探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

宗長親王戦記 4:建武の新政と崩壊。宗良親王

2015-02-21 00:50:18 | 歴史

宗長親王戦記 4:建武の新政と崩壊。宗良親王

年表

1331:      :元弘の変 ・・再び後醍醐、倒幕に立ち上がる

1331:元弘1・元徳3:【元弘の変
         :5月5日:六波羅、後醍醐天皇(43)の倒幕計画を探知。
         :長崎高貞らを派遣し、日野俊基、文観らを捕らえ、鎌倉に送る。

          :幕府、大軍を上洛させる。
         :8月24日:鎌倉より京へ軍勢が差し向けられる。
              :後醍醐天皇、神器をもって奈良へ逃れる
         :8月27日:後醍醐天皇(43)、大和笠置寺に行幸。
         :六波羅の兵が比叡山を攻撃、尊雲・尊澄法親王は笠置山に逃れる。
         :足利高氏(26)、鎌倉軍として大仏貞直らとともに京へ出陣する。
         :9月11日:楠木正成ら河内・赤坂城で挙兵する。
             :翌月21日陥落し、正成は逃亡。
         :9月:備後の桜山滋俊、挙兵。敗れて備後で自刃する。
         :9月20日:持明院統の量仁親王が光厳天皇となる。・・(北朝第1代)
         :9月28日:幕府軍笠置山へ進軍し、笠置山落城。
         :9月28日:皇笠置寺行幸。東坂本の戦。
         :翌日、後醍醐天皇が捕らわれる。
         :10月21日:赤坂城陥落。楠木正成(37)は逃亡。
         :10月:妙法院宮(宗良親王)は長井因旛左近太夫将監に預らる。

-----:解説:-----wikipediaより
元弘の変 ・・・
元弘の乱は、元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。
1331-1333年までの戦乱。 ・・元弘の変とも呼ばれる。
鎌倉時代後期、幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も急増加した。幕府は徳政令で対応するが、社会的混乱から悪党が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。
朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇系の(持明院統)と亀山天皇系の(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会は、両統の派閥が生じ混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。
文保二年(1318)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。正中元年(1324)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。
笠置山・赤坂城の戦い ・・・
元弘元年(1331)8月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。・・幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。・・後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、元弘二年/正慶元年(1332)3月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。
宗良親王の行状
宗良親王、北条討伐の指揮をとる。後醍醐と笠置山に入る。・・後醍醐天皇と共に笠置に拠ったが、宗良親王は翌年捕えられて讃岐国に流された。・・楠木正成河内赤坂に挙兵。・・幕府の奉願により量仁親王即位(光厳天皇)・後醍醐天皇解任。
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1332:元弘2・正慶1:3月7日:幕府、後醍醐天皇(44)を捕らえ隠岐へ配流
             :3月8日:幕府、尊良親王を土佐、尊澄法親王を讃岐へ配流。
             :6月:護良親王各地の武士に令旨を発令。
             :倒幕の挙兵を呼びかけ、呼応した
             :6月6日:尊雲法親王、令旨を熊野山に伝える。
             :6月19日:幕府、北畠具行を近江国で殺す。
             :11月:護良親王(尊雲法親王)、吉野で挙兵。
                :楠木正成が呼応して河内赤坂、千早城で挙兵
             :12月:楠木正成、赤坂城を奪回。
1333:元弘3・正慶2:1月19日:楠木正成、摂津国四天王寺に六波羅軍を攻撃。
             :足利高氏の幕府を裏切る。六波羅探題は陥落。
              :2月:幕府軍、赤坂城を落とす。千早城の攻防戦激化。
             :閏2月1日:吉野城陥落し、村上義光ら戦死。
              :閏2月11日:長門探題の北条時直・宇都宮貞宗を襲撃。
             :閏2月24日:後醍醐天皇、阿野・千種らと隠岐を脱出。
             :閏2月28日:後醍醐天皇、伯耆の船上山の名和長年を頼る。

             :後醍醐帰郷する。護良親王を征夷大将軍に任ずる。
             :3月:足利高氏、名越高家,幕府軍を率いて伯耆へ向かう。
             :3月12日:星岡の戦い:北条時直、再び敗退。
             :3月13日:菊池武時、鎮西探題の赤橋英時と戦い敗死。
             :4月16日:足利高氏入京。
             :5月7日:足利高氏・赤松則村・千種忠顕ら京に突入。
                        :六波羅を攻め、陥落させる。
             :5月7日: 京都回復。鎌倉陥落
             :六波羅探題・北条仲時ら光厳天皇を奉じ近江国へ敗走。
              :5月8日:新田義貞、上野国新田庄・生品明神で挙兵。
                  :翌日、足利義詮が新田軍に加わる
              :5月15日:新田義貞、武蔵国分倍河原に北条泰家を破る。
              :5月18日:鎌倉執権・赤橋守時、大船で新田軍に敗死。
              :5月22日:新田義貞、稲村ヶ崎から鎌倉へ進撃、
                    :鎌倉を陥とす。
                 :新田義貞、鎌倉を制覇。 建武の新政が始まる。
                 :北条高時以下、鎌倉東勝寺で自刃
                  ・・・【鎌倉幕府滅亡】。
              :5月25日:後醍醐天皇、光厳天皇を廃し元弘に戻す。
              :6月5日:後醍醐天皇が帰京する。
             :6月15日: 宗良、天台座主に還任
             :6月:この頃、記録所・恩賞方を設置。
                     :訴決断所・窪所・武者所を設置。
              :7月23日:諸国平均安堵法を発布。
             :8月5日:足利高氏・新田義貞ら諸将の論功行賞を行う。
                  高氏は尊氏と改名。
             :9月:この頃、雑訴決断所・武者所など設置。
              :10月20日:鎮守府将軍・北畠顕家、義良親王を伴い奥羽多賀城へ向かう。
             :足利高氏は旧探題配下の職員や御家人を吸収して護良親王の軍勢を圧倒する

-----:解説:-----
足利高氏
足利高氏は、当初京都制圧のための切り札として、北条家一族の名越高家とともに出陣した。 このときはまだ、鎌倉幕府の一将であった。・・三河国矢矧に到着したとき、高氏は有名な「足利家時の置文」を一族に披露して倒幕の意思を伝え、 同時に船上山の後醍醐天皇に使者を派遣した。・・このころ幕府は、北条高時と長崎円喜の対立をはじめ、内部の破綻を来たしていて、六波羅、鎌倉とともに 手薄の状態であった。まさに、高氏や新田義貞には千載一遇のチャンスが訪れていたのである。・・すでに六波羅探題、九州の鎮西探題への反乱は激しさを増してきていたが、この直後に訪れる 足利高氏と新田義貞の寝返りが、時代を倒幕へ向かわせる決定打となるのである。

反幕府勢力:後醍醐、楠木正成、新田義貞、足利尊氏らが鎌倉幕府(北条高時)を滅ぼす
足利・新田両家とも村上源氏の血筋だが、足利家は頼朝の世以来名門、一方新田家は不遇をかこっていた。・・ともに妻は北条家ゆかりの人、倒幕戦は肉親同士の熾烈な戦いとなる。手別当で闘った元寇にも報償を与えられず、窮迫する御家人達の不満と混乱の世。お坊ちゃま将軍北条高時は、舅・長崎高資の収賄と強権政治に為す術無かった。後醍醐軍と尊氏は六波羅探題、義貞は鎌倉を責めたが為、高時等を直接下したのは義貞だった。しかし絶対的な家格の違いから義貞の戦功は評価されず、御家人達の人望は尊氏に集中した。鎌倉から追放された義貞の鬱積。御家人リーダーの地位を得た尊氏。新田が足利に対して反目を醸成していく。
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1334:建武1:1月12日:政府、大内裏造営のため全国の地頭・御家人に二十分一税を課す。
     :1月:鎮西探題北条氏の一族である規矩高政、帆柱山で蜂起。
        :これに呼応して、長野政通が門司城で蜂起。
       :3月9日:北条氏残党の本間・渋谷氏、鎌倉を攻めるが討たれる。
       :5月3日:徳政令発布。
       :10月:北条氏余党の佐々目憲法、紀伊国飯盛山城で蜂起。
           :護良親王(26)と足利尊氏(29)の対立深まる。
           :後醍醐天皇は護良親王の行動を警戒して親王の権限を制限。
        :10月22日:政府、護良親王を武者所に拘引。
             :十月、護良親王、捕えられ翌月鎌倉に流される。
        :11月15日:後醍醐天皇、護良親王を鎌倉・足利直義に預ける。
-----:解説:-----
護良親王 ・・・
護良親王 「朕が新義は未来の先例たるべし」。・・理想の実現を目指して燃える後醍醐天皇を筆頭にした建武政権は、しかし、成立当初から多くの矛盾を孕んでいた。
建武政権 ・・・
「新政」とも「親政」とも表現されるように、後醍醐天皇は天皇直裁の政府を作り上げようとしていた。 しかし、戦後の混乱期に天皇一人の裁可を仰がなければならないことは、庶務の滞りを招いていた。・・論功行賞は、もとより不平等なものであったが、綸旨による認可制に拘りすぎ作業がはかどらず、 朝令暮改は日常茶飯事、不信感を募らせていた。・・とりわけ、論功に見合う土地を与えられなかった諸国の武家の不満は大きかった。
そうした中で、新田義貞や楠木正成らは、建武政権に取り立てられていったが、 足利尊氏は巧みな立ち回りを見せ、新政権には深入りせず、護良親王の敵意の矛先もかわしていった。・・こうして、建武政権に批判的な武家たちは、必然的に足利尊氏を新しい盟主として見るようになる。・・時代の大きな流れを作っていた数々の歯車は、驚くほどあっけなく、再び分裂の方向へと動き始めていた
建武新政・・公家よりの政策は、恩賞に浴せなかった武士の反感を募らす。解決のつかない土地争い・出世争い・賄賂・夜討ち・強盗・にせ綸旨の横行 ・・後醍醐の庶民を無視した悪政・恐怖政治。さらに、護良親王は尊氏の人望を妬み、対立。・・寵姫・阿野廉子の政治介入が新政崩壊を早める。我が子を皇位に就けるため尊氏の讒言に便乗、護良親王追い落としを計る。・・後醍醐は護良を捨て、護良の処分を尊氏に任せ、弟足利直義が彼を切る。
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1335:建武2:1月:北条時直の遺児、越後左近将監とはかり長門国・佐加利山城で蜂起。
        :1月10日:後醍醐、比叡山に逃れ、翌日尊氏が入京。
            :後醍醐は奥州軍と共同して尊氏を攻撃する。
         :尊氏は丹波篠村-摂津兵庫-播磨室津に逃れる。
        :1月12日:吉田頼景・宗像氏範ら佐加利山城を攻撃。
        :2月:赤橋重時、丹波国・烏帽子山城で蜂起する。
        :2月:常岩宗家が反乱を起こす。
        :6月22日:西園寺公宗・日野資名・北条泰家による後醍醐天皇殺害の陰謀が発覚する。
        :7月14日:諏訪神党の保科弥三郎・四宮左衛門、反建武の兵を挙げる
        :7月:名越時兼、蜂起し京へ進軍するが、加賀・大聖寺城で戦死
        :7月14日:【中先代の乱】勃発。
            :諏訪神党 諏訪頼重ら、北条時行を擁して信濃国に挙兵。
            :この日小笠原貞宗(42)と戦い鎌倉に向かう。
            :岩松経家、燕川で時行軍を迎撃。破れ、鎌倉へ敗走。
            :女影原の戦い。
            :岩松経家、渋川義季、時行軍を迎撃。渋川義季は敗死。
            :府中の戦い。
            :小山秀朝の迎撃軍壊滅される。
        :7月22日:井出沢の戦い。
             :諏訪頼重らの軍に足利直義(29)大敗する
        :7月23日:足利直義、護良親王(27)を殺害して西走。
            :足利尊氏、天皇の召還に従わず、第を幕府の旧址につくる。
        :7月25日:北条時行、鎌倉を攻略。
        :8月2日:政府、西園寺公宗・日野氏光らを殺す。
            :足利尊氏、征夷大将軍・総追捕使を許されず、鎌倉へ向かう。
        :8月9日:政府、足利尊氏を征東将軍に任じる。
            :足利尊氏、三河国矢矧で足利直義と合流する。
        :8月19日:足利尊氏、北条時行を破り鎌倉を奪回
            :北条時行は伊豆へ逃れる。
           :9月15日: 尊氏鎌倉に反す。
        :10月15日:尊氏、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶、建武新政に反旗
        :10月:足利尊氏、新田義貞の誅伐を光厳上皇に奏上。
        :11月19日:政府、尊良親王と新田義貞の軍を尊氏・直義追討で鎌倉へ。
        :11月:細川定禅、讃岐に蜂起し、京へ向かう。
        :11月下旬:赤松則村、足利尊氏方につき挙兵する。
        :11月25日:新田義貞、三河国矢矧川で高師泰を破る。
        :11月26日:後醍醐天皇、足利尊氏・直義(29)の官位を剥奪する。
        :12月5日:手越河原の戦い。
            :新田義貞、足利直義を破る。
        :12月9日:鎌倉・浄光明寺に隠棲していた足利尊氏が挙兵。
            :足利尊氏に呼応して、佐々木道誉が足利方に寝返る。
        :12月11日:箱根、竹ノ下の戦い。
             :足利尊氏、新田義貞を破り追撃する。
        :12月13日:日向国の肝付兼重・伊東祐広・肥後国の菊池武敏らが挙兵、
        :12月23日:蒲原合戦。
             :越後新田軍、越後から出撃した足利軍と戦う。
        :12月26日:武田信武、足利氏に応じ安芸国矢野城を攻撃する。
        :12月30日:菊地武敏、太宰府の攻撃を計り安芸貞元らと戦う。

-----:解説:-----
北条時行 不満を募らせる武家たちが、北条家の残党と結び、全国各地で反乱を起こした。
なかでも、執権北条高時の子・時行が信濃の諏訪神党に担がれて起こした反乱の規模は大きかった。・・時行は迎撃する鎌倉の足利配下の軍を次々と撃破。かつて鎌倉幕府を相手に連戦連勝した新田義貞さながらに、 驚異的な勢いで南下を続け、ついにこの日、鎌倉を奪還した。・・「北条の世が戻ったぞ!」―  ・・鎌倉北条氏の世を「先代」、足利氏の時代を「後代」と呼ぶことから、この反乱を「中先代の乱」という。 ・・しかし、この反乱には、その後の明確なビジョンもなく、 わずか20日後、足利軍に蹂躙されて再び鎌倉を失うことになる。 そして時行は逃避。その後に南朝に与して20年にわたって足利家と交戦することになるのである。・・北条時行もまた、時代に翻弄された一人であったのだ。
足利尊氏挙兵。北条高時の遺児・時行が信濃で反乱・・中先代の乱・・鎌倉入りした尊氏は日頃の不満からか後醍醐の帰還命令を無視。・・朝廷側は即時に新田義貞を総司令官とする倒尊氏の大軍を派遣する。・・賊軍とされた尊氏は朝廷軍と闘うかどうか迷うが、直義の勧めで遂に立つ。南北に分かれた朝廷の間の戦いの幕開け、であった。・・・南北朝時代。
--------------

「元弘元年(1331)8月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。」・・・
腐れかけた鎌倉幕府は、京都に”六波羅探題”を残し権力の構造を残していた。役目は、京都の治安維持が主眼ではあるが、隠された意図は朝廷の監視である。長く続いた鎌倉幕府と朝廷内の旧弊勢力は、いまだ幕府の意に通じているものも多い。彼等は、来るべき理想の社会を追い求めているものは少なく、旧弊の中で、地位の保全と権力の地位にしがみついている。

後醍醐天皇は、”正中の変”の失敗から、比叡山の僧兵に期待をかけていた。自らの皇子も、天台宗の座主に据えてある。”正中の変”の時よりも味方になるものに多く意を伝えてある。
しかし、密告により、参謀となるべき側近は捕らえられた。

今回の”元弘の変”が前回の”正中の変”と違うところは、皇子たちの活躍である。宗良親王も、笠置の戦いでは、後醍醐軍の指揮を執ったが、護良親王は、楠正成などを味方に付け大いに奮戦した。
しかし、時はいまだ熟せず、後醍醐以下は敗北し捕縛され、天皇は解任されて、光厳天皇が即位した。
元弘の変の罪状から、主だった側近は斬罪され、後醍醐天皇も隠岐島へ流罪となった。皇子達も、尊良親王は土佐へ、宗良親王は讃岐へ配流された。この時、宗良親王は長井左近太夫将監に預られる。微罪とされたのは、和歌を嗜む文人であり、争いごとを好まない性質だったのが考慮されたのだろう。

元弘二年6月、護良親王は、令旨を発令。倒幕の挙兵を各地に呼びかけた
鎌倉幕府・北条得宗家に不満を持つ在郷の武士たちは、護良親王に呼応するものだ出てくる。翌元弘三年に入ると、足利尊氏が幕府を裏切り、後醍醐側に付いた。これから潮目が変わっていく。

武士勢力を味方に付けた後醍醐側は、倒幕の勢いを増していく。
京都では、六波羅攻めをしていた楠木正成に、足利尊氏が加わって、六波羅探題を落とす。
鎌倉では、護良親王に呼応した新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉へ進撃して鎌倉を陥とす。・・北条高時以下の北条得宗勢力は壊滅、高時は鎌倉東勝寺で自刃。・・・5月22日【鎌倉幕府滅亡】
こうして、後醍醐は流刑地から帰還して天皇に復帰。建武の新政が始まった

6月15日: 宗良親王、天台座主に還任。尊澄法親王を再び名乗る
8月5日:足利高氏・新田義貞ら諸将の論功行賞を行う。足利高氏は尊氏と改名。

建武の新政が、政権として機能したのは、鎌倉幕府滅亡から中先代の乱まで、年代的には1333年5.22-1335年7.25の約二年間であったと思われる。

北条残党とは、北条得宗家が壊滅した後にも、各地に北条家の庶家が残っていた。鎌倉時代に北条家から恩恵を受けた御家人や地頭なども、その既得権を新政府に奪われまいとして躍起だった。北条得宗家の直接統治した荘園の多くは、概ね北条家与党、北条家残党と見て良い。信濃国は、その北条与党、北条残党がかなり多く、その中心は諏訪大社を構える諏訪神党で、御身内家となっていた諏訪家は、幕府壊滅の時、北条泰家より高時の次男・亀寿丸を預かっており、北条得宗家の復活を狙っていた。諏訪大社の大祝・諏訪頼重は亀寿丸の元服を早めて、北条時行の改名を待って挙兵の旗を挙げる。北条時行と諏訪頼重の鎌倉への進撃は、行く先々で北条残党を糾合していき、見る間に大軍に膨れ上がっていく。信濃を出て、上野、武蔵と進むと武蔵国では、建武新政軍が所々で迎撃するが圧倒的軍事力で撃破していき、遂には足利直義の鎌倉守衛軍も打ち負かし鎌倉を占拠するに至った。・・・これが中先代の乱である。
これで、全国の武士たちは中先代軍に靡くかと思われたが、そうはいかなかった。全国の武士たちは、中先代軍を、鎌倉幕府末期の亡霊と見たのだ。鎌倉幕府の既得権益の復活と保守と見抜いた各地の武士たちは、結局自らの武士の棟梁に、足利高氏を選んでいく。この過程が、鎌倉から敗走する足利直義を追撃していく中先代軍に、反撃を開始した足利尊氏・直義の建武新政軍は、三河で軍勢を立て直すと、新政軍に援軍が続々と結集していく。
反撃はすさまじく、駿河、箱根などの戦いで中先代軍を追い落とし、遂には鎌倉を奪還する。中先代軍の中核・諏訪頼重など諏訪神党の幹部は自害し、北条時行を、再起のため逃避させるに至った。 ・・・中先代の天下は、僅か20日間で終わった。

中先代の戦いを通じて、足利尊氏は、後醍醐天皇の命令を聞かなくなる。
一つは、天皇の上洛命令を拒絶する。
一つは、この戦いの恩賞を、尊氏自ら行う
元弘の変の時の、後醍醐の恩賞は、不公平不平等なもので、戦功があった武士は不満を残した。建武の新政は、朝令暮改で不手際が多く信頼を失っていた。これが天皇親政の現実だと不信を抱いた武士層は、足利尊氏を、これからの武士の棟梁として靡いて行った。

これを、捨てておけないと思った後醍醐天皇は、新田義貞に、足利尊氏・直義の追討を命じ、尊氏・直の官位も剥奪し、反目は決定的なっていった。尊氏は、後醍醐天皇とすすんで戦おうとしなかったが、売られた戦いに応戦した。

南北朝時代の幕開けである。


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