探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪の乱 改訂 三回目

2014-05-30 18:04:21 | 歴史

 

 

諏訪の乱 改訂
三回目
  諏訪大社・・・上社の歴史・第三章・付記・
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◆ 諏訪大社・・・上社の歴史・第三章・付記・
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諏訪大社・・・上社の歴史・第三章・付記・・ 南北朝の対立 その後の物語
2013-12-21 17:01:31 | 歴史

第三章・付記 ・・南北朝の対立・その後の物語

宗良親王が桔梗ヶ原の戦いで敗れ、南朝再興の夢破れて吉野に戻りますが、南朝吉野に宗良の居場所が無く、再び信濃の戻ったという説が存在します。この説と宗良親王の終焉を以下に掲示します。

文中三年(1374)宗良六十四歳の時、吉野へ帰ります。
だが、吉野は顔見知りであった後村上天皇も、北畠親房も、四条資も、洞院実世も既になく未知の顔ばかりであったという。長慶天皇も初対面であり、昔物語や歌会を頻繁に催して過ごしたが、寂しさは消えなかったという。・・この間、南朝側の和歌を集めて「新葉和歌集」を編纂し、また自分の書きためた和歌を整理して詞書きをつけて「李花集」を編纂している。これで三年を費やし、天授三年(1377)信濃国大河原に帰る。・・以後の消息は不明というのが定説であった。

宗良親王の没地は大河原・・・一部の学者の説であった。
根拠は三宝院文書という資料。・・戦国時代の天文19年、宗詢が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に
・・「大草と申山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ給とそ、あハれなる事共なり」・・
と記され、ここが親王の終焉の地とされています。
この宗詢の詞書きも三宝院文書を基にしていると見られます。
大河原(大鹿)にある"宗良親王の墓"はこの説に基づき、後年に建立されたものです。

昭和十五年に、黒河内の溝口(伊那市長谷)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。
これにより、宗良親王の没所がここではないか、と注目され始めます。
また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。

伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。
常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間・龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚を勧請開山として今日に至り、正住職五代目となる。・・以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。
大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権・高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
興国五年(1344)信濃国伊那郡大河原(大鹿村)に入り、約三十年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子・宗良親王が南朝方・諏訪氏と連携をとるため秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。
明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。
その後昭和六年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和十五年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子・尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職・尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。

井伊谷の大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。

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尊澄法「宗良親王」御木像
       指定  伊那市文化財(有形文化財)
           平成3年9月20日
       所在地 伊那市長谷溝口
  われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風
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後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
昭和十五年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
古文書の終わりの方には、元中八年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金二枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
        御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。
                                     伊那市教育委員会
御山の遺跡

          指定  伊那市文化財(史跡)
              昭和49年3月1日
          所在地 伊那市長谷溝口
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古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
昭和六年5月20日、郷土史家、唐沢貞次郎、長坂熙の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。

御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。  ・・伊那市教育委員会

この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている、が定かではない。

以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、三十年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の要所で、連絡にも都合の良い。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと四年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城(中川村大草)はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」か類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高くなる。これを認識すると、後醍醐天皇の他の皇子達と違った宗良像が浮かんでくる。各地に南朝の勢力拡大のために流転転戦して各豪族の城に入っても、所詮食客であり仮の宿り。宗良親王が、各地に出陣して戻り、また出陣しては戻れたのは、大草が、仮ではない、本当の拠点であること示しているのではないだろうか。文中三年(1374)宗良六十四歳の時、吉野へ行きます。そして、和歌集を二つ編纂した後信濃へ戻ることは、ここが自分の「故郷」だということを意識した結果だと思われます。他皇子と比べ長命であったこと、南信濃に三十年余居続けたこと、などの疑問が、解けそうな気がします。

大草、生田、長谷、大河原は、宗良親王の歴史遺跡の宝庫です。・・現在の地名、中川村、松川町、伊那市長谷、大鹿村になります。

黒河内は、宗良親王が「知行地」説・・・
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・「本邦武家沿革図考」
この文章は高遠町誌上巻(P351)にあります。
南朝年号の正平は1346年から1369年まで、元中は1384年から1392年まで。
宗良親王の没年が元中二年(1386)頃。

・・・筆者は、甲斐・松原諏訪神社の、宗良親王の和歌の詞書き・・その頃入笠山を領した保科氏を訪ねた・・を根拠に、併せて宗良親王の行動を解析してみて、宗良親王の知行地・黒河内領の代官は、保科氏ではなかったか、宗良親王の居館は前半が大河原で、後半は大草だろうと仮設し、半ば信じております。

 

以下、気になっていて解明できていない点を列挙

至徳2年余年(1385)宗良親王崩御 中川村四徳との関係 至徳と四徳の関係

「南ア・赤石岳の大聖寺平」
赤石岳南麓には高貴な方の伝承が多い。南朝の宗良親王は伊那の奥地に幽居したという。また赤石岳北方の大聖寺平は良月親王を埋葬した場所とも伝えている。一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるという人もあるという。そういえば大聖寺平は大小寺平とも書くという。
・・良月親王は宗良の子か?尹良の子か?母は?


宗良親王の甲斐より諫訪に入り給ひしは此の道なるべし。次に御所平あり。これまた親王御駐輦所の口は正に其の中央に位す。溝口より東背 ... 然れどもそれを以て親王御終焉の地もまた大河の前望を上蔵の背後より宇津木峠の北方に展開するも可なるべし。
・・宗良親王の住まいと終焉の地は別所、地図上での確認

大徳王寺城址
 興国元年(1340、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
 この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
・・北条時行の終焉の地は?

釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されています。

大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って、足利氏調伏を祈願したという。

この地区の伝承を複雑にしている原因は、北条得宗家の遺子、時行の遺跡を御所と呼び、宗良親王の遺跡も御所と呼ぶ重複があり、さらに二人ながら同時代の同地区をを生きた足跡であるから、だと思います。
そしてこの時代、信濃では有力領主を四大将と呼び、小笠原、村上、諏訪、木曽がそれにあたり、室町前半・中盤は小笠原・村上と諏訪が、室町後半(戦国期)は諏訪・小笠原・村上と武田が対立し、震源の多くは諏訪神党が中心であった。

諏訪社の守矢文書では、度々「大草香坂」の名が見られます。大河原香坂でないことが気になります。
この項の締めは、幕末の志士、坂本龍馬が好んだという、宗良の和歌(李花集)を載せておきます。
・・「君のため 世のためなにか 惜からん、かぎりある身の いのちなりせば」

 

2,宗良親王の子尹良(・ユキヨシ)親王が幕府と対立関係にあった新田勢の残党に担がれて、各地を防戦しながら転戦したという説が存在します。この説は、新田勢の残党が、室町期を主に愛知県で生き残り、祖先の系譜と尹良親王と戦歴を伴にしたという戦記「浪合記」に記されています。「浪合記」の資料価値は、年代の不整合、地理名の距離の辻褄や誤記、親王という皇位継承権のある官名の裏付けの無さなどから、信頼性は乏しいものになっていますが、信濃南部、三河北部に残る伝承の多さから、実在は確かですが、経歴、事歴等の装飾や誇張は不確かなものとされているようです。そんな中で、宮内庁は、信濃浪合にある尹良親王の墓を、正式なものと認めましたが、、まだ疑問が多いことから、これを認める歴史学者は数が少なそうです。・・・以下に、当ブログの「浪合記」の現代語訳を掲示します。

・・・浪合記 訳文
浪合記は尹良(ユキヨシ)親王とその子良王の二人が主人公の戦記物語です。
時代は、朝廷が南北に分かれてから約60年経った応永四年(1397)の頃の物語です。新田一族の世良田正義は桃井宗綱と相談して、宗良親王の御子の尹良親王を上野の国(群馬県)に迎えました。
尹良親王は、(*1)信濃の国大河原の大草城で生まれた。母は香坂高宗の妹で、育ての乳母は知久敦貞の娘であります。。それから、尹良は吉野に行っては元服まで育ち、中納言・征夷大将軍・親王におなりになりました。
元中3年(1387)8月8日、尹良親王は源の姓をお受けになった。
その後、上野の新田、小田、世良田、桃井をはじめとし、遠江や三河の南朝に味方する人達が相談して、桃井貞識(サダモト)を吉野への使者として遣わして、尹良親王を上野の国へ迎えに行った理由であります。
尹良親王を吉野からお供した武士は、大橋貞元、岡本高家、山川重祐、恒川信規の四人であり、この四人を新田家の四家といいます。吉野からお供してきた公家庶流は、堀田正重、平野業忠、服部宗純、鈴木重政、真野通資、光賀為長、河村秀清の七人で、この七人を七名字と号します。南朝側の武士は、この計11家を吉野11党と呼んだのであります。この11党の人々は心から忠心し、その後ずっと、尹良親王を守護したのであります。
まず、西遠江の井伊谷井伊家、天野遠幹、秋葉家の兵たちがご旅行の間を警護し、駿河の国、富士谷・宇津野(富士宮市内野)の田貫の館(富士宮市猪之頭字長者原、田貫神社)に住んでいただいたのであります。
この田貫の館は田貫次郎のもので、もと富士浅間神社の神主だった人で、その神職を長男の左京亮に譲って宇津野に閑居していたが、次郎の娘が新田義助の妾だったので、その誼(ヨシミ)で親王を招き入れたのでした。
井伊道政は親王を宇津野・田貫に送ったあと、警護の兵を残して本国へ帰りました。
富士十二郷の者たちは新田義助に厚恩を受けていました。郷の者のうち、鈴木正茂、鈴木正武、井出正房、下方三郎、宇津越中守たちが、みんなで尹良親王を饗応して歓迎しました。

柏坂の戦い・・・
元中5年(1388)、宇津野を出発し、上野の国へ向かう途中、(*2)柏坂(足柄上郡山北町柏坂)で、北朝側鎌倉の軍勢が、宮様を襲いました。これに対し、富士十二郷の者の兵が宮を守り戦いました。尹良親王は鈴木越後の丸山の館(湯河原宮上丸山)に入り、桃井和泉守と四家七党が中心となり宮を守りました。敵は4日間丸山の館を取り巻いて攻撃したが、南朝側に、地方豪族が加勢味方するものが多かったといいます。桃井和泉守は500騎を連れて、北朝・鎌倉の大将である上杉重方と嶋崎大炊助の陣に攻めかかった。上杉軍は5000余騎あったが、真っ只中に切り込まれて追われ、途中上杉軍の長野安房守が討ち死にし、退却しました。桃井軍は深追いして上杉軍を追ったが、別動隊の嶋崎軍が桃井軍の背後を突こうと移動すると、桃井軍は上杉追撃と嶋崎防衛に勢力を二分せざるを得なかった。少数になった桃井軍の不利を知った南朝の大橋、岡本、堀田、平野、天野は200騎で急遽、桃井を助けに駆けつける。嶋崎軍は徐々に兵を退いて山浪?まで後退する。上杉軍は200騎を失い上一色(河口湖の旧名)に陣を敷いたので、桃井軍も丸山の館に戻りました。
丸山の館で、井出弾正少弼は鈴木越後に「新田一族の働きには、目を見張るものが有り、私も十二郷のものも驚かされました」と語りかけました。
越後守は「年寄りの言葉として、失礼を許してもらうなら、寺尾城へ行くという大事な目的があるなら、その為の守護護衛なのだから不必要な危険は避けたほうがいいのではないですか」と言いました。
それを聞いていた桃井和泉守は「鈴木殿のおしゃっている事は尤もです」「大人気なく、この桃井が鎌倉方に戦をしないのも無念に思い、また敵が逃げるのを面白がって深追いしました」と反省しました。
尹良親王は丸山を出て、甲斐の武田信長の館(韮崎、日の出城)へ向かいました。
その時の護衛に、宇津越中、下方三郎、鈴木左京、高橋太郎の軍のうち280騎を付けました。
そこから、さらに、上野の国の寺尾の城(高崎市茶臼山城 別称寺尾城)に移りました。
尹良親王が来た寺尾城に新田、世良田その他の豪族が集まりました。
応永19年(1412)4月20日、上杉憲定の軍が寺尾城に向けて来て、世良田政親を攻撃しました。政親は数回の戦闘のあと傷を負い、長楽寺(群馬県大田市世良田)に逃げ込み、そこで自害しました。次男の世良田親氏は、どうにか新田まで逃げました。
同年6月7日、北朝側の木賀秀澄は25人の農民に姿を変えた部下を連れて、底倉(箱根町底倉)に蟄居していた新田義則を夜陰に紛れて攻撃しました。義則は長く防戦していたが、耐えられずついに討ち死にしました。

上杉禅秀の乱・・・
応永23年(1416)上杉禅秀は名月ことよせて新御堂満隆のもとを訪れ、北朝の鎌倉方への謀反を勧めました。同時に武蔵、上野、下野の豪族に廻文を送って、鎌倉叛旗を促しました。時を待っていた新田、世良田、千葉、岩松、小田の各豪族は次々と反旗の旗を上げました。
桃井宗綱は上杉禅秀側に加わり、北朝の鎌倉方を攻撃し、江戸近江守を国清寺(伊豆・韮山)で打ち取り、荏原の矢口(東京都荏原、矢口)に高札を立てて、その首を晒しました。
高札・・
・・・「このたび、相州鎌倉国清寺に於いて、江戸近江守を討ち取った。その首を新田義興に奉るものである
・・・・応永23年丙申10月10日 桃井右京亮源宗綱」
実は、かって江戸遠江守は矢口の渡しで、船のみの「のみ」を抜いて新田義興を溺死させました。江戸近江守はその時の江戸遠江守の子であります
翌年応永24年(1417)1月10日、新御堂満隆と持仲の親族と上杉定禅の家来170人が北朝との戦いに敗れて、ことごとく自害する。
同年5月13日、武州入間川で、岩松大輔は中村時貞に捕まり殺害される。
桃井宗綱は剃髪して、下野入道宗綱と名乗るようになる。
(*3)応永30年(1423)、小栗満重が北朝鎌倉に背き、下総の結城に立て篭る。小栗に味方して桃井入道、宇津宮持綱、真壁義成、佐々木入道が合戦にくわわった。
しばらく経った8月13日に桃井は下野の落合(群馬県藤岡市上落合城山)に帰った。


宗良親王、信濃へ・・・

応永31年(1424)尹良親王を信濃の国にお連れすることになりました。

今までの四家七党に、上野、下野、武蔵から新田義一、世良田政義、世良田親季、世良田政親、桃井宗徹、大江田安房守、羽河景康、羽河景国、宇津宮一類、大岡重宗、宇津道次、大庭景平、熊谷直郷、児玉定政、酒井忠則、鈴木政長、天野遠幹、天野家道、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉が加わって、上野を出て、4月7日に千野頼憲の嶋崎城(岡谷市、別称岡谷城)にお着きになりました。
(*4)信濃国南朝側は、小笠原政季、千久祐矯ほか香坂、滋谷の一族が嶋崎城に来て尹良親王の旅の疲れを癒し慰めました。
ここで、尹良親王の子の、良王のことが話題になりました。四家七党のものと世良田、桃井の13人で良王を戦いの旅から外して上野の落合に返そうということになり、ここの13人と熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山らがお供して、落合に帰ることになりました。
8月10日、尹良親王は千野を出発し、三河に向かうことになりました。
ここで、尹良親王は和歌をお作りになっています。
・・「さすらへの 身にしありなば 住み果てん とまり定めぬ 憂き旅の空」
尹良親王はこの和歌を千野伊豆守に贈り、千野家では、家宝にしたと言われています。
尹良親王が以前三河に行ったとき、吉良の郷は、桃井義繁に恩のあるものたちが西郷正康をはじめ多く、三河の地で南朝側を集め、落合の良王と示し合わせて、宮方の残兵も集合させて、合戦しようと相談しました。
それで、千野の嶋崎城を出発し、三河に向かうことになりました。三河からは、久世、土屋など大勢が迎へにやってきました。
(*5)13日、飯田に向かう途中、杖突峠で賊徒が道を塞ぎ財宝を奪おうと集まり、あちこちの山より矢を放ちました。小笠原、千久の兵は、尹良親王を護り賊を破りました。

飯田から三河へ向かう・・・
浪合合戦・・・大野村(阿智村智里大野、現在の昼神温泉近く)から大雨が降り、道路が大河のように水が流れていた。夜半から風雨がさらに強くなり、あたり一面は全くの暗闇でした。
そこへ、駒場小次郎と飯田太郎という野武士が現れて、尹良親王に襲いかかりました。
下野宗徹、世良田義秋、羽河景康、同景国、一宮伊予守、酒井貞忠、同貞信、熊谷直近、大庭景郷、本多忠弘以下が懸命に防戦しました。賊は、いくら討っても斬っても、ここの地理に詳しく離散集合し、水の中や丘をを飛び回り、畦道などから矢を放ってくる。味方は天難もあり、運もここに窮まって、尹良親王を避難させることも不可能になりつつあった。大井田、一井も賊に討たれてしまいました。
下野入道と政満は山麓の民家に尹良親王の御輿を入れて、もうこれまでと自害をお勧めしました。
宮は残った者たちをお集めになり、「これまでの忠義は後世まで忘れません」とここまでお供した者たちに感謝を言って、ご自害なされました。
同時に、入道を始め主従25人も、各々自害し、家に火をかけ、ことごとく火中に亡んで行きました。
政満は遺言を守り持って、この難中を逃れ上野国に帰りました。

尹良親王 自害・・・
時は往永31年(1424)8月15日
(*6)信濃国浪合にて尹良親王自割。
この場所を宮の原と呼ぶ。
討死の死骸を埋めた塚を千人塚と呼ぶ。
ここは、信濃国浪合の(*7)聖光寺にある。

合戦討死名と法名・・・
大龍寺殿一品尹良親王尊儀(後醍醐天皇孫)
大円院長(一字ヌケ)宗徹大居士(桃井入道宗綱)
智真院浄誉義視大居士(羽河安芸守景庸)
依正院義傅道伴大居士(世良田義秋)


良王伝・・・
良王の父は尹良親王で母は世良田政義の娘で、上野国寺尾城でお生まれになりました。そして、正長元年(1428)に寺尾城から下野国三河村の落合城(前橋市三河)に移りました。
永享5年(1433)良王は寺尾城を出発して、信濃国に向かう途中、笛吹峠で北朝の上杉軍が追ってきて合戦になりました。良王は木戸河内守の城に立てこもり、防戦します。
同年5月12日、木戸の城を出て、木曽の金子の館(?不明)へ行ってしばらく滞在します。そのうち、千久五郎が迎えに来て、伊那の千久城(知久城、飯田市下久堅知久平)にお連れします。
同年冬、世良田政義と桃井貞綱は四家七党とも相談して、良王を尾張の津島にお連れすることを決めます。
同年12月1日、まず三河に向かい、途中浪合に到着します。

浪合合戦2・・・
浪合では、先年尹良親王との戦いで、駒場小次郎と飯田太郎が討死しており、飯田や駒場の一族郎党が「宮方は親兄弟の仇、討ち取って供養にしよう」と待ち構えて、良王を取り囲みました。
桃井貞綱、世良田政親、児玉貞広らが浪合の森から反撃し、賊徒130人くらいを討ち取ったが、戦闘は終結しませんでした。
翌日も朝から夕方・夜半(酉刻から亥刻=PM6:00~PM12:00)まで戦いは続き、その間の良王を合の山(平谷?)まで避難させました。激闘は宮方にも被害が多く、桃井貞網、児玉貞広、野田彦次郎、加治監物以下21騎が戦死しました。
3日目、桃井満昌が合の山にいた7、8人の子供に「浪合の合戦はどうなったのか」尋ねたところ、
子供の一人が「自分は浪合近くの村に住んでいますが、昨日浪合近くの民家に武士が大勢駆け込んで腹を切りました。大将も腹を召されたそうです。」と答えた。
満昌が続いて「その腹を切った者たちの遺骸はどうなったか」尋ねると、
子供は「武士たちは切腹したあと、家に火をかけました。」「風が烈しく吹いていたので、浪合の街は焼け失せてしまいました。」「今朝近くを通ったら、一文字の笠印、一番の笠印や樫木瓜の紋をつけた兵たちが、焼け跡を探して、鎧や太刀の焼けた金具を拾っているのを見ました。」「可哀想なことです。」と語ったといいます。
満昌が良王に報告すると、良王は早速大橋修理を呼んで、満昌とともに、平谷から浪合まで出向いて、討死の者たちを弔わせた。満昌と定元(大橋)は、ともに涙を流し、同朋を悲しんだといわれています。
ちなみに、一文字は世良田の、一番は山川の、木瓜は堀田の紋であります。
ある家の蔀(しとみ=跳ね上げ式格子戸)に世良田政親の辞世の歌が置いてありました。
・・「思いきや 幾世の淀も しのぎ来て この浪合に 沈むべきとは」 
定元は、討死の死骸を集めて、浪合の西の寺の僧に頼んで埋葬し、夕暮れに平谷のの陣所の戻った。満昌は、敵の首を晒した。良王は政親の辞世に涙を流し、お供の者たちも慟哭し、声は天地を揺るがした。
5日、三河国鳴瀬(=成瀬)村につくものの、村人が疑ったので村に入れなかった。
そこで、満政の領地の坂井郷に行き、正行寺を頼り、良王はここに45日居て、尾州津島にある大橋定省の奴野城に行くことになる。

良王君 没・・・
明応元年(1492)3月5日、逝去。御年78歳。瑞泉院と号す。同3年3月5日、天王社の境内に社を建て、御膳大明神と名前をつけて、祀る。

以下は、尹良親王と良王に伴って、各地を転戦した者たちの、その後を記した記録と逸話であるため、省略する。

追記、愛知県津島市津島神社に、天王祭という祭りがあります。この天王祭の祭りの由来故事に、良王と四家七党の出来事があり、始まったとされています。

参考  

南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王 - ucom.ne.jp

 


参考・異説
(*1)尹良親王の生誕と没年を書から推定すると、官名などを貰ったときが元服の時とすると、1387年(元中3年)で、15年前が生誕で1372年、没年は1424年(応永31年)で52歳の生涯と言うことになる。宗良親王が井伊谷に住んだのは、1338年から1340年の2年間であり、これを記す書は複数であることから、34年余の差は不自然であり、「遠江の国井伊谷の館でお生まれになりました。母親は井伊道政の娘でございます(*異説が多い)」は支持しがたい。もちろん井伊谷で子供が生まれていた説は否定しないが、この子が尹良親王の可能性は、ほぼない。だが、宗良親王は、1374年から1377年まで吉野に戻って新葉和歌集など編纂している。宗良親王64歳の時の吉野帰還である。宗良親王の62歳の時の子供というのも多少無理もあるし、「親王」の認知官名も多少無理がありそうで、疑問。以上を踏まえた上で、一番辻褄のあう説に書き換えてある。
(*2)迦葉坂?との説もあるが、足柄上郡山北町柏坂のほうが理に叶う、丹沢ダム付近。
迦葉坂は駿河と甲州を結ぶ富士川沿いの街道で、付近に丸山に地名はない。また一色(河口湖)村へは直線距離で50Kmになり、まして箱根の険の山岳道で、戦ったあとの退却ではたどり着けない。
(*3)これは、有名な結城合戦とは、発生年代と参加者名簿が違うことから、異なっているようです。
(*4)小笠原政季、千久祐矯、は小笠原家系図、知久家系図ともに見えない。さらに、知久氏はともかく、小笠原家は、ガチガチの尊氏派・北朝側であり、別流の小笠原家の存在が確認されないところから、信憑が薄い。
(*5)ここの場所は、諏訪神社の御神体山の守屋山で諏訪神党の聖域であり、本来は南朝の勢力圏で、秋葉街道(一部杖付き街道)で、一ノ瀬氏(南朝側)、香坂氏(南朝側)、知久氏(南朝側)と続く南朝の道と呼ばれています。少し不自然に思えます。
(*6)文中は大河原だがこれは誤記、浪合とその周辺に大河原の地名はありません。大河原と浪合はともに長野県下伊那郡内ですが、北東の端と南西の端で地図上の直線で約60km、赤石山中と木曽山中に分かれます。当時の装備と歩行では2日以上かかります。それに、浪合と大河原の間に、暴れ天龍という大河がが存在し、橋のない夜半にはこの川を渡るのは不可能と思われます。
(*7)聖光寺は存在しない。
浪合に堯翁院(ギョウオウイン)がある。もと浪合宿の南町裏にあったが、戦国時代に戦火で移転し現在の地に移った。正式には尹良山(インリョウザン)堯翁院と称す。山号は尹良親王に由来する。建立年は1577年だが、これは移転した年である。
尚、尹良親王の遺跡は浪合神社として宮の原にある。
(**)同じ場所で、親王親子が、同じように賊に二度も襲われたことに疑問を持つ研究者がいます。良王のお伴で討ち死にした者を葬った場所・寺(西の寺)は確認されていません。

あとがき・・・
浪合記は偽書とされることが多い。理由は、歴史の事象で確認されている年代と違っていることが多い点、地名が辻褄にあわない箇所散見される点、中世の当時の政治状況で説明が無理な点、などであろう。
読んで明らかなことは、南朝の宗良親王、尹良親王、良王に忠臣した、四家七党の忠誠心の証明と彼らの一族の正当性を、語り継がれた伝承をもとに、後世に戦記化したというのが、本当のところだろう。
尹良親王は実在した可能性の方が高いが、吉野朝から親王を認められたかは、証拠もないし可能性は低い。
このことを踏まえたうえで、戦記ものとしての価値はあると思う。良王は浪合記以外の書では確認できていない。

なお、この文は、発見されている事跡から合理的とおもわれる説に、自称の官名を可能な限り外して人名としたこと、多少文脈から前後を入れ替えたことなどで、読みやすくしてあります。  

なお、この時期と重複する、結城合戦(1440)の時の「結城陣番帳」に記載されている小笠原守護下の豪族の名前を確認すると、南朝の主力部隊を構成した名前がかなり多い。この時点では既に、反幕府から幕府側=小笠原守護家の組下になっていたと思われる。主なところでも、諏訪信濃守、香坂氏、知久氏、藤沢氏、保科氏、海野氏、井上氏などが南朝側から離反していたことが覗われる。

・・・当ブログ、「伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・」参照

なお、尹良親王を奉じて、各地を転戦した、新田義貞の一族の残党、世良田氏は、元は上野(群馬県)の新田荘(太田市)の利根川沿いの世良田地区の出であろうと思われるが、三河の山岳に逃れて松平家の養子になり、やがて勢力を蓄えて徳川と名を改め、天下を取った家康に繋がると言われる。

ちなみに、三河は、足利高氏の守護国であり、同族の今川氏や吉良氏が守り、中先代の乱で、北条時行に敗れた足利直義が三河まで逃げ、ここで高氏の出場を待ち、兵力を増強して鎌倉へ反攻した拠点である。状況を眺めてみると、三河の平野部分が足利家の荘園で、山沿いの部分は南朝側だったようだ。

 

 

 



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