探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

宗長親王戦記 6:南朝の劣勢 しかし北朝も内部対立へ

2015-02-23 19:40:58 | 歴史

 

宗長親王戦記 6:南朝の劣勢 しかし北朝も内部対立へ

年表

1341:興国2暦応4:2月29日:細川顕氏、南朝方の西阿討伐のため出陣し、河合城を攻撃。
       :春:宗長親王、越後寺泊に在住
        :6月:高師冬、北畠親房の拠る小田城を攻撃。
        :7月:征東大将軍・宗良親王信濃に入る
          :香坂高宗四郎美作守佐久より伊那郡大河原に移り館を築く。
          :当時大河原は南朝余党の巣窟たり
        :8月14日:足利直義、佐々木道誉に伊勢の南朝軍を討伐させる。
        :11月10日:小田治久が高師冬に通じたため北畠親房は関城。
             :春日顕国は大宝城へ逃れる。
        :12月20日:河野通世・忽那一族、伊予国道後で幕府軍と戦う。
        :12月23日:足利直義、夢窓疎石の要請により天竜寺船を元に派遣する。
  :興国2:6月7日:越後城(新田勢力下の越後城)悉打落之由、以飛脚上杉戸部令申了。
1342:興国3・康永1:春:宗良親王、越後名子浦に在住
          :2月17日:幕府軍、石見国・小石見城の新田義氏を攻略。
          :3月13日:小笠原貞宗、常陸国・大宝城を攻撃。
          :5月5日:高師冬が常陸国・関城を攻撃、9月まで攻防が続く。
          :細川頼春、川之江城を攻略、南朝軍を破る。
          :6月19日:南朝懐良親王薩摩へ。島津貞久を谷山で撃破する。
          :7月:細川頼春、四国の南朝軍を攻める。
          :9月6日:美濃守護・土岐頼遠、京都で光厳上皇の車に矢を射る。
              :土岐頼遠は12月1日に誅殺される。

宗良親王の行状
1342:興国3・康永元年:宗良親王、越中の放生津(射水市新湊)に滞在
  :安居寺の親王塔は、南朝復興を祈願した宝筐印塔だと伝えられてる。
  :その時に親王が、後村上天皇恩賜の太刀一振りを安居寺に寄進した伝承。
1342:興国3:冬:奈呉浦貴船城(木舟城)の石黒重之の館に入る・・遠江国風土記伝
1342:宗良親王、大栄寺(氷見市)に遊行上人を訪れ、剃髪。後に(1347)髪塚を築く。
  ・・・奈呉ノ浦の位置は現在の射水市富山新港~伏木富山港辺りか

1343:興国4康永2:4月2日:春日顕時、関城に赴き結城直朝らを討つ。
        :11月11日:関・大宝城陥落。北畠親房、吉野へ帰る。
             :南朝の関東経営は崩壊する。
        :12月2日:幕府は山名時氏を守護とし朝忠を討たせる。
1344:興国5康永3:3月7日:春日顕国、大宝城を攻略。
        :3月8日:幕府軍が大宝城を奪回、春日顕国は捕らえられ翌日殺される。

宗良親王の行状
1344:興国5:正月、宗良親王、北朝の仁木義長軍の猛攻に奥山城(浜松市引佐奥山)陥落。
  :逃れる親王は美濃尾張を経て駿河に向かう。安倍城に興良親王を訪問。
  :駿河の安部城に拠ったが、ここも危なく越中に移動。
  :やがて信濃国伊那郡の大河原に入る。・・興国五年のこと          
南朝の拠点・大河原
信濃・大河原の豪族・香坂高宗に招かれて大河原へ入る。ここで信濃宮と呼ばれる。・・その間に上野や武蔵(武蔵野合戦)にも出陣し、駿河や甲斐にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(浜松)から東海地方へ、北上すると長谷を経由して諏訪や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる。後の秋葉街道の中心に位置していた。劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一族など)が逃げ込む事も多かった。
・・信濃大河原に落ち着く。延元三年の北条時行が朝敵免除の綸旨を受けて以来、中先代の乱の首謀者である諏訪神党の各諸族は、宗良親王の頼もしい支持者であった。

『李花集』・・
・・興国五年、信濃大川原と申山の奥に籠居侍しに、たゞかりそめ成山ざとのかきほわたりみならはぬ心地し侍しに、やふやふわかぬ春のひかりまちいづる鶯の百囀も、むかし思ひ出られしかば、
  ○かりのやとかこふはかりのくれ竹をありしそのとや鶯のなく
  ○春ことにあひやとりせしうくひすも竹のそのふに我忍ぶらん
信濃大川原と申侍ける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりして侍ける、谷あひの空もいくほどならぬに、月をみてよみ侍し
  ○いつかたも山もはちかきしはの戸の月みるそらやすくなかるらん
信濃大川原といふ深山に籠て、年月をのみ送侍しに、さらにいつとまつべき期もなければ、香坂高宗などが朝夕の霜雪を拂ふ忠節も、そのあとかたなからん事さへ、かたはらいたく思ひつづけられて、
  ○いはて思ふ谷の心もくるしき身をもむもれ木とすくす成けり 

1345:興国6貞和元:3月3日:出雲の幕府軍、佐々木貞家が篭る屋根山城を攻略。
         :8月27日:畠山直顕、薩摩国・鹿児島谷峰城の南朝軍を攻撃。

宗良親王の行状

以下は、宗良親王の『李花集』『新葉集』の詞書き記載の地名を列記します。ただし、年代記入がほとんど無いため、行動を正確には掴めません。

駿河: 駿河国貞長が許・・又の年(興国六年)秋まですみ侍し -> -1345:秋
 ・・  ○見せはやなかたれはさらにことの葉もをよはぬ富士のたかねなりけり

興津・庵崎:現静岡市清水区興津か?庵崎が不明(ここは昔、庵原郡、その岬か?) 
 ・・  ○袖の浦風秋の夕よりも身にしむ心地せしかば

清見関:駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名称
 ・・  ○あつまちのすゑまて行ぬいほさきの清見はせきも秋かせそふく

浮島原 車返し:浮島原(沼津市原)・・浮島沼、車返し(沼津市)・・登り坂が地名の由来

・富士山麓:広すぎて?
 ・・  ○北になしみなみになしてけふいくかふしのふもとをめくり来ぬらん

甲斐国白須:白州松原・・北杜市白州町 21.4.8
 ・・  ○かりそめの行かひちとはきゝしかどいさやしらすのまつ人もなし
 征東将軍宗良親王井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原に暫し休まれた。

・信濃:広すぎて?
 ・・  ○ふしのねのけふりを見ても君とへよあさまのたけはいかゝもゆると

信濃諏訪:諏訪下宮寳前・・下社宝物殿のことか、 下諏訪町上久保
 ・・  ○すはの海や神のとかひのいかなれは秋さへ月のこほりしくらん

信濃更級:冠着山(別名・姨捨山)の麓の地域が「更級地区」「さらしなの里」
 ・・  ○もろともにをばすて山をこへぬとはみやこにかたれさらしなの月
 ・・ をば捨山ちかくすみ侍し比 ・・『新葉集』
 ・・ 宗良親王が更級に住んだ時期は、1347年から数年?。

1346:正平1貞和2:1月21日:足利直義、島津貞久らに命じ、伊集院忠国らを討伐させる。
        :3月6日:吉見氏頼、井上俊清らを能登木尾城に攻撃。
        :7月23日:興福寺衆徒、東大寺を襲撃する。
        :8月27日:伊集院忠国、再び南朝に応じ薩摩日置若松城を攻略。
        :11月21日:足利直義、島津貞久に伊集院忠国の討伐を命じ、
             :九州のことは一色範氏に委ねた旨伝える。
1347:正平2貞和3:6月6日:南朝軍、熊野水軍を率いて薩摩東福寺城を攻撃。
        :6月19日:九州の幕府軍が島津貞久の薩摩谷山の陣に合流、南朝軍と戦う。
        :7月22日:吉良貞家・畠山国氏・石塔義房、陸奥藤田城のに南朝軍を攻略。
        :8月10日:楠木正行が挙兵し隅田城を攻撃。
            :紀伊・河内・摂津などで転戦、京に迫る。
        :8月24日:楠木正行、細川顕氏と河内池尻に戦う。
        :9月9日:楠木正行の軍、河内八尾城を攻撃。
        :9月17日:楠木正行、細川顕氏を河内藤井寺に破る。
        :10月1日:山名時氏、河内東条の楠木軍を攻撃。
        :11月26日:楠木正行、山名時氏・細川顕氏を摂津住吉・天王寺で破る。
1348:正平3貞和4:1月:懐良親王、菊池城に入る。
        :1月5日:四条畷の戦い。楠木正行、高師直と戦い敗死。
        :1月6日:高師直軍、吉野を攻略。後村上天皇、賀名生に逃れる。
        :2月8日:吉野より帰還途上の高師直軍を南朝軍が攻撃。
        :3月:高野山衆徒、宮方・武家方の戦闘に加わらぬことを盟約する。
        :4月26日:南朝軍、高師泰と河内天野二王山で合戦。
        :8月8日:足利直冬、紀伊国に到って南朝軍と戦い、阿瀬河城を攻略する。
        :10月27日:北朝、光明天皇譲位し、崇光天皇が即位する。
     :同年:宗長親王、更級の里(姨捨山麓)、浅間山麓に潜居。

宗良親王の行状

1348:正平3:宗良親王、更級郡姨捨山麓に住まわれたことがありました。
  :そのとき興禅寺へも來山され逗留したと伝えられます。・・宗良親王と興禅寺 
  :この寺の裏山の「みやまざ」(御山沢、宮間座が、宮が滞在された屋敷の跡。
  :興禅寺は香坂氏により開基された寺です。香坂氏の牧城は近く。
  :護良、宗良親王の香崋所・興禅寺: 長野県上水内郡牧田中

1349:正平4貞和5:閏6月2日:足利直義、高師直と不和を生じる。
        :閏6月15日:足利尊氏、高師直の執事職を罷免、後任に高師世を任命。
        :8月13日:高師直が足利直義襲撃を計り、直義は尊氏第にのがれる。
        :8月14日:高師直が要求して、足利尊氏は上杉重能の配流と直義の罷免。
            :直義は幕府最高権力を足利義詮に譲ることになる。
        :8月15日:幕府、上杉重能・畠山直宗を越前に配流、配所で殺す。
        :8月21日:僧疎石の調停で直義の政務及び師直の執事職を元に戻す。
        :9月9日:足利尊氏、次子足利基氏を初代関東管領とし鎌倉へ送る。
        :足利尊氏、中国探題足利直冬を討つ。直冬は九州へ逃れる。
        :12月8日:足利直義が出家。恵源と号す。
      1349:足利直義・高師直の対立:直義は師直の暗殺に失敗、失脚

-----:解説:-----
時代は観応の擾乱
足利義詮 師直のクーデターが成功した。足利直義は追われる形で京都を去った。 ・・この対立の構図は、早かれ遅かれ露呈しただろう。急進派(足利尊氏、高師直兄弟、佐々木道譽など)と保守派(足利直義、直冬、桃井直常など)の 争いである。鎌倉幕府の仕組みを基本的に継承して、室町幕府の仕組みは成り立っているが、鎌倉幕府に重用されていた能吏を 直義は重用した。直義はまた、公家や寺社など既存勢力にも親密であった。・・幕府は、尊氏と直義の二頭政治で始まった。武家の棟梁は尊氏と、諸国の武家は感じていたが、実際に政務を執り仕切るのは 直義だ、ということになれば、心中穏やかでない者も出てくるだろう。最も尊氏・直義の近くにいて、最もそれを感じていたのが高師直・道譽だった。
時代は観応の擾乱へ。北朝-南朝、尊氏派-直義派、九州では懐良親王の勢力が盛り返し、複雑な様相を作り上げていく。

この期間の南北朝の抗争史を眺めると、南朝劣勢の様相は甚だしく、抗争(戦い)自体の数も減らしていく。それでも南朝は、各地で散発的に強兵を繰り返す、と言う状況が続き始めた。
こうなると、室町幕府は、ますます強固に大勢を整えていくかと思えば、そうでもない。
この頃、南朝を主導したのは、後村上天皇の代になり、懐良親王、宗良親王、北畠親房、新田一族、楠木正行など、一方、北朝側は、足利尊氏・直義兄弟は健在で一族郎党を兵力補強に使い、高一族、それに尊氏に与する守護の小笠原一族や島津一族が勢力健在であった。
宗良親王は、頻繁に各地へ赴き、執拗に南軍への参戦を促す旅を続けている。宗良親王の業績を各書で読む限り、軍事的才覚は浮かんでこない。その才覚は、慰撫と鼓舞なのであろう。だが、宗良の出自は、旗頭には充分な資格であった。
変化が訪れるのは、高一族と足利直義の対立からである。
急進派・足利尊氏、高師直兄弟などと保守派・足利直義、直冬などの 争いは、鎌倉幕府の仕組みを継承して、室町幕府は成り立っているが、鎌倉幕府の有能な能吏を直義は重用し、公家や寺社など既存勢力も排除しない。尊氏と直義の二頭政治は、武家の棟梁は尊氏と諸国の武家は思っても、実務は直義だ、ということになれば、それに続く権力者は心中穏やかでない。それを感じていたのが高師直一族であったわけで。
室町幕府の成功は、それぞれの事象を検証していくと、武士の棟梁に祭り上げられた尊氏よりも、実務能力に長けた直義に負うところが非常に大きい。武士社会の構造の矛盾は、いつの世も、戦時の武闘派、平時の文民派の対立に現れる。室町幕府においては、直義への妬みのある武闘派の高一族が、直義に反目したことに起因すると見たのだが如何?
室町幕府の安定は、この武闘派と文民派の協力の下で強固なわけだが、この力関係が崩れれば隙が生まれよう。
観応の擾乱は、劣勢だった南朝側に、再び活力を吹き込んでいく。
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