿われてていたことがあった。
中先代の乱
北条得宗家の時代への復古を目指した戦い・建武二年(1335)、時行を擁して挙兵した諏訪頼重は府中に攻め入り、国衙を襲撃して国司を自殺させ、東信を経て上州に進撃。その間、各地から馳せ参じた武士団でたちまち大軍となり、その勢いで武蔵国に攻め入った。中先代軍は、女影原・小手指原・府中などで足利軍を撃ち破って鎌倉に迫り、足利軍を一掃して鎌倉を制圧した。しかし、中先代軍の鎌倉支配も尊氏の巻き返しで、わずか二十日間で瓦解した。以後、時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。
しかし、信濃ではその余波で、小さな反乱が続いたが、尊氏党の信濃惣大将である村上信貞によって鎮圧されていった。信濃守護小笠原貞宗も国内を東奔西走し、中先代軍の残党を掃討した。
この頃の大きな流れは、上記のようですが、諏訪大社の諏訪一族はどのように関わっていったのでしょうか。勿論、中先代の乱も、南北朝争乱も、諏訪一族はその中心にいました。一貫して反政府側、反幕府側で活躍します。信濃国に限れば、反守護小笠原家、反村上一族と言うことになります。反村上一族の具体的な対立現象は、直接諏訪氏には見られませんが、東信の諏訪神族は影響があったようです。その部分を具体的に掘り下げてみます。
この頃諏訪上・下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。社頭で催される流鏑馬は、信濃国内の地頭御家人が、こぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴四年(1329)の御射山祭の記録には、14、5番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず鎌倉中のの有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護・重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。・・諏訪頼重も北条家御内人であり、親政の北条領地召し上げの政策で没落の危機にあり、これを打開する方法はただ一つ、幼少の亀寿丸を擁立して、北条家の復古を自らの手でおこなうことでした。亀寿丸は、十歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心として信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され挙兵します。 この時、相模次郎・北条時行と名乗っています。・・・これとは別に北条の系流の越中守護だった名越時有の息子・時兼は、北国の大将と称し越中、能登、加賀で軍勢を集めます。時兼は集めた三万騎を率いて京を目指します。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸らの国人衆が上洛の行く手を阻み、名越勢を殲滅します。しかしその波紋は信濃にも及びます。この北陸戦から、中先代の乱が勃発するのです。
7月上旬、上社の前大祝・諏訪頼重と子の大祝時継は相模次郎(時行)を押し立てて軍勢を招集し、信濃に幕府再興の狼煙をあげます。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の諏訪氏系の望月、海野、弥津、滋野などの豪族が集結します。しかし幕府方の信濃守護・小笠原貞宗は強軍を持っています。。諏訪頼重は北信の保科(弥三郎)、四宮(佐衛門)に小笠原軍の背後を襲うように要請します。 千曲川の大草原、八幡原で保科・四宮軍と小笠原軍は戦います。激戦は数日間、勝敗は決しません。この地方はかって得宗家の領地でした。保科・四宮両氏はその代官であったので、それで敢闘な交戦となったのです。
7月舟山郷の青沼周辺で、市河氏と北条方の軍勢が戦っています。 これにより戦機を得て、北条遺臣軍すなわち中先代軍は、まず北上し、守護・小笠原貞宗の軍を埴科郡内で敗走させ、府中で国司・博士左近少将入道を自害させ、ほぼ信濃国の過半を支配下に入れ、信濃の諸族を参軍させると、その矛先を東に変え、鎌倉に向けて突き進みます。・・小笠原貞宗は幕府側の信濃守護となり、北条氏遺領の伊賀良荘を守護領とし、建武年間、その居館を松尾(飯田)に置きます。後に府中南郊の井川(松本)に移し、小笠原氏発展の基を築きます。伊賀良の荘域は、最初は飯田近郊でしたが、その後拡大します。
以後、諏訪氏と小笠原氏との戦いは、長く執拗に続きます。 時行、頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、膨張して二万の大軍になります。上野国に入る際や武蔵国で幕府軍を破ります。・・瞬時に、足利一族の建武政権軍を破った中先代軍は、破竹の勢いで鎌倉を奪還します。北条時行は、ついに祖先の繁栄の地に辿りつきます。
時行は正慶の年号を復活させ、幕府再興を宣言します。足利直義は三河国に逃れ援軍を待ちます。 諏訪頼重・北条時行の行軍は、新田一族の上野国の領地を縦断しているはずですが、新田勢の抵抗は全く見られなかったのです。つまり、京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもありました。反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしています。そういう気持ちが、彼らに中立の立場をとらせたのです。足利と新田の対立が、頼重北条軍をここまで強くした要因でもあったのです。諏訪頼重の大軍は、三年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇したのです。のちに中先代の乱と呼ばれた戦いでした。・・鎌倉幕府を先代、足利氏の室町幕府を後代と位置づけし、その中間ですから中先代。中先代は室町政権が確立された後に付けられた呼び名です。
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◆ 諏訪大社・・・上社の歴史 第三章 室町時代 南北朝の対立
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諏訪大社・・・上社の歴史 第三章 室町時代 南北朝の対立
2013-12-20 02:52:00 | 歴史
第三章 室町時代 南北朝の対立
南北朝時代・・・中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏・下社の金刺氏で、それに諏訪一族の藤沢氏、伊那の香坂氏、東信の祢津・望月・海野ら滋野一族でした。以後、信濃国は南北朝の対立を軸とした新しい局面を迎えることになるのである。
大徳王寺城の戦い・・延元三年(1338)の秋、宗良親王が遠江に入り、これに呼応して北条時行が伊那郡大徳王寺城に拠って兵を挙げた。この挙兵には、諏訪頼継や伊那の武士たちも加わった。しかし、小笠原貞宗の攻撃を受けて城は陥落、この敗戦は信濃のみならず近隣諸国の宮方軍にとって大きな打撃となった。
康永三年(1344)、宗良親王は伊那に入り香坂高宗の拠る大河原に身を寄せた。以後、三十一年間にわたって大河原を拠点に宗良親王は活動を続けた。
桔梗ヶ原の戦い・・文和四年(1355)八月、桔梗ヶ原で守護方に決戦を挑んだ。この戦いに、諏訪・仁科氏ら信濃宮方も参加して奮戦したが、宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥った。その後も宗良親王は大河原にあって頽勢挽回に尽とめたが、ついに文中三年(1374)、再起の夢破れ、寂しく吉野へ帰っていったのである。桔梗ヶ原の敗戦によって信濃の宮方勢力は駆逐されたが、その後は次第に強まる守護の領国支配に抵抗する国人領主たちと守護との対立は、歴史上に現れなくなっていく。幕府(=小笠原守護)の懐柔によって、領地安堵と交換に、櫛の歯がこぼれるように、北条残党派は幕府に靡いていった。
信濃争乱の幕開け・・・南北朝時代は、国人たちが領主的発展を推進しようとして、荘園・国衙領を押領することが多かった。守護はこのような国人の荘園強奪を抑止し、国人を統制するため幕府=守護の支配秩序を確立しようとした。その必然的な結果として、守護と国人との対立関係をきたしたのである。その対立は武力闘争に発展し、しばしば国人と信濃守護との間で合戦が繰り返された。
もう少し、諏訪神党と信濃武士が関わる部分を見てみよう・・・
興国三/康永元年(1342)、南朝の北畠親房の拠点とする常陸で混乱が送った。この常陸国の戦いに、信濃守護・小笠原貞宗が、尊氏の命を受けて、市川親房ら信濃武士を引き連れて幕府軍の高師冬の軍に参戦している。この時南朝軍の北畠親房は脱出して吉野へ逃れ、関宗佑親子は戦死している。その後、吉野を出た宗良親王と北条時行は、伊勢から船で、東国へ侵攻したが嵐に遭い幸運にも遠江に漂着した。そこで遠江の井伊道政の井伊谷城を根拠地とするようになった。やがて、各地を転戦してあと宗良親王は信濃にたどり着く。信濃国内も南北朝の動乱が激化する。その中心人物が、南アルプスの麓の大河原に籠城した宗良親王であった。宗良は、大河原で征東将軍に任命された親王で、上野宮や信濃宮とも呼ばれていた。・・宗良親王は、興国元年(1340)、井伊城に居たが高師泰の攻撃で落城した。北条時行は、それ以前に井伊城を去り東国へ向かっていた。
大徳王寺城の戦い・・ところが、宗良は、同年6月24日、信濃国大徳王寺城(伊那市長谷)において、時行と諏訪上社大祝・諏訪頼継らが挙兵したと報らされ、そこへ逃げ延びてきた。「守矢貞実手記」は・・「暦応三年(興国元年)〈戊/寅〉相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯篭大徳王寺城、□大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳篭、当国守護小笠原貞宗、苻中御家人相共、同廿六日馳向、七月一日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ヶ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多勢、時□難勝負付、雖然次良殿、次無御方、手負死人時々失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺城開落云々」と記す。・・対訳・・26日、信濃守護・小笠原貞宗は家人を率いて信濃府中から馳せ向かい、7月1日から城の大手を数度攻撃した。大祝頼継は弱冠12才であったが、数十回打勝ち、ために貞宗方は西尾城に要害を構え、鎌倉府に注進し援軍を願った。武家方の援軍が度々来着したため、時行も奮戦を重ねたが、元々寡兵で援軍もなく、次第に手負い死人が生じてじり貧となり、10月23日夜、城門を開け落延びていった。高遠氏は、この時の大祝・頼継の嫡男・貞信(=信員)を始祖とする。・・大徳王寺城の戦いの概容である。
そのあと、宗良親王は、越後国、越中国に落ち延びていったが、興国三年(1343)、再び信濃国に入り、翌年信濃の伊那山地深い大河原(大鹿町)を支配する香坂高宗に迎えられ反撃の準備を始めた。その頃信濃は、在所武士が荘園を浸食しており、北条氏の旧領の争奪も重なり、南北両朝諸勢力の争いが激化していた。宮方は、諏訪上社の諏訪氏、下社の金刺氏、伊那の知久・藤沢ら諏訪一族と香坂氏、佐久・小県の祢津・望月・海野ら滋野一族、安曇野の仁科氏で、武家方は、松本・伊那が拠点の守護・小笠原氏、更級・埴科・小県郡塩田荘の村上信員、水内・高井の高梨経頼、佐久の大井光長・伴野氏であった。
宗良は信濃に南朝の一大拠点を築こうとした。大河原は山稜に囲まれた天然の要害で、以降宗良はこの大河原と大草(中川村)を拠点とし、「信濃宮」または「大草宮」といわれた。
正平七/文和元年(1352)、足利氏の内訌・観応の騒乱に乗じて、南朝軍の武力行動が各地で激化、宗良は征東将軍となり、信濃国の諏訪氏、滋野氏、香坂氏、仁科氏らを率いて越後国方面へ出陣し、足利方の上杉憲将を追撃した。さらに足利尊氏の弟・直義を毒殺されたのを受けて、東国に身を潜めていた新田義貞の子義興、義宗や脇屋義治、奥州の北畠顕信と共に碓氷峠を越え武蔵国へ進出した。鎌倉を攻撃し、一時占拠すると再び足利尊氏追討の旗を揚げた。しかし間もなく人見原(府中市浅間町)・金井原(小金井市前原)で尊氏に敗戦を喫し、小手指原(所沢市)でも敗れ、鎌倉を落ちて越後国に逃れた。
正平八年(1353)11月、越後で宗良親王は新田義宗・義治と挙兵し和田義成と戦うが、小国政光に敗れている。翌年も宇賀城を攻めるが、和田義成・茂資に敗れた。正平十年(1355)、宗良は越後国を不利と判断して退去し、再び信濃国の諏訪に入り、南朝・後村上天皇方(後醍醐天皇の後継)の再結集を計策した。その拠点信濃を固めるために諏訪氏、金刺氏、仁科氏を率いて府中へ進軍を開始した。幕府側との対決である。戦闘は桔梗ヶ原(塩尻市)で行われた。結果、宗良親王は守護・小笠原長基と戦い敗れたため、以降信濃の南朝方は急速に衰退する。その後も宗良は信濃で体勢挽回を図るが、この敗戦は・・諏訪下社の金刺氏の不参加、戦争途中で仁科氏などの離脱があったからだという。敗戦は信濃国・南朝方には致命的となり、南朝軍の中核の諏訪氏なども、その後大半が離反していった。後年再び信濃国で挙兵しようとしたが適わなかった。正平二十三年(1368)には、新田勢の義宗が敗死し、義治は出羽に逃亡して越後新田党が消滅している。応安七年(1374)、宗良はついに信濃国での抵抗をあきらめ、吉野に落ち延びていった。こうして三十数年間に亘る信濃国を中心とした宗良親王の闘争は報われる事なく終わった。室町幕府は三代将軍義満の時代で盤石となり、もはや武家はもとより朝廷・山門といえども抗えようがなかった。