探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪大社・・・上社の歴史 第五章 戦国期 武田との攻防

2013-12-25 02:49:07 | 歴史

・・第五章 戦後期 武田との攻防

以後、信濃の戦国時代、武田との抗争が続く

信濃の隣国甲斐では、武田一族の内訌が続いていたが、信虎が家督を継ぐと国内統一を果たした。そして、その鋭峰を信濃に向けてきた。信濃で武田氏によって最初に侵攻された諏訪郡は、交通の要所であり、信濃侵略の基地として格好の条件を備えていた。しかも、諏訪氏は一族の内紛のあとで不安定な政情にあった。

享禄元年(1528)武田信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したが、頼満はよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。その後も小競り合いが続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。

信濃は守護職をつとめる小笠原氏が最大の勢力を持っていたが、一族の内訌で勢力は後退を余儀なくされていた。府中小笠原氏を継いだ長基によって一族の内紛は克服されるが、守護大名から戦国大名へと発展する機会を逸しており、その支配領域も中・南信三郡であった。北信には村上義清が勢力を築き、その支配圏は小笠原氏をしのぐものがあった。この小笠原・村上の二氏が信濃を代表する勢力として、それぞれ戦国大名領国制を展開しようとしていた。

この二大勢力の間にあって、諏訪氏は諏訪郡を一円支配し伊那郡南部にも進出しようとする勢力として、戦国大名領国制を展開していたのである。頼満は天文八年(1537)に死去したが、嫡孫の頼重が家督を継いだ。翌年、頼重と信虎の娘との間に婚儀が整い、諏訪氏と武田氏とは姻戚関係に結ばれたのである。武田氏との同盟関係を背景に、頼重は小県郡へ進出し、天文十年(1541)五月には、武田信虎・村上義清らとともに海野・祢津氏らを破り所領の拡大を図っている。

諏訪惣領家の滅亡・・・天文十年六月、甲斐でクーデタがあり、信虎は嫡男晴信と晴信を擁する重臣らによって駿河に追放されてしまった。晴信が武田家の家督を継ぐと強硬策に転じ、諏訪頼重に対する侵攻作戦が進められた。翌年六月、晴信は伊那高遠の諏訪高遠頼継や下社の金刺氏を味方につけ、二万の大軍をもって諏訪郡に侵攻した。これに対する諏訪勢は「おかしき馬に乗候者共に百五十騎、徒者七・八百にて」と記録されているように、武田軍と諏訪氏の軍事力の差は圧倒的であった。諏訪勢は戦々恐々として戦意はあがらず、上原城は自落し、諏訪頼重は桑原城に退いて抵抗したが、七月に武田氏に投降、開城した。甲府に連行された頼重は晴信の強制により自刃して果てた。ときに二十七歳であった。この頼重の死によって古代以来の名族、諏訪氏の惣領家は滅亡した。

惣領家滅亡後、諏訪は武田氏と高遠諏訪氏に二分され、西側を領した高遠頼継は甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して、一時は諏訪全域を手中におさめた。しかし、武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏領となった。このとき、諏訪惣領家に近い一族である諏訪満隆・満隣は武田方に味方している。その後も、高遠頼継は武田氏に抵抗を続けたが、天文十四年、居城高遠城を攻め取られ高遠氏は没落した。


諏訪頼満と武田信虎・・・
文明12年(1480)頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなってり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を続ける動乱の時代となる。上社の諏訪氏の惣領家と大祝家の内紛により一時的に優勢になった下社の金刺昌春は、社殿等を焼かれたり萩倉砦を落とされたりして、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが甲斐国の武田信虎の諏訪郡への侵攻の口実となった。・・・信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった。

・・・信虎の経歴・・信虎は明応3年(1494)に誕生した。永正4年(1507)2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだが、叔父の信恵が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和より西へ移り、初めは川田に館を置き、後に府中に躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備し家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。

・・・大永5年(1525)4月1日、「諏訪殿」に甲府で住居を与えている。「諏訪殿」とは、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた、金刺昌春とみられる。。大永6年(1526)6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることで期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。この年信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。・・・同年信虎は今川と和睦した。信虎は東を北条氏、南に今川と大国が固め侵出できなかった。その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる謀略を駆使し、稀代の戦国大名として成長した。・・・甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元年(1528)からは、諏訪地方を治める諏訪頼重と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。しかし、天文4年(1535)には頼重と和睦し、後には娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。

天文7年(1538)7月9日、諏訪頼重は、大門峠を越えて葛尾城の村上義清・信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10年(1541)7月、海野氏が逃れて頼った関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪で対陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係してるものと考えられる。・・・頼重の祖父諏訪頼満は、のちに諏訪氏中興の英主といわれたが、文明15年(1483)に、時の大祝・諏訪継満によって前宮の居館で騙まし討ちにあって殺された惣領家・政満の子で、5歳で惣領家を継いだ。諏訪頼満は惣領家を継ぐと、父死後の内紛を鎮圧して、東の武田、西の小笠原に対抗し、その戦略戦術の才を遺憾なく発揮した英邁な主君であった。そして永正15年 (1518) 40歳の時、下社・金刺昌春を破り、ここに名族・下社大祝金刺氏を葬り去り、諏訪郡の領国主となり、その後の勢いは、武田信虎と拮抗するものとなった。 

享禄元年(1528)8月22日、信虎は逃れてきた先の下社大祝・金刺昌春をたてて諏訪を攻略しようとして蘿木郷の先達城を拠点として諏訪に侵入した。その時築造された先達城は、その小東にあった新五郎屋敷を城に取り立てたという。当時は甲斐と諏訪の国境は富士見町の御射山神戸の南の堺川で、ここが合戦の舞台となった。新五郎屋敷は信虎が諏訪侵攻の前線基地として築いた砦である。しかし新五郎屋敷がどこにあったのかは特定されていない。
諏訪頼満は嫡子頼隆を伴い青柳の下のシラサレ山城に陣を張る。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同26日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。 8月晦日、御射山神戸での朝の戦いでは諏訪方が負け、朝方の勝利に油断する武田勢を急襲した夕方の堺川では、諏訪方が萩原備中守他2百余人を討ち取るが、千野孫四郎が討ち死にしている。この2度の決戦でも、信虎は堺川が越せなかった。戦国時代の甲信国境は「堺川」と呼ばれた川と推定されるが、堺川を名乗る河川は現存していない。諸説あるが最も地形的に説得力があるのが両国国境の立場川で、川幅の広さと地形から頼満と信虎の軍事的接点と成り易い。すると現在の富士見町の南半分は、甲斐の領国であったことになる。・・・享禄3年(1530)4月18日、嫡男諏訪頼隆が頼満に先立って31歳で急死した。享禄4年(1531)正月、甲斐では浦信本、栗原兵庫等の国人衆が再度反抗した。諏訪頼満は彼らの依頼により、甲斐に侵入し韮崎に陣を敷く。4月12日、再度、甲州に討ち入り、塩川の河原で大井、栗原氏らを敗死させ勝利した。しかし、同年、甲斐の国人領主らを支援した河原辺合戦では敗退している。この合戦は守護武田信虎の支配圏拡大を嫌う大井氏、今井氏らの国人衆に、諏訪頼満が荷担したのが発端であったが、次第に国人衆を圧倒する信虎による国内統一が進んだ。翌天文元年(1532)9月、浦信本は再度頼満の助勢を得て、浦城を拠点にして今井信元らの蜂起を誘うが、信虎に攻められ落城する。今井信元も降伏した。こうして信虎の甲斐統一が完成した。


信濃国では守護小笠原長秀が国人衆に敗れ、群雄割拠となり、信虎の次代・武田晴信に各個撃破され蚕食された。天文3年(1534)、諏訪頼満は嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。天文4年(1535)には信虎と和睦する。信虎の娘を頼重に娶らせると、頼満は、天文6年府中小笠原長棟を塩尻に攻め、その勢力を伊那の北部まで拡大する。しかし天文8年、背中の腫瘍の悪化によって、12月9日67歳で逝去する。

 天文4年(1535)9月17日、諏訪頼満と武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となっていた。諏訪氏にしても文明14年以降、高遠継宗との攻めぎ合いが続き、当時の当主高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏の当主に返咲く野心が強かった。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。その結果の天文9年(1540)11月30日の輿入れがあった。信虎の姫・祢々御料人を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、諏訪頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。

*諏訪御料人・本名梅・・・は、後に小説になった「武田信玄」(新田次郎)、「風林火山」(井上靖)では湖衣姫、由布姫として登場している。・・・本名知らずとなっている。梅・・・この出典については確認が取れていません。”梅”の名前が浮上した背景は、建福寺にある「諏訪御寮人」の墓に彫られた戒名(法名)に、「乾福寺殿梅厳妙香大禅定尼」とあり、戒名を付ける時の習わしが、生前の名前を一文字使ってつける、と言うのがあって、そこから「梅」の文字が出てきたのでは、と推測します。可能性は”大”ですが、確定は出来ません。

・・・祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底・乙事・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見山・千達・小東・田端・下蔦木・上蔦木・神代・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川と立場川の間の領地を持参した。・・・甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を境界線に沿って流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目にある。国道20号の新国界橋の橋の下で釜無川に合流する。

・・・諏訪頼重は天文3年(1534)に惣領家を継ぎ、天文7年(1538)、叔父の諏訪頼寛から弟・頼高に諏訪上社大祝を継承させた。諏訪頼重は郡主になると直ぐ、大門峠を越え小県・佐久に侵入。天文7年(1538)7月9日には、長窪城を攻め取り、さらに海野平の海野幸義を追放し、矢沢城・祢津城を取り、上田の東の台地総てを手中に治めた。同9年11月、武田信虎は娘を諏訪頼重に娶らせ、同盟関係を強化した年であったが、それに先立つ5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落とすという怒涛の勢いを示した。頼重も信虎に呼応して長窪を領有している。芦田城を芦田信蕃に預け、7月諏訪に戻る。翌10年は5月、頼重は信虎と村上義清と共に小県郡に出兵、海野・禰津氏ら滋野一族を攻めてこれを上野に追放した。13日、頼重は尾山を制圧し、翌年海野平で禰津元直を敗走させた。同年7月、関東管領・上杉憲政は海野幸義の願いを入れ、兵3千余騎で碓氷峠を越えるが戦わずして去る。

そして、同年6月武田家で無血クーデターが起きた。・・・武田信虎の長男、晴信が父信虎を追放したのだ。当然、諏訪家当主諏訪頼重は、妻が信虎の娘であったから不快であったであろう。・・・そして、晴信も諏訪家に対して態度が豹変させた。それは、晴信が信濃を攻略するためにはどうしても諏訪を攻め落とさなければならない事態が生じた。村上義清の台頭であった。義清は天文10年(1541)、滋野三家の嫡流・海野家の当主海野棟綱を没落させ、真田幸隆を小県から敗走させた領地を奪った。村上義清が晴信にとって信濃侵攻を阻む難敵に成長して来た。そのころ、諏訪の一族である高遠頼継も諏訪惣領家を乗っ取ろうとしていた。・・・頼継は諏訪氏と対抗してきたが、諏訪頼満が諏訪を統一すると、その傘下に入った。後に頼満の娘を妻に迎えている。だが依然として諏訪惣領家の地位を狙っていた。


上社の祢宜矢島満清は神長官と仲が悪かった。享禄2年(1529)、諏訪頼満の6男頼寛が大祝に即いた時、その師匠役をめぐって、両者は激しく争った。このときは、惣領家の嫡子頼隆の調停で、神長官家が禰宜家に譲って事なきを得た。天文6年(1537)冬、新たに大祝として頼隆の子豊増丸(後の頼高)が立つことになったが、その大祝の即位式をめぐって、再び神長官頼真と禰宜満清の間に激しい紛争が生じた。大祝の即位に際して師匠の役があり、師匠の役とは大祝となるべき幼児に山鳩色の装束を着せ、神道の大事を授ける名誉ある役であった。この役は神長官家に伝わる所職であったが、勢力を強めてきた禰宜家がこの職に割込むようになり、大祝の即位のたびに両者は激しく争った。双方とも、惣領頼満の調停を受けないばかりか、禰宜満清は西方衆4郷の力を背景として圧力をかけ、自己の望みを達成しようとした。これに怒った諏訪頼満は禰宜満清を勘当し、神長官を師匠役として即位式を行った。

・・・こうした諏訪社内の紛争に際して高遠頼継は、憤懣やるかたない禰宜満清および西方衆4郷の一族と結び、諏訪惣領家攻略のための布石を打っていた。 下社の一党も、その計画に乗せた。・・・ 諏訪は天文年間のはじめから天災地変が多く、凶作続きで、天文8年12月9日、諏訪頼満の死後直後、14日から2日間豪雨となり、諏訪郡内の橋の悉くが流出した。とりわけ9年がひどかった。8月12日、暴雨風の猛威で磯並社の宮木が40本が根ごと倒木、その後の大洪水で大町は甚大な被害を受け、山野は荒廃し、さらに7百年来の疫病の大流行があり死者が続出して、困窮を極めた。その最中での度重なる佐久.・小県への出兵であった。諏訪の人心が頼重から離れるのは当然だった。

 この状況は甲斐でも同じであった。多年の内乱と自然災害が重なり、生物の不作が続いた。家督を継いだ晴信は、天11年(1542)6月24日突如として諏訪へ攻撃を開始した。それは領土的野心もあったが、食料獲得の経済行為でもあった。


上原城の攻防・・・天文11年(1542)4月4日、諏訪頼重と祢々御料人との間に嫡子寅王が誕生した。その年6月24日夕刻6時頃、武田信玄が堺川を越えて、諏訪に軍勢を進めているという報告が、諏訪頼重に入る。更に高遠頼継と下社方残党も同心している事が知らされた。しかし、諏訪頼重は武田との姻戚関係に安心し過ぎていたようだ。天文4年(1535)に武田信虎と和睦し、天文9年(1540)、信虎の三女・祢々御料人を妻に迎えているのになぜと、応戦の準備を怠った。6月28日、諏訪頼重は、武田勢の侵攻が、容易ならざる事態とと知り、夜10時頃、ようやく法螺貝を吹き鳴らし召集をかけた。そして近習ら30人とともに、上原城に入る。上原城は典型的な山城の為、平時は麓の館などに住んでいて、普段は使っていない。神長守矢頼真も慌てて具足を着けて参集した。後に、一族・家臣も駆け付けて来た。当時の諏訪氏は君臣共々、随分と軍紀が弛緩し切っていたようだ。・・・6月30日武田信玄が、御射山に陣を張る。2千騎に雑兵2万という大軍であった。信玄は、既に高遠勢を南から杖突峠を越えさせ、下社勢を西から挟撃させる手配をしていた。さらに祢宜満清を内応させていた。 諏訪勢はようやく矢ケ崎原に7月1日に対陣。その軍勢150騎で800弱しかいなかった。その騎士も「やうやうおかしき馬」 に騎乗していたと記されている。多年に亘る出兵と災害で、村代神主が貧窮している様子が窺える。甲州勢は長峰まで侵入。 7月2日、諏訪勢は早朝、ようやく城下の犬射原の犬射原神社まで進む。ここは、上原城下と言える。甲州勢は木落し下の筒口原まで押し寄せる。 その距離数100m。しかし、この時高遠頼継の軍は、杖突峠を越え安国寺に到着し、ここの門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。 7月3日、諏訪頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。

武田勢は、諏訪氏落城と知り城下に侵入し、回りに火を放った。天文11年の「守矢満実書留」に「五日町、十日町、上原まちほりまわり」が放火された記述がある。当時、上原町には堀が廻らされ惣構えとなっていた。その内部には、諏訪氏家臣や諏訪氏直属の商工業者で居住していたが、一般庶民も幾分混在していた。


桑原城の攻防・・・武田軍はこの火を見て一挙に攻め入り、上原の城下町を焼き払って、3日早朝桑原城の高橋口まで押し寄せた。諏訪勢も城を出て迎撃奮戦した。一時は敵を上原まで押し返している。 信玄は、上原に武田勢の備えを置き、武田軍別働隊と高遠軍を大熊城へ進軍させ、守備陣地に残っていた千野伊豆入道とその弟千野南明庵を討ち取る。 千野兄弟は高齢のため足軽20人ほどと城内にいた。武田軍と応戦して4~5騎を討ち死にさせ、湯の上まで押返した上での敗死であった。

・・・この夜は酉の刻(午後6時)から大雨で、桑原城の麓一帯は大洪水に浸たった。諏訪頼重は、明日に備えて状況を調査しようと城を出て、尾根伝いに足長神社に下って行った。これを見た家臣達が大将の逃亡と勘違いして、我先にと城を出てしまった。・・・この夜、諏訪頼重が城に戻ると、弟の大祝・頼高、幼い弟3人と近習の侍など20人足らずがいたのみであった。翌日の朝、茶臼山や大和に落ち延びていた家臣達は、頼重が桑原城に戻っているのを知り、慌てて城へ戻ろうとしたが、武田軍は既に桑原城下一帯に満ち、武津に迫っていた。その上、諏訪湖との狭隘地赤羽根から武津に掛けて民家に火を放ち、殆どの者が城に戻れないようにした。神長官・守矢頼真も、武田軍に道を塞がれ、真志野に迂回しようとするが、それも果たせず、諏訪湖西岸を右往左往するだけといった状況だった。・・・7月4日、諏訪頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。それは敗軍の将としての言い訳であった。

・・・7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・諏訪頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた諏訪頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を掲げて戦う。また上原城・城代として板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。・・・諏訪頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。・・・ 頼重は

おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ またも結ばめ・

と辞世を残し弟・頼高と共に自害した。ときに頼重は27歳であった。 介錯もなく脇差で十一文字に腹を割き、返す刀で胸を突き刺したという。祖父・諏訪頼満の死後、3年しかもたなかた。しかも頼重は凡庸な将ではなかった。晴信の父信虎が見込んで娘婿とし、現在の諏訪郡富士見村の所領を引き継いだ価値ある戦国領主であった。

・・・このようにして、数百年続いてきた大祝家のうち惣領家は滅亡し、諏訪家は武田の地下となった。しかし、大祝は諏訪神社の祭祀にたずさわる大切な神官であるので、そのまま認められ、諏訪頼重の父頼隆の弟諏訪頼隣(満隣)が受け継ぎ、さらにその子頼忠へと引き継がれていった。

・・・尚、頼重の妻・祢々御料人は、諏訪氏滅亡の天文11年(1542)、4月4日に、寅王を出産していた。寅王は後に甲府で千代宮と名を変る。祢々御料人は、天文13年(1544)1月19日、甲府で僅か16歳の生涯を閉じる。・・・


寅王の姉諏訪姫が晴信の子・四郎勝頼を生んだ後(天文15年)、天文16年の夏、寅王6歳、昼寝中の晴信を刺そうとして失敗、その咎で寺に入れられ僧・長笈(ちょうきゅう)の侍者とされた。その後も成長するにつれ、姉の諏訪御料人にも反抗するようになり、晴信は刺客に殺害を命じた。寅王と従者・小見某はかろうじて追っ手を逃れて、深志(松本)から北に向かい上杉兼信に頼ったと言う説がある。・・・春日山城下の古図に、本丸近くに諏訪屋敷の一画が見られる。 
                                          
諏訪の信玄時代・・・諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として、上原城の城代・板垣氏の軍令に従った。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていた。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。彼等の本領は信玄に安堵されたようだ。それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。・・・諏訪頼重歿後、諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて兵を出す事ができず、領地は与えられなかった。天文11年(1542)9月10日、高遠頼継は、諏訪上下明神権と諏訪全郡を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫・矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して積年の念願を果たした。 信玄は、甲州にいた頼重の遺児・寅王を押し立てて、諏訪頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進める。この時、諏訪は割れる。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父・満隆・頼隣、矢ケ崎大炊守・千野伊豆入道・小坂兵部・有賀紀伊守・諏訪能登守等と諏訪頼重の近習20人、社家では、神長守矢頼真・権祝花岡氏・福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清、有賀遠江守、有賀伯耆守、権祝、頼重の近習衆等であった。

・・・新大祝諏訪頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いて、9月11日に府中を出陣した。19日信玄も府中の躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2,000同士で激突するが、上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが弟・蓮峰軒頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。26日藤沢集落に火を放った。

こうして・・・9月末、諏訪全郡が武田の領土になる。以後40年、武田氏の支配下に入る。 諏訪を領有した信玄は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文11年(1542)9月末、信玄の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢集落に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。 ・・・天文12年、信玄は伊那攻略と同時に、海ノ口から佐久・小県に侵入して長窪城を陥落させ、城主大井貞隆を捕えた。貞隆は武田氏や諏訪氏と敵対し、天文9(1540)年諏訪頼重に長窪城を奪われていた。 天文11(1542)年、頼重が信玄に殺されると、それに乗じて長窪城を奪回していた。信玄は佐久・小県の諸城を陥落させると、遂に北信濃の雄・村上義清の居城葛尾城に対するようになった。

天文13年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、『高白斎記』に「信玄は天文13年10月16日に甲府を出発して、11月1日荒神山を攻め、26日に上原城に帰った」とある。信玄は10月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、11月1日荒神山を攻め破った。このとき、信玄は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰陣している。・・・翌年4月、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、14日には上原城に入った。まず高遠頼継を攻め、17日これを落とした。ついで箕輪に軍を進る。これに対し、天竜川湖畔の要害、箕輪の福与城には、城主藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の国人衆も籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。・・・福与城の創設は鎌倉時代、幕府に仕えた藤沢氏が箕輪郷を中心に、ここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時、下伊那衆の小笠原、知久氏らの援軍を得て抵抗した。信州守護・小笠原長時は、頼親の妹婿でもあり、兵・1500を率いて駆けつけるが、その助勢も空しく福与城は6月10日陥落した。そして城は放火破壊され、そのまま廃城になった。信玄は逃げる小笠原長時を追い、桔梗が原に進軍して熊井城を獲得、さらに伊那・筑摩も忽ちにして席巻した。『小平物語』 には、こ伊那攻略に多くの諏訪衆が先鋒を務めた、と記載がある。。天文15年(1546)9月、信玄は諏訪上社に寄進状を納めている。伊那の広垣内、百貫文の土地を社領とした。伊那侵攻の際における、諏訪衆の戦功への褒賞と解される。

この藤沢城の戦いの時・・・松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎城(辰野町)に陣を布いた。また長時の弟で鈴岡小笠原家を再興した信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部に着陣した。福与城の支城で藤沢頼親の養子木下重時が在城した箕輪城の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。

       
武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行ない、秋山信友を城主とした。永禄5年(1562)には諏訪勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)、武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐国に戻らせ、信玄の実弟の武田信廉を城主とした。・・・信玄亡き後、高遠城は重要な軍事拠点として、織田家からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を担い、天正9年(1581)には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となったが、翌天正10年(1582)2月、織田信長は本格的な甲斐進攻を企て、長男の織田信忠に6万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千、織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、最後には全員が玉砕して落城した。高遠城の落城により、武田家は瓦解。9日後に武田家は滅亡した。・・・この全員玉砕の部分は疑問がある。


 
武田家の諏訪信仰・・・ 治承4年(1180)7月27日、源頼朝が挙兵し、9月になると甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼父子が、頼朝の命により信濃国の平氏を討伐するために諏訪郡に進出してきた。伊那郡の平家の将・菅冠者を討つ途中であった。その時、「東鑑」に詳しく記されている諏訪明神の神験に奮い立ち進軍したところ、菅冠者はその勢いに圧倒され戦わずして、城を焼いて逃げた。頼朝はこの神恩に報いるため上社へ平井弖(ひらいで)・宮処(みやどころ)を、下社には龍布(たつにふ・辰野)・岡仁谷(おかにや)を寄進した。この4ケ所は、皆かつては牧であった。

 
武田家は信玄の曽祖父の代から諏訪大社を武神として崇め、その信仰は篤かった。信玄は天文11年(1542)7月、諏訪氏を滅ぼし、その後諏訪一円を領有したが、10月、諏訪上社神長官守矢氏の神官の地位を保証し、諸役を免除している。天文15年9月、伊那郡にある百貫文の地を上社に寄進している。天文17年8月には、神長官守矢頼信に「御頭・造営・神領・諸宮公事・造立、其外の諸祭礼、悉く往古を守り、成敗せしむべし。少しも相違あるべからざるものなり。件の如し。」と書状を送り、諏訪社の祭事が失われていくのを恐れ、大祝・神長官に古来よりの神事を調査し、再興することを命じている。 信玄も作戦ごとに諏訪大社に戦勝祈願をして、その後必ず願果たしの寄進を惜しまなかった。また軍中には常に、「諏訪南宮上下大明神」の大幟がひらめいていた。

永禄8年(1565)と9年に、「諏訪上下宮祭祀再興次第」という11軸に仕立てられた下知状で、具体的な内容の祭事指示を出している。これが「信玄11軸」といわれたものであった。諏訪上下社の大祝及び5官祝や祠官、宮奉行等に、退転した上下社の年間神事祭礼、諸宮造営、公事等の再興執行と、神領・神田の増加、頭役・郷役や郷村の造営銭の負担割当等を命じた。信濃国内は、鎌倉幕府滅亡後の長い動乱期、各地の豪族が割拠し、その勢力を拡張するため神社仏閣の土地と特権を押領してきた。諏訪大社も同様で、祭祀の執行が困難となっていた。信玄は7年に1度の御柱祭も信濃国中に指図してとり行わせている。 こうして諏訪大社は、久しく途絶えていた伝統行事の復活がなされた。

中世に信濃の国一宮の諏訪社に対する奉仕は、信濃全域でなされていた。いわば諏訪社は信濃全体の氏神様のような役割を担ってていた。 信玄が侵略してきてから暫くの間、信濃国は戦乱下にあり、諏訪社祭祀の御頭役を勤められる状況ではなかった。約20年に亘って、それに関係する史料が残っていない。 信玄が永禄2年(1559)が3月9日に、諏訪上社神長の守矢頼真に宛てた書状には、

・・・「当社御頭役、近年怠慢のみに候か。しからば、一国平均の上、百年已前(いぜん)の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候ところに、十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢(おわ)んぬ。必ず嶋津・高梨当手に属さば、それがし素願の如くその役を勤るべきの趣催促に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず成敗を加うべく候。抑(そもそも)毎年三月御祭のことは、たやすき子細に候条、当時分国の内へ堅く下知なすべく候」・・・

と記されている。これは実行された。永禄3年(1560)2月2日、武田信玄は諏訪上社の造営を信濃国中の諸役によってするようにと命じた。おそらく松本平の郷村も、この時には造営の負担をしたものと推察される。これを皮切りに、武田氏が命令を下す形で諏訪社祭の御頭役が復活した。 永禄7年(1564)12月13日、山家郷等に諏訪社上社の明年の御頭役を定めている。翌年の永禄8年3月15日、諏訪社上社の三月会御頭役を山家郷等に負担させた。このように諏訪社から求められる御頭役は、以前は負担する郷の領主が就いたが、戦国時代になると直接郷にあてて文書が出されるようになり、地域の領主の名前が記されていない。この間に郷村の自治が進展し、武田氏はそうした郷村を基礎に支配を進めたものと考えられる。

永禄8年11月1日、信玄は諏訪社の祭祀を再興させた。これ以降の諏訪社の神事再興の下知状が「諏訪上下宮祭祀再興次第」で、「信玄の11軸」と呼ばれる諏訪大社上社に現存する古文書である。11軸の内訳は上社が9、下社が2軸で、下社金刺氏滅亡後の状況を反映している。下知状の意味は深い。もとより諏訪大社祭祀の復興にあったが、信玄はこの下知状に従わせることにより、信濃国人衆や郷村民の信玄忠誠の証とした。

以上が、諏訪の乱を中心とした信濃の中世の歴史であるが、戦神を自覚し主張していった経緯の流れであり、その特異性は解明できたのであろうか、いささか不安もある。また、複雑に絡み合った、小笠原守護家の解析は、ほぼ従来どうりで、ほとんど深掘りが出来ていないのが実情、今後機会があれば、そちらも読んでみたい。

これ以降の武田家の歴史は、よく分析している書が多いので、解説等は他者に任せる。

 



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